第三六五号(昭一八・一〇・一三)
学徒の徴集問答 陸 軍 省
南洋群島・南方諸地域における
在外徴集延期制度の撤廃等について 陸 軍 省
勝ち抜くための節電 逓 信 省
海陸輸送の一貫的強化 鉄 道 省
徴兵制実施と戦ふ台湾の実情
フィリピン独立の沿革
フィリピンは、歴史的独立宣言を発し、十月十四日を期して、フィリピン共
和国を構成、一千八百万国民の歓呼と全世界の注視の裡に、大東亜共栄圏の一
環として逞しく新発足し、神聖なる宿願は、こゝに実現されることになつた。
フィリピン独立の歓喜は、全フィリピン人の喜びであると同時に、またアジ
ア十億の喜びでもある。何となれば、フィリピン人が米西四百年の圧制と搾
取とから脱出し得たのは、不屈の独立運動を戦ひ続けて来たフィリピン人の
血の闘争と、これを心から支援して来たアジアの人々、わけても我ら日本人
の友情と正義とによるものだからである。
こゝにフィリピンの独立に当り、独立のため進んで散華した人々と戦が皇
軍の偉勲を偲びつゝ、血を以て彩られた苦難抗争の跡を辿つてみよう。
新世界の発見と共に
圧制の歴史始まる
欧米人によるフィリピンの侵略史
は、マゼランが世界一周航海の途中、
サマール島に近いホモンホン島に上陸
した一五二一年三月に始つてゐるが、
その後もスペイン本国や植民地であ
るメキシコから、たびたび艦隊を派遣
し、フィリピンの占領を企てた。フィリ
ピンといふ国名も、当時のスペインの
皇太子フィリップの名に因んでフィリビ
ナスと名付けられたのによるのであ
る。しかし、本格的なフィリピン占領
を開始したのは、メキシコから派遣さ
れた、ミゲル・ローベス・デ・レガスピー
が一五六五年二月、セブ島附近に到着
してからのことである。
さて、スペイン遠征軍が一五七一年、
ルソン、ビサヤの諸島を占領してから
の三百余年間といふものは、フィリピ
ン人の血に彩られた独立運動の悲壮
歴史であつたのである。
即ち、占領地は忽ち荘園に分割さ
れ、征服に勲功のあつた者達に分配さ
れたが、荘園の持主となつたスペイン
人は、専ら苛斂誅求をこととしたため、
住民達は労働に従事するのを嫌ひ、酔
生夢死の有様であつた。
住民の労働厭悪に困惑した荘園の所
有者は、武力を以て労働を強制すると共
に、宗教を弘布(ぐふ)して、からめ手から住
民を支配することに努めたのである。
しかし、一八六九年のスエズ運河の
開通は、この東洋の被占領地フィリ
ピンにも大きく影響するところがあつ
た。即ち南アメリカのマゼラン海峡か
南アフリカの希望峯を遠く廻るほか、
ヨーロッパとの交通の出来なかつた時
代は、スペインのこの鎖国主義も維持
することが出来たのであつたが、スエ
ズの開通はヨーロッパとの距離を大き
く短縮した。これは単に地理的な距離
ばかりでなく、両者の思想、文化の距
難をも短縮したのである。
ヨーロッパの文化と新思想は、厳重
な官憲の監視の眼をくゞつて滔々と潮
の如くフィリピンにも侵入して来たの
である。そして、これらの文化、思想
は、スペインの圧制下に苦難の営みを
続けて来た島民達に、明るい希望と大
きな力を与へた。フィリピン人はスペ
インの手から解放されねばならない。
我らフィリピン人は独立するのだ。か
くてスエズ運河の開通は、フィリピン
独立の狼火となつたのである。
その後、フィリピンの識者達は、解
放運動の手段として、子弟を海外に送
つて新知識の獲得に努めたが、彼等は
新聞「ラ・ソリダリダー」(一致団結)を発
行、その不法な制度と、飽くなき施政
の改革を詮き、またホセ・リサールは小
説ノリメ・タンヘレ(血の涙)を著はし、
フィリピンにおけるスペイン僧侶の専
横振りを諷刺的に暴露したのであつた
が、これらの書物は、スペイン人より
も却つてフィリピン人に大きな影響と
衝撃を与へ、フィリピン独立運動をま
すます熾烈にさせたのであつた。
秘密結社の結成から
革命政府の樹立まで
その後、これらスペイン在留のフィ
リピン人達は、運動資金を募集し、ア
ンドレ・ボニファシオを中心にカティブ
ナンといふ秘密結社を組織し、活溌な
地下運動を展開したが、一八九六年八
月、アグスティン派の僧侶は、この陰
謀をスペイン官憲に密告したため、こ
こに一大抗争が勃発するに至り、マニ
ラ郊外に革命の火蓋は切つて落され、
遂にフィリピン全島は戦場と化した
が、一八九七年三月、革命軍によつて共
和国政府が樹立され、大統領にエミリ
オ・アギナルドが就任したのであつた。
当時、スペインは、キューバに出兵
してゐたため、フィリピンに多くの兵
力を割くことが出来ず、このためスペ
イン政府は、住民の懐柔に狂奔、革命
に参加した者を赦免して義勇軍を組織
させ、革命軍の鎮圧に当らせたが、一
方、革命政府にも内紛が起り、次第に
兵力が減少すると共に、武器弾薬も欠
乏し、遂に一八九七年、和平条約を締
結、アギナルド将軍ら首脳者一同は香
港に亡命するに至つたのである。
アメリカ、独立を好餌に
フィリピンを乗取る
ところが、アメリカは、キューバの
擾乱に乗じて一八九八年四月、スペイ
ンに対し宣戦を布告した。当時、香港
に亡命中のアギナルド将軍は、好機到
来とばかりにアメリカ軍艦によつて帰
国し、米比両軍は相協力してスペイン
軍に当り、とくに「戦後の独立」といふ
アメリカの提言は、革命軍の士気を大
いに昂揚させ、アメリカ陸軍がマニラ
に到着した頃には、既にマニラのスべ
イン軍はフィリピン軍の包囲下にあつ
た程である。
一方、スペインは、サンチャゴ(キュー
バ)において艦隊を全滅され、また本
国からの救援艦隊もスエズ運河におい
て遮断されるに至つたので、遂にアメ
リカに和を乞ひ、一八九九年十二月ス
ペインはやむなく遂にフィリピンをア
メリカの手に委ねるととになつた。
スペイン軍の降伏によつて、米比軍
はマニラ入城となつたのであるが、
フィリピン軍の入城は冷やかに拒絶さ
れた。フィリピン独立は、アメリカ軍
の甘言と分つた時は、既に遅かつたの
である。アメリカ軍はマニラ入城と共
に軍政を布き、スペインとの講和会議
は、僅かに二千万ドルの償金によつて
解決し、フィリピン独立を熱望する幾
多の若き血潮の犠牲によつて、フィリ
ピンは完全にアメリカ領となつたので
ある。
フィリピンをフィリピン人へ!この
正常な要求に対して向けられたのは、
冷たい銃口であつた。昨日まで共に戦
つた戦友に与へられたものは、実に死
の弾丸であつたのである。
悪戦苦闘の独立軍
救援を日本に求む
比米戦争は、アメリカにとつても非
常な難戦であつた。期間としても一八
九九年二月から、一九〇二年四月、ミ
ゲール・マルバール将軍がカサラール
島で降伏するまで二ケ年余を費した
が、さらに兵力においても、一八九九
年十一月には四万であつたのが、一九
〇一年三月には七万に増加せざるを得
なかつたし、加ふるに言語の不通、衛
生状態の不備、ジャングル戦等、さま
ざまの障碍のため一方ならず苦しめら
れたのであつた。
一方、フィリピン軍には、武器とい
つてもスベイン軍から分捕つた僅かの
小銃しかなく、弾薬もまた欠乏してゐ
たが、彼等は独立に対する燃え上る熱
意を以て兵器弾薬の不足を補ふと共
に、リサールの親友であるマリヤー・ポ
ソヤを使節として我が国に送り、武器
弾薬の購入を交渉したのであつた。
この切なる要請に応へて、改進党の
領袖犬養毅氏は、宮崎滔天、平山周氏
等に武器弾薬の入手、退役軍人の従軍
等に努めさせた結果、岩本千綱、原碵
の両大尉のほか、多数の退役将校下士
官をアギナルド将軍の下に馳せ参じさ
せると共に、多量の武器弾薬を布引丸
に積んで鶴首して待つフィリピンへと
送つたのであつた。
しかし、不幸にも布引丸は、颱風の
ため東支那海の藻屑と化したので、さ
らに再挙を図るため奔走中、一九〇一
年二月、アギナルド将軍は米軍の奇計
にかゝつて捕へられ、このため独立軍
の士気は俄かに沮喪し、遂に戟(ほこ)を収め
るに至つたのである。
そもそもフィリピンとわが国との関
係はずつと以前に遡ることが出来る。
マゼランの来航以前から、否、往古から
すでに、密接な交通、通商関係を有し、
更に民族的にも、思想的にも互に相近
似する東洋的特性をもつてゐたのであ
つて、この両民族が互に提携協力して
東亜の発展をはかることは、極めて自
然な天の摂理であるにも拘はらず、ア
メリカはこの天与の事実を無視して、
無言の中傷を試みて、両者の離隔を策
し、東亜諸民族を相争はしめんとして
最近に及んだのである。
独立法を中心とする
アメリカ議会の動き
さて、アメリカはマニラ海戦後、直
ちに軍政を布いて対フィリピン政策を
樹立し、さらに陸海軍と協力してアメ
リカ主権を確立するため、コーネル大
学教授シャーマンを首班とするフィリ
ピン委員を派遣し、フィリピンの歴
史と現状を調査させたが、この調査報
告に基づいて、時の大統領マッキン
レーは、フィリピンに民政を布く準備の
ため、ウィリアム・タクトを首班とす
る第二回フィリピン委員団を派遣し、
フィリピンの統治に当らせ、一九〇一
年七月、これまでの軍政は民政に移つ
たのであつた。
次いで一九〇七年には、一九〇二年
のアメリカ議会を通過したフィリピン
基本法に基づき、フィリピン立法議会
を招集したが、その大多数は、独立を標
榜する国民党員によつて占められ、ま
た行政を担当するフィリピン委員も、
最初のうちはフィリピン人三名に過ぎ
なかつたが、一九〇八年にはアメリカ
人五名、フィリピン人四名と増加され
るに至つた。
越えて西暦一九一七年、アメリカ議
会はジョーンズ法を可決し、フィリピン
の独立を公約するに至つたが、十年後
の一九二六年、アメリカ政府は、トン
プソン大佐をフィリピンに派遣して独
立問題を調査させたが、フィリピンは
独立を維持するだけの財源がないこ
と、共通語を欠いてゐること、アメリ
カの通商基地として必要なこと等を理
由にあげ、一度は独立を公約しなが
ら、白々しくも独立の認可を渋り始め
たのである。
その後、西暦一九三二年十二月、即ち
昭和七年、「ヘヤー・ホーズ・カッテン
グ」法がアメリカ議会を通過し、大統
領の裁可十年後に独立を許されるこ
とになつたが、この独立法の条件がフィ
リピン人によつて有利なものでなかつ
たことは勿論で、フィリピン議会は同
法を上院では十五票対四票、下院では
五十八票対二十二票を以て否決し去つ
たのであつた。
経済恐慌を切抜けるため
進んで独立を容認
しかし、一九二九年の世界的不況の
後を受けて一九三三年三月、ルーズ
ヴェルトが大統領に就任して以来、
フィリピン独立問題は、表面はともか
く急速な進展を遂げたのである。
即ち当時、一千万を超えるアメリカ
失業者は、街に、野に溢れ、社会状態
は極度に悪化してゐたが、さらにフィ
リピンから輸入される農産物は、ア
メリカの農産物価格を非常に下落さ
せ、アメリカの農業恐慌を激化させる
のに役立つてゐたのである。
この危機を避けるには、フィリピン
農産物の輸入を阻止するほか方法はな
く、それにはフィリピンと絶縁するほ
か術はなかつた。こゝにフィリピンの
「独立」がアメリカによつて、「自発的」
に論じられるに至つた原因が横たはつ
てゐたのだ。
さて、フィリピン議会において否決
された独立法に代るべき法案を案出せ
ねばならぬ羽目に陥つたアメリカ議会
は、一九三四年三月、上院属領委員長
タイデングスと、下院属領委員長マ
クダフィの共同成策である「タイデン
グス・マクダフィ法」を可決、さらに
フィリピン議会もまた同年五月、これ
を可決し、同年十一月一日から実施さ
れることになつた。
こゝにおいてフィリピン議会は憲法
を制定し、一九三五年十一月一五日、
フィリピン・コンモンウェルス政府は樹
立され、初代大統領にはマヌエル・ケ
ソン、アメリカ側の大目付役である高
等弁務官にはフランク・マーフィーが
就任したが、真の独立は十年後の一九
四六年(昭和二十一年)に与へることに
なつてゐたのである。
このフィリピン・コンモンウェルス政
府は、なるほど形式だけは一応整つた
自治政府ではあつたが、軍事と外交は
完全にアメリカの手に委ねられてゐ
た。即ち新憲法と「タイデングス・マク
ダフィ法」の施行は、アメリカ大統領の
代表者である高等弁務官によつて常に
監視され、フィリピンの自治は極度に
歪められたものとなつてゐたのであ
る。
大東亜戦争勃発し
蘇るフィリピン
スペインにとつて代つたアメリカ
は、爾来四十年、圧制と搾取をスペイ
ンから完全に継承して来たのである。
「フィリピン人を開化させ、教育して
自治の訓練をするために我々は来た」
とは侵略者アメリカの大統領マッキン
レーの言葉である。
なるほど、アメリカの民主的な政冶
とアメリカ文化はフィリピン全島に注
入され、「流行の洋服を着て豪華な自
動車を操縦し、ダンスに夜を明かした
い」といふ文化フィリピン人を作り上
げたことは確かである。しかし同時に
ホセ・リサール以来の、独立のために
は進んで血を流す逞しき闘魂は、アメ
リカ文化によつて搾取され去つたこと
もまた確かである。
この時、突如として勃発した大東亜
戦争は、惰眠を貪つてゐたかに思へた
フィリピン人の性根を揺ぶり動かし、
アジアに生きるべき本来の姿に立ち還
るための一大警鐘となつた。フィリピ
ン人は覚醒した。一千八百万のフィリ
ピン人は、大いなる希望と責務を抱い
て起ち上つたのである。
想へば、フィリピンが東洋のフィリピ
ンとして輝かしい今日を約束されたの
は、大東亜戦争勃発後まもない昭和十
七年一月三日であつた。皇軍マニラ入
城の翌日、当時の本間最高指揮官は、
「軍事行動の結果、比島における米国
の主権は完全に消滅したるを以て軍は比
島に軍政を宣布す。日本軍の比島進駐
は、一に比島民衆を米国の支配より解放
し、大東亜共栄圏の一員として比島を建
設し、その繁栄と文化の維持を庶幾する
にほかならず」
との布告を発し、次いで同月二十三日
には、バルガス氏を首班とする中央行
政府の組織が命ぜられた。
一方、悪逆なる米軍のために多くの善
良なフィリピン人が犠牲に供されたあ
のバタアン、コレヒドールの政略戦も、
皇軍の世界史に誇るペき勝利によつて
終結するや、フィリピンの軍政は急速に
進み、新行政府もわが軍政監部の指導
の下に、軍政下の新事態に追従しない
ものを除き、これまでのフィリピンの
法律慣習に従つて、行政、裁判を行ふ
ほか、最高指揮官の認可を得て立法を
行ふことも出来るやうに、だんだんと
実力を発揮して来た。
まづ治安の上では、一般民衆の自営
組織である保甲制度を創るなど、治安
第一主義の行政運営によつて遺憾なき
を期し、行政面においても、従来の自
由主義、物質主義的なアメリカ色は
払拭されて、中央、地方機構にも等し
く改正が行はれた。
フィリピンは、過去において貪慾な
米国の犠牲となつて、単に原料品のみ
の、しかもアメリカの必要とする物
産のみの生産を引受けさせられるとい
ふ跛行的経済組織を与へられ、工芸製
品ばかりでなく、馬鈴薯、玉葱の類に
至るまでアメリカ産のものを輸入す
る必要に迫られてゐた。そして若し戦
前日本からこれを輸入しようとすれば
禁止的な高税を課せられて、フィリピ
ン人の生活はますます困難となつてゐ
た。
それが、大東亜戦争下においてアメ
リカの経済からフィリピンの、そして
大東亜共栄圏の経済へと急速に切替へ
が行はれたのである。
この劃期的なフィリピンの切替へに
は、アメリカ領有四十年余の歴史によ
つて、骨の髄まで欧米化し去つたフィ
リピンの文化を、そしてフィリピン人
の心を、東洋人としての自覚の上に立
たすことが何よりも必要であり、フィ
リピン軍政の苦心の存するところもこ
こにあつた。
昭和十七年六月、本間前最高指揮官
は、「フィリピン人に告ぐ」において、
新生フィリピンの建設は、政治、経
済、産業、教育の中に、文化の中枢たる精
神の基礎を確立するところから第一歩を
踏み出さねばならぬ。精神の基礎とは何
ぞや。欧米文化の仮装を脱してフィリ
ピン独自の伝統と民族性の本然に還るこ
とである・・・」
と述べ、現地の新聞も、放送も、出版
も、映画も、講演もすべてこの精神を
たゝき直すために総動員され、教育の
刷新も行はれた。新フィリピン奉仕団
(カリバヒ)は活動を開始した。
東條声明に呼応し
独立準備進む
この間、何といつても、フィリピン
の指導者、民衆に大きな力を与へたの
は、本年一月二十八日、第八十一議会
におけるフィリピン独立に関する東條
内閣総理大臣の第一次声明であつた。
次いで五月行はれた東條内閣総理大
臣のフィリピン訪問は、フィリピン人
の大東亜共栄圏への協力の熱意とフィ
リピン独立への気魄を燃え上らせたの
であるが、去る六月十六日、第八十二
臨時議会における「本年中に独立の栄
誉を与へん」との第二次声明は、独立
に更に拍車をかけた。
これに応へて六月ニ十日、「フィリピ
ン独立準備委員会」が結成され、ホセ・
ビー・ラウレル氏を委員長とする二十
名の委員が選出され、独立に関する準
備の第一歩を踏み出したのである。
爾来、独立準備は順調に進捗し、九
月四日には独立準備委員会で憲法草案
の承認、署名を完了、次いで同月二十
五日には第一次国民大会が開かれ、議
長にカリバヒ副総裁のべニグノ・アキ
ノ氏が当選し、大統領候補者には独立
準備委員長ホセ・ピー・ラウレル氏が、
満場一致、当選した。
次いでラウレル氏はバルガス、アキ
ノ両氏と共に九月三十日、帝国の招き
に応じ入京、帝国の要路と打合せを
了して帰国し、十月七日マニラにおい
て、「十月十四日を期ししフィリピン独立
の宣言をなす」旨を声明し、「余は全
フィリピン人に、この機会に覚悟を新た
にすると共に、多年の神聖なる宿望が
達成せられんとする光栄の日の到来
を、熱意をもつて待望せんことを要請
す」と百八十万島民に決意を促したの
である。
これと同時に、独立宣言の日に決定
されるべき憲法草案や、国旗、国歌等が
発表されたが、憲法草案の冒頭には、
「フィリピン国民は神助を祈願しつゝ且
つ自由なる国の存立を維持せんことを
欲しつゝ、茲にその独立を布告し、且つ
一般の福祉を増進し、国民の世襲財産を
保存開発し、並びに平和、自由及び道義
に基づく世界秩序の創造に寄与すべき政
府を創立せんがために本憲法を制定す」
とあり、これは権利を主張してやまな
い民主主義を是正し、アメリカ式の三
権分立主義を緩和し、大統領の権限を
強化してゐる点で、従来の自由主義、
民主主義を根本とした憲法とは、自
ら根本精神において全く異つてゐるの
である。
御稜威の下、フィリ
ピン国の独立へ
かくして全フィリピン八百万民衆
の輿望を担つて独立する「フィリピン
共和国」こそは、大御稜威の下、大東
亜戦争下、大東亜共栄圏内に生誕する
第二の独立国であり、万邦をして各々
その所を得しめんとする帝国国是の顕
現にほかならない。
この独立に焦躁を感じた敵アメリカ
が、フィリピン独立の許与を声明し、
またルーズヴェルトは十月六日には
独立許与時期を早めるとの教書を送つ
たりして太平洋の彼方から遠吠えして
ゐることは痛快の限りである。
我らはこの際、敵の謀略を尻目に、
輝かしく生誕するフィリピン国の生
長、発展を祝福すると共に、同国が帝国
といよいよ協力し、道義に基づく大東
亜の建設に、新秩序の創造に邁進せ
んこと期待してやまないのである。