2 氏族制度の崩壊過程





 階級国家建設の基礎は、氏族制度崩壊の廃墟の上に準備せられる。我が国家建設の礎石もまた、氏の制度崩壊の客観的条件の成熟の上に置かれた。しかるに氏の制度崩壊の主観的条件の成熟は − 当時における生産力発達の緩慢性と氏の制度そのものの心理的拘束性とが、その内在的矛盾の階級的対立への爆発に対する安全弁となったがゆえに、その崩壊の客観的条件が爛熟の極、ついに自壊作用を営むに至れる後まで遷延(せんえん)せられた。これ我が国家成立の客観的条件たる氏族制度の崩壊が、形式上、大化の改新におけるその残滓の一掃によって完了するまで六百余年の歳月を要せるゆえんである。ここに我が氏族制度崩壊の主観的条件の成熟が、当時における生産力発達の性質と形態と速度とによって蒙れる特徴に対して特に注意を喚起しておく事は、後述すべき我が資本主義制度の発展ならびに変革の過程の特殊性を正当に理解し得るために役立つであろう。
 生産用具の発達なお幼稚なりし当時においては、人間労働の増減が生産力増減の主要なる指標となったのである。ところが、幾多の征戦において他民族、他氏族を部民あるいは奴隷として隷従せしめたる結果は、氏人そのものの増殖とあいまって、氏の生産力を著しく増大せしめ、従来の血族団体としての氏の狭隘なる生産関係と牴触するに至った。ここにおいてか、氏は政治上、社会上においてはなお一個の単位であったが、経済上(ことに当時既に主産業たりし農耕上)においては、戸(こ)(本家たる郷戸と分家たる房戸とを含む大家族)あるいは戸の集団が経営上の単位たるに至った。しかるに当時なお政治上、社会上においては氏族制度が推持せられ、土地は氏の名において実は氏の上の私有に属し、しかも疲ら氏の上たる「臣・連・伴造・国造、各々己(おの)が民を置きて、情の恣(ほしいまま)に駈け使い、国県山海林野池田を割きとりて、もって己が財となして、争戦やまず、ある者は数万頃(けい)田を兼ねあわせ、ある者は全く容針少(はりさすばかり)の地もなき」に至ったので、ここにおいて、生産力のより以上の発展は直ちに所有関係と衝突し、ひいてかかる財産関係を維持する氏族制度そのものと矛盾するに至った。
 かかる内在的矛盾は、部民や奴婢(ぬひ)の隷従の結果、同祖神に対する信仰の稀薄化せるとあいまって、既に建国当時においてすら、氏族制度の存続を脅威しつつあったことは、氏と姓との関係の紛乱を糺すがために、古くから盟神探湯(くがたち)なる慣行の存在したことによっても知られる。そしてこの氏姓の紛乱が次第に甚だしきに至ったことは、『日本書紀』允恭天皇四年九月(西暦四一五年)の条に「上下相争い、百姓安からず、あるいは誤りて己(おの)が姓を失い、あるいはことさらに高き氏に認む。その治に至らざるは、けだしこれによりてなり」と宣し、盟神探湯を行えりとあるによっても明らかであるが、なお大化二年八月(西暦六四六年)の詔(みことのり)にも「始め王の名々(みなみな)、臣・連・伴造・国造、その品部を分かちてかの名々を別つ。またその民の品部をもって、交雑(まじ)て国県(こおり)におらしむ。ついに父子姓(かばね)を易(あた)え、兄弟宗(やから)を異にし、夫婦更互(かわるがわる)に名を殊(こと)にせしめ、一家五に分かれ六に割(さ)く。これによりて争い競うの訟、国に盈(み)ち朝(みかど)に充ちて、ついに治を見ず。相乱るることいよいよ盛んなり」と宜してある。
 かくの如き氏姓の紛乱が当時における被支配階級 − この中には事実上一般氏人をも含む − の氏族制度、特に当時既に経済上の共同体としての意義を失い、一部有勢者の単なる一個の「勢力圏」と化せるいわゆる氏族制度に対する意識的、無意識的反抗の結果であったことはもちろんである。ことに少数の高き氏姓を有する「有勢者」の支配下における、一般氏人と都民との間の、経済的、政治働、社会的(社会的には多少形式上の差異はあったが)地位の同一化は、彼らの間における身分上の対立の基礎を、事実上、消滅に帰せしめた。そしてこの一般氏人と部民との間に存した唯一の身分上の分界線も、両者間の通婚混血によって、実際には分明しがたきものにさえなった事が知られ得る。しかもこの事は、徐々に行われたのではあるが、しかし今や全く搾取のための「勢力圏」以外になんらの意義をも有せざるいわゆる氏族制度の崩壊のために、決定的な、そしてその意識的たると無意識的たるとを問わず積極的な敵対要素となった事を認めざるを得ない。従って上述の如く、当時における生産力発達の緩慢性と文化の低度と、そして社会的宗教的伝統主義 − もちろんこれは順次に前二者を原因とするが − とのために、大化の改新は、氏族制度崩壊の客観的条件の成熟の極、自壊作用の結果たるかの観を呈するとはいえ、しかしその矛盾を不可避的たらしめた主観的要素の徐々の成熟を無視する事はできない。
 上述の如く、生産力と生産関係、財産関係との矛盾は、ひいて信仰上の破綻と政治上の対立を生むに至ったが、ことに朝鮮および支那との交通開け、儒教、仏教の輸入せらるるに及んでいよいよその矛盾の対立を相互作用的に尖鋭化し、ついに天皇および大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)等の強勢なる諸氏間の不可両立的抗争によって、既に久しく形骸と化せる氏族制度は壊滅に帰し、ここに大化の改新を見るに至ったのである。

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