3 大化の改新




 蘇我氏の滅亡によって、氏族制度は名実ともに崩壊し、中央集権的国家の成立を見るに至った。大化二年正月(西暦六四六年)における革命的変革をもって、単なる唐制の模倣なりとし、当時における我が経済上、政治上、社会上における発達の程度に比して尚早にすぎたるものとなし、従ってやがて荘園の発生、封建制度の発達を見たるはこれが反動であるとなす者があるが、当れりとしない。さしもの大変革が比較的容易に実行し得られたのは、既にこれを可能ならしむべき客観的条件が十分なる成熟を遂げていたがためにほかならない。
 生産力の発達は、国家成立の以前において、国家成立の前提要件として、既に狭隘なる血族団体の圏外に逸脱し、氏(うじ)の代りに戸(こ)あるいは戸の集団が事実上経済上の単位と化していたこと、従って氏の名において実は高き姓(かばね)を有する氏の上(かみ)の私有たる財産関係と抵触するに至り、この矛盾は年と共に甚だしくなったことは前述の如くであるが、土地の公有はこの矛盾の止揚であり、口分田の法は既に変化せる経済原則に擬制的法定を確認したものにほかならない。ただ土地の公有とその私的用益との間に潜在的に存在する矛盾が、やがて土地公有の原則の破壊とその必然の結論にまで導かるべきを知り、これが防止策として、支那の制度に学び、これに適当なる変更を加えたるいわゆる班田収授の法をもってしたのである。従来皇室その他の氏に属せる品部、部曲は氏の社会的制度崩壊の必然的結果として解放せられたが、これは事実上既に一般氏人との間に判別しがたきものを生じていたのと、新しき経済原則に応ずる必要とから生じたものである。しかも家あるいは個人または官省に属する奴隷が解放せらるることのなかったこと、および特定の工業に従事する品部がなお雑色として半自由民の状態に残されたことは、改革の経済上の主体が当時の主産業たる農業にあったこと、およびその経営の単位が家にあり個人になかったこと、従って政治上、立法上の対象もまた個人にあらずして家にあったことを物語るものである。そしてここに注意すべきは、当時五保の制度なるものが存し、相互に納税上の連帯青任と相互扶助の義務とを課されていたことであるが、それは相隣る五戸よりなる擬制約地域団体であって血族団体でなく、如上の二点はなんら経済上、政治上、社会上において家が単位をなすという原則の例外をなすものでないことである。
 以上の数個の例証によって知らるる所は、大化の改新がその立法上の形式において、だいたい支那の制度を模倣したものであるとはいえ、よく当時の経済上、政治上、社会上の発達程度に則してなされたということである。そしてすべてこれらの改革は、官位を有する少数特権階級のために、従前よりもヨリ広汎にしてヨリ自由なる搾取の素地を提供せるものであった。しかも今や、八省百官の中央政府の下に、国司・郡司・大宰府の地方官を置き、租・庸・調の三税を課し、一般的徴兵の制を布きて衛府(京都)・軍団(諸国)・防人(辺防)の常備軍を備え、そして五刑・八虐の刑罰を設け、かくて階級抑圧の機関としての国家組織は、既にその完全なる形態を見るに至ったのである。


二 荘園の発生と封建制度の成立
 1 大化の改新の包蔵せる矛盾の発展 へ