第三六五号(昭一八・一〇・一三)
   学徒の徴集問答          陸 軍 省
   南洋群島・南方諸地域における
      在外徴集延期制度の撤廃等について 陸 軍 省
   勝ち抜くための節電         逓 信 省
   海陸輸送の一貫的強化       鉄 道 省
   徴兵制実施と戦ふ台湾の実情
   フィリピン独立の沿革

徴兵制実施と
戦ふ台湾の実情

(一)

 始政以来今年で四十有八年、昭和二
十年で満五十年になる台湾は、同年を
期して光栄ある徴兵制度が実施される
ことになりました。これは単に台湾六
百万島民の光栄だけでなく、全日本の
歓喜であります。
 この五十年の間に、僅か二百五十万
の台湾人(高砂族を含む)が六百万に
なつた事実は、台湾の統治がいかに台
湾人を幸福にし、よい結果をもたらし
てゐるかを実証して余りあるのであり
ます。
 始政当時の台湾の民度、治安、文化、
産業、衛星等を考へるとき、誰が今日
の隆昌を予期できたのでありませうか。
 当時、世界の考へでは、これまで外
地を統治した経験のない日本が、果し
て植民地を統治することができるであ
らうかと疑つたのであります。
 けれども樺山資紀総督は一大確信を
もつて統治に当り、その後歴代総督
も、すべて一視同仁の大御心を奉体し
て統治に専念したのでありました。即
ちわが台湾統治は、諸外国のやうな植
民地統治とは全く異り、どこまでも皇
道を宣布し、人民をして雨露のやうな
仁愛に浴せしめるのがその精神であつ
たのであります。

(二)

 明治天皇の御製に

新高の山のふもとの民草も茂りまさるときくぞ嬉しき

新高の山よりおくにいつの日かうつしうゝべきわがをしへぐさ

といふ二首を拝誦するのであります。
この御製の意味を拝察し奉りますの
に、天皇におかせられましては、真に
太陽のやうな大御心で台湾人同胞をみ
そなはせ給ひ、しかもその繁栄と強化
にいかに軫念あらせ給ふたかは、唯々
恐懼感激のほかはないのであります。
 即ち台湾統治の大理想は、太陽のや
うな至仁至高の大御心を民生の上に実
際に現はすことであり、この道は終始渝
ることはないのですから、歴代の総督
を始め幾多先人達は、ひたすら大御心
に悖るところのないやうに努め、どう
したら聖旨に副ひ奉れるかといふこと
だけを考へて来たのであります。
 この点が、我が国の台湾統治と諸外
国の植民地の統治と根本的に違ふ点で
あり、従つて今回の徴兵制度も、諸外
国のやうな考へではなく、畏くも、
大元帥陛下の股肱として、斉しくその
御信倚に応へ奉るべきものであるので
ありますから、台湾の青年たるものの
光栄は勿論、六百万同胞の感激は、こ
れに過ぎるものはないのであります。

(三)

 さて、台湾に徴兵制度が布かれるや
うになつた理由は、これまでに述べた
やうな根本精神に基づくものでありま
すが、果して台湾同胞がいかに皇國臣
民としての忠誠を励み、この世界的大
動乱のさ中にあつて、いかに御奉公の
実をあげてゐるか、即ち徴兵制度を布
くまでの周囲の事情を、一応眺めてみ
ることにしませう。
 台湾人が立派な皇國民にならうとし
て、あらゆる錬成に励んでゐること
は、真に涙ぐましいものがあります。
 まづ敬神思想についてみますと、島
民はいづれも自宅の祭壇に白木の神棚
をしつらへ、皇大神宮の大麻を奉斎し
てゐるのであります。総督府から頒布
される大麻の数は、年々激増する一方
で、昭和十七年には実に約七十二万
体に上つてをります。
 このやうに、島民の敬神思想は近年
非常に深まり、神社参拝の風は全島に
みなぎり、台湾の旧都にある台南神社
(北白川宮能久親王御薨去の地)などは、
一ヶ年間約百万人の参拝者を数へる有
様であります。
 教育の普及振りも全く驚くばかり
で、例へば学校教育以外、即ち不就学
者であつて、自ら進んで国語を習は
うとする老幼男女なども、近年急に
多くなり、都市・農村至る処に国語
講習所(年齢十二歳以上二十五歳までの男
子を収容する)が設けられ、その数は
五千に達し、生徒数なども三十万を突破
する有様であります(昭和十七年調)。
 このほか、二十六歳以上の者を収容
して農閑期または夜間に国語を授ける
ごく簡単な施設がありますが、これな
どもその数は約一万、生徒数七十万に
及んでをります。そして、これ等の講
習所の教師の多くは、地方の青年男女
の奉仕的な活動であることも注目すべ
き点であります。
 今日、台湾の総人口に対し、国語の
普及率は約六十%内外でありまして、
中には「国語常用家庭」といふものがあ
り、全家族が全く台湾語を使は
ず、一切国語で生活してをりますが、か
ういふ家族は約一万もあります。
 義務教育についていへば、今から二
十年ぐらゐ前までは、新入学児童を
募集すると、どこでも予定人員に足ら
ず、やむなく教職員は、毎日草鞋ばき
で、父兄に子供さんを学校にあげるや
うにすゝめて廻つたものです。
 ところが、最近では毎年三月の末に
なると、入学申込者が殺到し、一部は
入学を断られるといふやうな気の毒な
事情になりましたので、昭和十八年度
から義務教育を実施したわけです。か
うして台湾全島も、六年後には邑に不
学の戸なく、家に不学の人がなくなる
ことが約束されたのです。
 さらに、紀元二千六百年の紀元節の
佳き日を卜し、台湾人は内地人と同じ
やうな姓名に変へることができるやう
になりました。尤も、誰も彼もすべてと
いふわけではありませんが、思想も生
活も、すべて皇民化した者であれば、一
定の条件----例へば国語常用家庭であ
るとか、公共的精神に富む者ならば
許されることになり、現在許可されて
ゐる者は約十万人に達してをります。

(四)

 次ぎに、戦時下台湾青年の戦ふ姿に
転じてみませう。まづ勤行報国青年隊
を挙げねばなりません。これは紀元二
千六百年を期して設けられた特色のあ
る錬成施設で、地方長官が推薦した地
方中堅青年を、一定の営舎に収容し、
勤労奉仕の中に滅私奉公の日本精神を
体認させ、立派な皇國臣民に錬成しよ
うといふものであります。
 昭和十五年から毎年数百名の優秀な
青年を集め、高雄、台中、台北、花蓮
港等の国家的に重要な大事業地に訓練
所を設け、それぞれその地で錬成する
のであります。十七年度末までに終了
した人員は六千二百名の多数に上り、彼
等は帰郷しては在郷隊員として地方青
年の中心となつて活動してをります。
 青少年団体のめざましい活動も特筆
すべきであります。これは皇民奉公会
の傘下に属してをりますが、その数は
青年団約一千、団員男子五十万、女子三
十万を数へ、少年団では団数約一千、
団員男子三十万、女子十七万に上つて
をります。支那事変に際して台湾人で
組織した軍夫、農業義勇団、軍通訳等
が中南支に活動したことは御承知の通
りであります。彼等は戦地で精強な皇
軍を眼のあたりみて、皇軍に対する信
頼の念をいよいよ深め、ことに広東方
面に従軍した軍通訳は、知識階級の青
年が多かつただけに、一段とこの感を
深くしたのであります。
 一方、在台内地青年が続々として
応召し、歓呼の声に送られてゆく勇壮
な姿は、台湾青年にとつては心からの
憧れであり、彼等はそのたびに征けぬ
身の寂しさを味はつたのであります。
 それだけに、台湾人は別の面から奉
公に励むやうになり、献金は日増しに
多くなり、増産、貯蓄、防空等に天晴
れの活動を続けてゐるのであります。
 この気運に応へて実施されたのが、
台湾人の志願兵制度であります。忽
ち全島はあげて歓喜の坩堝と化しま
した。かうして第一回の志願兵訓練所
入所者の募集に着手しましたところ、
募集人員一千名に対し、忽ち四十二万
の志願者が現はれて当局を面喰はせ、
本年度は、それにも増して六十万に達
するといふ白熱ぶりであります。
 中には重畳(ちようでふ)たる山岳谿谷を渡つて泊
りがけで志願する高砂族青年があるか
と思ふと、或ひは遠く香港、広東、中
には戦線にある労務奉仕団員の志願も
あるといつた有様で、いづれも当局を
感激させたのであります。かうして優
秀な青年は、一部はすでに現役に編入
され、一部は補充兵役として遠く戦地
に出動してゐるのであります。
 さらに本年五月十二日には、海軍特
別志願兵制度が発表されましたが、こ
れも適格者の募集が始まると、数日で
三十万近い志願者が押しかけるといつ
た熱意振りであります。

(五)

 大東亜戦争が始まると、軍から、兵站
労務担当者として台湾青年を出し
てもらいひたいとの要請がありましたの
で、総督府では直ちに編成に着手し、
二十歳以上三十歳未満の屈強な青年の
中から、特に奉公精神の旺盛な者を選
んで戦地に送つたのであります。
 次いで第二回、第三回と続々と送り出
し、彼等はフィリピン、マライ或ひは
某方面の作戦に従事し、灼けつくやう
な炎天下にあつて、よく身を挺して働
いたのでした。もともと彼等は、熱帯
地生まれであるだけに、暑熱に対する抵
抗力は極めて強く、また能率も優秀
で、現地軍も認めてをり、幾多の
賞詞を戴いたのでありますが、すでに
派遣人員も多数に上り、今なほ一部の
者は、南方基地に黙々として奮闘を続
けてをります。高砂義勇隊の名はあま
りにも有名であります。
 支那事変以来、彼等は幾度か戦争に
参加させて貰ひたいと願出てゐたので
ありましたが、大東亜戦争の勃発と共
に、その願ひは容れられ、その名も高
砂義勇隊として、若き高砂族青年が勇
躍、南方の戦線に送り出されたのであ
ります。果して功労はめざましいもの
で、幾度か賞詞を貰ひ、また犠牲者も
出してをりますが、彼等の闘志は衰へ
るどころか、ますます意気軒昂たるも
のがあります。
 以上述べたやうに、台湾は始政以来
約半世紀にならうとしてをります。こ
の間、産業は興隆し、文化は昂まり、今
では母国とあまり距りのないまでに進
み、大東亜戦争下、いまや台湾は内地
人、台湾人、高砂族合せて六百五十
万、真に一体となつて御奉公に励んで
をります。台湾同胞は、今や徴兵実施
といふ最大限の歓びを与へられ、五十
年待望の光栄に浴して、感奮興起、一段
の御奉公を誓つてゐるのであります。