3 戦国時代の意義



 既に分析を試みたるが如く、封建制度そのもの、特に我が国の封建制度には、明らかに三個の矛盾が内在していた。そして群雄割拠の戦国時代は、実に、これら内的矛盾の必然的産物にほかならない。不可動的なる土地に基礎を有する封建制度は、その本質において、割拠的であり分権的である。そして農具の発明、農耕法の改良等になんら見るべきものなく、従って農業の生産力が、ほぼ停滞状態にあった封建時代においては、外延的に地域を拡大することすなわち他領を攻略することによってのみ、財力と権力との拡張再生産は可能にせられたが、かくの如き拡張再生産は必然的に絶えざる抗争の拡張再生産の手段によってのみ可能にせられた。ここに群雄の割拠的抗争の全国的に波及せらるべき必然性が潜む。
 しかるに、かかる割拠的攻略的抗争は、その過程において、必然的にその反対物、すなわち統一に導く。これ応仁の乱以来百余年にわたる分裂的抗争の後、特に元亀、天正の最後的闘争の後、織田氏によりだいたいその緒につける統一の業が、ついに豊臣氏および徳川氏によってその完成を見るに至ったゆえんである。
 なお、封建的封鎖的領域拡大のための均衡的勢力の破壊とその新たなる均衡への統一との過程は、鎌倉時代に萌芽を発し、室町時代を通じて成長し、既に当時の狭隘なる封鎖的地理的制限を桎梏とまで感ずるに至った商業の発達によって、著しく促進せられた。そして室町時代に入るとともにようやく隆盛に赴ける支那(明)との交通貿易、特に天文十二年(西暦一四四三年)以降におけるポルトガル、スペイン等の商船の渡来は、その際新たなる武器たる鉄砲をもたらし、従来の戦術に革命的変革を生じたるものありしとあいまって、如上の勢い、すなわち全国的混乱とそれに続く統一との傾向を助長したものと言い得るであろう。
 これを要するに、いわゆる戦国時代によって意味せらるる封建的勢力均衡の破壊とその統一への転化とが、封建制度そのものに内在せる諸矛盾ならびに外部的諸要因間の交互的作用促進の結果たりし事を認め得る。しかれどもこれをもって直ちに封建制度そのものの基礎が崩壊し、新たなる経済組織(佐野氏のいわゆる早期資本主義経済組織)と、これに対応せる新たなる国家組織(福田博士のいわゆる専制的警察国家)とがこれに代りしものと即断するが如きは、現象形態の一面のみを見てその全面を達観せず、従ってそれらの諸現象形態の内に存する本質を究明せざるものと言わねばならぬ。徳川時代において資本主義的生産要素が次第に成長しつつあったことはもちろんである。しかしながら、支配的生産様式は依然として封建的原則に基づく小農経営と手工業とであって、その末期においてさえ商業資本の支配による家内工業経営の見るべきものはなかった。従って商業の異常なる発達と貨幣経済の普遍化と貨幣資本の少数者への集中とはあったが、それらは商業資本としてよりも高利貸資本として重要性を有していた。従って国家の諸機構および機能が未だ全然封建的原則に基づいていたことももちろんであった。
 如上の点については章を改めて論及することとし、ここにはただ源氏、北条氏、および足利氏制覇の下における封建制度と徳川氏の覇権の下における封建制度との間に、一種の過渡的分界線を劃するものとしての戦国時代の意義について特に注意を喚起しておくに留めたい。
 戦国時代の割拠的闘争は、たしかに、封建制度の内在的矛盾の必然的産物であった。しかれどもそれらの矛盾は、なお未だ、顕然たる階級対立にまで発展して封建制度そのものの基礎を覆えすまでには成熟を遂げていなかった。室町時代の土一揆の如きは明らかに封建制度の内部的矛盾の暴露されたものであり、間接には封建制度に対する反抗であり、ことに文明十七年(西暦一四八五年)、山城国における庶民の蹶起の如きはたしかに一種の政治的革命運動と見られ得るが、しかし一般的には未だ闘争の目標が明確を欠き、土一揆の直接の対象は金貸業者にあって支配階級たる領主にはなかったというべきであろう。そして封建制度顛覆の主観的条件の成熟のためには、これを可能にし不可避的たらしむる客観的条件の成熟のための前提条件として、生産力のより高度なる発展を必要とした。金貨資本ないし商業資本として余剰価値が蓄積せられ得んがためには、農業および手工業の生産力がこれを可能にする程度に発達せしめられなければならないが、そのためには既に桎梏と化せる鎌倉時代、室町時代の狭隘なる地域的封鎖と同一地上に課されたる複雑なる搾取関係とを一度破壊して、しかる後に、適当なる範囲と態様とにおいて、再分割と再整理とがなされることを必要とした。この再分割と再整理とを遂行したのが、戦国時代の闘争であり、豊臣氏、徳川氏等によってなされたる統一である。


四 封建制度の崩壊過程
1 徳川氏制覇の下における封建制度とその矛盾 へ