四 封建制度の崩壊過程



       1 徳川氏制覇の下における封建制度とその矛盾



 徳川時代をもって、早期資本主義経済の時代あるいは専制的警察国家の時代等となすことの一面的考察なるは既に指摘せる所である。もちろん、後に展開するであろう如く、徳川時代において既に、資本主義的生産様式とこれに対応すべき政治形態とが、封建的生産様式と国家形態とに対する対立を次第に顕著にしつつあったことは事実である。しかれども前者が後者に対して支配的形態たるためには、明治絶新の革命的変革を必要としたのである。それは、あたかも資本主義最後の段階としての帝国主義が、その生産様式においてもその政治形態においても、依然として資本主義的であるにもかかわらず、既にその中にそれと矛盾し、それに対立する幾多の要素を含み、それらの要素は新たなる社会主義的生産様式の基礎をなすものであるということ、しかも社会主義的生産様式が支配的形態たるためにはその過程において決定的変革の瞬間を必要とするということと相通ずるものがある。既に論及した如く、戦国時代は旧制度の顛覆と新しき生産様式に基づく新しき政治組織への転換とを意味するものではない。それは〔早期〕封建制度より〔後期〕封建制度への転換、すなわち封建制度より中央集権的封建制度への転形を意味する。
 徳川氏制覇の下における制度は、封建制度そのものとは違ったものであるが、しかし封建制度以外のものではない。否、封建的諸特質はこの時代において最も顕著なる形態を取って制度化された。しかしこれは他面において、非封建的要素が次第に成長し、ようやく封建制度の基礎を脅威せんとするに至ったことを意味する。
 徳川時代においても、徳川氏が全国土の事実上の最高所有権者として、全国の四分の一に当るその直領地すなわち天領と極少量なる皇室領および寺社領を除いた爾余の地に、いわゆる三百諸侯を封じたのである。この三百諸侯が鎌倉時代、室町時代等の領主に当るのであるが、両者の間には数の上に多大の差異があるのみならず、その機能の上においてもようやく変化を見るに至った。鎌倉時代においては領主は主として家人よりなりその数が多かったのみならず、事実上の土地の所有者であった。しかるに鎌倉時代の末期より次第に現われたる領主間の土地の兼併と富商家農への所有権の移動とは、室町時代特にその末期たる戦国時代に入るとともにようやく甚だしきを加え、ついに徳川氏の時代に入りては三百諸侯(実数はさらに少ない)を数うるにすぎなくなった。しかもこの間、一方においては大領主との競争において独立の困難なる小地頭の豪族化して地主となる者がようやく多きを加えたとともに、他方においては戦術の変化特に銃砲渡来後における戦術の変化の結果、下士、軽格等の兵卒の数が増大し、これらが事実上武士の中堅たるに至った。そして今や三百に満たざる諸侯と旗本およびその他の上級武士の例外的少数を除ける旗本および一般陪臣の大多数は、全く封地を有せず、単にその領主より扶持米の給付を受けるに止まった。ここに土地を通して結ばるる封建的全機構の崩壊すべき根本矛盾の端緒は暴露せらるる事となり、新しき時代の支配原則の萌芽は、私法的土地所有権の発生によって予示せられるに至った。
 そして武士の土地よりの分離は、徳川氏が自己の覇権を推持せんがために案出せられたるいわゆる参勤交代の制によって決定的なものにされた。かくて数百万の武士階級は、農民を強搾して安逸なる都市生活を営む遊民と化し去ったのである。ここに都市の繁栄と貨幣経済の普遍化とに広汎なる道は開かるることとなり、農民より搾取されたるすべては貨幣の媒介によって特定商人の手に集中せられ、かくて高利貸資本と商業資本とは封建的権力をもってしては制御しがたき新勢力として集積せらるるに至った。
 以上二個の矛盾は他の要素と交互的に作用しっっ対立にまで発展するとともに、さらに幾多の矛盾の対立を生んで、ついに封建制度そのものを変革した。のみならず、封建的紐帯の破壊によって人格と飢餓との完全なる自由を得たいわゆる平等なる四民と、集積せられたる高利貸資本ならびに商業資本とは、維新変革後急速に輸入せられたる新たなる生産用具とあいまって、我が国の資本主義的発展の基礎を提供せるものであった。よってこれらの矛盾が現実にいかなる過程を経てついに対立にまで発展するに至ったかを、次項において考察するであろう。


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