二 荘園の発生と封建制度の成立



       1 大化の改新の包蔵せる矛盾の発展



 大化の変革は当時の事情が許す限りにおいて、徹底的に遂行せられたものと言い得る。そしてその土地制度改革の結果は、農具の改良発明、施肥耕作法の進歩、耕作物の多様化等を促して、生産力の増進と経済生活の改善とに資する所あったことが認められる。工業もこの時代において急速なる発展を遂げた。もちろん、奈良朝、平安朝における工業は、主として貴族や僧侶の奢侈的欲望を充たすためのそれであって、未だ一般化するには至らなかった。商業も、陸路や駅の開発(行政および軍事の目的から)、絹織業の奨励(調の徴収等のため)等によって、多少とも広き範囲にわたって関心をもたれるようになった。
 しかし当時においてはなお一般経済生活の基調をなすものは農業であって、奈良、平安の燦然たる文化もただ主として農業生産の広汎なる搾取の基礎の上において始めて可能にされたのである。しかもその土地制度は、大化の改新によって克服され得なかった二つの重要なる矛盾のあったがために、荘園の発生と封建制度の成立とにその素地を提供することになったのである。二つの矛盾の一は土地制度そのものに内在し、他は奴隷制度に潜在した。
 土地制度そのものに内在した矛盾は、公的所有と私的経営との機械的結合の中にあった。大化の改新によって土地は一応国有に帰せられ、いわゆる口分田の法により六歳以上の男子には二段、女子には男子の三分の二の割合で六年目ごと(後には十二年目ごとになったこともある)に班田収授された。そしてその経営は各戸の計算に放任された。従って生産物については全然私有の原則が認められたわけである。もちろん当時の農業技術の発達程度と一般文化の水準とをもってしては、生産の社会化の不可能であったことは認めなければならない。がともかくも、生産が全然各戸の計算に放任されたということは、農業(ことに稲を主とする我が国の農業)が、その本来の性質と当時における多少とも粗放的耕作とのために、自然的条件によって支配されることの甚だしかった関係上、不作等の際に、農民をして借財の余儀なきに至らしめた。この事は、大化の改新を過ぐるわずか三十年の後たる天武天皇四年(西暦六七六年)に一種の農業金融たる出挙(すいこ)なるものの規定あるによっても明らかである。そして地方官や富農の手によってなされたる出挙の利率はしばしば五割以上にも上ったほどの高率であったがゆえに、一般に考えられるほどには軽からざりし租税の負担とあいまって、一度落目になった農民の窮乏は乗り越えがたきものとなった。しかもかくて「家資尽くる者は身を投じて折酬(せつしゆう)」して奴隷の境遇に陥らねはならなかったのである。もちろん五保の制度なるものがあって、相隣る五戸に相互扶助の義務を課したが、しかしこの制度とて本来租税納附に関して連帯責任を負わしめ以て搾取を確実にせんことを主眼としたものであって、むしろかえって農民の窮乏を普遍化した傾向があった。かくて公田における農民の貧窮をようやく普遍化し、深刻化するの必然性は、大化新政の当初から潜在していたのである。
 他方、大化の改新において、部民の多くは解放されたが、皇室、貴族、豪族等の私有せる奴隷は解放せられることがなかった。のみならず、被征服者、犯罪者、謀反人の家族、被掠奪者、および良民と賎民との間に生れたる子女等はすべて奴隷にされた上、さらに借財を返却し得ぬ者も身を奴隷に投じて賠償しなけれはならなかったのである。かくの如く、当時における有力なる労働力の源泉たるとともにまた同時に一種の生産用具でもあった所の奴隷の私有が認められ、従ってその売買さえ認められた事は、やがて当時の主要なる生産手段たる土地の公有の原則を破るべき必然性を有していたものという事ができる。

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