2 荘園の発生
大化の改新における土地制度の所期せるところは、土地の公有と富の平等化とにあったが、その原則は土地制度そのものの内に矛盾を蔵していたこと上述の如くである。しかるにこの内在的矛盾の爆発を促進すべき他の要因が加わった。第一は、公有の口分田のほかに功田、位田、職田(しきでん)、神田、寺田等の私有地が土地公有の原則の例外として存在していたことである。第二は、人口の増加、農業技術および耕作法の進歩等の結果、増大せる生産力を利用するために荒蕪の開発、水利の疏通(そつう)等を必要としたので、これを奨励するために養老七年(西暦七二三年)に私墾田開発令を出して、墾田のいわゆる「三世一身」の私有を認め、さらに天平十五年(西暦七四三年)には、その永世私有を認むるに至ったことこれである。し心もこれらの私墾田はいわゆる不輸の地として納税の義務を免かれ、政府の支配権の外に立ったがゆえに、租税の重荷を免れんため口分田の耕作を棄てて墾田の開発に努むる者を増加したるのみならず、ことに皇族、貴族、僧侶、豪族、官吏等がその私有の奴隷を駆使して広大なる私墾田を開発領有する者ようやく多きを加うるに至ったのである。
かくの如く一度土地の私有が----たとえ初めは例外的ではあったとはいえ----認めらるるや、上述したる内在的矛盾の爆発を促して、ここに土地公有の原則は破壊せらるべき必然性に逢着したのである。かくてこの傾向は次第に、因果的に、交互的に加勢せられ、ついには公田をも私墾田に編入するに至り、平安朝の中葉以降においては、私有地はかえって公田よりも広大なる面積を占むるに至った。
かくの如く公田減少の結果は、政府の財源の窮乏を来し、この窮乏より脱せんとしていよいよ重税を課することとなったが、徴税の重課はさらに口分田耕作者の公田を去る者の数を加うるに至った。かくて公田の減少、中央政府の窮乏と苛斂誅求とは交互的に深刻化せられた。しかも他方私墾田の兼併はいよいよ盛んにして、墾田はついに少数大地主の手中に集中せられ、いわゆる荘園の発生を見るに至ったのである。そして一度荘園の発生を見るや、やがて荘園における課税も、その苛斂誅求の点においては、あえて公田のそれと選ぶ所なきに至った。
加之、荘園内における農民の地位はもはや自由民のそれにはあらずして、大地主の私民と化してしまった。かくて彼ら農民は土地を通してその領主に臣隷する農奴と化した。ここに封建制度成立の経済的、政治的、社会的基礎は準備せられたのである。
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