共同被告同志に告ぐる書
         市ヶ谷刑務所に於て 佐野学 鍋山貞親

我々は獄中に幽居すること茲に四年、その置かれた条件の
下において全力的に闘争を続けると共に、幾多の不便と
危険とを冒し、外部の一般情勢に注目してきたが、最近、
日本民族の運命と労働階級のそれとの関連、また
日本プロレタリア前衛とコミンターンとの関係について深く
考ふる所があり、長い沈思の末、我々に従来の主張と
行動とにおける重要な変更を決意するに至つた。

 日本はいま、外、未曾有の困難に面し、内、空前の大変革
に迫られて居る。戦争と内政叩改革とをはらむ此内外情勢に対
し、あらゆる階級と党派とは課題解決の準備と対策に忙し
い。此時、労働階級の前衛を以て任ずる日本共産党が幾多の
欠陥を露呈して居る。党の基礎は現実的にも可能的にも著し
く拡大したが、党員の社会的構成も党機構も行動も宛(さなが)ら急進
小ブルジョアの政治機関化して居る。党は近年の恐慌及びそ
れに関連して暴露された資本主義機構の腐敗に対する大衆の
憤激を指導し得なかつた。満洲事変及びそれに引続く一連の
戦争情勢に対する党の公式的対策は完全に破綻し、党の反戦
闘争は支那新聞のデマ記事やコミンターンのアヂ文書に於て
のみ華やかであつたにとどまる。重要なストライキの指導も
深刻化しゆく農民闘争の権威ある指導も、党に依つて行はれ
なかつた。かつて或時代の日本共産党は武装デモの呼びかけ
をなし、事実、小規模乍らそれを組織した。それは決定的に
誤謬であつたが、それでもなほ此誤謬は大衆の支持を確信し
大衆の中に突入する思想を現はして居る。それに比べて昨年
来の諸事実はブランキズムの悪い要素のみの寄せ集めの観が
あり、プロレタリアートと全然縁なき腐敗傾向すら示した。
党は客観的に見て労働階級の党であると言へない。我々は大
体のことは獄中から沈黙して居るべきである。又、我々は
個々の党員諸君がまじめで勇敢に働いてゐること、闘争が極
めて苦しく且つ深刻なものとなつて居ること、一般的諸条件
が有利に緊張してゐること等を十分知つて居る。しかも党と
して、組織として、全体として、プロレタリア前衛の結合隊[ママ]
として正しい発展をしてゐると諸君は断言し得るだらうか。
社会の生産機構に直接参加しない小ブルジョアの尖瑞分子た
るインテリ層が、労働階級を踏台として其意欲を発散せんと
したのは従来とても度々有つたけれども、彼等は今や連続せ
る弾圧のために生じた共産党の弱さと間隙とに乗じて之に入
り、労働階級中の進歩分子たる前衛をも踏台にせんとして居
る。もとより個々の同志は夢にもそんな大それたことは考へ
まいが、階級が個々人の意思から独立して決定された自己の
目的を追求することは小ブルジョアとても同じである。此故
に弾圧に屈せざる真摯な同志の勇気と熱情に拘らず、党自身
の方向がゆがみ、ジャーナリズムの喝采を受けても肝腎の労
働者大衆の関心から離れ、欠くべからざるプロレタリア的自
己批判は抛擲され、純真の青年同志や労働者党員は大衆的闘
争の中に訓練せられない。我々はこの現情に大なる遺憾なき
を得ない。勿論かゝる事態は最近時の党指導者の個人的資性
や能力にその本来的原因が有るのでない。彼等の多くが所与
の条件の下に於て最も誠実優秀の人物であつたことを十分信
ずる。それにも拘らず党がプロレタリア前衛の結合たり得な
いことが根本問題なのだ。我々は熟考の末、かゝか事態を必
然ならしめた根本原因の一つは、我々が無限の信頼を寄せて
ゐたコミンターンの政治及び組繊原則そのものの中にあるを
悟つた。

   ロ

 我々は従来最高の権威ありとしてゐたコミンターン自身を
批判にのぼせる必要をみとめる。我々はコミンターンが近年
著しくセクト化官僚化し、余りに甚しく蘇連邦一国の機関化
し、二十一ケ条加盟条件の厳格なプロレタリア前衛結合の精
神を失ひ、各国の小ブルジョアに迎合し、悪扇動的傾向すら
生じたと断定する。彼は日本の党に関し、気骨ある労働者よ
りも筆舌的饒舌的小ブルジョアを歓迎し、希望と状勢とを混
同して放恣なる戦術を考案し、目に見えたウソを以て無責任
な煽動をやつて居る。一九二六年より其翌年に亘り、日本共
産党の陣営内に最初の小ブルジョア的氾濫の現象があつたと
き、コミンターンは峻烈に之を批判し、党内の優秀な労働者
党員と共に此偏曲を克服した。然るに現在、小ブルジョア要
素があの当時と比較にならぬほど圧倒的優勢を党内に占め、
有形無形の損害を日本の左翼的労働者運動に加へつつあるに
拘らず、コミンターンは一言半句もかゝる偏曲に触れず、却
て歯の浮くような文句を以て党を賞揚して居る。近年の世界
恐慌及び其後の尖鋭化した諸情勢に対するコミンターンの理
論的批判は常に深刻鋭利、人を傾聴せしめるが、コミンター
ンはこの情勢中において国際的革命組織として諸国労働者の
現実闘争を指導するには甚だ無能力であることを暴露した。
各国の労働者はコミンターン及び其支部と殆ど無関係に自国
の資本主義と戦つて居る。コミンターン支部は世界にあまね
しと雖も其実勢は揚言の如く発展して居ない。端的な例をひ
く。コミンターンの大党たるドイツ共産党がヒットラーの反
動の前に何等抵抗をなし得ざりしは如何。現に革命渦中にあ
ること既に二年なるスペインの党の弱さと、それに対するコ
ミンターンの叱責的高等批判だけをくり返す無責任は如何。
支那共産党はソヴエート地域の大衆運動を基礎とするが故に
強いのであつて、コミンターン支部たるが故に然るのでな
い。 むしろコミンターン支部たるが故に同党は時々セクト的
暗影をもつのである。国際的カムパもお座なりだけのもので
ある。(国際失反闘争、反戦デー等。)コミンターン大会は既に
五年に亙つて開かれない。党と組合とを問はず、大会を無視
するは其指導組織の官僚化したことを意味する。コミンター
ンは各国に擡頭せる国民主義的傾向に対してはたゞ之を排外
主義とけなしつけるだけで、其中に動く生きた力を科学的に
解剖するのを敬遠して居る。蘇連邦の異常な発達と国際的危
機情勢が必然にコミンターンをして蘇連邦の国策遂行機関た
る傾向を帯びさせたのは諒とするが、近時、其傾向極端とな
り、蘇連邦擁護の一語を各国共産党の最高無二のスローガン
たらしめ、各国労働階級の利益をもこれが犠牲たらしむるを
要求してゐるのは、世界的労働者運動の発展にとつて決して
正しいことでない。事実上、日本共産党は我が労働階級の解
放を目ざす党たるよりも、日本における蘇連邦防衛隊又はそ
の輿論機関たることにヨリ多くの意義がおかれてゐるかに見
える。コミンターンが日本共産党の現情に何等の批判を加へ
ず、却て無音任に扇動するは、この意味なしとしない。我々
は元より蘇連邦及び支那ソヴエート政府との結合を我が労働
階級の重要任務の一と主張するけれども、それは飽くまで自
主的立場においての任務でなければならぬ。今日、日本共産
党が、既に内面的に変化せるコミンターンの決議に事々に無
条件服従を求められ、日本の労働階級の創意の奔放を妨げて
居るのは、我が労働者運動の一大不幸となつた。我々は過去
十一年間、忠実に一切の苦楽をコミンターンに托してきた
が、今一切の非難を甘受する決意を以て、本声明書に述ぶる
諸理由に基き、日本の左翼的労働者運動が、党と言はず、組
合と言はず、コミンターンの諸関係から断然分離し、迫り来
る社会的変化に適応すべく、新たなる基準に於てラヂカルに
再編制せられねばならぬことを主張する。

  □

 コミンターンが日本の特殊性を根柢的に研究せず、ヨウロ
ツパの階級闘争の経験殊にロシア革命の経験にあてはめて日
本の現実を引きずつて行く傾向は、我々の夙に指摘して居た
所であるが、昨年五月発表の日本問題新テーゼはかゝる傾向
の頂点を示して居る。その著しき方法論的誤謬の二三を示
す。同テーゼの冒頭は、日本資本主義の「特殊に攻撃的な強
盗性」なるものに対する自由主義的憤激を以て始まつて居
る。資本主義は比喩的に言つてどこでも「強盗的」だつた。
歴史はイギリス、フランス、アメリカ、前代ロシアのは紳士
的だつたが、自本のは強盗的だつたなどと教へて居ない。問
題は、十九世紀後半に日本が他国の植民地とならず、自ら資
本主義国として発展したことが当時の事情の下において莫大
な革命的意義を有したことにある。それは欧米資本の重圧に
呻吟するアジア諸民族の覚醒と革命的闘争を早め、以て世界
史の進歩の有利な条件を創造した。この歴史的必然、この世
界史的意義をヌキにして日本資本主義の全発達過程をたゞ強
盗と罵つてみても何等科学的なものはない。これは蘇連邦リ
トヴイノフ外交が日本及び支那に関して国際連盟のブルジョ
ア諸国と一致するに似て、コミンターンの指導者も亦満洲事
変以後の日本に対してヨウロツパの自由主義者と同じ興奮に
駆られてゐるのを示すものであるか。更にこのテーゼは日本
において君主制反対の大衆闘争が渦巻いてゐるとか反戦的大
衆運動が激化してゐるといふ、支那及欧洲で捏造された虚構
の事実を基礎として全部のテーゼを引出してゐる。主観的希
望を以て客観的事実をゆがめ之を戦術の基準とするが如き
は、革命家として恥づべきことであり、このテーゼの作者は
詩人であつても、プロレタリア的戦術家でない。

   □

 最近の世界的事実(蘇連邦の社会主義をも含んで)は我々
に教へる。世界社会主義の実現は、形式的国際主義に拠ら
ず、各国特殊の条件に即し、其民族の精力を代表する労働階
級の精進する一国的社会主義建設の道を通ずることを。民族
と階級とを反撥させるコミンターンの政治原則は、民族的統
一の強固を社会的特質とする日本において特に不通の抽象で
ある。最も進歩的な階級が民族の発展を代表する過程は特に
日本に於てよく行はれよう。世界革命の達成のために自国を
犠牲にするも怖れざるはコミンターン的国際主義の極致であ
り、我々も亦実に之を奉じてゐた。しかし我々は今、日本の
優秀なる諸条件を覚醒したが故に、日本革命を何者の犠牲に
も供しない決心をした。我々は世界プロレタリアートの間の
国際主義そのものを否定するのでない。しかし今後のヨリ高
い国際主義はむしろ世界の主要個所における一国的社会主義
建設の努力の中に築かれるであらう。世界すべての民族が
かゝる能力を現有してゐるのでないが、日本は現在到達して
ゐる高度の文化から見て此能力を豊富に有してゐる。従来プ
ルジヨアが彼等の防衛のために恣に日本を使つたが故に、階
級意識ある労働者は却て自国に対する大なる関心を欠くよう
になつてゐる。 しかし日本の労働者が日本を主として考慮す
るほど自然且つ必要なことはない。日本民族が古代より現代
に至るまで、人類社会の発達段階を順当に充実的に且つ外敵
による中断なしに経過してきたことは、我々の民族の異常に
強い内的発展力を証明してゐる。また日本民族が一度たりと
も他民族の奴隷たりし経験なく、終始、独立不羈の生活をし
てきたことの意義は甚だ大きいのである。之によつて培はれ
た異常に強固な民族的親和統一と国家秩序的生活の経験と
は、内面的に相連関して、日本の歴史上に生起した数次の階
級勢力交替の過程を、他の、異民族的支配と経済的搾取と政
治的圧伏とが錯綜せる国々に見られる如き、階級闘争の原始
的な、絶望的な、惨烈的な過程とは著しく異らしめて居る。
この歴史的に蓄積された経験は、今日の発達した文化と相保
ち、新時代の代表階級たる労働階級が社会主義への道を日本
的に、独創的に、個性的に、且つ極めて秩序的に開拓するを
可能ならしめるであらう。民族的範疇の無視を以て階級に忠
実なる条件と空想するのは小ブルジョア的思考である。日本
民族の強固な統一性が日本における社会主義を優秀づける最
大条件の一つであるのを把握できないものは革命家でない。
民族とは多数者即ち勤労者に外ならない。我々は我が労働階
級及び一般に勤労人民大衆の創造的能力に強い信念をもつ。

  □

 日本共産党はコミンターンの指示に従つて君主制度止のス
ローガンをかゝげた。前記テーゼの主想の一は、更に一歩を
進め、反君主闘争が現下の階級闘争の主要任務であるなどの
バカげた規定をしたことにある。コミンターンは日本の君主
制を完全にロシアのツアーリズムと同視し、それに対して行
つた闘争をそのまゝ日本支部に課して居る。日本共産党にお
けるこのカムパは最近益々極端に赴いて居る。(恐らくコミ
ンターン指導者をも満足させすぎるほどに。)党は政治的スロ
ーガンとしては「天皇制打倒」を恰も念仏の如く反覆し、あ
らゆる場合にあてはめ、浅薄な呪詛の言葉をヤタラに振りま
いて居る。資本家地主政権といふ階級的言葉すら最近の党機
関紙には見当らない。労働者の階級闘争をかゝる一題目に単
純化して以て能事了れりとしてゐるのは極めて政治的無能で
あるか、極めて具体的に何もして居らぬかである。党のかゝ
るカムパは急進小ブルジョアの間に空疎且つ観念的な自由主
義的興奮を喚起すると同時に、他方、労働者の生活――気持
には、ます/\近づき難い状態に自らを置いて居る。我々は
日本共産党がコミンターンの指示に従ひ、外観だけ革命的に
して実質上有害な君主制廃止のスローガンをかゝげたのは根
本的な誤謬であつたことをみとめる。それは君主を防身の楯
とするブルジョア及び地主を喜ばせた代りに、大衆をどしど
し党から引離した。日本の皇室の連綿たる歴史的存続は、日
本民族の過去における独立不羈の順当的発展――世界に類例
少きそれを事物的に表現するものであつて、皇室を民族的統
一の中心と感ずる社会的感情が勤労者大衆の胸底にある。
我々はこの事実を有りの儘に把握する必要がある。更に日本
の君主制が旧ロシアのツアール、旧ドイツのカイゼル等と異
なり、明治維新以来、進歩の先頭に立つた事実は、ブルジョ
アジーの間でもプロレタリアートの間でも、反君主闘争を現
実的問題たらしめなかつた。多数の犠牲者を出した幸徳事件
はブルジョア自由主義者のセクト的テロリズムとして記憶さ
れるだけであつて、少しも労働階級の革命的伝統の一部を形
成して居らぬ。急進的小ブルジョアは其本質上、単純な反君
主制コースに昂奮し易い。現在の共産党が殆んどアナキズム
と見分けのつかぬ反君主団体の観を呈してゐるのは之等の要
素が氾濫してゐるからである。しかしながら労働階級はその
階級的生活から資本主義機構の変革を本能的に欲求するけれ
ども、単純な、自由主義的な又はロシアの反ツアーリズムそ
のまゝの君主打倒論にくみするものでない。
 コミンターンが反君主闘争と共に日本共産党に課して居る
今一つの大きい課程は戦争反対特に敗戦主義である。我々は
こゝにも深酷な小ブルジョア性を見る。元来、因循卑怯な平
和主義を愛する小ブルジョアは、現在、之を適当に表現する
手段をもたぬため、その尖瑞たる急進的小ブルジョアはコミ
ンターンの戦争絶対反対論に何の批判もなしに引付けられ
る。戦争に一般的に反対する小ブルジョア的非戦論や平和主
義は我々のとるべき態度でない。我々が戦争に参加すると反
対するとは、其戦争が進歩的たると否とによつて決定され
る。支那国民党軍閥に対する戦争は客観的にはむしろ進歩的
意義をもつて居る。また現在の国際情勢の下において米国と
戦ふ場合、それは双互の帝国主義戦争から日本側の国民的解
放戦争に急速に転化し得る。更に太平洋における世界戦争は
後進アジアの勤労人民を欧米資本の抑圧から解放する世界史
的進歩戦争に転化し得る。我々は蘇連邦及び支那ソヴエート
政府に対する戦争は反動戦争として反対する。我々は断じて
好戦的主戦論にくみするものでないと雖も、いま不可避なる
戦争危機をかく認識し之を国内改革との結合において進歩的
なものに転化せしめるこそ、我が労働階級の採るべき唯一の
道と信ずる。民族の利害と労働階級の利害とを反撥せしめる
のは誤謬である。我々は日本のブルジョアジーが日本を永く
アジアの憲兵たらしめ、欧米資本と共同してアジア諸民族を
搾取せんとするを排斥する。同時にコミンターンが蘇連邦の
目前の利害の見地から日本共産党に向つて無暗矢鱈に敗戦主
義を課してゐるのは日本の労働階級にとつて有害であること
を力説する。支那軍閥や米国に敗戦する必要はどこにも無
い。腐敗の極に達してゐたツアーリズムのロシアに於ては児
童走卒も自国の敗戦を希望した。あらゆるロシアの経験を時
処と条件を無視して普遍的教義に転化するのはコミンターン
の根本的誤謬の一つであるが、今日の日本は当時のロシアに
比して遙に健全であり、遙に文化高く、原始的な敗戦主義は
決して大衆の胸に訴へ得ない。日本が敗退すればアジアが数
十年の後退をすることは目に見えて居る。日本における敗戦
主義は日本民族の敗北の希望を意味し得る。我々は大衆が本
能的に示す民族意識に忠実であるを要する。労働階級の大衆
は排外主義的に昂奮してゐるのでない。彼等は不可避に迫る
戦争には勝たざるべからずと決意し、之を必然に国内改革に
結合せんと決意してゐる。之を以て大衆の意識が遅れてゐる
からだと片付けるのは大衆を侮辱するのみならず、自ら天に
唾きするものだ。

  □

 我々はコミンターンが日本共産党に向つて要求する公式的
な植民地民族の国家的分離政策が日本において妥当ならざる
を指摘する。コミンターンの民族自決の原則は、民族の牢獄と
呼ばれたツアーリズムのロシアにおいて、之を認めざれば二
十有余の諸民族の叛乱によつてロシア革命そのものの成功を
不可能ならしめるものなりし故に成立した原則であり、その
内容においてウイルソン的国際連盟的なるブルジョア民主々
義性、形式的小国主義性を含んでゐる。それはあらゆる時と
所に妥当な原則でなく、プロレタリアートの原則としてもロ
シア革命当時にもつた革命性を既に失つたもう陳腐となつた
原則である。現にロシア革命における民族自決の実践の結果
は、反動的ポーランドの成立、バルト海沿岸諸邦の英仏資本
の傀儡化等に見る如く、ヴエルサイユ条約の民族自決の実践
の結果、中部ヨウロツパに中世的分裂状態が成立したのと同
様、悉く反動的効果を収めたのみである。この原則は母国の
プロレタリアートと植民地の労働者大衆との結合によつて築
かれる大国的な一国社会主義の可能を無視して居る。諸民族
の生活の権利に甲乙はない。我々は鮮台両民族に対する資本
主義的搾取及び弾圧を何よりも日本民族自身に対する最大の
侮辱として排する。我々は日台鮮各民族の完全な同権のため
に闘ふ。しかし民族同権の具体的表現は形式的な国家的分離
でない。経済的文化的歴史的に近接せる諸民族の勤労者大衆
が一個の大国家に結合して人民的階級的に融合し社会主義の
建設に努力することが遙に現実的な世界史的方向である。緊
密の同一経済体系の中に生活する日台鮮勤労者大衆の共同の
任務は搾取者との闘争を通じて此の国家を勤労者自身の国家
たらしめるにある。もし日台鮮諸民族がコミンターンの希望
する如く機械的に民族自決の原則に従ひ国家的分離を行つた
ならば、それは依然ブルジョアの支配する反動的小国群の成
立に終り、アジア諸民族のヨリ保守的分裂の第一歩となるで
あらう。ヨウロツパの帝国主義母国とその植民地(たとへば
イギリスとインド、フランスと印度支那)は経済的文化的歴
史的に懸絶する故に、双互の勤労者と雖も容易に結合し難
く、従つて一個の社会主義体系を産出するは殆ど不可能であ
る。日本と朝鮮、台湾はそれらと殆んど範疇的に異つてゐ
る。我々は日本、朝鮮、台湾のみならず、満洲、支那本部を
も含んだ一個の巨大な社会主義国家の成立を将来に予想す
る。
 コミンターンはこれまで多くの輝かしい仕事をしてきたか
ら、当然に勤労者及び弱小民族に魅力をもつて居る。この故
にコミンターンを去つた人間にして、その去つた後までも自
らコミンターンの支持者であるが如き、不分明な、未練がま
しい、狡猾な態度をとるものが日本にも外国にも少くない。
これらの大衆を欺満する、首鼠両端を持するの徒をコミンタ
ーンが常に軽蔑し、辛辣な嘲罵を加へて居るのは尤もなこと
である。我々はこの嘲罵を招かないために今後鮮明な態度を
とるであらう。我々は支那ソヴエート政府や其共産党に活動
する同国の同志達がコミンターンのセクト化、官僚化、蘇連
邦一国機関化等に関して我々と同意見になるのは時期の問題
にすぎぬと考へる。コミンターンは恐らく世界戦争勃発と共
に尖鋭な瓦解をするであらう。各国の最も積極的なプロレタ
リアートを含んでゐる共産党では、戦争と革命との相関を現
在のコミンターンの如く消極的に理解せずして、戦争への積
極的参加を通じて問題を解決せんとする者を多く出すだろ
う。十一年来コミンターンの旗の下に教養され、全力を以て
その陣営のために戦つた我々であつたが、今、相容れざるも
の多くをもつに至つたから、潔くこの陣営を去つて新たな道
に就く。我々はコミンターンの歴史的意義や革命的業蹟や方
針等について今後と雖も一定の敬意を失ふものでない。

  □

 我々は尚資本の搾取に対する労働者の利益擁護(七時間労
働其他)や農業革命の諸問題(寄生的土地所有の廃除其他)
につき、多く語るべきものを持つて居るが、それらに関して
は根本において従来の態度を変更する必要をみとめないか
ら、こゝに省く。又労働階級前衛の指導的役割と其結合の必
要についての確信に少しの変りもない。我々はコミンターン
日本支部てふ組織が前衛の結合形態であるといふ公式的仮定
をやめねばならぬ。現に決してそうなつて居らぬ。又なり得
ない。我々は日本、朝鮮、台湾、また満洲をも含んでの、プ
ロレタリア前衛の独自的な結合隊の可能を信ずる。左翼労働
者運動の全領域に過度に入り込んだ小ブルジョア要素及イデ
オロギーは執拗に掃蕩されねばならぬ。日本の労働階級は他
人を搾取せざる小ブルジョア勤労大衆を獲得せずして其役割
を果たし得ないけれども、労働階級の主導的地位が確立され
た後にのみ、小ブルジョア勤労者はその同盟者たり得る。

  □

 我々はコミンターンを難じ、党を難じ、急進小ブルジョアを
難じた。我々は深い苦しみを感じつつ痛苦な自己批判として
之を認めた。勿論我々はすべての責任をコミンターンや小ブ
ルジョアに転嫁するものでなく、又転嫁し得るものでない。
日本共産党が今日、尖鋭に示してゐる欠陥や矛盾に対し我々
自身、強い連帯責任が有る。こゝに述べたことは言簡単に過
ぎて意を尽さぬものが多い。しかし我々はこの短い言葉を獄
外に出すにも甚しく苦労してゐる。もしできればヨリ詳細の
見解を告げたい。しかしこゝに述べたことだけでも不完全乍
ら問題の核心を提出し得たと信ずる。公式的理論から我々の
見解を反駁するのは他人をまたず我々自身に十分できる。し
かし動かし難い現実は日本の左翼労働者運動のラヂカルな再
編制を要求して居る。プロレタリア前衛の党の権威は、コミン
ターンの決議や論文を神聖現して反覆復誦することや蘇連邦
社会主義の成功の宣伝だけから生れるものでない。権威は内
面から、党活動から、奔出し発揚し形成さるべきものである。
かゝる創意が如何に欠けてゐることか。コミンターンの原則
及び組織そのものが来りつつある日本社会の変革に決定的に
不適合であること、これが略十一年を費して実証された問題
の核心である。 コミンターンの指導に従つて居ればそのうち
何とかなるだらうといふ日和見主義を排する。党同志は勿論
多くの真摯な党外労働者や支那朝鮮台湾の同志は我々の声明
に驚愕し憤慨するかも知れぬ。我々はその憤激する良心的態
度に信頼し、根本からの広汎な討議の実行を望む。我々に対
して汚はしき忖度をする者があるかも知れぬ。しかし我々が
茲に問題を提示したことは経歴短き個々党員の単なる心境変
化と全然その出発を異にする。我々も獄中よりかゝる意見を
発表する不適当を十分理解して居るが、この上、沈黙して居
ることは却て我々の義務に反く。我々の見解は従来のそれと
対蹠的に異る外観が有るが、その自由な内的発展に外なら
ぬ。何人も我々を自由に批判し、或は賛成し、或は叛徒として
鞭うつもよろしい。我々は、我々の見解は、我々の口を通し
て出た日本のプロレタリアートの自覚分子の意見だといふ確
信を固守する。我々が労働階級に全身を献ぐる基本態度は過
去と同じく少しの変りもない。たとへこのまゝ獄中に終らう
ともプロレタリア前衛の誇りを以て死に赴くことも変りはな
い。我々は日本の労働者運動に真摯の関心をもつ何人もこゝ
に提示された問題に厳粛な注意を向けることを要請する。

                        『文芸春秋』 八年七月号