予の一生を支配する程の大いなる影響を与へし人・事件及び思想



(一)人 好学の志向を起させし人としては、小学校時代の校長山内卯太郎、中学校時代の校長大槻文彦の両先生
に負ふ所多く、今の専門の学問に就き兎も角も略ぼ一定の見解を立てる様になつた事に関しては、大学生時代に
於ける小野塚博士の指導を感謝せざるを得ぬ。更に信仰の師として海老名弾正先生を戴いたこと、一又友人として
内ケ崎作三郎、今井嘉幸、佐々木惣一、故小山東助の諸君を有つたことは、僕の一生に決定的の影響を与へたも
のである。
(二)事件 僕の生涯は今から振返つて見て我ながら極めて平凡なるに驚くのである。因より悲喜両面の雑多な事
象に遭遇はしたが、一生を支配する程の痛切な影響を与へられたといふ覚へはない。強て探せば一つある。僕は
生来極めて弱く、子供の時代には年中薬ばかり呑んで居つた。中学に入つてからも病気欠席が頗る多かつたが、
四年生の頃不図した先輩の忠告が因となり、健康などは気の持ち様一つで如何様にもなるものだと考ふる様にな
り、夫れ以来見掛けに依らぬ健康体になつた。あの時の心機一転が無かつたら、今頃斯うして人並に活動して居
られるかを思ふ時、之も矢張り僕に取つては重大事件と謂つてよからうと思ふ。而して先方では何れ程の積りで
云つたのか知らぬが、不思議な響を当時の僕に与へたその忠告の主は木下淑夫君である。其後かけ違つて遇ふ機
会も少いが僕は絶へず同君に感謝の意を有つて居る。
(三)思想 僕の今の思想の基底となつて居るものを今古の聖賢に求むるなら、烏滸がましいがカントと云ひたい。
但し之は之からも大に研究したいので、過去に於て僕の一生に多大の影響を与へた思想として挙示するには不適
当のやうだ。そこで僕の思索生活に最も大なる影響を与へた具体的の事実はないかと反省してみると、大学生時
代に聴いた海老名弾正先生の説教が夫れであると思ふ。日曜毎の説教に依て僕は信仰上に得る所も尠くなかつた
が、先生が宗教上の神秘的な問題を、科学的に殊に歴史的に、快刀乱麻をたつの概を以て解いて行くのには教へ
らるゝ所非常に多かつた。斯うした先生の態度に依て僕の学問上の物事の考方が著しい影響を受けて居ることは、
今以て先生に感謝して居る。斯んな方面で感謝されては先生も御門違の感を催さるゝだらうが、今の僕の様なヤ
クザ者が人格生成の上にも御厄介になつたとはどうしても云ひ切れぬからこの方はも少し年取つてからの勘定に
残して置かうと思ふ。
                                     〔『中央公論』一九二三年二月〕