国民思想統一論者に与ふ

 国民思想の統一と云ふ事は此頃著しく世上の問題に上つて居る。臨時教育会議に於ても業々しく問題にせられて居るが、独り宗教界教育界等ばかりでなく各方面に於て此の言葉を耳にするのである。若し之が今日の場合国民の思想を一層国家的に緊張せしむる事が必要だと云ふ意味から来るものであるならば洵に当然の事ではあるが、又一方に於ては今頃俄に革新らしく説かるべき問題でも無いやうに考へらるる。此頃急に此問題が喧しく説かるゝに至つた所以のものは、茲に何等か之を促した特別の理由ありと見なければならない。然らば何が国民思想の統一を叫ばしむるに至つた理由かといふに、予輩の観る所に依れば少くとも二つあると思ふ。一つは聯合与国の勝利に伴ふ民本主義的思想の急激なる躍進であり、他の一つは之に共鳴する事の結果として我国青年の思想の急激なる進歩である。之を一部の人は西欧危険思想の襲来となし、青年思想の動揺となし斯くして日本國體の精華が傷けらるゝの虞れありとする。而して所謂日本古来の美風を力説して此の憂ふべき風潮に当らんとするのが即ち思想統一問題の起つた所以ではあるまいか。

 思想統一問題の起因果して右の如しとせば、予輩は先づ次の二点に識者の反省を求めて置きたい。
 第一は目下西洋に急激なる飛躍を試みて居る所謂民本主義的思想は其本質に於て必ずしも総て日本の國體と相容れざるものではない事である。無論露西亜のやうな極端に過激なものもある。然し如斯は欧羅巴に於ても排斥せられ居る事は云ふ迄もない。故に今現に西欧に活躍して居る思想と云へば独逸を共和国ならしめた思想であると云はなければならない。併し之は共和主義を其本質とするものであらうか。若し然りとすれば、此の思想が更に初めから共和国たる瑞西に波及する意味が分らない。現に和蘭、丁抹に於ては未だ君主制を覆して居ないではないか。若し夫れ英、白、伊に於ては、君主制は毫も動揺を見て居ないではないか。故に予輩の見解では、現時西欧に横溢して居る所の思想は、純然たる民本主義を本旨とするものである。独逸の君主制は偶々民本主義の徹底を妨げたるが故に覆へされた。民本主義其物は必ずしも直ちに君主制に反対するものではない。
 第二は西欧思想の影響を受けて我国青年の思想が大いに動揺して居ると云ふけれども、識者は果して今日の思慮ある青年が何を要求して居るかと云ふ事に関して十分なる観察と考慮とを遂げた事があるか。又彼等が彼等の所謂青年思想の動揺に対抗して防衛せんとするものゝ果して何たるやを反省した事があるかを尋ねたい。彼等の防衛せんとするものは金甌無欠の我國體であると云ふならば、今日の青年は之に何の異存も有たない。けれども世間には新時代の理想と要求とに合せざる幾多の古習旧慣に依つて組みなされたる「現状」其物を維持する事を以て、國體を擁護する所以なりなどと誤想するものがある。之に向つて進歩思想を有する青年の極力反対するは決して不当の事ではない。故に予輩は国民思想統一の必要を絶叫する人々に向つて、斯くして彼等の防衛せんとするものゝ本体如何に反省を求め、続いて今日の青年の真の要求如何を冷静に攻究せられんことを望まざるを得ない。国を謬るものは新しき要求を掲ぐるものよりも、寧ろ古き思想に執着する頑迷者流に在つた事は、昔から今日まで歴史の上に最も明瞭なる事実である。

 国民思想を統一せんとする其志は甚だいい。然し乍ら此目的を達するの一方法として強いて日本固有の風俗習慣に執着せしめ、以て欧米思想の流入を阻止せんとするのは重大なる誤謬である。西洋料理でも我々日本人の身体は立派に養はれる。活世界に活動するには、和服よりも洋服が可いと云ふ時代に於て、独り精神界に於て鎖国主義をとる事は飛んでもない間違であるのみならず、又事実行はれ得べき事でもない。
 加之欧米の思想を一向(ひたす)ら危険と見るのも亦大いなる誤りである。欧米の民本主義は必ずしも君主主義と相容れざるものでない事は先きにも述べた通りであるが、欧米の学説の中には、日本の如き君主国体を讃美するものが決して尠くはない。一体国家の理論に於て其の纏りのいゝ点から云へば、君主国の方が遥かに民主国に勝ることは学界の定論と云つていい。只君主国の成立するには永く国民全体の絶対的崇拝の対象たりし君家がなければならない。不幸にして西洋には斯くの如き君家がない。有つてもそは皆歴史が新しく、随つて国民は只何となく有り難さに涙がこぼるゝと云ふやうな一種の霊感を之に対して有つことは出来ない。故に彼等は君主国は造るべきものではないと云つて居る。随つて本当の君主国と云ふものは容易にあり得べからざるものとして諦めて居つた。然るに独り之れあるは我日本のみで、之が即ち我々の万国に誇る所であるが、西洋の学者も日本を知つて初めて本当の君主国の存在し得べき一実例を発見した訳である。日本の事情が段々西洋に分るに従つて彼国学者の中には此点に於ける日本国民の幸福を羨み、之と共にあれ程結構な國體を有つて居りながら、先輩政治家の頑迷にして民本主義的政治の徹底的遂行に迷つて居るのを腑甲斐なく感じて居るものは少くない。
 併し大体に於て西洋は民主的の国である。日本のやうな君主国体は彼等の知らざる所である。それ丈け彼等の政治論には余程民主的の色彩に富むけれども、それでも西洋の民本主義は十九世紀の初め以来今日に至るまで三大変遷を経、今日は余程純化し、國體論とは何等相亙らざるものとなつた。第一期の民本主義は天賦人権論に根拠して居つたから、君主国体と相容れざるは已むを得ない。第二期の民本主義は国民の多数を占むる第三階級の権利の伸張を根拠として立つて居つたから、之れ亦不祥なる階級闘争を導き、従つて国家の統一を破るの譏を免れなかつた。而して今日の民本主義は、国家を組織する各分子は各々国家の経営に関して尽すべき積極的の分担を有するといふ事に根拠して居るから、君主主義とも国家主義とも矛盾せざるのみならず、却て益す之を援け之を堅うするものである。ウイルソンが屡々唱ふるデモクラシーは畢竟此意味の者に外ならない。
 果して然らば西欧最近の思想が我国に之を迎へて何の妨げ無きは明白ではないか。況んや中には日本國體の讃美論者すらあるに於ておや。故に心を落着けて能く之を読んで見れば、却て我々は西洋の思想によつて所謂忠君愛国の念を養はるゝ事がある。陳腐な日本料理には時として腹を毀はす事がある。時々西洋の料理も喰つた方が身体の為めにいゝ。国民思想の動揺を一概に欧米思想の流入に帰するは頑迷固陋も亦甚だしい。
 以上の見地から予輩は大いに欧米思想の流入を歓迎し、又其盛なる研究を奨励したい。併しながら之と共に予輩は世の多くの人と共に今日の青年は欧米の思想を我々が解する如く解さない、動もすれば其真髄に触れずして妙に曲解するやうな事実を認めるものである。此点に於て欧米の思想其物に罪あるにあらざるも、之が流入の結果青年の間に一種の危険思想を醸成するの事実を看のがすものではない。そこで一派の人は之を以て欧米思想の流入に反対するの理由となすのであるけれども、予輩は断じて此考に賛成する事は出来ない。何故なれば之は流入の阻止によつて目的を達せられないからである。而してかゝる状態の生ずる真因は、予輩の観る所に拠れば、決して外にあるにあらず内にありと言はなければならない。
 今日の青年が欧米の健全な思想に触れて、動もすれば之を曲解する所以のものは、彼等に社会の現状に対する鬱勃たる不満があるからである。彼等は此鬱勃たる不満を合理的に説明すべき学説を求めて已まない。偶々欧米の思想に触れて得たり賢しと其一端を取つて以て自分の議論の武器にするのである。故に予輩は青年の思想を適当に導かうと言ふならば、先づ其根源たる社会の現状に対する不満なからしめん事に骨折らなければならないと思ふ。
 然らばどういふ点に於て彼等は不満を感じて居るか、之は一々挙げていふの必要は無からう。一言にして之を総括すれば彼等は未だ国家の有難いといふ事を沁々感ずるの機会を与へられて居ない。封建時代の武士ならば家に封禄あり、国恩の厚きは日夕之を思はざるを得ない。今日と雖も国家あつて我々の生命の安国あり、国恩の優渥なる、理に於て之を知らざるにあらざるも、生活の圧迫兵役徴税の不公平、其他公平均等を欠く種々の施設よりして国民は有難さを感ずるよりも、より多く苦痛を感ずるやうになつて居る。固より此点は各国共通の現象であるが、各国は各々精細周到なる社会政策を以て出来る丈け此欠陥を補はん事を苦心して居る。而して此点の最も等閑に附せられて居るのは我日本ではないか。故に予輩は此点に着目して直ちに快刀を其禍根に加ふる事が何よりの急務であると思ふ。主観的の立場より国民の個人道徳を説くのなら、身を殺しても仁を為せといふに妨げなきも、客観的に国家経営の大本を定むるの立場からするならば、国民思想の統一を迫る前に、先づ社会の現状に対する不満の起因を一掃しなければならない。

 予輩の観る所に拠れば国民思想の統一といふ事は事実不可能である。否、単に民心を国家的に緊張せしむるといふ以外に意味を成さないものと思ふ。国家の為めに働けといふならば、国民として何人も異存あるまい。唯斯く/\の方法によつて国家に尽せと其内容を示して来る事になると、人各々観る所を異にすべく、又観る所を異にする点に妙味がある。国民思想の統一も古来の美風たる家族制度を尊重せよとか、敬神の念を鼓吹すべしとかいふが如き内容を指定するに至らば、之れ実に思想の統一を図つて而かも思想の混乱を誘致するものと言はなければならない。思想統一の事業は教育を刷新し、優良なる教育者に一任して、国民の理性と品格とを高むるに尽力せしむれば足りる。政治家なぞは寧ろ健全なる思想の発生に適する社会の物質的基礎を改善する事のみに全力を振へばいゝ。

                         〔『中央公論』一九一八年一二月〕