寺内内閣の出現に対する儼正批判   『中央公論』一九一六年一一月


     一

 純粋なる歴史家の立場より達観すれば、寺内超然内閣の今日に出現せるは、宛(あた)かも蕩々たる潮流に対抗して細波の逆寄せするが如きもので、憲政発展の大勢を念とする者の固より歯牙にかくるに足らざるものである。蓋し我国憲政発展の方向は、大体に於て最早一定して居る。其結局に於て落ち着くべき目標に対しては今尚前途遼遠の感あるも、而かも憲政創設当時の情勢と今日とを比較して冷静に観ずれば、吾々は今更ながら進歩発展の方向の一定不変と其の押し寄する勢力の強大雄偉とに驚かざるを得ない。されば今頃超然内閣を標榜して乗出して来るのは、畢竟一木を以て大河の決するを支へんとするの類に過ぎないものと言はざるを得ない。尤も我国憲政の発展が現時見るが如き方向を取るのが善いか悪いかの論は自ら別問題であるが、兎に角大正の新時代に及んで、寺内伯を戴いて超然内閣の出現したのは、其の健気なる意気に於てやゝ称すべきものありとするも、畢竟隆車に向ふ蟷螂の如く、結局は大勢に蹂躙(ふみにじ)られて後世の歴史に哀れを止むべき運命を有するものに外ならない。
 予輩は之れまで屡々古老先輩に就いて、憲政創始当時の歴史を開いた。当時民間には西洋の文物に心酔するの余り、其浅薄皮相の解釈に基いて随分軽躁なる政論を為す者が多かつたさうだ。廟堂の臣多く之を以て国家の深憂となし、之を先にしては岩倉公、之を後にしては伊藤公の如き、特に熱心に舶来思想の横行を制するに苦心し、我が憲法の制定の如きも、つまり此精神に基いて出来上つたものだといふことである。或学者の如きは、我国の憲法上英国流の憲政運用法を認めずとするの根本義は、已に明治十四年の政変の際に於て明白に確立したと言ふて居る。亦以て当時廟堂諸公の苦心を想ふべきである。而して之れ皆彼等が国家を思ふの至誠に出づるものなることは、予輩の固より疑はざるところである。それだけ又斯る思想は今日仍ほ一部の社会には、厳然として一個の勢力として存して居るやうである。中にも当時直接に此等の政変裡に馳駆して、尚今日に残存して居る人々に取つては、之等の思想が依然金科玉条として有り難がられて居ることは言ふを俟たない。然るにも拘らず、憲法発布後の政界の大勢は如何に発展したかと言ふに、事実は全然先輩の苦心に反し、彼等の希望に逆ふて走つて居る。見よ議会創立後数年間の経験は、超然内閣を以てしては到底憲政の円満なる運行を見る能はざることを吾々に教へたではないか。さればにや超然内閣主義の第一の主唱者たりし伊藤公は、やがて自ら野に下つて政党を組織するに至つた。其後更に数年間の経験は、吾人に教ふるに政党にも亦政府を組織するの積極的地位を認めざるべからざるを以てし、幾くもなくして政党官僚相交代して朝に立つの所謂桂・西園寺の妥協時代を現出したではないか。而して大正改元早々の政変に至つては、清浦内閣の流産によつて政党の実力の侮るべからざるを明示し、将に官僚独自の力を以てしては到底政権を掌握し得ざるの形勢を確立せんとした。斯くして我国政界の発展の大勢は、憲政創設者の意志に反して、漸次政党主義に向はんとして居つたのである。若し此際仍ほ政党主義の十分なる実現を妨ぐるものありしとすれば、そは政党夫れ自身の不完全なることに因する。政党其物がモ少しよき発達を示して居つたりしたならば、或は今頃は政党政治主義が我国に於て立派に確立して居つたかも知れない。
 然らば問ふ。我国政界の発展の方向が先輩元勲の素志と相反するに至りしは、抑々何によるか。是れ必ずしも一般国民が元勲諸公の如く国家を思ふの念が厚くなかつたといふ為めではあるまい。若し予輩をして其観るところを卒直に言はしむれば、之には二つの原因があると思ふ。一つは、先輩の諸公が西洋流の立憲主義の排斥によつて以て君権を擁護し得べしとせるの根本思想に誤謬があることである。彼等は第一に民権を以て直に君権の敵と考へた。成る程西洋の立憲制の起源は君権民権の衝突に在る。又当年の我国の軽躁なる民権論は一見君権に対抗するものなるが如くに見えたといふ事情もあらう。けれども民権を抑圧することが取りも直さず君権を擁護伸張する所以なりとするの思想は、窮極に於て君民相親の美風に薫育せられたる我が国民思想と相容れない。此種の思想は今日にも存在して居ると見へて、山県公が大隈侯の加藤子奏薦に反対した理由を述べたる語なりとして、二三新聞の伝ふる所の中には、「政党の首領たる人を立てる訳には行かぬ云々」の言葉がある。大隈侯自身ですら、加藤子を推薦せるは子が政党の首領たるが為に非ずして、只国務に練達の士なればなりと弁明したと伝へられて居る。政党の首領といふ資格に於ては内閣組織の大任に当るべからずとするのは、民権を以て君権の敵と視るの謬想に非ずして何ぞや。斯の如き思想の今日仍臆面もなく唱へられて居るとは、予の甚だ怪訝に堪へざる所である。併し幸にして多くの識者の間には、段々此謬想は斥けられて居る。最近政党主義の盛になりつゝあるも、畢竟君権民権和親の理想が明となつた結果である。民権の敵視するは君権に非ず、君権擁護の名に隠るゝ少数の特権階級にあるの意義が明となつた結果に外ならぬ。次に彼等は大権擁護の名の下に直接に擁護せらるるものは大権其物たるよりは、寧ろ自家の特別なる地位であつたことに気が附かなかつた。彼等は固より自家の地位を擁護せんが為めに名を大権にかりたのではなかつた。けれども長い中には自ら大権の名の許に自家特権の擁護となるのは、自然の勢として亦已むを得ない。以上の点が年と共に明かになつて来れば、国民が自ら所謂大権擁護論なるものに反感を来たすのは、是亦当然の数である。況んや此美名に立て籠つて政権壟断の閥を造り、其間往々私曲放恣を敢てして恥ぢざるものあるに於てをや。更にもう一つの原因は、一般国民の知見の進歩に伴ふ当然の結果として、政治上自主自由の地位を要求するの風潮が年と共に盛になつて来たことである。政治上の自主自由が、必ずしも尊王の大義に相背かざることは、茲にクド/\しく説くまでもない。而して近代の文明が、一面に於て自主自由の国民的自覚を促せることも亦固より言ふを俟たない。而して斯る現象を見るのは、西洋と言はず、東洋と言はず、苟くも近代文明の風気に触れたるものゝ免るゝを得ざるところにして、此点に於て所謂政治的自主自由は近代人の普遍的要求と言つて差支がない。此意義に於て立憲政治といふものは、其最初の発現は之を西洋に於て見たけれども、其根柢は東西の別なく、所謂近代人一般の普遍的要求に存在するものと謂はざるを得ぬ。我国の先輩は、我国特別の国体を論拠として、必ずしも西洋の立憲政治の其儘に拠り難きことを唱へたけれども、国体の異同によつて憲政運用の方法に多少の差を来たすのは免れぬとして、憲政の根本義が人類の普遍的要求に基礎を置き、国の東西に依つて其揆を異にするものに非るの理は、何時までも国民の眼頭に蔽ひ去られ了ることが出来ぬ。斯の如くにして我国の憲法政治は、誤つたる先輩諸公の素思に反して、其自然順当の進行を平然として続け来つたのである。即ち政党主義は、憲政運用上の根本主義として、西洋に於けると同じく我国に於ても亦漸を以て其根拠を堅めつゝあつたのである。勿論此主義の完成には、更に長き歳月を要し、其間政党夫自身にも一層の進歩発達あるべきを要求することは言ふを俟たない。従つて又吾人は今日我国の政党の著しく幼稚不完全なることが、大勢の順行を著しく紛更し政党主義の発展を妨げ、却つて各種の反対の主義の跳梁を許して居ることを認むるに躊躇せざるが、然し、大勢の帰趨は既に明白にして之を争ふの余地なく、昨今の変態異象は畢竟洋々として奔流する大河長江上の一時的小波瀾に過ぎざるものと断定せざるを得ないと思ふ。


      二

 寺内々閣の出現が、大勢論の見地より見て殆んど歯牙にかゝるに足らざることは、前述の如くである。然しながら現在の政治の得失を念とする者の立場よりすれば、尚之を細かに観察研究するの必要がある。何となれば如何に小さき波瀾でも、大勢に逆行して出現せしは、必ずや政界に何等かの欠陥あるを語るものであつて、憲政進歩の促進は実に之等の欠陥の本体を明にし、之に向つて革新的突撃を試みるに依りて為さるゝからである。
 予輩の観るところによれば、寺内々閣の出現を許せし第一の原因は、疑もなく大隈内閣の失政である。是れ殆んど言ふを俟たない。第二の原因は政党の無気力である。特に政友会の軟弱なる態度である。大隈内閣が其失政の結果退かねばならぬ羽目に陥り(表面は円満辞職と仮託するも)、而かも加藤内閣の其跡を襲ぐに故障なりとすれば、何故に政友会は自ら政界の表面に乗り出すの決心と努力とを為さなかつたか。同志会に対抗し政界を両断して其一半を占有する大政党として、反対党の失脚に当り、おめ/\超然主義者に活躍の機会を譲つたのは、畢竟彼等に非政党主義と戦ふの鞏固なる決心なかりしの結果である。原総裁が其最近になせる演説中に、或は「単に閣員の顔触を見たるのみにて、直ちに反対の声明をなすが如きは、甚だ謂れなき事」たりとか、又は「暫らく其政綱と内外に対する実際の施設とを篤と見届けたる上にて、党の態度を決するも未だ遅からず」など言ふが如きは、全然政党存立の基礎を自ら否定するの妄論である。此点に於て政友会の斯の態度は、大隈内閣の失政と共に、超然内閣の発生を促せる二大禍根であると言はなければならない。超然内閣発生の第三の原因としては、更に所謂官僚一派の一両年以来の悪戦苦闘を挙げねばならぬ。固より彼等は別に集つて党をなすものではない。従つて又結束して内閣乗取りの陰謀を企てたことはないなど、弁明するかも知れない。併し直接の動因が何であつたにしろ、欧洲戦乱の元兇は独逸であつたといふと同じ意味に於て、大隈内閣の顛覆は主としては彼等の努力の結果に外ならぬ。蓋し彼等は第一に政権に参与すると否との上に、実際上大なる利害関係を有つて居る。而して最近政党主義の益々盛んになり、漸を以て我国憲政上の固定的原則たらんとするの趨勢を見ては、恐らく彼等の胸中に煩悶焦慮措く能はざるものがあつたらう。是れ彼等が大勢の帰趨如何を顧みるに遑あらずして、政権の獲得に狂奔し、遮二無二政党主義の確立を妨害するに全力を傾倒した所以である。無論多数の中には誠心誠意政党主義の盛行を憂ふべしとする、善意ではあるが固陋なる見解に動かされたものも無いでは無からう。兎に角、彼等は、大隈内閣の成立以来政党主義の益々確立せんとするの傾向あるに駭(おどろ)きて、極力此趨勢を翻さんと努めて居つたのである。其第一着の手段として彼等は之まで機会ある毎に、先づ大隈内閣の顛覆を促がさんとして居つたのである。尚此外に官僚の一派をして、最近特に活躍の希望を高めしめたのは、戦後欧洲の形勢に関する彼等の予測である。彼等は戦時に於ける欧洲の一時的変態を見て、軽卒に戦後に於ける各国政治組織の根本的変革を予想し、恰かも第十九世紀初頭の大変乱が一大政治的革命を結果したると同様の効果を、今次の戦乱も亦持ち来たすものと考へて居る。而して此変乱に於て最も大なる打撃を蒙るものは即ち政党政治である、立憲政治であるとなし、かくて今や将に来らんとする大勢の激変を眼前に控へて、彼等は心私かに我党の時代来れりと欣喜の情に動いたのであらう。中には殊更に斯の如き説を流布せしめて思慮浅き青年の心を誘はんと試みた政治家もあると聞いた。現に此種の説明は最近二三の小新聞にもポツ/\散見するやうである。併し乍ら第十九世紀初頭の政治的変革は、もと自主自由の自覚といふ思想上の一大事新に伴つて起つたものであつて、此思想そのものが更に大なる変革を受けない以上は、今次の戦乱が如何に社会の各方面に多大の動揺を与へたとても、自主自由の根本的要求の上に立つ政治組織までが更に重大の変革を蒙るべしとは断じて想像されない。従来の政治組織が戦後忽ち復た旧態に還りて、更に新しき経験と新しき覚悟の上に進歩発展を遂ぐべきは極めて明白の道理である。官僚の一派が、当今一時の変態に眩惑して、政治組織の根本的変革を予想するのは、若し本気で之を主張するものなれば、そは寧ろ笑ふべき妄想であると言はざるを得ぬ。が、兎に角、此等の妄想に動されて居る者の彼等の中に多少存在することだけは疑を容れないやうである。次に第四の原因としては、官僚に対する元老の擁護を挙げざるを得ない。元老の擁護なくんば、官僚一派は如何に藻掻いても、到底政権に接近するの見込はない。そも/\元老は新日本建設の功により、国民の間に多大の惰性的勢力を有つて居ることは勿論、尚宮中に於ても奪ふべからざるの勢力を振つて居る。何人と雖も、彼等の承認を得ざれば、今日容易に政府を造ることは出来ない。今次の政変に方(あた)り、政友会が大隈内閣の後を継ぐこと能はざりし所以も、畢竟は元老が原総裁を内閣の首班として承認せざるべきことが明白であつたからであらう。大隈侯が先年初めて大命を拝受せし時に山県公の推薦に依れるも、又大隈侯を戴く事によつて初めて同志会等が政府を組織する事を得たりしも、皆元老の思惑如何に関する事である。今次の政変に於て、大隈侯が元老の意志に反し敢然として加藤総裁を奏薦したるに拘らず、元老も亦断乎として寺内伯の推薦を以て之に対抗したるを以て観ても、如何に彼等が官僚を擁護し政党を排斥するに熱心であるかを見ることが出来る。大隈侯も何の見る所あつて斯くまで元老に楯を突いたのか予は之を与り知らない。善意に之を解すれば、或は内閣組織の事に元老の常に干渉し来りし慣例に最後の止めを刺さんと欲したのかも知れない。此点に関する大隈侯の熱心は、政界の風雲急を告ぐると共に三流合同を促して政党を準備せしめた事でも明である。之に先(さきだ)つて侯が寺内伯に加藤子との提携を奨めたのも、一面に於ては官僚との妥協なるが如く観ゆるけれども、他面に於ては或は生後間もなき足弱の与党を斯くして暫く惨風悲雨の災より免れしめんとの老婆心に出でたのかも知れない。而かもすべての策悉く破るゝに至るや、乃ち元老の反対あるべきを覚悟の前で加藤子を奏薦した侯の態度には、善かれ悪しかれ非常の勇気を伴つたことは疑を容れない。何れにしても親しく 天顔に咫尺して斯かる争を 聖断に仰ぐといふ事は、我国に於ては極めて異常の現象といはざるを得ない。繰り返していふ、初めより元老の排斥を覚悟して独自の意志を奏問せし大隈侯の決心も、亦常例を破つて首相の奏薦と反対の奉答をなした元老の決心も、事の是否善悪は別として、我国最近の歴史に於ては非常空前の大事件である。而して予輩はそれ丈けまた元老に於ける官僚擁護の意思の強烈を想はざるを得ないのである。斯くして官僚は兎に角遂に政権に有り附く事を得た。然り而して元老のかゝる頑強なる態度は、一に自家の郎党たる官僚の保護に急なるの結果なりと見る者あらば、是れ又恐らくは正当の見解でない。思ふにこれ実は官僚擁護と言ふよりも、寧ろ一大隈に対する強烈なる反感が元老をして斯かる態度に出でしめたものと見るべきではあるまいか。是に於て予は超然内閣出現の最後の理由として対大隈の反感をも数へたい。大隈侯に対する元老の反感も、之を個人的感情のみに帰するのは又大に酷に失する。勿論一つにはそれもあらう。けれども主としては矢張り主義の争に根柢するものと観るべきであらう。予は今次の政変の大体の経過を冷静に観察し、之と明治十四年の政変とを比較して、私かに無限の興味を感ずるものである。十四年に於ける大隈参議の失脚は、一面に於て、云ふ迄もなく其の英国流の政治主義が偏狭なる国体論と戦つて敗北したる結果に外ならぬ。当時岩倉公の如きは、天皇の大権を動揺するの甚しきものとなして、極力大隈参議の排斥を主張したと聞いて居る。固陋なる一部の憲法論者は、今日仍ほ当時の政変を以て我国の政治主義が英国主義を排斥するに確定せるの明証となし、当年の廟堂多数の私見を以て永遠不動の原則なるかの如く見做す者ありと雖も、予輩歴史家の見地より云へば、之れ亦憲政思想発達の一段階に過ぎずして、適々(たまたま)憲政の根本義が其当初に於ては多少誇張したる形に於て唱へられ、為めに固陋なる保守的階級の排斥する所となるといふ各国通有の常例を繰返したものに外ならないと観る。遮莫(さはあれ)当年の廟堂諸公は国家の為めに由々しき大事なりとして決然として大隈排斥に結束したのであつた。而して今次の政変は、仔細に其成行を観察すれば正に之と全然同一轍の経路を取つて居るものではあるまいか。何となれば、大隈内閣の二年有余に亘つて為せる所、大小種々の施設ありと雖も、就中憲政の大局より観て最も重大となす所は、彼が極力政党主義の発達を計つた事にあるからである。而かも侯の之が為めに取つた方法は頗る露骨であつた。従来朝に立つた政党としては外に政友会あるが、政友会内閣はまた固より政党内閣主義の発達を願はざりしに非ざるべきも、概して眼前の地位を擁護するに急にして、旧勢力との妥協疏通を厭はなかつた。然るに今や大隈内閣は百尺竿頭更に一歩を進めて全然元老を無視せんとするの態度に出でた。是に於て元老は、一つには其暴慢忘恩の態度に憤激し、一つには十四年当時と全然同一なる思想に刺戟せられて、こゝに結束して国家の為に大隈内閣執る所の主義を粉韲(ふんせい)せずんば止まずと決心したものではあるまいか。元老の一派が、一両年以来頻りに大隈内閣を呪ひ、其倒るゝに当つてや、恒例を破つて其奏薦する所の後継者までをも排斥するに至つたのは、単純なる対大隈反感のみに帰すべきではないと信ずる。
 以上の如く原因を数へ立つれば一にして足らないが、帰する所は、現在政党の無気力と、元老一派の固陋なる思想とが、超然内閣の出現を促した根本の原因であると思ふ。政党の無気力なるは今に初まつた事ではない。けれども、政党の運命に関して非常に重大なる関係ある今次の政変に対して彼等が執る所の不徹底なる態度を見ては、予輩は更に其腑甲斐なきに呆れざるを得ない。或意味に於ては、政党政治の発達を阻礙するものは実に政党夫自身であると云ふも過言ではない。予は政党政治の発達を真に国家の為めに希望する丈け政党に向つてまた大なる反省を求めて熄楓ないものである。


     三

 官僚一流の旧思想には今日尚ほ之に賛成するもの少く無い。之に付ては予輩之れまで屡々言説を試みたことあるが、今次の政変に際しても、正面より之を駁撃するの論議割合に少なかつた様だから、予は重複をも顧みず尚ほ簡単に数言を附け.加へて置かうと思ふ。
 第一に政党内閣主義が憲法上君主の大権を侵すとするの説は、彼等の謬見を作つて居る根本の思想である。憲法の規定に拠れば、内閣大臣の任免は全く君主の大権に属して居る。之れ因より言ふを俟たない。然しながら、君主大臣を任免するといふ法律上の原則は、如何なる内閣にも適用があるので、政党内閣なるが故に此法律上の原則を排斥するのではない。元来世の憲政を論ずるもの、動もすれば法律上の原則と政治上の原則とを混同して平気で居るが、大臣任免の権君主に在りといふは、国法組織の形式上の原則であつて、此原則の実際の運用に就ては、別に自ら政治上それ/"\の原則の成立すべき余地があるのである。何となれば、君主は事実上全然独自の御判断を以て大臣の選任交迭を専行し給はざるを常とするが故である。但だ政界異常の変ある場合には、例外として其固有の法律上の権力に基いて、全然独立の御選任を見ることはあらう。けれども通常の場合に於ては、政治上自ら定まる所の何等かの機関に諮詢して大臣の選定に与からしむるのである。故に所謂法律上の原則なるものは、謂はゞ最終の解決方法に属するものにして、普通の場合には、其範囲内に於て他に便宜の法則の成立することを妨げず、又寧ろ之あるを以て得策とすべきものである。他の例を以て之を譬ふるに、我国の民法に於ては、子に対する扶養の義務を尽さゞる親ある時、之を法廷に出訴して其義務を強制せしむるの権を子に認めて居る。蓋し斯くせざれば国家は第二の国民たるべき子弟の教養を十分徹底的に行はれしめ得ざるが故に、最終の已むを得ざる解決方法として、即ち子に認むるに親を訴ふるの権を以てしたのであらう。然しながら、子として親を法廷に訴ふるは、吾々の道義心の軽々しく之を為すを許さざる所である。故に我々の道徳的常識は、扶養の義務を怠る親に対して事実上如何なる手段を執るべきやに関しては、それ/"\道徳上の手段を暗示して居る。民法定むる所の法律上の原則は、之を最終の解決方法として、寧ろ普通に之を用ゐざるを可とするのである。之と同じく、君主自ら大臣を任免するといふが如き方法も、亦之を常用せざるを得策とするものにして、結局の任命権は常に之を君主に留保するも、事実上の選任に方りては便宜上自然に定まる所の各般の方法に任かした方がよいのである。現に我国に於ける実際上の取扱を見ても、所謂法律的原則が決して常に必ず厳格に行はれて居るのではない。其の法律的原則に抵触せざる範囲内に於て夙に各般の政治的原則が事実に於て立てられ来つたではないか。例へば退任首相が後任者を奏薦する例の如き、又は元老会議が推薦の議を上(たてまつ)るの例の如き之れである。然らば更らに第三の方法として、議会が其多数党の首領を推薦するの政治的原則も亦、之を主張するに何等の不都合を見ないのである。憲法上大臣任免の権は君主にありといふを楯として政党内閣主義を排斥せんとするは、恰かも民法の原則を楯として、子に迫つて直に親を出訴するの措置に出でしめ、他に自ら走る所の道徳的手段に先づ依らんとするを以て民法違反なりといふの類である。況んや君主大権の名に隠れて、大臣推薦の権を永く自家の掌中に壟断せんとするが如きあらば、そは余りに放恣僭越である。故に若し元老の一派が強ひて従来の立場を維持せんと欲するならば、須らく大臣選定に関する政治的原則は少数者の推薦を以て正当とするや多数者の推薦を以て正当とするやの利害得失の論断に根拠すべきである。憲法々理の議論を以て高圧的に反対説を屈し去らんとするは、理に於て全然正鵠を失し、略としては余りに狡獪である。
 予の信ずる所に依れば、大臣の選叙に関する政治的原則としては、政党内閣主義が理論上正当であり又実際上一番よく自然の進行に順応して居ると思ふ。此事は予の従来種々の機会に屡々述べた所なるが故に茲に再び繰り返さない。只之れに対する二三の批難に対しては、此機会を利用して多少の弁明を試みるの必要を認むる。第一に政党内閣主義は議会に於ける「多数」と云ふ形式に囚へられて居ると難ずるものがある。成る程「多数」必ずしも正義に非るは言を俟たない。然しながら今日「多数」を外にして果して正義の所在を確むる何の客観的標準があるか。少数の意見でも正理に合するの極めて明白なる場合は、軈(やが)て多数の賛同を得べく、然らざるも夫自身一種の権威を有すべきは、吾々の日常経験する所である。然し乍ら、何を以て正理とするやの疑ある場合に於て、常に已むなく決を「多数」に取るは社会百般の事に於て悉く皆然りである。「多数」は常に正しくはないとしても、多くの場合を平均して見れば、正義が概して常に「多数」の味方である事は、また我々の経験の疑はざる所である。又次に政党主義は君主の大権を拘束すると言ふ批難もある。併し議会に於ける多数党の領袖を以て政府を組織す可しと言ふ事が君主大権の拘束なりと言はゞ、何故に元老会議の推薦が大権の拘束とならないか。而かも議会に於ける「多数」と言ふものは、之を大観すれば形式的に固定して居るものではない。政界の変動に伴つて屈伸自在なものである。少くとも其理想的の形に於ては、国内に於ける最も健全なる思想を反映すべきものである。若し「多数」の代表する意見が少数識者の所謂「賢明なる意見」と相反することありとせば、そは多く少数者が社会の多数者を指導するの道徳的任務を怠つた時に見る所の現象である。故に若し政党の健全なる発達に依つて次に説くが如き上下相親の社会的理想を実現する事を得るに至れば、「多数」の意見は即ち最も賢明健全なる意見にして、即ち又国家の要求とも合致す可きものである。故に政党主義は、少くとも其理想的形体に於ては、事実上大権の拘束となる可きものではない。況んや君主が最終の場合に於ける決定権を有し給ふの義は如何なる場合に於ても紛更ある可からざるに於ておや。故に国家異常の変に処して、例へば政界紛乱して何れを以て多数とするやの明かならざるが如き場合には、暫く政党の外に超脱して純然たる大権内閣を造るも亦妨げない。是れ大権の大権たる所以である。唯大権の大権たる所以を政治上に於て十分に之を尊重擁護せんとせば、何より先づ之が濫用を慎まねばならない。大権に藉口して政党主義の圧抑排斥を屡々するは、寧ろ大権を群議の衝に曝らすの危険を犯す者ではあるまいか。
 第三に政党主義は多数の愚者をして重要なる国務に与らしむるものであると言ふ批難がある。此論拠に立つ批難は又更に二つに分れ、一つは衆愚が実際政権運用の指導者となるから悪いと言ひ、一つは衆愚は結局少数の領袖に支配せられ、所謂多数主義と相容れざる寡頭政治の弊に陥るからいけないと批難する。然し乍ら、此両様の批難ある事が偶々亦政党政治の妙用を語るものである。何故なれば政党は少数の賢者をして多数を指導せしむるの機会を作り、更に指導せられたる多数が少数の賢者を監督しつゝ其政治的活動を後援するの政治上極めて重要なる機関であるからである。国家の運命を創出するの精神的基礎が常に少数賢者の活溌なる頭脳の働に因る事は、何れの時代に於ても之を疑ふの余地がないが、然し、今日の時勢に於ては、多数者の意志を全然無視しては、如何に卓抜なる思想でも決して実際政治上に重きを為すことは出来ぬ。何となれば多数者は今日最早已に政界に於ける有力なる要素となつて居るからである。而して多数の勢力が今日非常に重きを為す丈け、それ丈け又彼等が少数賢者の精神的指導を受くると言ふ事は、国家の健全なる発達を見る上に於て絶対的に必要である。故に現代の政治は形式に於て必ず多数政治たるべきを要すると共に、実質に於て又必ず少数者の精神的活動が最も重きをなすところの政治でなければならない。而して多数と少数と、換言すれば下層階級と上流階級との相互的交渉を巧みに造るものは、即ち政党である。世人多くは政党政治の衆愚の勢力の下に動くといふ外面的形式のみを着眼して、之あるによつて少数の賢者が初めて現実に多数と接触し、之を指導しつゝあるの内面的作用を看過するのは、甚だ其当を得ないと考へる。要するに政党政治は、一面に於て確かに衆愚の政治である。けれども、少数の賢者が近世政治の舞台に上つて有効に其所思を実行するの途は、また政党政治を外にしては断じてない。故に政党は本当の貴族政治の理想を今日に実行せしむる唯一の近世的設備であるといつてよい。 第四に政党の現状に不満なるよりして、政党政治に危惧の念を抱くものがある。然しながら、不満足は何物にもある。政党の現状に満足し難きものがあつたからとて、之が直に超然主義を是認する理由とはならない。よき超然内閣は決してあしき政党内閣よりも大に優つて居るものでないことは尚後に述べやう。而して今日の世の中となつては、最早政党政治家なればとて、官僚政治家に比し常に必ず数等劣つて居るとは限らなくなつた。若し実際政治の当局者として、政党政治家の方が幾分劣つて居るやうに見えるといふならば、そは政権を掌握した経験が短いからであらう。凡そ政党は政権を握るの経験を積むに従つて進歩し且其面目を改むべきものなることは、諸外国の実例に徴しても明白である。且つ又政党は夫自身常に進化するものである。我等は政党の現状を見て之を罵倒するよりも、寧ろ其進歩改善を援くることが大に国家の為になると思ふ。世人動もすれば政党政治の弊害を挙げて頻りに之を罵倒する。けれども他に比較上政党政治に勝る如何なる政治主義が存するか。少数の賢者に政権を托すべしといふが如きは、其言徒らに美にして其実弊害の大なるものなること、諸外国の歴史は具さに之を経験し抜いて居る。又少数賢者の立場から言ふても、彼等にして若し政界に活躍して大に国家の為めに尽くさんとするの念あらば、民間の勢力に超絶して独立に超然内閣を作らうなどゝいふ態度に出でず、須らく身を挺して進んで政党に加入すべきである。蓋し是れ彼等が一般民衆を率ゐて最も有効に其抱負を実行し得る所以である。一体に多数の人と相諮り、之を納得せしめてから遣るといふ方法を非常に面倒がるのは、本邦政治家の常である。立憲政治といふものは、元来が廻り諄(くど)い政治である。併し大臣が議会に諮り、議貞が人民に訴へて、十分熟議を凝らすといふ所に、其妙味も特徴もある。然るに一々衆愚に相談しては埒が明かぬとて少数政治を主張するのは、憲政の根本思想と相容れない。我国に於ける政党罵倒論は、之等の政治家の短慮から来るのである。併し之と同じ欠点は実は政党にもある。政党の腐敗堕落も、実は多く此欠点に基因すると思ふ。何となれば、政党者も亦一々人民の意思に訴ふるを面倒がり、反対党との競争などに迫られて、動もすれば買収請託等の敏捷なる権道に拠らんとするからである。故に予は在朝在野を問はず、我国の政治家が憲政の要は迂曲にあり、理路の徹底に倦まざるに在り、衆と諮りて納得せしめずんば已まざるに在りとの覚悟さへ極めるなら、自ら政党政治も行はるゝに至り、又政党其自身も発達進歩するに至るだらうと思ふ。其れが為めには、是非とも上流者の奮起を望まざるを得ない。上流者の政党に加入して大に活動せんことを望まざるを得ないのである。
 若し又彼等にして趣味境遇等の点から政党に入ることを欲せざるならば、彼等は直接に政権争奪の渦中に投ずるを避けて、須らく批評家の地位に立ち国論指導の任に当るを以て甘んずべきである。此点について予輩は我国今日の枢密院貴族院に蟠踞する一部の貴族諸公に慊焉(けんえん)たるものがある。彼等は或は衆議院に対し、或は政府に対し、独立の見解を以て国政を論評するの法律上の権能を与へられて居る。其独立の見解を以て時として衆議院の妄を正し時として政府の曲を抑へるのは、一面に於て彼等の国家に対する公の義務である。然しながら、此法律上の権能を口実として、事毎に衆議院や政府と争端を開いて国務の進行を阻むのは、決して国家の彼等に要求するところの最上の義務ではない。彼等は国家の為めに止むを得ず衆議院乃至政府の非違と争ふと言ふけれども、多くの場合に於て争端の因は畢竟彼我意見の相違に過ぎない。而して単純なる意見の相違に止る以上、一応は十分に所思を披(ひら)いて大に争ふても、結局の場合に於ては衆議院若くは政府に譲歩するのが彼等の執つて然るべき態度であると考へる。否(しか)らずんば国政は常に渋滞するの外はない。抑も彼等は少数の階級を以てして、全国民の代表者に対抗して独立の一勢力たるの貴い地位を与へられて居る。それ丈け彼等の地位は、少くとも道徳上に於て、重大なる責任を負ふて居る。斯くの如き重大なる地位は、軽々しく之を濫用すべきものではない。故に平常の場合に於ては、常に侃々諤々の正論によつて国民と政府とを警醒しつゝも、結局の場合に於ては妄を彼等に譲るが、得策なりと思ふ。たゞ稀に起る国家最重の大問題について異見を有する場合には、其時こそ敢然として奮起すべき時である。平素隠忍譲歩して居る彼等がたま/\奮然として起てばこそ、国民も反省し又同情もするなれ。最近の我が貴族院や枢密院のやうに、極めて微細なる問題についてまで、衆議院と争つたり、政府と争ふたりするやうでは、成る程法律上よりは何等尤(とが)むべきものはないが、我々の政治的常識は、寧ろ彼等の軽挙妄動に対して転(うた)た顰蹙せざるを得ないのである。之を要するに、我国の貴族は、其政界に活動するに方つて、慥にその執るべき方法を謬つて居る。而して現在の政党が十分に発達し得ざるのも、一つには貴族の態度の正当ならざる結果であると思ふ。
 何れにしても―仮令今日の政党に色々の欠点があるとしても―今日為めに超然内閣主義を是認せざる可からざる理由の存せざることだけは明白である。否却つて超然内閣主義の出現は、政党の順当なる進歩を妨ぐる点に於て、結局国家の為めに不幸である。なんとなれば、超然内閣主義が一時なりとも実現すれば、政界に活動すべさ有為の人物をして暫時たりとも政党に遠ざからしめ、斯くて上流下流疏通の道は阻害せられ、上には少数政治の弊を醸し、下一般の政論をしては自ら軽佻浮薄に流れしむるからである。世人今次の政変を見て、大隈内閣よりも寺内々閣が勝るとか、寺内々閣でも善政を布かば可なりとか言ふて、深く超然内閣の出現を憂へざるは、予輩の甚だ怪訝に堪へざるところである。前内閣の失政に比較して多少政界の面目を刷新するの小益ありとするも、根本的に国運の発展を阻害するといふ見えざる大害の潜在は之を看過すべきでない。吾々は前後両内閣の現前の比較論に惑はされて、超然内閣の、主義として絶対に排斥すべきものなることを忘れてはならない。

      四

 超然内閣が主義に於て憲政の敵なること極めて明白である。善政を布くとか布かぬとかの標準に依つて、超然内閣の弁護を試むるは、恰かも頭の曇りがとれたとか、腰の痛みが癒つたとか言ふて、阿片飲用の効能を述ぶるが如きものである。一時の効能に迷ふて自然と蒙るところの中毒の恐しさを忘れてはならない。此点に於て吾人は、日本憲政の発達上、寺内々閣の出現を非常に悲しむものである。又寺内々閣を出現せしめたる昨今の政界の形勢に対して、非常に遺憾を感ずるものである。
 然しながら、又一方から考へれば、超然内閣は憲政の途上に於て時々出現するのは亦絶対に之を免るこしとは出来ない。凡そ政治上の原則は、法律上の原則の如く、客観的の形式的標準があるのではないから、例へば夫の憲法違反即ち違憲と云ふ問題は、憲法の解釈上概して極めて明白であるけれども、立憲政治の常道に悖るといふ所謂非立憲と言ふ問題に至つては、何を以て政治的原則と為すやの主観的判断の差によつて、人により必ずしも一定しない。固より超然内閣を以て憲政運用上の常道にあらずとするは今日多数の認むる政治的原則なりと雖も、之に対しては尚ほ善意若くは悪意に色々異議を挟むものが少くはない。而して政治的原則の確立はもと繰返し繰返し行はる、所の慣行によりて自ら定まるものたるが故に、我国の如き憲政発展の未だ幼稚なる国に於ては、超然内閣の出現は、希望すべき事ではないけれども、事実上全く不可能でもない。
 尤も我々歴史家の立場から観れば、前にも述べた如く、寺内々閣の出現の如きは、政党内閣主義が其確立を得んが為めにする奮戦苦闘の途上に於ての一小蹉跌に外ならざるものであつて、固より大勢の上からは深く憂ふるに足らざるものではある。けれども世間には、寺内々閣の出現に対していろ/\積極的の意義を附せんとするものがある。中には真面目に之等の説に動されて居る者もあるやうに見ゆるから、茲に其一二につき聊か弁駁を試みやう。
 新超然内閣弁護説中一番尤もらしい説は、挙国一致内閣と云ふ事である。国家異常の変に処して挙国一致の強固なる内閣を作ると云ふ事は、今次戦乱に於ける欧羅巴諸国の流行である。予輩一己の考としては、仮令交戦国の一つであるとは云へ、我国は目下挙国一致の名の下に変体的政府を造るの必要には迫られて居ないと思ふものであるが、仮りに一歩を譲りて挙国一致の政府を必要とするとしても、そは必ずや各派和親妥協の基礎の上に築かれねばならぬ。されば若し寺内首相にして真に挙国一致内閣を組織するに意ありしならば、曩に大隈侯より加藤子との連立を勧奨せられた時、更に原、犬養の二氏をも之に誘ふべきの反対提議を侯に迫るべきであつた。然るに膠(にべ)なく大隈侯の要求を拒絶して、少くとも先づ加藤子との連立を斥けた以上、何処に挙国一致内閣の成立を促すべき基礎があるか。寺内伯が後に夫れ/"\三党首領を歴訪して其援助を求め、後日政界紛乱の際挙国一致を破るの責任を彼等に嫁せんとするの素地を造つたのは、頗る狡獪なる手段であつて、真に挙国一致の成立を破つたのは、豈(あに)図らん哉寺内伯の大隈侯要求の拒絶其ものである。現寺内内閣が若し挙国一致を標榜するならば、是れ羊頭を掲げて狗肉を売る者に外ならぬ。第二に人材内閣を標傍するものがある。政党内閣を排斥して自ら人材内閣を標榜するのは、党界に人材なし、国家有用の材は独り我々のみといふに同じく、少くとも現在の顔触では傍観者たる吾々に寧ろ滑稽の感を抱かしむるのであるが、余人は暫く之を措き、暫く寺内首相について之を言ふに、我々は決して寺内伯を以て政界の異才とは認めぬ。寺内伯の朝鮮に於ける施政に付ては、毀誉各種の判定あらんも、寺内伯の真価は、殖民地政治家としてすら未知数である。況んや立憲政治家としてをや。故に伯を以て政界の偉才となし、伯によつて真乎国民の幸福に資する政治の施行を見得べしと今日に期待するのは、少くとも早計の譏を免れない。孰れにしても今度の内閣は従前の内閣に比し多くの人材を集めたりといふのは僭越に非ずんば滑稽である。前内閣が余りに失政をやつた御蔭で彼等は僅に国民の冷酷なる批評を免れて居るに過ぎない。第三に政界の混乱を防ぐ為めに寺内内閣の出現が必要であつたといふ説もある。政界混乱の場合に一種の超然内閣の出現を見る事は、西洋にも全く其例が無いではない。尋常の方法にて内閣の組織を見難い場合に、元首が其親近する者を挙げて一時経過的の政府を作り、之をして暫く政務の施行に当らしむるは間々あることである。而して斯の如き混乱は、多数党内閣が失政によつて其地位の継続が困難となり、而かも之に代るべき新内閣の組織も亦容易に出来難いといふやうな場合に最も多く起る現象である。而して斯の如き事情は大隈内閣に一度ならず起つた。例へば彼の大浦事件の失態の如きは之である。当時の政府が如何に弁明しても、彼の事件の如きは確かに政府の総辞職に値する問題であつた。あの場合若し大隈内閣が責を引いて辞職する者として、扨て政友会に後を引受くるの準備なしとせば、そこに一時経過的の超然内閣の成立する余地はあつた。さればこそ官僚はあの際非常に奮起して大隈内閣の攻撃に余力を残さなかつたのである。然るに大隈侯は何の見る所ありてにや、断じて官僚に引渡さざらんとするの態度を執り、徐(おもむ)ろに政党をして準備せしむる為に、内閣の一部を改造して居据りを決行した。此居据りの魂胆が実に政党をして他日の準備を為さしむる為めであつた丈け、それ丈け官僚は一刻も早く乗つ取つて政党の基礎の固まるを妨げんとして焦つた。是れ彼等があらゆる流言を放つて大隈侯の居据りを悪様に言ひふらした所以であらう。予はもと居据りを以て適当とは思はない。けれども元来が政界混乱して他に之を収拾する適任者なしとして挙げられた大隈侯であり、今俄かに其地位を去れば政界は再び山本内閣倒壊当時の状態に戻るのであるから、政界の混乱を収めるといふ点から言へば、或は居据えりも亦已むを得なかつたかとも思ふ。然し何れにしても、改造後の大隈内閣は、其性質を一変し、政界の混沌たる形勢が治まり政党の準備の出来る迄の一時経過的の性質を有する内閣と観るべきものとなつた。然るに此改造後の内閣も亦いろ/\失政を重ねて幾くもなくして其職に留り得ざる事になつた。大隈侯は老齢職に堪へずなどと言ふて円満辞職の体裁を装ふて居るけれども、然しながら、事実外交上の失敗が遂に其職にあるを許さざるに至つた事は疑ひなからうと思ふ。そこで官僚は再び猛然として運動を開始した。然るに大隈侯は飽く迄政党政治主義を貫徹せんと欲したものと見えて、之に対して急遽三派合同を決行せしめて、無理押しに政党をして大任引受けの準備に狂奔せしめた。政党側でも亦いよ/\決心を堅めたらしい。それ丈け官僚元老の一派も断然最後の決心をなすの必要を見、其対戦の結果として寺内内閣が出現したのである。して見れば寺内内閣の出現は政党撲滅の官僚派の熱望に促されて起れるものにして、別に此内閣が出現せずんば政界の混乱は避け難かつたと言ふ程の重大なる理由はないと信ずる。現に彼等は超然主義を標榜して政党内閣を排斥しながら、他方に於ては密かに手を延ばして政党の操縦を策し、之との提携を計つて居るといふではないか。故に我々歴史家の立場から観れば、寺内内閣の出現は、当然出づべくして出でたものではなくして、政権に渇する一部の官僚が、元老の擁護と、誤つたる固陋の憲法論とに援けられて、大勢に逆行して出現したものに外ならぬと見るのである。元来予は此内閣に多くを期待しない。遠からず馬脚を露はして一敗地に塗るゝだらうと想像するが、然らざるも、大勢に順応せざるの点よりして、到底永続すべき性質のものでないことは疑を容れない。其時はまた政界再び大混乱となることだらう。又しても大勢逆行の解決を執らんとせん乎、其時こそは憲政擁護などゝいふ不祥なる運動も起るかも知れない。遮莫(さはあれ)之を達観すれば大勢は既に決して居る。予は世上同感の識者に向つて、切に此一時の変態に惑ふて我憲政発展の大勢を誤解せざらん事を希望する。又政党界の諸君子に向つては、近き将来に於て必ず来るべき光明ある前途を予想して一時の変に失望落胆する所なく、大に自重し堅実に準備する所あらん事を希望する。一時の名利に焦つて兜を敵門に投ずるは、豈に我国憲政の進歩を害するものたるのみならず、政党其物の為めにも決して賢明なる方法ではない。更に予輩は一般世人に向つて、挙国一致人材網羅等の美名に眩惑して国運を少数者の手に委する事なく、常に政党に対して正しき理解と深き同情とを傾けられん事を希望する。(十月二十二日)