天皇中心主義と議会中心主義  

 この両主義の何たるかは前項説く所に依ても既に明白であると思ふ。聡明なる読者は議会中心主義に対比するものを表はさんとて天皇中心主義なる文字を使ふことの如何に不謹慎なるかにも気付いたであらう。而して国務大臣の輔弼を説くにあたり所謂天皇中心主義なる名に隠れて大政親裁論を固執する者の今日に於てなほ絶無に非ることをも承認されるであらう。
 然り、所謂天皇中心主義者を以て任ずる者は今日に在ても沢山ある。それにしても彼等が、議会中心主義の立場を真向に振りかざして来る最近の首相糺弾運動に、一言の抗弁も為し得ぬのは何としたものか。斯くてはその誇称する主義に対して真の確信あるに非ず時に応じてその美称を濫用したに過ぎぬと誹られても仕方があるまいではないか。濫用か確信かは分らぬが、私自身も之を振り廻はすものからひどく窘められた経験を有つて居る。大正十三年帝大教授を辞して朝日新聞に入つたばかりの私が、仰々しい筆禍事件に坐して当局の厳しき喚問を受け、其の結果忽ち朝日社を逐ひ出される不運に遭つたが、此時の問題が即ち私が所謂天皇中心主義と相容れざる立場を主張したと云ふに帰するのであつた。問題を若き起した当局の役人が誰あらう時の刑事局長山岡万之助君、その長官の司法大臣が鈴木吉三郎君であるのを回想すると、この両君が天皇中心主義を以て議会中心主義に挑戦したのも蓋し一朝一夕の事ではない。
 併し乍ら鈴木山岡両君の様な思想の一見甚だ我国に忠なるが如く見えて而も其実大に国害を為すものであるとする信念も、亦我国に於ては可なり古い歴史を有するものである。今私は其一例として明治十四年の東京日日新聞から福地源一郎の筆に成る社説の一節を引いて見よう。
 四月二日の社説には斯うある。

  (前略) 夫レ権ノ帰スル所ハ責ノ帰スル所タリ、其権アリテ其責ナクバ国民ハ何ニ由テ其身ヲ安ジ其自由ヲ享クルヲ得ンヤ、若シ叡慮ノマニ/\万機ヲシロシ召サバ、恐ナガラ其責ハ帝位ニ帰シ、其激追スルニ際シテハ帝統神種天皇神聖ノ大義モ国民コレヲ顧ルノ遑ナキニ至ランモ計リ難シ、吾曹(われら)ガ夙夜憂懼シテ措クコト能ハザルハ実ニ此事ニ候ナリ。現ニ今日ノ政治ヲ仰視スルニ、制度法律ミナ勅命ヲ以テセラルゝガ故ニ、大臣参議省卿ハ皆 聖天子ニ対シ奉リテ責任ヲ有スレドモ国民ニ対シテハ更ニ其責任ナシ。而シテ国民ニ対スル政治ノ責任ハ直ニ 聖天子ニ集り、臣下ハ却テ袞竜(こんりょう)ノ御紬ヲ楯トシテ責任ノ衝ヲ避クルガ如クニ見ユルナリ。政体ノ然ラシムル所トハ云ヒナガラ、是豈ニ君民同治ノ政体ヲ建ルニ当リテハ、是レ豈ニ皇統ヲ不窮ニ継承シ奉ルニ万全ノ計ナリト云フベケンヤ。国民ニ対シテハ大臣都(すべ)テ政治ノ責ニ任ズベシト制定シ、聖天子ハ人望ノ帰スル者ヲ選ビテ大臣ニ任ジ、人望ニ背クノ大臣ハ之ヲ退ケ、一ニ輿論ノ由ル所ニ従テ社稷ノ重臣ヲ定メ、以テ国民ノ責任ニ当ラシメ給フベシ。然ル時ハ国民ハ政治ノ得喪ニ責任ノ人アルヲ知リ、帝位ハ国民ノ休戚二ニ怨府タルコトナク、万世一系ノ帝統ハ天壊ト倶ニ不窮ニ継承セラレ給ハンコト、疑ヲ容レザル也。

又四月十二日の社説に於ては国務大臣輔弼の職責をば次の如く論じて居る。

 (前略)夫ノ政治ハ責任ソノ人アルヲ要ス。責任ソノ人ナケレバ、国会アリト雖モ議院アリト雖モ政治ノ利害得喪ニ関シ国民ハ誰ニ向テ其過失ヲ譲(せ)ムルトセンヤ。而シテ我建国ノ体ニ於テ 天皇陛下ハ至尊ナリ神聖ナリ法ヲ以テ問ヒ奉ルベキニアラネバ、如何ナル場合タリトモ政治ノ過失ヲ以テ直ニ 陛下ノ御身二帰シ奉ランハ如僻ナシ、臣子クル者ノ万ニダモ成シ得ベキコト三非ルナリ。是レ大臣ヲシテ天皇陛下二代リ奉リ国民ニ対シテ其責ニ任ゼシムル所以ナリ。斯ク国民ニ対シテ責任ニ当ル以上ハ、言フモ憚(はばかり)アルコトナガラ、陛下ニ対シ奉リテハ其責任ヲ第二段ニ置カザル可カラズ。例バ和戦ノ決ニ際シ輿論ハ和ヲ主トシ、叡慮ハ戦ヲ主トシ給ハンニ、大臣ハ叡慮ヲ体シテ戦議ヲ採ルベキ乎(か)将(は)タ輿論ニ従テ和議ヲ採ルベキ乎、叡慮ニモ戻(もと)ラズ輿論ニモ背カザルハ得ベカラザルヲ以テ、断決ノ時ニ臨シテハ和議孰(いずれ)カ其一二依ラザルベカラズ。叡慮ヲ体シテ戦ヒ責ヲ輿論ニ得テ其職其身ヲ犠牲ニ供スルヲ顧ミズト覚悟スル乎、若クハ飽クマデモ諫諍スル乎ニ在ルモノナリ。而シテ国民ニ対シテ責任アルノ大臣ハ即チ社稷ノ重臣ナレバ、社稷ヲ重トスル大義ニ則トリ、輿論ノ在ル所ハ敢テ叡慮ノマニ/\任セ奉ラザルコト其要務ナリトス。天皇陛下ノ大権タル宣戦講和ノ議且ツ然リ。況(いわん)ヤ議院ノ決議ヲ要スルノ諸事ニ於テヲヤ。去レバ輿論ニ従フノ奏議ハ、叡慮ニ好マセ給ハザル条タリトモ 陛下ハ大臣ノ請状ヲ批准アラセ給フベク、又輿論ニ違背スルノ大臣ハ寵遇信任ノ人タリトモ之ヲ退ケ給フベキコト、立憲政体ノ最要訣ナリト云フベシ。

 右は明治十三年から同じく十四年にかけて民間に於ける国会開設運動の盛行するに連れ、又十三年の暮には元老院がかねて勅命を奉じて調査中であつた憲法草案を上つたと云ふ報道に刺戟され、有志の間にも各方面に憲法の調査研究を試むるものあつた際、東京日日新聞また福地源一郎に嘱して長文の「国憲意見」を作らしめて紙上に連載したが、其中の一節を抄録せしものである。当時民間で作られた憲法案にいろ/\のものあるが、東京日日所載の「国憲意見」はその最も詳細にして最も整備せるものである。前後十章に分れ三月三十日から四月十六日まで連載されて居る。当時福地はまだ純然たる御用記者となつては居ない、孰れかといへば十四年春頃の東京日日は政府反対の側である。けれども福地は伊藤其他の高官の間に個人的相識多く、国憲を按ずるに方つて必ずや其等の意見をも参照したに相違ない。従て彼の文章は或は当時の有力なる政治家の所見を代弁するものであるかも知れない。この意味に於て我々は前記の文章を誦読して実に感慨無量なるものがある。五十年足らずも昔のものだから措辞に生硬粗笨なるものあるは免れないとして、唯その内容を為す意味に至ては今日に於ても殆んどその儘容認されねばならぬものであると考へる。
 孰れにしても所謂天皇中心の政治主義は、明治の初年から真面目な政治家からは排斥されて居つたものである。而もそれは専ら皇室の御為に斥けられて居つたといふ点に我々は特に注意するの必要がある。

『中央公論』一九二八年七月