新人運動の回顧



 新人は明治三十三年の創刊と思ふが、それより今日迄殆んど二十四年、日本の思想界は幾多の変遷をして居るが、其間新人が自由なる宗教上の見地に立つて、宗教界の問題は勿論、政治文学、社会問題其他の方面に向つて貢献したる処は決して尠くない。私は明治三十三年に上京したが、其頃海老名師より伝道苦心談を聞いた事がある。海老名先生以前にも横井時雄其他高等の学生を目標として宗教運動をした者もあつたが余り振はなかつた。従つて海老名先生が東京に出た時も初めは殆んど手がつかなかつた。それが明治三十年頃から形勢が変つて来た。其迄はたま/\会ひに来る者があれば攻撃に来るだけである。それが次第に転じて謙遜な態度で教を乞ふやうになつた。明治三十四五年頃、帝国大学の学生が本郷教会で洗礼を受けた。これは私の記憶して居る処では大学生の洗礼を受けた初である。私の如きも三十二年に仙台で洗礼を受けた者であるが、高等学校迄来て洗礼を受けた馬鹿者と云はれた。沢柳政太郎氏は其頃二高の校長であつたが、態々我々を自宅に呼び寄せて、怎う云ふ訳で洗礼を受けたかと尋ねられて、高等学校迄来て洗礼を受くると云ふは不思議な現象であると云はれた。かやうな次第であるから、明治三十年頃の景況では基督教は殆ど手のつけやうの無い有様で、先輩などの回想談を聞いても当時は苦心惨憺たるものがある。それが三十年頃から次第に変化しつゝあつたのである。
 怎うして其頃が変り目かと云ふと、教育ある有為の青年の間には浅薄な科学思想が横行して居た。明治以前には迷信流行であつたのが、維新の大業と共に所謂開化の時代となつて、森羅万象、何一つ不思議なものは無いと云ふ事になつた。其考は時に多少の変化を免れぬが、三十年頃迄は教育界の主潮であつた。従つて宗教を信ずるなど云ふ事は教育ある有為の青年の問題でなかつたのである。それは丁度最近に於て社会の圧迫に、苦しみに、苦しみ抜いて居た人々が、西洋思想の影響も受けて、精神主義などでは可かん、社会の制度組織を改めなければ人間の幸福は得られぬと考へて唯物的になつたのと似て居る。明治初年にも社会改良と云ふ叫びがあつて、浅薄な考から宗教に反対した。所が此頃の社会改造論も昨年の春か夏頃から少し反動が現はれて社会改造の根柢として宗教を認めやうとする傾向がある。明治以前又は初年に於て、福沢諭告先生は科学思想を鼓吹したが、これは西洋には偉い物がある、其機械の術は到底日本の及ぶ所でないと考へたからである。福沢といふ人は別に科学の研究をしたと云ふ訳ではないが、観察の奇抜な人で、洋行中到る所質問を発して常識から一通りの考が出来たので帰来之を伝へた。例へば西洋には汽車といふものがある、それで行けば東海道は一日で旅行が出来る。それから遂道といふものがある。自分がロンドンに行つた時、汽車に乗つたら、いつの間にか暗い穴の中に入つてしまつた。何処へ行くのかと思つて居ると明るくなつた。振り返つて見ると川がある。それで初めて自分は今川の下を通つて居た事が分つたので吃驚したなど云ふ事を書いて、世の中を驚かせた。そこで著者は小幡篤次郎氏の名になつて居るが、実は福沢氏の書かれたと云ふ『天変地異』や、福沢氏の『窮理図解』など去ふ書物が出ると世人は森羅万象、何でもこれでわかると思つた。従つて人々は口癖のやうに窮理々々と云つたが、時に言葉の用る処が飛んだ処迄行つた滑稽談も尠くない。
 其後二十年前後、例の条約改正から基督教は一時盛になつたが、間もなく国粋熱が現はれて宗教排斥が起つた。其中最も有名なのは明治廿六年に井上哲次郎氏が公にした『宗教と教育の衝突』である。これは内村鑑三氏が一高の教授であつた時、御真影を拝さなかつた事が問題となつて、現はれたのである。一体日本には耶蘇教反対は随分沢山あつて、書物として現はれたものも決して尠くないが、耶蘇教反対の国民運動といふと変だが、猛然として反対の起つた事が三回ある。最初のはフランシス・ザヴィエルの来た時代である。尤も彼の時代の初は、大名は葡萄牙人を招いて、兵器弾薬を輸入するの考であるが、それには宣教師が居らぬと落ち着かないと云ふ政策から歓迎したもので、無論宗教の事も分つて居らなかつたから、耶蘇教も亦仏教の一派と信じて居た。それでポルトガル人を南蛮々々と云つた、其頃の考ではポルトガルは支那の南と信じて居た。従つて異教を持つて来たと云ふ考はないので、寺で耶蘇教の話をさせた。何か珍らしい話があると思つたのであらう。丁度今日の我々がアインスタインとかラッセルとか云ふ学者を歓迎するのと変らない。それから盛に宗論が其処、此処で行はれた。けれども根本が違ふのであるから話がトンチンカンになる。
 初めはそんな訳であるが、何せザヴイエは欧洲の歴史にも輝く人傑であるから、早くも日本人の欠陥を看破して、僧侶の腐敗、大名の堕落、民間の堕胎等を痛烈に攻撃した。当時の寺院には男色などが盛に行はれて居たので痛い所を突かれて、僧侶も憤り大名も兵器弾薬は欲しいものゝさりとて一身の攻撃をさるゝのもつらく、痛しかゆしになつた。そこで有機的の連絡はないが、期せずして一斉に起つて耶蘇教反対を為すに至つた。
 次は明治維新前後の反対である。此時は神道からも、儒教からも、仏教からも起つた。伝通院の住職であつた桐生道順の如きも盛に耶蘇教攻撃をやつたが、其オーソリチイは仏典で、これに無いから間違だと云ふ論方であるから畢竟水かけ論である。儒者の側で、安井息軒であつたか、会沢正志であつたかの反対論の中には

 物総て自然の形体の無いものは無い、世界の中、日本は頭で、支那は腹、西洋は背だから、背から智慧の出る筈は無い。

と云ふ奇論がある。其後二十年、三十年と立つて、漸次科学思想が普及すると共に、余り乱暴な事は云はなくなつた。けれど、今度は科学万能の西洋の智識で耶蘇教攻撃をする。彼等は科学で何もかもわかると云ふが、わからない。西洋奇術狐狗狸怪談と云ふ書物がある。これは益田孝氏の弟で益田英作と云ふ人の米国土産に出たものである。
 一時此狐狗狸が流行したが、怎うして出来るかと云へば人心電気の術と説明する。けれども其理は未だ明にせずと云ふて居る。其処が浅薄な所である。分らんがいけないいけないと云ふ。現代の人々が宗教は資本家の犬であると云ふ。けれども実は自分にも分つて居らない。然し分らんでも四方から響く声は勢を為す。それから第三の耶蘇教反対は先頃の羅馬使節反対運動である。
 明治三十年頃迄宗教は迷信々々で通つた。私の始めて基督教に接したのは明治廿八年で未だ中学時代であつたが、其頃の大問題は科学と宗教であつた。これは独り自分ばかりでなく、当時の青年に取つての問題であつた。此事実を見ても、所謂科学思想の横行がわかる。併し科学と宗教の衝突を通して漸次反省の機運に向つた。此時代に当つて本郷教会は海老名先生を中心として、花々しき戦を開いた。
 科学と宗教など云ふ問題のある時、先生の透徹せる解説は青年に非常なる光明を与へた。心の中に煩悶矛盾なしに、のんびりと宗教上の問題を考ふるやうになつた。例へば普通には耶蘇が死して三日目に甦つたと云ふ事を信じなければクリスチャンで無いと云ふて居た。然るに先生は猶太思想から見れば、義にして苦しみ、不義にして栄ゆる筈が無い。若しそれで終れば天道が是か非かである。ユダヤ人には正義の勝利が信ぜられて居た。そして基督の死は刑罰であるに拘らず、弟子の尊崇の念が変らなかつた。其処に復活の信念が現はれたと云ふ風に説明されて復活の伝説よりも伝説を生じた信仰を高調せられた。処女降誕に就ても、イエスはヨセフの立派な子であるが、其伝説から拾ひ上げる真理は其頃は男女の交はりを汚ないと見た時代であるから、男女の関係から基督の如き完全な人格の生れる筈は無いと考へた。尊崇の余り如斯信じた弟子の心理観察に意味があると云はれた。かくして我々の苦んだ科学と宗教の問題は何等衝突する事のない説明を受けて、我々は信仰生活に満足した。一つには先生の見識にもよるが、在り来りの疑に悩まされつ、内面的の問題に入つた、其時代に本郷教会が生まれ、新人社が生れたのは時代の勢もあると信ぜられる。新人社は初め明道会と云ふ思想研究の会合から出来た。これが本郷教会の古代に於ける新人運動であるが、更に最近に至つて、新人の同志が講演会其他の方法に於て活躍せんとして居るのを見て新人発生の時代と同じではないかと思ふ。
 現代は人間の環境を如何にして改む可きかを考へて居る時代である。私は私一身の事から考へても環境の如何に重大なるかを思ふ。同一機会を総ての人に与へて人生に意義あらしむる事は極めて大切である。併し何もかも調はなければ出来ないと考へるのも間違である。フランスには此頃ビール瓶を投げたり机を叩いたり、どうかするとピストルを相の手に打つと云ふやうな甚だ物騒な音楽があるそうだが、それは余り整ひ過ぎた近代社会の反動ではないかと思ふ。新人の同人である岡上守道君が黒田礼二の名に依つて、大阪朝日に出して居る露西亜紀行は興味あるものである。ダツタンで歌をうたふとき、譜もない、楽器も無い。唯ウム/\と呻ると云ふやうな事を書いて居たが、同君のやうに音楽の素養のある者から云ふと嘸(さぞ)変に感じた事であらう。けれど道具立てがなければやれぬと云ふも浅薄である。制度組織の改造もいるが、それ丈で足るものではない。一人の労働者が私に刷物を送つてよこした。それを見ると、宗教より先に労働問題を考へよ、貴重な時間を潰してわからん事をやる必要はない、宗教は道徳の基礎であると云ふやうな事を云ふが、罪悪の根本は資本主義である。それを破らなければ罪悪はなくならない、今日の宗教家は資本家の犬であると、こんな事を述べて居る。私はこれを思想として争ふ考はない。けれども此等の人々が社会改造に日醒めたりとして勢を為す。我々の仲間からも理想主義で行かうとして行き切れずして、渦中に巻き込まるのを見ても、如何に唯物的な考の横行せるかが見らるゝと思ふ。唯物論者は畑さへよければよいと云ふ。然るに従来の宗教家は種さへよければよいと信じて物質的基礎を等閑に附した嫌ひがあつた。そこにも間違がある。けれども物は価値の本質に於ては心の次である。我々は社会組織の改造に重きを置くが、人格の完成に最も必要なものは神と人との関係である。凡ての生物は太陽の光と熱とを受けなければ生命が現はれない。動植物は神の愛を意識する力は無い。けれども人は神の愛に依つて本体を意識する。即ち自分の中に神を見、神の中に自己を見るのである。自己の本体を神に還元する所に社会問題、労働問題を置かずしては附刃に過ぎない。理論上怎う恁う云ふても真の熱は湧かない。明治維新の開明と共に、未だ封建の薄暗い中に居つた者が、初めて白日を戴いて有頂天になつたやうに現代の唯物的改造論者は何もかもこれで出来ると思つた。所が稍内面的になつて幾分反省し初めた。そう云ふ状態を見ると今日は明治三十年当時と姿は違ふが、根本条件を同ふして居ると思ふ。かゝる際に当つて新人運動の起るのは縁因があると思ふ。

                            〔『新人』一九二三年四月〕