無産党合同論の先決問題


 無産諸党は合同しそうに見えてなか/\合同せぬ。之に就てはいろ/\の理由もあらうが、その中の最も重なる原因は、合同を論ずるに先ちまづ第一着に決せられねばならぬ重要問題が未だ十分に攻究されて居ないと云ふ事ではあるまいか。然らばその重要な先決問題とは何か。日く、一元政党主義で行くか、多元政党主義で行くか、是れ。

 ロシアと支那とモ一つ伊太利では、たツた一つの政党で国家が支配されて居る。唯一公認の政党以外の政党の存在を絶対に許さない。伊太利は暫く別問題とする。支那の国民党は之を完全な無産政党と認むべきや否やに多少の疑なきに非るを以て之も他日の論題とする。そこで現に唯一の無産党が国家を支配して居る処と云へばロシアを挙げるの外はない。我国でも無産階級の政治運動を説く人の中には、ロシアを唯一の則るべき御手本としてあゝした単一政党の支配の実現を其活動の目標と立つる者が尠くない。
 無産政党の未だ国家支配権を確立して居ない大多数の国に在ては、謂ふまでもなく多元政党主義が行はれて居る。沢山の政党が相並んで永年の慣行で作り上げられた一定の規道に倚り互に政権を争ふのである。必ずしも既成政党の存在を頭から否認はしないが無産階級を足場とすると云ふ現代的の強みに拠つて労働党がヂリ/\と有産階級を圧倒して行く英吉利の政界などは、多元政党主義の一好模型であらう。只不幸にして無産階級が完全に天下を取て而もそが数個の政党に分れて居ると云ふ実例は未だない。近さ将来の支那に或は之に類する現象を見ることなきやを想像するが、併し理論上から云へば、貴族政治を倒した跡のブルジョアが数個の分派を為して対立した様に、ブルジョア政治を倒した後の無産階級が二つ以上の政党に分れると云ふことも絶対に在り得ないことではあるまい(すぐ二つにも三つにも分れる様な結束の弱い無産階級に、一挙にブルジョアの政権を打倒し了するが如き力は始めから認め難いと云ふ議論にも、私は固より一応の敬意を表するものではあるが)。
 政党運動の行き方には右の如く二様の方針がある。我国の諸政党(姑く無産政党のみに限らぬことにしておく)は果してそれ/"\如何なる方針を執て居るのであらうか。(一)疑のないのは各政党とも皆主観的には一元主義を執て居ることである。自分ひとりで天下を料理しようとは政党団結の根本義だから、我々は固より此事あるを怪まない。(二)但し客観的状勢の判断としては、少くとも在来の既成政党は常に必ず反対党の存在を前提して居る。之には例外はない。そこで若し茲に其間に伍して一元主義を固執し飽くまで他の一切の政党を打倒し尽さずんば熄まずといきまく者ありとすれば、そは必ず無産政党でなければならぬ。(三)然らば我国の無産諸政党は皆一元主義かと云ふに左うではない。この点については大体二種の見解を分つことが出来る様に思ふ。

(甲) 所謂右翼の諸派は事実上多元主義を承認して居ると観るべきであらう。即ち夫の無産階級陣営内に於ける他党の存在を否認せざる如き、又は既成政党の間にさへ伍して議会政治の進捗に協働するを厭はざるが如き、之を証して余りある。而して所謂右翼の特色は一つにはこの点にあることをも附け加へて置く。
(乙) 之に反して所謂左翼の諸派が結局に於て一元主義を固執するものなることも亦言ふを待たない。既成政党は絶対に之を承認せざるが故に、彼等と並んで議会に立つ場合と雖も、そは議会政治の進捗に協働するのではない、党勢拡張に好都合だから之を利用するのだと云ふ。蓋し議会政治そのものが元来彼等の力を極めて否認する所なのである。この立場からして彼等は、既成政党と真面目に協働するを厭はざるものとして所謂右翼諸派の議会行動を難じ又之を球団するを忘れない。この外にも種々の根拠はあるが、要するに彼等は自家の独裁権の確立を唯一の実践的目標として遮二無二突進せんと努めつゝあるものである。

 そこで我国の無産党には私の所謂一元政党主義を執る者と多元政党主義を執る者と二種類あることが分つた。而して之が無産党合同問題に如何なる関係を有するのか。

 前段末項に提出せられた問題に対してはまた二様の観方がある。
 第一の観方からすれば、所謂左翼の諸派は自家独裁権の完全なる掌握を目標として進み、夫れが為めには凡ゆる手段に由るを辞せざるが故に、その当然の結果として次の二つの現象があらはれる。
 (一)近代式の宣伝を以て大衆に臨むこと。近代政治に在ては何と謂ても「数」が最後の力だ、之を握るには大衆を味方とするに限る、教育に依て大衆の聡明を拓くなど云ふは太平の逸民の譫語に過ぎぬ、自ら信ずることの厚き以上、宣伝だらうが煽動だらうが兎に角大衆を味方に牽き付けさへすればいゝ。斯くて彼等は遂に知らず/\安物を鳴物入りの騒ぎの間に大衆の懐にねぢ込むと云ふ円本式広告術を採用するに至るのである。之が民衆の真の開発の上に如何なる影響を及ぼすかは姑く論ぜず、単に右翼の立場から云へば、この戦法で挑まれるは正に平和の郷が虎狼の群に襲撃されたのにひとしい。左右両翼の容易に和し難い一つの原因はたしかに先に在るのではなからうか。
 (二)自家の立場に対する事実上の最大障擬として右翼の多元主義を極力排撃すること。専制的覇者が動もすれば自分に最も近き者の間に一番深く猜疑の眼を馳する様に、同じ陣営と普く世間の許す友党の間から自分に取て最も大事な一元主義を否認して掛られるのは左翼の立場に取て何よりもの危険だ。宛かも天主教会の独一主義がフリーメーソンの多元帰一主義を不倶戴天の仇敵と憎むが如く、左翼無産党は乃ち何よりも先きに右翼無産党の打倒に余力を残さざらんとするは怪むに足らぬ。或は無産階級を裏切るものだとか或は大衆を欺瞞して彼等をブルジョアに売るものだとか、凡ゆる汚名を浴せて只管大衆と右翼無産党との離間に浮身を尽すのは、実は左翼政党に取ては生存の必要に促された当然の叫びと謂ふべきである。是れ他の一面に於て右翼諸派が根本的に相容れぬ敵として絶対に左翼との提携を肯んぜざる所以である。左右両翼を斯うした状況の儘に放任して置いて、一体世間が無産政党の合同をすゝめるのが抑も大なる誤りではなからうか。
 次に第二の観方からすれば、斯う二つの派が対立して居ては何時まで経つても無産階級の当然の威力は揚らない、既成政党に依て代表さるる有産階級の専横より速に無産階級を解放し了うせるには、孰方かが譲歩して戦線統一の効果を挙げさせなくてはなるまい。斯う云ふ実際的見地から発足すると、今までの経験は左翼の側に一段と豊富なる戦闘力あるを思はしむるので、従て右翼の言分を立てては何時までたつても無産階級の解放は実現されないかも知れぬと云ふことになる。元来無産大衆は政党のことなどは奈(ど)うでもいゝのである。右翼だの左翼だのと云ふは直接政党的活動圏内に居る人達の勝手につけた名だ、自分達はたゞ一団となつて独立の地位が認められ、有産階級の設けた有形無形の凡ゆる桎梏から解放されればいゝのである。たゞ此事は個々別々に精力を割いては成功するものでない。そこで政治的活動の戦線統一は、よく人の謂ふ通り、無産階級に属する全大衆の一致した要望而も痛切なる要望だと謂へるのである。然らば速にこの要望に応ずるは即ち無産政党に取て当面第一の目標であらねばならぬ。指導原理がどうの宗派的分裂主義がどうのと内輪で喧嘩されるのは迷惑の至りだ。是れ大衆代弁者を以て任ずる民間論客が、頻りに各無産党の合同問題に忠実ならざるを責める所以であり、各無産党も亦内心合同の可能につき何等の確信と成算を有せざるに拘らず、大勢に迎合して軽々に熱のない合同提唱を繰り返へす所以である。
 他の観点を一切論外におき単に有産階級との対戦と云ふ事だけから視れば、今のところ左翼は世間の同情を独り占めにし得る好地位に在る。何となれば彼等は這の闘争に於て最も大胆であり且最も勇敢であることが一般に承認されて居るからである。之に反して右翼の方は必ずしも妥協を厭ふべき事とせず、少くとも敵との抗争に当ては常に手段の選択を八釜しく云ふ。斯んな潔癖で如何してあの強敵に勝つことが出来るだらうか。軍国主義旺盛の国に於て腕ッ節の強い荒武者が一番に重宝がられると同じやうに、労資両階級の強烈な闘争に於てはボルシェヴィズムでなければ到底駄目だとされる。さうすると右翼派の所謂民主主義の固執は、自ら戦線の統一を妨ぐるものと謂ふことになる。斯く考へて始めて右翼も亦頑迷なる一分裂主義者と呼ばるる所以が分る。
 上述の如く二様の観方があるとすれば、その孰れの立場を執るかに依て結論の違ひ得ることが明であらう。階級闘争に於ける成功を急ぎ所謂大衆の痛切なる要望を一刻も早く実現せんとする立場を取れば、一元主義の主張及び運動に加担すべきだと云ふことになる。之に反して現存の諸政党にそれ/"\の独立の立場を認めその互助的協働の下に戦線の合理的な統一を図らうと云ふのであれば、断じて一元主義を跋扈せしめてはならぬことになる。但し我々が何と云つたとて各政党の当事者は遠慮なく各その方針に従て活動を続けるだらう。そこで今の儘に各政党が勝手に活動を続けるのであれば、彼等の間には当分到底合同提携の見込はない。併しそれは政党を主なる立場に置いての見解だ。未だどの政党とも特殊の関係を持たざる我々第三者には亦自ら別の見解がある、即ち我々には窮局に於ける無産者の統一的政治活動を促がすと云ふ立場から、孰れの主義に加担すべきかの選択問題が残るのだ。我々の選択の方針如何に依ては、政党当事者の見込如何に頓着なく、自らこの問題は適当に解決されるかも分らない。
 孰れにしても政党自身が進んで合同携提を説く以上、私は彼等に告げて次の問に対する明答を要求する、曰く一元主義をとるのか二元主義を執るのかと。這の重要なる先決問題を差し措いて合同論を語るは全然無意義である。

 次手に云つておくが、今日の世界に於て一元主義のチャムピオンは云ふ迄もなくロシアと伊太利で、二元主義のそれは英国である。資本主義が如何に憎いと云つても、凡ゆる利器を擁して堅むるその金城鉄壁は容易に抜き難い。それだけ勇を鼓し手段を択ばず遮二無二之に襲ひ掛らうと云ふ考にもなるが、又一挙に之を陥落するを不可能と諦めて、一時之と妥協協調すると云ふ考にもなる。而して協調妥協は人を安逸に誘ひ切角の闘志を鈍らすの恐れあり、従て過激派から云へば、無産階級の純真を堕落せしむる毒素として厳しく之を排斥するの必要がある。然らずとするも、斯んな遣り方が周囲に流行つては徹底的に資本主義と闘ふと云ふ自分達の立場が脅かされ又之に対する精神的支持の薄らぐ懸念が十分にある。之が何よりも恐い。そこでボルシェヴィズムは何よりも先に社会民主主義の排撃に腐心するのである。ロシアが力を極めて英国を罵倒する所以も亦之れに外ならない。然り、ボルシェヴィズムに取て資本主義を打倒するの実践的捷径は社会民主主義の克服である。多元政党主義の完全なる克服がその先決の急務である。我国の例で云つても、例へば旧労農党は先づ社会民衆党を完全に克服した上でなければ既成政党との戦にも勝つ望みはなかつたのである。そこで私は曰ふ、斯うした運命に在る者を既成政党に対する戦の為だからと云ふて合同させようと云ふのは、一体何を観て物を云つて居るのか甚だ了解に苦む次第であると。

 茲に一寸ことわつて置くが、社会民主主義と謂ふても之には広狭二義あることである。資本主義を認めないと云ふ根本的な階級的立場を執ることには左翼も右翼も変りはないと思ふ。唯当面の実際政治の懸引に於て、その階級的立場を絶対的に主張するか相対的に主張するかの差が現はれる。英国の労働党は後者の側だ。ブルジョア政党の治下に在つて依ほ之との相当の協働を辞せないからである。独逸の社会民主党は戦後に於て却て英国式に移つたやうであるが、戦前に於ては孰れかと云へば前者の例たるに近かつたと思ふ。細かく実際の事例を挙げれば多くの例外もあるだらうが、主義としては皇帝万歳唱和の禁とか宮廷伺候の禁とか又予算協賛の禁などを励行し、概して有産階級とは絶対に事を共にせざるの態度を表明してゐた。この点だけから云へば当年の独逸社会民主党が民主主義を執る者に非るは論を待たない。斯くして私は相対的にブルジョア政党の立場を認め彼等と堂々輪贏(ゆえい)を争ふと云ふ意味に於て、英国の労働党を広義の民主主義を執るものと云つて置かうと思ふ。
 絶対にブルジョア政党の立場を認めざる場合に在ても、無産階級の陣営内に於て理論上民主主義の行はるる場合のあり得ないことはない。尤もロシアではボルシェヴィズム専制の勢を馴致して一切の他の政治意見を弾圧して毫末も民主主義の行はるる余地なからしめて居るし、支那でも共産党一派を駆逐して以来は矢張一党専制で貫いて居るやうだ。彼に在ては最左翼の専制、之に在ては右翼の専制、右と左と方向を一にせざれどその一党専擅たる所以に至ては全く同一と観てよからう。而してブルジョア打倒後の無産階級独裁の政治は必ずこの形式に依るべきものかと云ふに必しもさうとは限るまい。不幸にして今日の所未だその適切なる実例はないが、例へば我国無産党界の如きは、仮りに遠からず既成政党を克服し了うせたとして、その政党関係は恐らくこの民主主義に依る協働連携を以て政権運用の常則とするのではなからうかと考へる。
 私は前に我国無産政党の政治的活動の目標としては一元政党主義を取るべきか多元政党主義を取るべきかの問題あるを述べ、又我々第三者の民衆的立場としてはその孰れの主義に加担すべきかを定めるの自由ある旨を語つた。あゝした二つの指導精神の対抗がある以上、我々は飽くまで選択の自由を主張せざるを得ず、政党自身が大衆的統一戦線論に我々を首肯せしめんとならば、彼等自身が先づ一党主義と多党主義との争論を清算して出直して来る必要があると思ふからである。
 議論は姑く措き単に事実の観測として、近き将来の我国に一党専制の無産階級独裁政治の行はれ得る見込があるだらうか。一体斯の形式の政治が如何なる条件の下に始めて行はれ得るものかは、能くロシアと支那の事情を考察すれば分る筈だ。ロシアで見事に行はれたから他の何んな処にも同様に行はれると思ふのは、北方の寒国で降る雪を南洋の熱帯でも是非降らせて見せると力むにひとしい。レーニンの遺した巧妙なる組織、之は真似も出来よう。この組織を運用する一部青年の熱意と奮闘、之もその乏しきを憂えない。たゞこの組織と人との力でロシアの如く我国でも、大衆をつかむことが出来るか否かは問題だ。日本人は必ずしもロシア人の如く無智矇昧を極めて居ない。彼等は云ふだらう、自分達こそ大衆の最も正しい代弁者なのだ、大衆の挙つて我党の陣営に来投するは分り切つて居ると。所が斯んな主観的見解に陶酔して居る自称大衆代弁者は実は此処にも彼処にも居るのだから堪らない。大衆の方は既に今まで余りに色々の立場を無理強ゐに聞かされてゐる。従てまた相当に耳が肥えても居る。ロシアの愚民と一緒になつて我国の大衆も亦漫然として鳴りものの響の大きい方へ流れて行くと観るのは飛んでもない誤算ではあるまいか。
 そこで一党専制の実現は結局見込はないとする。然らば近き将来に於ける我国無産政党界の客観的状況は、第一次的現象としては多数党併立であると謂はねばなるまい。之を与へられたる事実として考ふるに、この状勢から推して夫の無産大衆一致の痛切なる要望たる解放運動に全幅の力を輯めしむるの途は唯一つしか残つて居ない。即ち民主主義の基礎の上に立つ合理的提携乃至合同是れである。即ち各派の立場を承認し且つ相互に之を尊重しその隔意なさ公正の協議に基いて大同に合流することである。之を外にして今の無産政治運動に戦線の統一を期する途は絶対にない。民主主義の固執を分裂主義と説くは一党専制の可能を夢想する者の妄想だ。而して一党専制の可能を日本の近き将来に期待するは、疑もなく、我国政界の現実に関する著大なる認識不足を自白するものである。

                         〔『中央公論』一九二八年一二月〕