政治学の革新

 今度の戦争が、物質上にも精神上にも、非常な影響を人類の生活に与へたことは云ふ迄もないが、殊に社会生活の理想に根本的変革を与へたことは最も注意すべき現象である。中央公論が此点に着眼して各方面に起れる戦争の影響を研究せんとするは寔に時宜に適した企てゞあると思ふ。予は其中政治の方面を分担したのであるが、此点に関しては実は「国家生活の一新」と題する別の論文に於て可なり詳細に説いたから、改めて先に説き立てる程の新らしいものを有たない。依て此所には只政治即ち我々の国家生活に於ける行為の規範を論ずる政治学が、戦争の影響として如何なる根本的革新を見たか、又は見んとして居るかを簡単に述べるに止めようと思ふ。
 戦争以前の政治学に在つては強制組織としての、国家其物が絶対の価値であつた。凡て人類は団体生活即ち社会に於て初めて其生存を全うすることは云ふを俟たない。而して其社会生活を継続的に可能ならしむる所以のものは強制組織によつて秩序立てられる事にある。社会生活を此方面から観る時、我々は特に之を国家生活と云ふ。我々は日常の用語例に於て国家と社会とを混同し、国家の文化を進めるとか、日本帝国の精華を誇るとか云ふ。けれども此場合の国家は日本民族の社会生活を意味するのである。政治学で国家と云ふ時には、専ら其社会生活が強制組織に於て統制されたる方面のみを着眼しなければならない。此方面を兎や角批評したからというて日本民族の団体生活其物を兎や角云ふものと誤解してはならない。
 斯う云ふ見地からすれば我々の生活に於て最も大事なのは其団体生活の上に最高の文化を開展することであるといはなければならない。所謂強制組織も此目的の為に存在の理由がある。無政府主義者は此最高の目的の為めに邪魔になるからというので強制組織を否認する。従つて政府と法律とに依て表現さるゝ国家を否認するけれども、我々は此立場を承認しない。けれども法律と政府とを承認する所以のものは、文化的目的の達成の為めであつて、強制其事を絶対の目標とするのではない。
 けれども従来の政治学は、強制組織としての国家其物を絶対の価値とした。我々の所謂正しい立場から云つても、国家の強制権は出来る丈有効、優勢であらねばならぬ。如何にすれば強制組織を最も有効に構成し且つ運用することが出来るかは政治学上の主要なる問題でなければならない。けれども其有効なる構成と運用其事に絶対の価値あるのではない。そは何所までも或るより高い目的の手段であらねばならぬ。然るに従来の政治学は此点に於て「手段」を「目的」とするの重大なる誤謬に陥つた。如何なる点に於て此誤謬を犯したかと云ふ事は、一々此所に例を挙げて説明するの必要もあるまい。
 尤も従来の政治学が斯くの如き誤謬を犯したと云ふについては相当の理由がある。そは従来の国家生活、殊に其国際的方面の現実が、政治の理論を究むる者並びに其実際に当るもの等をして国家生活の真の理想を正しく視ることを妨げたからである。此事は別の論文に詳しく述べたからこゝに繰り返す必要はない。要するに従来の国際関係が全然無政府的状態であつて、何等道義の支配がなかつた、即ち優勝劣敗弱肉強食の殺伐なる状態であつたから、苟も自立自存を捨てない以上、各国家は富国強兵を以て差当りの理想としなければならなかつた。此富国強兵の理想が、強制組織の鞏固を以て第一の、否な唯一の仕事とするに至るは怪むに足らない。斯くして従来の政治学は 「何の為めの強制組織」と云ふ点を忘れた。否、之を考ふるに暇(いとま)なかつたのである。
 従つて段々デモクラシーの精神が起つて、専制的政治方針に反抗するやうになつても、それでも尚従来の政治学者は強制組織の有効なる構成、運用と云ふ点に執着してデモクラシーの効用を動もすれば説かんとして居つた。即ち何の為めにデモクラシーを推奨するかといへば国家の強制権を強むる為めに必要だからと云ふ。頑迷な専制主義者はデモクラシーの精神は国家の強制権を弱むると考へて居るけれども、之は誤りだ。少くとも今日の時代に於て強制権の本当の強味は民衆の承認になければならない。強制力を民衆が自分とは何の係はりのない、外よりの力だと考ふる時に国家的結束の中心点が動揺を始める。故にデモクラシーは実は本当に国家を固むる所以であると説いたのである。之は無論間違ではない。けれどもデモクラシーの精神は一つの文化的現象として、も少し深い根柢を有するものであつたけれども、其点を力説することは従来の政治学には係はりのないものとせられて居つた。
 そこで従来の政治学は我々の社会生活の本当の理想に目覚めて居る人にとつては一つの蹟(つまず)きであつたともいへる。従来の政治学の系統の中に於て多少の煩悶無しにデモクラシーは其安全なる地位を見出し難かつた嫌がある。然るに今や時勢が変つた。富国強兵は最早や国家生活の唯一の理想ではない。強制組織其物を絶対の価値と認めねばならなかつた時代は過ぎた。是に於て今後の政治学は初めて強制組織に当然の価値を認め、人類の文化的進歩向上を計る為めの一つの科学として成立することが出来るやうになつたのである。直接の研究対象たる強制組織についていはんか。従来の政治学は其推奨者であつた。少くとも其代弁者であつた。今後の政治学は其監視人とならなければならない。
 政治学の着眼点が、右のやうに変つた結果として起る一つの著しい現象は其倫理学との提携である。人文の進歩の為めに国家は何を為すべきや、強制組織は如何に構成され、又運用されべきやを論ずるものとして政治学は或意味に於て国家の倫理学であるといへる。
 政治学と倫理学との提携は従来の政治学に於て重要視せられなかつた。否な殆んど顧られなかつた。政治道徳と云ふ事が説かれないではない。けれども之は政治に関する個人の道徳を論ずるものであつて、国家の―国家機関の行為の価値を論ずるものでは々かつた。従来の政治学は富国強兵を理想とし、強制組織其物に絶対の価値を認めたから、所謂国家の為めにする事はすべて絶対の価値ありとする。此事の前には一切のもの皆頭を下ぐべきものとせられて居つた。従つて倫理道徳などは此国家の目的の為め利用すべきもの又利用せらるべさものと見て居つた。今日の政治家中に富国強兵の為めに利用すると云ふ事以上の意義を宗教、道徳、芸術等に認めて居るものがあるか。其国家的理想の極めて低劣なるに気が附かず、其事の為めには何物をも利用して倦まざらんとする謬想の極は、浪花節に頼んで所謂国民精神の陶冶を計らんとするに至る。正直なマキアベェリーは思ひ切つて、国家の目的の為めには道徳を無視すべきことを高調力説して、臆病な世間を驚かしたけれども、旧い政治学は結局茲に落附かなければならぬ筈のものである。最近の悧口な政治学者は全然倫理道徳を無視していゝとはいひ切れ得なかつたと見えて、遂に国家の為めに尽すことが最後の善なりと云ふ一種独特の倫理説を立つるに至つた。故加藤弘之先生の如きは真に国家の為めならば人を殺すも可、人の財物を奪ふも亦道徳なりと云ふ風に極論されたと記憶するが、そこまでに至らなくとも所謂国家の為めにすること夫れ自身の上に絶対の倫理的価値を認めんとするの謬論を抱くものが多かつた。
 併しながら今日の政治家は強制組織其物を絶対の価値としない。絶対の価値は個人の生活に於ても国家生活に於ても共に最高の善である。其最高の善を国家に実現せしめんとするのが我々の常に冀ふ所である。国家の為めにする事が善なのでは無い。国家をして善を行はしめねばならないのである。然らば国家の行はねばならぬ善とは何ぞやと云ふ事が問題になるが、之に政治学は答案を与へんとするのである。是れ今日の政治学が倫理学と根柢を同じうし、従つて国家倫理学と云ふを妨げざる所以である。之によつて政治学は初めて文化科学として重要な位置を占めることが出来ると思ふ。

                          〔『中央公論』一九二〇年一月〕