政界革新論  


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 議院政治の不評判に刺戟されてか、昨今政界革新の要求がチラホラと聞へる。議会堕落の叫びは近年珍らしいことではないが、其醜態暴状の著しき、今次の議会の如きはない。政友会が多数を擁して飽くまで無理を通さうとする横暴、憲政会が少数為す無きに自暴自棄して強て反対の為に反対せんとするの狂態、誰か之に顰蹙せざるを得る者ぞ。革新論の唱へらるゝも怪むに足らない。
 併し深く意をとめて観て居ると、革新論にもいろ/\の種類がある。最も虫のいゝのは、憲政会あたりから起つたかと推せらるる政局転換論であらう。つまり政友会内閣を覆せといふに外ならぬ。易々と取つて代れるものなら早く政友会を黜けたいと希望するものは、官僚畑の野心家の間にもあらうが、前記の一派は、所謂憲政常道論を真向に振翳して、後継内閣の当然に憲政会に落ち来るべきを説くのである。政友会内閣が倒れたとして、さて実際の形勢は如何なる後継内閣を現出し来るべきやは、容易に逆睹し難い問題だが、其が一部の人々の希望するが如く、憲政会に帰着したとて、果して政界革新の目的が之に由て達せられるだらうか。そは甚だ覚束ない話だと思ふ。成る程天下の人心は今や明白に政友会内閣を去つた。吾々とてもこの内閣の為す幾多の罪悪に最早堪へられない。従つて一日も早く其の更迭を望むものである。が、しかし、憲政会が代つて内閣に立つた場合、彼が難航の同じ過誤を繰り返さぬとは、果して誰が能く之を保証し得やうぞ。吾々は今更事々しく大隈内閣時代の失政を挙げまい。唯彼等の徳義と見識と手腕とに今なほ特別の信頼を置き得ざることだけは、敢て断言するに悍らざる所である。要するに政友会を前門の虎とせば憲政会は正に後門の狼にして、彼を退け此を迎ふる事に由り、政局の転換は出来やうが政界の革新は断じて出来るものではないと思ふ。
 第二の種類の革新論は、政友憲政二大党以外の政客から唱へらるる。前記二大党は政界腐敗の渦中に蠢動する当事者だから革新を語つても効がない。若(し)かず、之に属せざる者を糾合して正論を唱へ、更に天下に呼号して輿論の同情を集め、漸を以て抜く可らざるの勢力を政界に樹立するを期せんにはと。斯う云ふ思想の具体化したものが夫(か)の革新倶楽部であらう。が、吾々は不幸にして之にも革新の幾分の実現をも期待することは出来ぬ。人に依ては、同倶楽部を目して在野党大合同の目論見の出来損ひだと誣(し)ゐる。現に下院に多数を擁する政友会を無理に押し退けんとの魂胆より、玉石同架有らゆる非政友代議士を網羅せんとの策士の当て込みが見事に外れて、結局姑息無力な革新倶楽部が生れたのだといふ者もあるが、其真相は吾々には分らない。果して然うなら、之に全然革新の望を繋(か)くる能はざるは云ふまでもないが、吾々は暫く善意に之を解して、革新の熱情に燃ゆる少数政客の真面目な企てだとして置かう。夫れにしても、彼等は只之れ丈けで革新の実を挙ぐるを得べしと主張するなら、そは余りに政界今日の弊根を等閑視して居ると謂はなければならぬ。今日の政界があの様に堕落して居るに付ては、実は深い且複雑な原因がある。此事は別に説く所あるべしとして、兎に角這般の原因に手を附けずしては他の如何な方法を執つたとて容易に革新の実は挙るものではない。故に少数の心ある者が、少数ながら堅い結束をなして一致の行動を取るといふことは、国民に対する教育的効果の少らざるものあるは之を認めるが、夫れだけで直に革新の途に踏み進んだものとは謂ふことは出来ぬ。殺伐な国際競争の激甚な時代に於ける弱小国の正義公道論と同様に、無力者の悲鳴として僅に道学者流の憐愍を買ふに止り、夫れ以上目覚しい何等の具体的影響を実際政界に及し得ぬと云ふのが、彼等の不幸な運命なのである。
 もう一つの変つた革新論を、今日吾々は政党の内部から起つて居るのを見る。政友憲政の両党を通じて、幹部組織の改革を要求するの声は昨今可なり盛な様だ。一部分は既に容れられても居る。之も多少政界の弊竇(へいとう)に触れぬことは無いが、要するに今日の不完全な政治組織を其儘にしておいて只々党勢伸張を図るといふのが彼等の主眼であつて、政界の革新そのものを直接の眼目とするものではない。彼等の企図する所は、或は政党革新とは云へやう。政界革新といふは聊僭越の嫌なきを得ないやうだ。
 若し夫れ政客以外よりする革新論に至つては種々雑多なものがある。執れにしても、政界の現状に満足せず、何とか之を改めずには置けないと云ふ点は総ての一致する所である。不満足の極、遂に政治否認論にはしるものもあるが、其処まで到らざるものでも、現在の政客に烈しい不信の鋒先を向けるといふ点は、多数国民の略一致する所と観てよからう。とにかく斯う云つた様な感じの一般に行き渡つて居ることは、どうしても看逃すことは出来ぬ。政界の栄達は従来人々の多く望む所であつたのに、政客の国民侮蔑の的となる今日の如く烈しきに至れるは、甚だ奇妙な現象と謂はねばならぬ。


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 この論文は最初可なり長く書く積りであつたが、締切期も迫り僕自身にも稿を続けることの出来ぬ事情が起つたから、大要の筋道だけを個条書にして結論としておくに止める。
 (一) 前にも述べた僕の所謂政界の根本的病弊とは、各政党間の多数少数の関係が今日固定するといふ形勢に在ることである。本来政党の多数少数は―即ち政争は―国民の投票に由てきまり、国民の投票は、取も直さず其の良心の自由の判断を表するものである。而してその自由の判断の基礎となるものは、第一次には各政党の施設なり政綱なり又其の公共的貢献なりであるが、第二次には選挙時に於ける村国民の宣伝である。この宣伝は同時に教育を意味する。斯くして国民は教育され開発されて、正直に何れの党派に投票すべきやを決せしめらるる。其の結果として勝負はきまるのだ。故に政党にして勝て天下に経綸を行はんと欲せば、善い事を競うて善良なる国民の歓心を買はねばならぬ。善い事を競ふといふが、政争に於ける唯一の武器であるとすれば、政争は即ち堂々たる君子の争であり、政界は堕落する筈はない。然るに我が日本に於ては夫れが逆になつて居るから困るのだ。
 夫はどう云ふ事かといふに、政党は何等かの方法で一旦天下を取る。天下を取ると其地位を利用して所謂地盤なるものを作る。之を作るに利用さるるものは、暴力と賄賂とだ。之を以て国民を欺き、其の良心を欺瞞し、どんな悪い事をしても斥けらるる気遣はない。只怖るるは敵の陰謀によりて倒さるる事と、少しでも敵党の勢力の伸びることである。従つて政争は陰謀黠詐に依て行はるることになる。そうなるとどんなに善い事をしたつて必ず天下を取るとは限らない。従つて政界には道徳地を掃ふるに至るのである。斯くして政党の多数少数の関係は、各政党の道義的努力と全然無関係に、いはば先天的に固定する形になる。茲に政界の病根は伏するのだ。互に相対立するものが社会的に固定階級を為すとき、其間の争の極端に険悪になるのは、今日の労働問題でも明な事ではないか。
 (二) 元来政界にはかうした固定的階級があつてはならぬのだ。英国に於ける愛蘭の如き、元の独逸帝国に於ける波蘭の如き、人種を異にし利害を異にし又歴史的に反目せるものを機械的に一所にしたものに在つては、階級的に固定しても致方がない。従つてこの関係が議会に反映してかの国などは随分苦んだものだ。斯うした関係のない限り、政党といふものは本来主義政見の差に基く君子の争である外、無意義の争に無駄骨を折るべきものでない。日本の議会の様に各政党が犬猿も啻(ただ)ならざる争に没頭する国は、外に決して其例がないと思ふ。
 (三) 然らば日本の政界に斯かる不都合な現象を起らしめて居る原因は何か。之を考へるには、丁度経済界に貧富の二階級を固定的に対立せしむるに至つた原因は何かを研究するときと同じ心持になつて見るを要する。つまり制度の罪なのだ。否、最後は「心」の問題だけれども、制度を此儘にして置いては、どうしても釈(と)けぬ性質の問題なのだと思ふ。
 (四) 然らば何処に制度上の欠陥があるか。政党の地盤政策を可能ならしむる所、即是である。如何して之を改むるかの詳細なる研究は、他日に譲るとして、茲には差当り何よりも手短な途は普通選挙制の断行であることを一口しておく。
 (五) 普通選挙は此論点からのみ主張さるるものでは無論ない。併し今日の可なり鞏固な政党の地盤を確実に破り得る何者かがありとすれば、そは普選の断行の外にはないと思ふ。此点に於て、普選の断行は政界に於て革命的効果を有するものである。但し普選の断行は、政界発展の順当なる進行を妨ぐる障碍物を除去する丈のものであつて、其上果して正しき進みを実現するや否はまた別個の問題である。
 (六) 要するに、政界の革新が果してうまく出来るか否かは日本人に課せられたる一大試験問題だが、之を論ずる前提として、普選の実行は最先の急務なることは忘れてはならぬ。之を実現するまでの間、各種の革新論は畢竟砂上の楼閣に過ぎぬものである。

         『中央公論』一九二二年五月