駐箚論の先決問題

 


 長い間問題になつて居つた西伯利駐兵の一件は、廟議増兵に決して一段落が着いた。増兵ではあるけれども其目的をチェック救援と居留民の保護に置き、而して対露不干渉を根本策として、機を見て全部撤兵すべさの意思を表明した所を見ると、少くとも思想上に於ては出兵反対論が大いに顧慮された跡が伺はれる。それだけ今度の決定を見るまでには、世間には随分出兵反対の声が囂(かまびす)しかつた。吾々には出兵反対といふ事が殆ど争ふべからざる輿論といふ位にさへ見えたのであつた。
 尤も世上の反対論を仔細に観察して見ると、必ずしも絶対に出兵が悪いといふのでもないらしい。何故なれば現在行つて居る兵隊を無事円満に帰還せしめようといふ方針に変つたとしても、技術上多少増兵して万一の危険に備へるといふ理窟も立ち得るからである。それにも拘はらず世間の輿論が殆ど挙つて陸軍側の提議に反対したに就ては、其処に若干の理由が無くてはをらぬ。予の観る所に拠れば、第一の理由は軍閥の盲目的侵略主義に対する疑である。第二には軍閥の提唱する増兵の敢行は、結局露国の民衆を敵とするに終るべきを考へたからである。露国の将来は如何にいても貴族官僚の手に還る気遣ひは無い。よしんば過激思想が結局露国に於て確立し得ざるべしとするも、之に反対するの政策を飽くまで遂行せんとすることに依つて、過激派ならぬ民衆までも敵とする惧れはないか。少くとも西伯利に行つて居る軍事官憲は、過激派と反過激派との区別さへ十分に弁へて居ないやうだと云ふのが世間一般の疑惑である。其結果として第三に世間では増兵は勿論駐兵の現状を維持することすら、日露関係の将来に取つては非常に不利益だと考へる。此等の理由に依つて増兵反対論が矢釜しく唱へられる。甚だしきは無条件撤兵論さへも相当力強く主張さるゝといふ有様である。
 けれども前にも述ぶるが如く、国民は必ずしも絶対に増兵を不可とするものではない。場合に依つては一時多少の増兵を行ふの必要もあらうとは、我々ですら考へて居る。唯此際我々の最も明白に知らんと欲するのは、其増兵の真の理由と真の目的とである。之れさへ明かになれば我々は固より軍閥の提議だからとて、一から十まで反対せんとするのではない。けれども当の提議者は唯増兵の必要を説いて、真の理由と目的とを明かにして呉れない。偶々之を説いても全然我々の納得し得ざるもので、加之、時々又説が変はる。斯くして我々は提議者の誠意を信じて、之に満腹の同意を与ふる事が出来なかつたのである。故に予輩一人の態度としては必ずしも増兵に絶対に反対する者ではないけれども、理由が分らないから賛成が出来ないといふ形になる。而して今度いよ/\廟議増兵に決したが、之に対しても依然賛否の決を明白にする事が出来ない。
 唯今度の増兵が従来世間に唱へられて居つた所と異り、其目的を今尚ほ西伯利に駐屯して帰国の期を待ちつゝある数万のチェック兵を救援する事と、最近著るしく増加した日本居留民の生命財産の保護といふ事に限つた。之れ以外に目的が無いのだから、早晩之が達せられさへすれば我々は直ちに撤兵して、妄りに他国の内事に干渉せざるの態度を明かにする事が必要になる。此目的を達する為めに増兵が必要であるか何うかは技術上の問題であつて、一寸我々には解り難いが、唯之れからの運用方法さへ宜しきを得れば、蓋し我対西伯利政策は大いなる誤なしに進み得べきは明かである。そこで我々は一旦斯うと定まつた以上は、西伯利増兵の是非を論じても始らないから、唯之れが如何に運用せらるるかを監督する事が肝要であると思ふ。
 之に就いて我々は先づ先決問題として、次の二点を十分に念頭に置く事が必要であると考へる。
 第一は過激派を世界の公敵と観るのが正しいか否かをもつと冷静に反省する事である。所謂過激派思想とは何ぞや、所謂過激派とは何ぞや、是等に就いて明瞭なる研究無しに直ちに之を敵視するのは軽卒である。少くとも我々と反対の立場に在るものを、漫然過激派の悪名を以て呼ぶことはないか。過激思想は憎むべく、過激派は排斥すべしとするも、我々は過激派と然らざるものとを正当に区別し、真に敵とすべきもののみを敵として居るか何うか、此点を先づ考へて見る必要がある。
 第二には西伯利に於ける所謂帝国の利権なるものに執着して対西伯利政策の大本を誤まらざらんことである。西伯利に於ける軍事官憲の保護の下に活動する所の幾多の実業家は、金に渇して居る彼地反動政治家の口車に乗つて莫大の資本を投じて幾多の利権を得たと聞て居る。是等の利権が日本の将来の発達に取つて極めて有益なものである事はいふまでもないが、然し之を獲得するに就ての手段方法に誤りがあつたが為めに、実は十分確実なものと成つて居ない。畢(つま)り是等のものはコルチャックとかセミョーノフとか、ああいふ連中が金に困まつた結果我々に呉れたものであるから、我々の所謂利権は是等の反動政治家が結局政界の主人公と成るといふ条件に於てのみ確かなものであつて、若し昨今の形勢のやうに西伯利の全権が民衆の手に帰するといふ事になると、我々の是れまで獲得した利権の運命も亦知るべきである。即ち民衆からそんなものは知らないと云はれても我々から特に之を強く主張することも出来ない。之れでは結構な利権を沢山得たいといふ希望の下に、コルチャックやセミョーノフらに遣つた金は一文にもならない。之れを何うするかといふことが、実に二重の意味に於て相当に大きい問題だ。一つは原本の運命に就いて、又一つは利権の運命に就いて。けれども之れが惜しいからと云つて大勢に逆行し、何処までも頼むべからざるものを立てるといふのが、果して賢明な策略か何うか。金は惜しい、けれども之を惜んで誤つた政策を押通すのは、将来に向つて更に大いなる損害を我々に加ふるものである。
 我々一般国民の冷静なる客観的見解に従へば、他国の内政に不当な干渉をするのは、何時如何なる場合に於ても正しくないから、結局に於て撤兵を敢行せねばならない、とは思ふが、唯目前の所、何時頃まで駐兵してゐなければならないか、又増兵の必要あるか何うか、是等の点は詳しい技術上の説明を聞かなければ解らない。唯我々の明白に断定し得る点は、今日世間に行はるる駐兵論並に増兵論の中には、国家永遠の利害よりも、官僚軍閥としての、又は実業家閥としての階級的利害の打算に基くものが少くないといふ事である。我々は軍人の体面や資本家の投じた金やを顧慮する前に、先づ軍閥財閥の意見に従つて西伯利問題を決定するのは真に国家の為めになるか何うかを考へねばならぬと思ふ。

                               〔『中央公論』一九二〇年二月〕