露国の敗北は世界平和の基也


◎日本は何のために軍備を拡張したりしや、露国に備へんがためなり。英国は何のために威海衛を占領したりしや、露の旅順占領を制せんがため也。露国の満洲経営は日本をして自衛自存のために大に軍備を拡張せしめたり。而して露と日本との武力的対抗は東洋に利害の関係を有する欧米諸国をして自家の利権を保護する為めに幾多の兵力を東洋に送らしめぬ。為めに東洋の平和を暗憺たらしめしこと如何斗りぞや。露国若し敗北して満洲以外に手を収むるときは東洋の諸国は更に一層の平和的進歩を見るべきこと疑を容れず。
◎近世欧洲の政治的進化の跡を見るに、専制時代より民権論時代に移り(求心より遠心に)、今や個人の充実を基礎として鞏固なる団体的権力を樹立せんとするものゝ如し。独り露国は主義として今尚専制の政治を固執し、大勢趨行の当然たる自由思想の勃興をば強て圧抑して仮借する所なし。故に人民は皆暗愚にして少しも文明の光を仰ぐを見ず、少しく心ある者は政府の忌諱にふれて遂に塗炭の苦をなむること、吾人之を伝聞して同胞を憐み政府を憎むの情に堪えず。露国は実に文明の敵なり。今若し露国日本に勝たん乎、政府の権力一層強く圧制益甚しからん。幸にして日本に敗れんか、或は自由民権論の勢力を増す所以とならん。故に吾人は文明のために又露国人民の安福のために切に露国の敗北を祈るもの也。
◎専制政治は武断政治侵略政治なること歴史の証する所にして又露国の実例の之を示す所なり。露国の侵略主義は夙に欧洲各国の恐懼措く能はざる所也。英国はために艦隊を整備し、印度波斯に備ふるの必要あり。独襖は其境を侵さるゝの心配よりして常に兵備を弛うするを得ず遂に三国同盟を結ぶに至れり。独の兵備を修むるはまた仏国の堪えざる所にして彼亦大に兵備を修めざるべからず。一波万波を生じて露の侵略主義が欧洲の平和を破ること斯の如し。若し夫れバルカン半島に於ける露の野望が如何に東欧の天地を擾乱せしめしかは更に説くを須ゐざる也。所謂武装的平和とは実は平和が露国に威嚇せられたる状態をいふに外ならず。今若し露国にして日本に敗れん乎、露国は多少其力を損ずべきを以て一時欧洲の禍根は去らん。而して漸次自由民権論が国内に勢力を占むべきが故に、専制に代るに立憲となり、対外政策の方針は二三当局者の野心に制せられずして国民一般の輿論に支配せらるゝことなるべく、而して複雑なる国民的利害の関係は軽々しく干戈を取らしめざるべきを以て、茲に始めて露国は近世主義の政治をなし、欧洲の平和始めて真に期せらるべき也。
◎要するに吾人は徒らに露国の滅亡を望むものに非ず。只彼をして世界の平和を害するの政策を捨てしめんと欲するのみ。而して日露の開戦は種々の点に於て彼を反省せしむるの好機なるが故に吾人は先に世界平和のために彼の敗北を祈るのみ。
◎露国民は固上り種々偉大なる長所あり、而して此長所は文明の洗礼を受けて更に大に発揮せらるべきもの也。此無類の利器を蛮用するは惜むべし。吾人今回の戦に於て彼に一撃を加へ以て彼をして反省する所あらしめ、更に彼を啓発し彼をして平和の偉人として文明に貢献せしむるに至らば、吾人の責任も決して軽からずといふべし。吾人は文明に付する義務として露国に勝たざるべからず。私に思ふ露国を膺懲するは或は日本国民の天授の使命ならんと。(翔天生)


                          〔『新人』一九〇四年三月〕