国民は果して政治に冷淡か

 今度の政戦に於て国民が何時になく冷淡だと云ふが、此事実は予輩も認める。が之を証拠として国民の政治的智識が相当に進んだと思つたのが誤りであつたと断ずるものならば予輩は之に服し得ない。予輩は寧ろ今日の国民は公けの問題に対して非常な興味を有つて居る。政治上の一波一動が自分達の生活と非常に深い関係のあることを熟知して来た。彼等は如何に此等公けの問題について其真相を知り、又公平なる批判を聴きたがつて居るかは演説会の繁昌、政論雑誌の売行等に観ても明かだ。政治問題に対する正確ななる智識の獲得は今や日に/\増進しつ、ある国民の熱求と云つていゝ。然るに現今の政界は言論に於ても又実際の施設に於ても之に満足を与へてゐない。今日の政治家の為す所云ふ所は、殆んど国民の生活と関係なき閑問題に齷齪して居るの観がある。それもその筈だ。前項一高官の云ふが如く彼等の所謂政治は我々の云ふ政治と丸で方角が違つて居るから、どうすれば官僚が収まるか、どうすれば軍閥が収まるかと云ふやうな事が政治家にとつての大問題だとすれば、此等の問題を中心とする政戦に国民の興味を感ぜざるは云ふを侯たない。政治家の主として関心する所は、如何にして自家の勢力を維持せんかである。国民の専ら関心する所はいはゞ一般の国利民福である。彼等は此等の現実の問題に多大の興味を有して居るから、それ丈け空な政戦に巻き込まれる程軽佻浮薄ではない。政治に興味なきが如く見ゆるのは所謂政治家の言説に何等聴くべきものがないと見極めをつけたからである。政友会領袖某憲政会幹部某の説なんど云ふものは近頃の有力な政論雑誌から跡を絶つた。演説会をやつても此種の顔触れでは聴衆が無い。之を以て国民の冷淡を断ずるのは井蛙の見に過ぎない。国民は今や非常な興味を公事に感じて居る。而して政治家の所謂政治は彼等の関心する公事と何等の交渉が無いと云ふ風に考へしむるのは果して幸福かどうか。所謂政治にして恃むべからずんば、人は遂に公事の解決を直接行動に訴へんとするに至るだらう。果して然らば危険思想の醸成は此等蒙昧の政治家の罪と云はなければならない。

                       〔『中央公論』一九二〇年五月〕