露国の前途を楽観す

      (一)

 露国の前途の観測について我国の論壇には悲観論が多い。否な、殆んど全部が悲観論と言つてよい。恐るべき外難を扣へて居りながら、内部の状態が混沌として更に帰する所なきを見ては、悲観説の唱へらるゝも尤もである。五月初めにはクロンスタットの独立があつた。七月の央にはウクライナの独立要求があり、つゞいて数日の後フィンランドの独立宣言があつた。之に加ふるに中央に於ては一方には過激派、他方には反動派の辛辣なる陰謀を逞うして極力政府顛覆を計るものがある。戦線の士気至つて振はず、九月三日にはリガの陥落を報じ、独軍長駆して露京を衝くの日なかるべきかを憂ふる者あるに至つた。斯くして露国の前途を悲観せざらんとするも得ざるのである。
 併しながら露国の前途を観察するに方つて、動もすれば、我々の看過せんとし、而かも決して看過するを許さゞる点が二つある。第一は内部の状態が紛乱に紛乱を重ねて居る様に見える中に、自然に大勢の帰嚮の歴然たるものある事である。換言すれば、中央の政界はケレンスキー及び其一派を中心として漸次堅まりつゝある事である。凡そ革命後の政界の暫らく紛乱を重ねて容易に帰嚮する所の定まらざるは、何処の国に於ても通有の現象である。仮令対外的国難は内部の紛乱の収拾を急がしむる傾向ありとはいへ、社会諸勢力の安定の為に数年の歳月を要するは当然である。独り露国が革命後半歳を経て内部の統一其緒に就かざるを怪むべきでない。況んや露国は此短日月の間に、略ぼ何れを中心勢力として政界の安定を見るべきやの意、極めて朧ろげながらつけつゝあるに於ておや。我々は固よりケレンスキー並びに其一派が結局露国政界の中心勢力となり了せるか否かを予言する事は出来ない。けれども彼は初め臨時政府に法相の地歩をとり、やがて陸相となり、又首相となるの間に於て、漸次無政府主義的過激派と戦つて大いに其勢力を打破するに成功した。所謂レニン一派の運動なるものは革命後一二ケ月の間頗る勢力を有つて居つたが、彼は常に之と戦ふに余力を残さず、殊に七月央ば此派の首都に騒擾を起しやがてルボツフ公に代つて首相の地位につけるを機とし、更に彼は内に於ては高圧政策を以て過激派に望み、外に於ては一時国境封鎖を宣言して此派の運動員の外国より流入するを防ぎ、以て国家の統一を阻害する有害分子の掃蕩に努めた。此政策は今日まで大体に於て成功しつゝあると言つてよい。併しながら彼の政策に対して紛々たる非難を加ふる者は独り過激派のみではない。彼のよつて以て根拠とする所の社会主義者の間にも少からずある。蓋し彼は穏健的社会主義を有つて居るに対し、所謂社会主義諸党の中には彼を以て余りに右的なりとする者があるからである。併しながら彼の堅忍不抜の意志と、其一点私心を交へざる赤誠とは、彼をして深く彼等諸党の意嚮を顧慮する事なくして自由に奮闘するを許して居る。八月六日彼は内閣組織の困難を口実として一旦辞意を決したが、彼の外に此難局に当るの人材なしとして強いて留任を求めらるゝや、彼は再び政柄を秉つて内閣組織を決行した。而して閣員は民主党たると社会党たるとを問はず、当分其党議に拘束せられず、其属する政党に対して責任を負はざるべきの宣言をなした。此宣言が何れ丈け有力なりやは、時の勢によつて自ら異る所あるべきも、要するに彼が紛々たる議論を超絶して自由に其手腕を振はんとするの意気に対し、甚だしく之に反抗する者なかりし事丈けは明白である。尤も所謂労兵会はケレンスキーの此態度に対しては反対であつた。故にケレンスキーが自己の政府の後援を国民的基礎の上に置かんが為め、モスコー国民議会の開催を唱道するや、現政府の唯一の後継者を以て任じて居つた労兵会は盛んに之に反対し、其過激なる分子に至つては後開会の当日、労働者を煽動して同盟罷工、示威運動等を行はしめ、以て極力会議の進行を妨げんとして居つた。之より先き政府が七月十七日の露都騒擾に対し、政府が高圧手段を以て之れに臨まんとした時にも、労兵会は高圧手段を政府に認むるの交換条件として共和制の即刻の宣言、農相の土地制改革案の実施、国民会議開の中止の三件と共に政府は須らく労兵会に対して全部の責任を負ふべき旨を要求した。以て労兵会の政府に対する態度を見るべきである。併しケレンスキーは此要求を容れもせず、又事実其要求に服従して居ないが、又全然労兵会を無視して居ない事は論を俟たない。なぜなれば、労兵会とても亦彼に於て自家団体の意見を実行すべき好個の代表者を見出して居るので、彼によつて労兵会は実際政界の偉大なる勢力たるを得るのである。従つてチヘーゼの指導するところたる労兵会一派の議論は、ケレンスキーの政見と正しく一致するところあるにあらざるも、又両者は不即不離の関係を持続して居ることは見逃すべからざる事実である。ケレンスキーの如き人材を欠かば、政府或は労兵会の傀儡となり了つたかも知れないが、兎に角ケレンスキーあるによつて、今の露国政府は労兵会の政府にあらずして露国の政府たりといふ権威を略ぼ立て得た事は之を認めねばならない。若し夫れ革命政府にとつて最も恐るべき反動派の勢力に至つては、コルニロフ将軍の失敗によつて測らずも大打撃を之に与ふるの好運に際会したと言つてよい。革命匆々の事とて暫く鳴を鎮めて居つたとはいへ、流石古い君主国丈けに保守的反動派の隠れたる勢力は、決して軽視すべからざるものと見なければならない。革命後の政界の紛乱に乗じて、此等の反動派が頭を擡げ、為めに屡々政界の進歩を逆転せしめる事あるは多くの国に於て経験せるところである。此若き経験は、恐らく露西亜に於ても必ずや一度は嘗むべきものであつたらう。然るに幸にして反動派の頭を擡ぐべき機運の到来に先つてコルニロフ将軍の蹶起あり、而して之の失敗に連座して多数の反動主義者がそれ/"\の処分を受けたのは、啻にケレンスキーに取つて僥倖であつたのみならず、臨時政府の前途を著しく平坦ならしむるものである。コロニロフ将軍がルボツフ公を通じて内閣の譲渡しをケレンスキーに要求したのは九月九日である。此種反動的の騒動あるべしとの噂は、莫斯科会議の閉会以来、殊に九月初旬に於て盛に流布せられて居つた。而してコルニロフ将軍の立つあるに及んで、ケレンスキーは直ちに之を拒絶するのみならず、且つ此等の運動に対しては叛逆者として厳重に所罰するの決意を示すに及び、天下の大勢は忽ちにしてケレンスキー内閣を支持するに決した。之れに依つてケレンスキー内閣の権威は更に一段の重きを加ふる事になつたのである。
 第二に考へねばならぬ点は、社会主義にかぶれて居る露国民の多数が自家階級の利害を考ふるに急にして、目前に迫れる国家的大難を深く顧慮せざる点を、我々日本流の思想で一概に之れを非難するは必ずしも当らないといふ事である。国家の為めには何事を措いても全力を捧げよと云ふのは我々日本人の最も重きを置く道徳で、之れあるが故に日本国民は其国の小、人の寡を以て能く強国の面目を保ち得るのである。併しながら西洋の、殊に労働者階級、就中其社会主義にかぶれて居るものゝ間には、啻に斯の如き思想の旺盛でないのみならず、寧ろ斯の如きは排斥すべき思想と考へられて居る。彼等は動もすれば人道を云ふ。人道の前には国家的道徳の如きは第二義第三義のものとせられて居る。「労働者に祖国無し」とは彼等の誇を以て主張する所である。斯の如き考の善いか悪いかは姑く之を別問題として、兎に角是等の連中に、国家の目的に其尊しとするものを捧げんことを期待するは、抑も期待するものゝ誤りである。仮令其説の根柢が謬つて居るにせよ、彼等は戦争を以て資本家階級の利益の為めにする事業であると考へて居る。資本家階級が国家の運命を左右して居ればこそ戦争がある。労働者の天下になれば戦争は有り得ないといふのが彼等の金科玉条である。斯う云ふ思想の人々に戦争遂行の為めに全力を捧げしむる事が出来やうか。彼等の斯の如き態度が結局露国を如何なる運命に陥れ、彼等自身も亦之れによつて大いなる不利益を被る事なきかは、我々の彼等の為めに憂ふる所であるけれども、彼等自身の立場から云へば、国家防衛の名の下に資本家の為めにする戦争に従事するよりも、彼等自身の利益に取つてもつと重大なる問題があると考へて居るのであらう。故に露国民が今日の困難に方つて内争に紛々たるは、彼等の立場からすれば、彼等の最も大切とする問題の為めに狂奔して居る所以であつて、階級的利益の為めに国家の大事を忽諸(こつしょ)にして居ると罵るべきでない。暫く小異を捨て、挙国一致して外敵に当るを急務とすべしといふのが、我々の立場からする判断である。而して我々の立場から云へば、国家的精神の欠乏は多く民心頽廃の結果なるが故に
我々と思想の根柢を異にする国民に就ても、我々は動もすれば此両者の間に必然的関係を認めんとする。併しながら露国民が国家的問題を第一義とせざるは、必ずしも民心頽廃の結果と見るべきではない。況んや彼等は前にも述ぶるが如く彼等自身の立場より見れば、其主義並びに確信の為めに傍目を振らず奮進努力して居るを見るに於ておや。彼等を以て其最も重んずべしとする事を取違つたと責むるのは妨げない。彼等が目前の利害に追はれて何等高尚なる目的の為めに尽くすの誠心を失つたといふは恐らく大いなる謬りであらう。



      (二)

 革命後の露国の政界には各種の勢力が勝手に横行して、殆ど統一する所なきが如く見える。併し斯の如きは革命後の政府に於ては何処の国でも致方がない。而かも其間に於て社会主義の一派が斬然頭角を現はし、漸を以て一般民衆を率ゐんとするの概あるは、寧ろ革命後の恢復力に於て露国民の他に優るものあるを思はしむるの一例になると思ふ。要するに今日並びに近き将来に於ける露国政界の中心勢力は、広義に於ける社会党である。従つて此党が革命後如何にして其勢力を張り、又如何なる主張を以て国民を導き、又如何なる態度を以て他の外国と交渉し来りしかを見るは、即ち露国の将来を見る所以である。
 一体旧政府を殪した勢力は下層階級を根拠とする所謂社会党ばかりでない。中産階級を中心とする所謂自由派も亦有力なる一原素である。自由派と社会党派とが共同の敵を残す為に、革命の実行に一致したのである。従つて革命後の臨時政府は此両派の相寄つて組織する所であつた。然しながら此両派はもと凡ての問題について其政見を同じうするのではない。故に共同の敵を残すといふ消極的目的の為めには一致しても、革命後の政治を経営すると云ふ建設的事業に於て意見の岐るゝは止むを得ない。果せる哉此両派は間も無く戦争の継続について、激しく意見を異にする事になつた。何となれば自由派は英仏諸国に共同して、依然最後まで戦争を継続すべきを主張するに反し、社会党は戦争の目的は自衛以上に出づべからず、侵略の目的を以て戦争するは常に文明並びに人道上の最大罪悪でありとなし、而して此目的を否認せんか、一挙して一般的平和を齎らし得べきを主張して、直接に戦争の継続を予想する凡ての施設に反対せんとした。斯くして革命後の臨時政府は差当つての最も重大な問題、即ち戦争に対して如何なる態度を取るべきかの問題について二派相争ふ事となつた。而して社会党が斯の如き主張を取るは、社会主義平素の主張に照して毫も怪しむを須ゐない。然しながら宮廷一派の親独的傾向に反対して起つた革命なるに鑑み、其革命の指導者から戦争継続反対論を聞くとは各国の予期せざる所であつたに相違ない。協商国が革命後の露国政府が前よりも一層の熱心を以て戦争の継続に尽力すべきを予想した事は、英仏が三月十八日を以て早くも革命政府を承認し、米も亦廿四日之に傚つた事を以ても明かである。当時英仏は暗に革命運動を助けつゝありといふ風説すら行はれた程である、然るに今や彼等は戦争の継続を無条件に承認せざらんとするの態度を取る。而して偶々其間に無政府主義並びに独探運動などがあつて、無智の下層階級を煽動して独逸と和せしめんとするの隠謀も行はれたので、露国政府は一転して単独講和を希望するものではあるまいかと云ふ説さへ行はれたのである。併しながら之は皆露国の社会党を知らざるの誤解に出づるものである。彼等の期する所は初めより一般的平和を以て終始して居る。一般的平和の促進に妨げあるが故に、先に彼等は宮廷の親独傾向に反対した。何を苦んで再び単独講和の説に迷つて当初の素志を抛棄すべき。彼等は一般的平和に熱中するが故に、英仏に同じく戦争の継続を説かない。戦争の継続を説かざるは、必ずしも独逸と単独講和を為すに意有るが為めではない。単独講和に意無くんば、徒らに講和論を流行せしめて、戦線に於ける士気の頽廃を招致するは避くべきではないかといふのは、我々の議論である。如何なる憂ふべき結果を生じようが自家の主義は隠す所なく明ら様に之を主張すると云ふ一本調子は、由来社会党の特色である。是に欠点もあるが又長所もある。目標を睨んだら最後、傍目も振らず突進して全然左右を顧みないといふ所に、兎も角も我々は露国社会党の溌剌たる元気を認めねばならない。
 臨時政府は社会党と自由派との相寄つて作くる所なるは前述の通りである。併しながら此革命政府の後援となつて居る民衆の大部分が、社会党若くは社会党系のものたるは言ふを俟たない。而して此等の民衆的勢力は前述の如き社会党の主張を掲げて、其承認を政府に求めて止まない。此種の要求の初めて現はれたのは三月廿七日で、其結果政府は止むを得ず所謂戦争目的の宣言なるものを発表したのは四月十日である。社会党は国内に於ける宣言のみを以て満足せず、更に之を同盟諸国にも通告し、所謂非併合・無賠償の主義に各国を承認せしめて、茲に一般的平和の到来を促さん事を主張するに及び、政府は五月一日此要求に押されて戦争目的に関する露国政府の所見を同盟各国に通告したが、其際露国の所見は同盟諸国の今日まで宣言せる所に表はれた目的と深く異るものではないと云ふ附け加へをした為めに、民衆は大いに憤慨し一大騒動を露都に現出した事は曾ても述べた通りである。斯くて五月の央には陸相外相の辞職によつて自由派の有力者は退き、臨時政府は殆ど社会党を以て占領する所となつた。而して社会党の優勢を占むる臨時政府は更に一歩を進めて、協商諸国に密約改訂の要求を以て大いに肉迫する所あつたのである。
 社会党は非併合・無賠償を金科玉条として、断じて侵略的目的の戦争を否認して居る。之れ一般的平和の促進を妨ぐる唯一の原因であるからである。然るに現在の戦争は其起源が何であるにせよ、又当初之れを起した目的が何であるにせよ、少くとも聯合国が戦争の継続によつて達せんとする所の目的の中には、併合と賠償との二大利益を含んで居る事は疑ない。之れ協商国の間に共同作戦の歩調を一にする為めに締結せる秘密条約の定められる所にして、而して革命後社会党は是等の秘密条約を手に入るゝことに依つて此事を知つたのである。斯くして社会党は英仏諸国に向つて我々の戦争目的の中には侵略の意味が含まつて居るではないか、之を我々から卒先して抛棄するに非ずんば、平和の克復が永久に望まれないと主張するのである。之れ密約改訂の説ある所以である。露国政府が此希望を以て同盟国政府の内意を探りつ、あるといふ報道は、五月の未末已に我々に伝へられて居つたが、六月十六日に至り遂に外務大臣テレスチヱンコーの名を以て「臨時政府の交附したる戦争の目的に照し、各国間に現存する条約を調査するの目的を以て聯合国間の会議を召集せん」ことの通牒を発するに至つた。此露国政府の希望は未だ十分に聯合諸国の容るゝ所とならざるも、兎に角彼等が飽くまで目的の地に突進するに勇なるを想像する事が出来る。

     (三)

 以上の如き露西亜の態度には差当り英仏は大いに困つたやうである。何故なれば平素正義公道を口実とする協商国は、形式上難のない露国民の意見に表面から反対する事も出来ない。又強いて反対すれば露国の同盟より分離し去るを恐れねばならぬ。さればと云つて露国民の言分に全然賛成する訳にも行かないからである。而して一方露国に於ては其決心は牢乎として抜くべからず、同盟の誼は重んずべしと雖も主義に殉ずるは更に重んずべしといひ、英仏にして我々の主義に賛成せずんば、我等は自由行動を執るの止むを得ざるに至るべきを説いて居る。中には何の必要あつて我々は英仏の侵略的目的を達する為めに戦争せざるべからざるかと憤慨するものも少からずあつた。是に於て英仏側は露国民の言分に屈して、不得要領の講和を為すに甘んずべきか、又は露国の離反を厭はずして当初の素志を貫徹するに努むべきか、二者其一を選ばなければならぬ事になつた。0併し流石は英仏である。彼等は一挙に問題を決定して、黒に非ずんば白とノッピキならぬ関係に問題を片付けて了ふ拙策には出ない。彼等は此問題を決定するに暫く時を与へ、其間にいろ/\策略を運らさんとして居る。唯、彼等の苦心はかたくななる露国の社会党を動かして、其頑強なる態度を改めしむる事を得るや否やが一つの問題である。
 英仏が戦争の目的に関して当初の意思を変ずるの意なき事は極めて明白である。彼等はプロシアの軍国主義を打破する事を以て終局の目的とし、更に戦後に於ける永久平和の保障の為めに多少の領土と賠償を敵国に求むるを必要なりと認めて居る。此点に於て独逸の譲歩を見ざる以上は何処までも戦争を継続せんと欲するものたる事は疑ない。如何に露西亜の歓心を得んと欲すればとて、此目的を棄てる訳には行かない。此目的を棄てる位なら、初めから露西亜と協同して戦争を初むる必要も無いのである。此点は動かないが、併し実際上今露西亜に離れられては、戦争の遂行上大いなる齟齬を来たす。戦争の目的を達する為めには是非共露西亜の協同を必要とする。故に戦争の目的を遂げると云ふ事と、露西亜を同盟国として連れ立つて行かうといふ事とは両立し得べからざるものながら、尚両立せしめて行かねばならぬといふ所に協商国側政治家の苦心がある。此等の苦心の結果であらう、或時は露国を威嚇して見た事もある。五月初旬亜米利加の新聞に露国が若し協商国に負(そむ)くならば、日本は即ち協商国の為めに露国の背後を衝くであらうといふ説の如きは即ち之れである。こんな事に利用された日本は甚だ迷惑であるが、然し已に国家防衛の必要を第一義と見做さざる露国の民衆に取つて、斯の如き威嚇は何の効も奏しなかつた。此威嚇の結果として現はれた唯一の産物は、露国民衆の排日思想のみに過ぎない。かゝる下らない策略を外にして、英仏側の露西亜に対して執つた策略の一つは、戦争の目的に関する宣言の連発である。
 露国の政府並びに社会党が戦争目的を宣言するや、他の諸国に於ても社会党員などから、一体何の目的の為めに我国も亦戦争に参加して居るのかを問ふものがあつたので、二政府は勢ひ之に応じて戦争目的の宣言を発表せねばならなかつた。併し政府の戦争目的に関する宣言の発表は、啻に此理由にのみ基くものではない。是等諸国政府の此点に関する意見を、暗に露国の政府並びに国民に向つて宣言するといふ意味を含んで居るものである。而して是等の宣言に表はれた所に拠ると、彼等は主義に於ては露国と同じく非併合・無賠償の原則に賛成であるが、併し非併合・無賠償といふ文字の意味の取り様によつては、必ずしも露国の所見と一致するものではないといふに帰するやうである。例へば米国大統領ウィルソンは非併合といふ文字が「住民の為めに公正なる生活及び自由を確保する目的以外には決して他国の領土を侵さない」といふ意味ならば賛成であり、又無賠償といふ文字も「明かに非行と認めらるゝものに対して賠償するものの外には絶対に要求せず」との意味ならば賛成であると述べ、更に「戦争の目的は独逸軍国主義の剿滅にあり、之れが為めには先づ独逸の已に犯せる非行を矯正し、更に其隠謀の由つて発する機会を永久に絶滅するを要す」と説いて居る。英国に於ても社会党の名士スノーデンの要求に対しセシル卿の答弁する所に拠れば、英国は決して侵略の目的の為めに戦争するものではない。而して白耳義、セルビア、北部フランスの独軍によつて加へられたる損害の賠償を求むるは懲罪的意義の賠償にあらず、又不当に外国によつて虐げられたる地方即ち波蘭、アルサス・ローレン、伊太利イルレデンタの恢復は併合にあらずと説き、更に一歩を進めて外国の暴政に苦む民族に自由を与ふるの大義を名として「独の毒手を免れたる異民族」を再び独逸に委すべからざるを説きて、既占殖民地の保持を説けるが如きは最も注目するに足る。同じ様な説明は五月の末仏国に於ても亦時の宰相リボーの口から発せられた。之に拠つて見れば、協商諸国は文字の上に於ては露国の主張に賛成して、其顔を立てゝやりながら、事実に於ては彼等の宿望をして露国をして承認せしめんとするものである。此見解に対して露国は決して譲歩する所なかつた。何故なれば彼等は戦前の状態に恢復するを以て所謂非併合・無賠償の原則の根柢となし、之れにあらずんば一般的平和は、之を促進するに由なければなりと主張して居る。若し此方面に於て英仏側と露国側との間に意見の一致を見た点ありとすれば、そは所謂民族自定主義のみであらう。虐げられたる少数民族の自由を保護すると云ふ点は、露国側の必ず反対し得ざる主張である。其処で戦前の状態に恢復すると否とに係はらず、問題となつて居み思族の運命は、其民族自身をして之を決定せしめようといふのである。此主義に拠れば大体に於て英仏の希望は達せられる。露国の社会党は英仏側の希望の達せられると否とは其問ふ所でない。帰する所は主義の一貫のみにある。従つて民族自定主義は又彼等の喜んで賛成せる所である。現に此主義が立つて、彼等は七月の下旬已にフィンランドとウクライナに対して、或意味の独立を認めたのである。併し是等の点を外にしては露国民の戦争目的に対する態度は、未だ頑として一歩も英仏に譲る所はない。主張其物の是非善悪は姑く之を問題外に措く。唯其毅然として所信に忠実なるの態度を見て、我々は露国民の容易に侮るべからざるものあるを思ふものである。
 英国側の取つた策略の第二は、名士を派遣して露国国論を動かすといふ事であつた。外交的手腕によつて露国政府を動かさんとすれば、其背後の勢力たる社会主義的民衆の見解を改めねばならない。此目的の為に英吉利は政界の元老にして労働党の領袖たるヘンダアソンを送つた。仏蘭西は之れ亦見識声望兼ね備はる所の社会党の名士トーマーを送つた。白耳義は又同国労働党の首領にして、万国社会党同盟の総指揮官として世界的の名声あるヴァンデーヴェルトを露京へ送つた。世界の社会党中に普く之れを捜すも、才徳声望に於て恐らく此三氏の右に出づるものは余り多くあるまいと思はれる。此三名士は六月より七月に亙り、露京に会して同国社会党の名士の間に奔走し、勧説大いに努むる所あつたやうだけれども、結局に於て何等の効果を奏せなかつたやうである。之れによつて見ても、露国社会党の態度の如何にも牢乎たる点が思はるゝのである。徒らに頑迷なのではない事は、彼等の為す所に初めから一貫した主義の流れて居ることによつて、略ぼ之を察することが出来る。

     (四)

 革命政府は創立以来絶えず動揺があつた。五月の央には自由派の有力なる名士が去り、七月の央にはルボツフ公の退隠によつて政権全く社会党に帰し、八月上旬政変によつてケレンスキーが政界の首脳となつたけれども、彼自身の勢力の根抵は尚未だ確定せず、八月の下旬莫斯科国民会議によつて、自家政権の基礎を国民的根拠の上に置かんとするの計画も十分に成功しなかつた。却つてコルニロフ将軍の人気彼を圧して、反動的傾向の盛んならんとするを憂へしめた程であつたが、機熟するに先つてコロニロフ将軍の政権を奪はんとするの隠謀あり、九月央針以て漸くケレンスキーを中心とする政府の権威は確立しかけたやうである。併し其果して確立せりや否やの未だ明かならざると共に、全体として中央政府は之れまで甚だ動揺常なかつたと見なければならない。併しながら如斯は社会党中の如何なる方面に勢力の帰すべきやの決定の為めに行はれたる動揺にして、社会主義が革命露国の指導的中心であると云ふ主義は、五月央より今日に至るまで一貫して些の動揺をも見なかつた。従つて内外の政務に関する露国民の態度並びに決心が、初めより確固として動かすべからざるものがあつた。故に五月十七日社会党で固まつた内閣の発表せる八ケ条の宣言、又七月二十二日改造後の政府の宣言は、露国民の決心を最も明白に語るものであつた。中にも七月下旬の宣言の如きは最も明白に露国民の態度を宣明するものであつた。此宣言は前後九ケ条より成つて居るが、其第一条には「外敵と戦ひ無政府党及び革命反対派と戦つて、飽くまで新制度を保護する事」を宣言した。第二条には「露国外交政策の基礎たる自由、平等、同胞の思想に反する目的の為めには露国民の一滴の血も流さざる事」を宣し、以て暗に今の儘で英仏と協同戦争に従事する事能はざる旨を宣言して居る。更に第三条には「政府は本年五月十九日宣言せる所の外交政策の原則を実行すると同時に、聯合国一般の外交方針を改めしめ、且つ聯合国の行動をして露国革命により声明せられたる主義を行ふに一致せしむる為め、本年八月を期し聯合国会議を露京に開く事」を提議すべく、与国よりは右会議に専門の外交官の外民主主義の代表者をも出席せしむべしと書いてある。以て自家の主義に英仏諸国を従はしめんとするの熱心を思ふべきである。
 尤もケレンスキーは近頃余程右的になつたやうに見える。けれども非併合・無賠償の原則の下に一般的平和を促進するの主義に聯合諸国を率ゐんとするの態度に至つては前後変はる所を見ない。此事は露国政府が其意見を他の同盟諸国に押し付けんとして為す所の不断の努力によつても分る。英仏諸国が容易に承服せざるべきを知りつゝ露国側が尚頑として其態度を改めざるについては、先に看遁す事の出来ない二つの原因がある。一つは聯合国側が大抵の犠牲を払つても、露国との同盟関係を維持して置くの必要があると云ふ関係である。露国の斯の如き地位にあるといふ事が、其彼等の意志を同盟国に迫る上に有力なる武器である。第二には英仏等の諸国に於て社会主義の系統に属する民衆の間には、段々露国と同意見のものが輩出しつゝある。露国が頑として其主義を改めざれば、それ丈け同盟国に於ける同主義者の気勢も揚るといふのが、露国の人々をして意を強うせしむる一原因である。露国革命以来非併合・無賠償の叫びは、敵国の独・嗅内に於ても盛んになつた。況んや英仏に於ては社会主義者中露国の同主義者と策応して此運動の為めに起つて居るものが少からずある。英吉利でも有名なマクドナルドの如きは即ち此種類に属する。此等の理由よりして英仏諸国の政府の意に反して露国が頑強なる態度を取つて居るのは、強ち我意を通さうといふ意地ばかりではない。聯合国の内部に於て多数の同志ありとの確信の上に、多大の光明を前途に描きつゝ所信の実現に努めつゝあるものに相違ない。而して彼等の計画の下に運ばれつゝあつたストックホルム社会党万国大会の如きは即ち此目的に出でたものである。なぜなれば先に洽ねく欧洲諸国の同主義者を会し、明白に非併合・無賠償の原則を確立する時は、其正に出席した代表者を通して更に其主義を各国の内部に宣伝し、以て交戦各国の輿論を動かし、やがて一般的平和を到来するを得べきを以てゞある。
 併しながら、露国民の此立場は前にも言ふ如く、英仏諸国の為政者の断じて承認するところではない。彼等は単純なる非併合・無賠償の原則の下に奔るは、即ち不得要領に戦争を終止するものにして、折角多数の人命と多大の国帑とを費して継続せられたる戦争を無意味ならしむるものである。斯くして彼等は戦争の目的として、独逸の軍国主義の剿滅を掲げ、所謂虐げられたる民族に対する自由独立の保障を掲げ、之が即ち永久平和を保障する所以の道なりとして輿論を此方面に導かんとしてゐる。そこで、彼等は露西亜の勢力の下にストックホルムの大会が開かれ、一旦決議が成立しては取返しがつかぬから、之に先立つて英仏の勢力の下に別個の万国大会を開いて、ストックホルムの大会を圧倒し去らうといふ計画を立てた。七月下旬英吉利のヘンダーソンが仏蘭西にトーマーを訪ふて、社会党万国聯合の委員会を開さ、八月十五日を以て開かるべかりしストックホルム大会を九月央に延期し、之に先立つて八月の終りを以て倫敦に大会を開かうといふ事を決議した。倫敦大会は八月卅日を以て英仏政府の希望するが如き状況の下に首尾よく閉会し、而してストックホルム大会の方は露国に於ける政変の結果として当分無期延期の姿になつて居るが、然しながら之を以て此点に関する英仏側と露国との暗闘が首尾よく解決せられたものと見る事は出来ない。何となれば、露西亜ではやがて機会を見てストックホルムの大会の開催を実現せんと努むべく、而して英仏政府では敵国の代表者も来る会合に出席するものに対しては旅券を交附しないなどいふて頻りに妨害に努めて居るけれども、社会党の連中は之に対して猛烈に反抗して居るからである。
 一般的平和の到来を希望する点に於ては、英仏側も露国側も固より同一である。而かも之が促進を計る所以の主義について両者の説と異る所以は、畢竟独逸其ものゝ観察に於て両者の見るところを異にするによるものであらう。惟ふに英仏側では抽象的には素より非併合・無賠償の原則に反対するものではない。併しながら此原則が一般的平和を持ち来たす根本原則たる為めには、総ての関係諸国が残りなく之を承認するでなければ出来ない。英仏露が此原則で立つても独り独逸が禍心を包蔵して改むるところなくんば、到底平和は来らない。而して英仏の実際政治家は従来の経験上独逸が全然此禍心を抛擲するや否やが明かでないから、暫く独逸は従前の儘の独逸であるといふ実際的見地に立つて今後再び彼によつて欧洲の平和の攪乱せられざらんがため、彼より横行跋扈の機会を奪ふといふ事が必要である。之れ単純なる非併合・無賠償を甘んずるを得ざる所以である。之れに反して露国の社会党は恐らく独逸の将来を英仏の如くは見ない。由来労働者といふ抽象的階級を見て、独逸とか仏蘭西とかの国境を無視するは社会党の通習である。彼等の物の見方は、如何なる場合に於ても抽象的である。労働者は何処の国の人間でも皆同一の者と見る。従て独逸の労働者は露西亜の労働者と何等特別の種類をなすものとは認めない。而して労働者のみを眼中に置く彼等は、独逸が如何なる階級によつて支配せられて居るかを顧慮するに暇あらずして、否な殆んど独逸といふものを念頭に置かずして、純然たる理論的見地から非併合・無賠償の原則を取つたものに相違ない。独り此事に限らず一般に社会主義の主張の中には、実際的立場を離れた抽象的の議論が多い。就中平和論に関する説の如きは、何処の国も皆一所にやるといふ事を前提としてのみ考へられ得べき説明が多い。例へば彼等が戦争防止の唯一最良の手段として年来主張する所の軍器弾薬製造所に於けるストライキの煽動の如きも、各国洩れなく同時に之を行ふといふ条件に於てのみ有効であらう。甲の国独り之を実行して、乙の国が之れを実行しないといふのでは何の役にも立たない。のみならず甲国をして非常な窮地に陥れる。而して我々は他国がやらないで自分の国丈けやつては、自分の国丈けが非常に損をするといふ懸念があるから、斯の如き説は到底実際に行はれるものではないと考ふるのであるけれども、社会主義は労働者は万国を通じて総て利害を一にして居るものであるから、必ず一般的同盟罷工は行はれ得ると信ずるか、或は少くとも堅く主張して動かない。露国の主張に係る非併合・無賠償の原則の如きも、単純なる抽象的理論としては兎も角、実際的政策として其儘之を承認し難きは、彼の一般的同盟罷工と趣を同じうする。斯くして非併合・無賠償に関する露国と英仏との論争は、社会党の抽象的主張と、英仏政治当局者の実際政策との争である。或意味に於ては、イデアリズムとトラヂショナリズムとの論争と見てよい。而して実際問題としては、抽象的理論が其まゝに行はれ難いを常とするけれども、然し実際的政治家の因襲的見解に刺激と警告とを与へ、斯くして一般思想界を清新ならしむるの効は之を認めなければならない。況んや露国の非併合・無賠償主義は同盟国に於ける露国の特異なる地位よりして、尚大いに他諸国の思想と政策との上に重大なる影響を与へつゝあるに於ておや。
 露国政界の混沌たる状態、之を掩ふことが出来ない。社会党が其偏狭なる思想を以て横行闊歩する事が、国内秩序の安定を早める上によいかわるいかにも疑がある。一日も早く内部を堅めて外、国難に当つた方がよからうといふ見地から見れば、露西亜の前途に憂ふべきもの甚だ多い。けれども確信の上に動き、遠大なる理想の上に動くところの国民に決して滅亡のある筈はない。予は革命の露国に一定の遠大なる主義あり、些の妥協的精神を容れずして最も忠実に此主義の貫徹の為めに努力奮闘せる此半年間の大勢を見て、露国の将来を楽観せんと欲するものである。

                         〔『中央公論』一九一七年一〇月〕