人種的差別撤廃運動者に与ふ



 此頃民間一部の有志の間に人種的差別撤廃運動なるものが起り、或は其決議に基いて宣言書を仏国講和会議の各国委員に送つたり、或は諸所方々に演説会を開いて輿論の誘導作興に努めて居る。今日世界の各方面に於て不幸にして人種的差別の忌むべき事実あるに鑑み、殊に我々日本民族が或は濠洲に於て或は北米合衆国に於て排斥せられて居るの不快なる事実に鑑み、右の如き運動が我同胞の間に起つた事は自然でもあり、又喜ぶべき現象でもある。要するに講和会議を中心として道義的精神の最溌剌と動いて居る今日の世界に向つて此運動を開始したのは、少くとも極めて時宜に適したものと言はなければならない。

 併し乍ら斯の如き運動を起すに方つて我々日本国民は少くとも此問題に於ける当の被害者たるの地位に鑑み、無用の誤解を避くる為に余程慎重の態度を執る事が必要である。何故なれば従来此種の運動を被害者の側から起す場合は、真に理義に徹底しての結果たるよりも、自分が被害者であるといふ地位に附着する利己的動機から発することが稀でなかつたからである。例へば先生が生徒に向つて嘘言を吐くなと戒むる。すると生徒は先生も嘘言を吐いた事があるではないかと逆襲する。嘘言を吐く勿れと云ふ教訓を楯に取つて対手方に逆襲する態度は、仮令自ち其教訓に服するに決心した場合でも、自ら其主張に権威が無い。況んや多くの場合に於て此種の人は敵の武器によつて敵を苦むるの術あつて、而も自らは依然嘘言を吐くことを改めざるを常とするに於ておや。而して斯う云つたやうな利己的動機に基く対欧米逆襲術は従来我国に於て決して稀ではなかつた。
 今最も適切な最近の一例を挙げよう。言ふまでもなく例のモルヒネ問題である。日本の商人が法律上並びに道徳上の禁令を犯してモルヒネを盛に支那に密輸入し、盛に内外の道義的神経を悩まして居る事は公然の秘密である。甚しきに至つては一部の官憲すら之に関する嫌疑を免かれなかつたと云ふものすらあつた。昨今之を取締るの必要が盛んに唱へらるるやうになつて、事実我国官民の態度が大に改善せられつゝあるが、併し日本国民は未だ此点について十分反省して居るとは思はない。而して此点に関して事実上改善の実の挙つて居るのは在支外国宣教師等の批難が少くとも重大なる原因の一つである事は疑を容れない。然るに支那にモルヒネを密輸入をするものは一々数へ挙ぐれば素より日本人にのみ限るのではない。西洋人の中にも多少はある。すると二三の新聞はモルヒネの密輸入は英米人もやつて居るといふ風に、宛然(まる)で鬼の首でも取つたやうに言ひ触らす。之も不義を責むる道理の声としてならば大いに尊重すべきであるけれども、自己の反省を欠く、而して利己的動機に基く怨言としては何の道徳的権威を認め難いではないか。自己に反省せざるものは兎角責任を他人に嫁する。支那に於ける排日思想の結局の根本は官僚軍閥の政治家の侵略的膨脹主義 ― 少くとも支那人並びに在支外人から斯く見られたる ― に在ることは疑なき事実である。故に支那が我々に反感を有つたといふ事実があるならば先づ自ら反省し、誤解あらば其誤解を解くべきである。之を努めずして直ちに或は支那人を不信不義となし、或は排日的英米人に誤られたりなどと罵倒するのは、少くとも客観的に見て醜陋を極めたる態度と云はなければならない。我々は支那等に対する我国一部の議論に此意味で少からぬ不快を感じて居る。而して排日思想などの起る根本の原因は寧ろ我に在るを信じ、常に対支政策の根本的廓清を主張して已まない。而して我国の大陸発展の理想は今日までどれだけ改善されたか分らない。東洋に於ては優秀なる武力を有つて居る結果として多少の無理は云へたにしろ、一旦世界の真中に一切の秘密を暴露されては、或は十分弁解の出来ない事が無いとも限るまい。巴里の講和会議に於て支那代表者の逆襲に逢つて、我国の特使がシドロモドロの態を示すのは、願くば内拡りの外窄(すぼ)みの類でなかれかしと祈るものである。
 南北抗争に於て本来旗色の悪かつた段祺瑞の一派が、外に頼る所なくして日本に頼つたのは戦時中の事である。之によつて支那は吾人の意のまゝに経営するを得べしと図に乗るの大いに誤りなる事、否却つて国民の反感を招くに終るべき事は予輩の屡々警告する所であつた。戦争の終結と共にいろ/\彼に反噬の色あるを見て彼の不信を責むるのは已に遅い。我々は再び第一頁に復り、日本国民の大陸発展の理想を立て直すの必要がなからうか。
 何にしても人に向つて嘘言を吐くなと責むる以上は、先づ自分で嘘言を言はないといふ決心を定むる必要がある。人種的差別撤廃運動の如きも、理義に徹底した立場から、全然利己的動機を離れて民族関係に於ける正義の真の要求として之を唱へるでなければ権威がない。のみならず又恐らく仏蘭西の講和会議に於ても熱心なる共鳴を得る事が出来ないだらう。

 講和会議を中心とする今日の世界に最も著しく流れて居る考は、理義を正して各種の紛争を解決せんとする事である。従来国際間の問題は表面は何であつても、真の解決の主義は銘々の国の利害であつた。利害の妥協調節といふ事の外に事実上の解決の途は見出され得なかつた。其処で国際紛議は常に頗る解決の困難なものとされたのである。若し之が単純なる一片の原理原則で、恰も裁判官が訴訟事件を断ずるが如く明快なる裁断に任せ得るものならば、どれ丈け世界の平和が保たれたか分らない。之が出来なかつたから今日までの世界の雲行が険悪であつた。又此険悪なる雲行に困り切つたから戦後の世界は此苦しみを繰返すまいと骨折つて居る。斯くして今日の世界には原理原則を以て国際間の問題を解決しよう、原理原則の徹底による多少の不便、多少の犠牲はお互に我慢しようと云ふ事になつたのである。之が今日の傾向であるとすれば、此傾向に合する範囲に於て我々の要求は力強いものとなる。又此傾向と共通の基礎の上に立つものとして吾々の運動に一種の世界的権威がつく。我人種的差別撤廃運動の如きも、願はくは濠洲、北米に於て排斥せられて居る民族の悲鳴としてゞなく、民族関係の正義の声として堂々と叫ぶものたらしめ度い。
 尤も濠洲に於ける排日、北米に於ける排日は、単純なる人種的差別の問題と観る可きや否や。人種的差別の不可なる意義が明かになつても尚ほ濠洲、北米に排日を主張し得る根拠は残らないかどうか。之を他の一面から言へば、排日の事実を全然消滅せしめんが為めには人種的差別の不都合なる事を彼等に悟らしむる事の外に、吾々自身に於て亦大いに反省且つ覚醒するを要するものなきや否や等に付いて予輩に多少の意見がある。併し今之等を一々論じて居る暇が無い。只人種的差別の不可を説く事が兎に角各方面に於ける排日問題を解決するの一助たるを失はざるのみならず、又正義の問題として極めて理義の明白なるものなるが故に、吾々は正しき理想の此の世に於ける実現の為めに大いに之を主張すべきである。而して此の見地に立つて正々堂々の主張を世界に向つて宣言するに方り、吾々は又常に自己反省を怠つてならない事は言ふを俟たない所である。
 此立場から吾々は昨今の人種的差別撤廃運動者に向つて朝鮮統治策の理否に注目を怠らざらんことを希望せざるを得ない。今日我国の法制が朝鮮人に与ふるに著しき差別的待遇を以てせる事は隠れもない事実である。無論中には差別する事が朝鮮人の利益であり、又その希望であるものもあらう。政治上其他いろ/\の理由で到底同様に取扱ふ事の出来ないものもあるに相違ない、けれども単に人種が違ふといふ事の外に何等の根拠を求め難き種類の差別的待遇が全然無いと何人が断言し得るか。一例を採れば朝鮮人の子弟は全然日本人児童の学校から除外されて居る。怎(ど)んな山間僻邑でも日本人の児童十人を数ふる所には総督府の補助によつて日本人の為めの独立の学校を作る事が出来る。朝鮮人は断じて内地人と共同に教育さるる機会を有し得ない。表向の理由として怎んな事が挙げられやうとも、斯くの如きは学童問題を以て桑港当局者の非を鳴らした日本民族の公然と誇示し得べき出来事ではない。予輩は民族的正義の問題としては言ふまでも無く、朝鮮に永住する国民を教育する手段としては、早くから朝鮮人と机を列べて相親しむの訓練を与へた方がいゝと信ずる。利害の打算から云つても斯くあるべき教育問題を全然差別的に処置するのを適当の道理なるかの如くに考ふるのは、人種的差別観以外に何所に真実の根拠を認むることが出来るか。
 其他いろ/\の問題に就いて対朝鮮策の根本に立ち入り、人種的差別撤廃の趣意からしていろ/\の議論が出て来ねばならぬと考へる。之を朝鮮人自身が民族的利己動機に立つて兎や角論ずる時我々は多少の不快を感ずるが、之に対して内地人が同じく又利己的動機に立つて其の向ふを張る時に著しく反感を催さしめらるる。我々は朝鮮人の待遇の問題に就ては朝鮮人とか内地人とか云ふ差別を超越して、彼我両国を抱擁する全体に亘る正義の樹立の問題として、も少し冷静公平に考へ直す必要があるまいか。
 之と同じ事は台湾人に就いても、又日本の勢力下に於ける満洲方面の支那人に就ても言へる事は繰り返すまでもない。

 吾人が従来常に此立場を採つて公平なる同胞国民に訴ふるを怠らざりしは読者の詳知する所であらうと思ふ。今や人種的差別撤廃の運動が起る。従来此種の運動を起すものは、甲に向つては正義と公平とを求めて、乙に向つては非義横道を逞(たくまし)うする輩であつた。今度の運動丈けは斯くの如き連中の利己的運動で無い事を期待し、又斯くの如きものたらしめてはならないと考へる。然らざれば道義的創造力の大いに活躍せる今日の時勢に、此種の運動の勃興した意味が分らない。我日本の国論が極端に世界の大勢に逆行するものに非ざる限り、人種的差別撤廃の運動は断じて吾人と同一の立場を採るものでなければならない。

                         〔『中央公論』一九一九年三月〕