我国に於ける唯物論者の三傾向





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 これは私の論文ではない。年若い私の友人で実際の社会運動にも関係浅からぬ真面目な学者の告白の一部である。当節の真面目な青年智識階級の思想の傾向を知るに頗る有益なるものと思ふので所々抜き書する。そして之に私の意見を少し附して見やうと思ふのである。


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 告白の一節。
 最近我国の思想界に於て、一部の人々から唱道さるゝ唯物論が相当の歓迎をうけ、中にも若い智識階級の間には多くの信奉者をさへ見出しつゝあるは、疑もなき事実である。加之労働運動乃至社会主義運動に於ても、この唯物論の浸潤が著しく、殆んど其指導原理とさへなつて居る様に見ゆる。私は在来の政治家や学者や思想家の社会観若くは人生観が、余りに観念的であり又あまりに社会制度の効果に関する現実的理解を欠くを遺憾として居つた。従てまた在来の社会制度に依て虐遇されつ、ある無産階級(並に之を支持する一部の智識階級)が多少反動的に唯物論に走るのを寧ろ当然の成行とも考へて居つた。兎に角現下の思想界並に実際運動界に唯物論の流行するのは、其処に何等かの意義の存することは明である。併し一概に唯物論と云つても其には色々の流派がある。唯物論其もの、哲学的厳正批判は暫く之を他日に譲り、茲には現下我国に流行する唯物論の之等の特殊の諸傾向に就て考へて見やうと思ふ。


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 告白は更に次項につゞく。
 第一に挙ぐべきは唯物的社会学者の一派である。此派の思想的立場は、自然科学的、実証的、批判的、経験的であつて、目的論的、理想主義的、人格主義的立場を排斥する。彼等の発生論的見地は一切の価値を否定し、凡ゆる文化現象を必然化し機械化する。一切は合理的必然であつて創造的自由は存しないといふ。人類の何種の努力活動も力学的解釈に還元せしめねば止まない。彼等の思想的生命は唯冷鉄の如き理智の刃である。之を縦横に揮つて一切の事物を分解し批判することが、実に彼等の唯一の仕事だ。彼等は常に高処に在て街頭を眼下に眺め、其言論の調子には一種の皮肉と冷笑とを帯びてゐる。而して斯の如きは実に最近漸く新進の智識階級間に多くの追随者を見出して、今や論壇一方の重鎮たらんとして居るのである。
 併しどの道彼等は徒らに思索欲に富んで行動欲を欠く所謂「近代インテリゲンシヤ」に外ならない。理智に偏して情意に乏しいのは此種の人々の代表的性格だ。彼等の生活態度には実行味がない。これ有るものは只冷酷なる批評的興味のみだ。是れ思想上如何にラヂカルであつても、其処に之を行動にうつす情熱と野性とを欠く所以である。而して斯の如きは畢竟彼等に現実な生活苦の経験なく、所謂中産階級的教養に基く一種の固定的品格を鋳り附けられて居るからであらう。されば如何に熱烈な社会運動が眼前に展開しても、彼等には決して躍気になつて其渦中に投じ来るを期待し得ない。彼等は飽くまでも上品な高踏的態度の執着から脱し得ない。


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 こゝまでが告白の一節。之から僕の意見を附け加へておく。
 此種の唯物論が結局に於て実際の社会運動の指導原理となり得るかは論者と共に私も亦疑はんとする所である。無産階級が自己の生活価値から搾り出した思想を適当に整理して之を意識的目標と朧気ながら自覚するに至るまでの間は、此派の唯物論も借り物として暫くは持て囃さるゝだらう。どうせ借り物である。寿命の永かるべき道理はない。尤も高踏的逃避思索家の存在が許される限り、たゞ其の限りに於て、此派の思想も当分余喘を保ち得べきは言ふを待たない。


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 また告白の一節。
 次に本能的唯物論者とでも云ふべき者がある。彼等の説く所に依れば、一切の人間悪は社会制度の生んだものだ。自分達がどんな不道徳の行ひをしやうが責任は自分達にはない。故に思ふが儘に本能満足の行動をしても聊も耽ぢる所はないと云ふのである。彼等は第一種の高踏的唯物論者と違つて頗る実行的であるが、只其実行欲たるや衝動的であつて、理智と徳操との露ほどの痕跡をも留めない。甚しきは不良少年的な若くは狂乱的な一種の性格破産に陥つて居る者もある。故意に警官と衝突して快をよび、街頭に革命歌を高唱して得意がり、労働を避け衣食の料を脅喝に得、色を漁り酒を被りて恥ぢざる連中は、正に之れだ。其の最も質のいゝものにした所が、彼等に免るべからざる一つの傾向は、現実を離れ常にイリュージョンに生きんとすることである。
 之等の安価な革命論や上つ調子の自由解放論が久しい間我国の労働運動若しくは社会主義運動を毒したことは言ふまでもないが、併し今日では最早全然労働階級の信用を失つて仕舞つた。無自覚な労働者の眼には、当初革命家気取りの之等の言動はいかにもヒロイツクに映じたのであつたが、放縦無頼なる行動は決して永く信頼を繋ぐべくもなく、真面目なる労働者の遂に彼等を排斥するに決心したのは当然の事であらう。


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 告白のつゞき。
 第三番目に来るのは実際の労働運動にまじめに関はつて居る者の唯物論である。彼等が第一智識階級と著しく異る特徴は、透徹な主知主義者でなくて情意に燃ゆる理想主義者なる一面を有する点にある。彼等の生活態度は批判的高踏的でなくして、常に実践的であり戦闘的である。資本主義社会の改革と新社会の建設といふ熱烈なる価値意識に動いて居るのである。只注意すべさは、彼等の理想主義や価値意識やは畢竟階級的たるを免れぬことである。而して這般の階級観は、実は現下の経済組織に関する考察から生じたものだ。詳しく云へば、現下経済組織の不合理のもたらす痛烈なる生活苦に促され、深刻なる批評眼を環境の解剖に放つた結果、彼等の社会観は遂に協調的たる能はずして階級的となつたものなのである。即ち彼等は不合理なる経済組織を社会制度の根本悪と認め、之を境界線として社会階級の分裂といふ事実を認める。そして政治なり、法律なり、道徳なり、芸術なり、之等の所謂文化現象をば一方の階級の畑の上に育つたものと為し、無産階級の地盤とは何のかゝはりもないもの、否之と全然相容れないものとするのであや。斯くて彼等の立場はまた一種の唯物論と呼ばれ得る訳になる。
 彼等も口に正義を云ふ又道徳を云ふ。併しその正義なり道徳なりの絶対性を認めない。皆それ/"\の階級の範囲を出でないものとするのである。在来の国家主義やはた人道主義やは、余りに漠然たる観念的のものであつて、更に社会的環境に対する現実的洞察を伴はなかつた。若し夫れ社会協調主義の如きに至ては畢竟現状維持論の仮装せるものに外ならずして、而かも往々労働階級抑制の婉曲なる奸計たるの用に供せらるゝに過ぎない。要するに今日謂ふ所の愛、平和、人道、正義等の道徳的理念は、無産階級の現実の要求に対しては何等の価値もないものだ。正義も愛も平和も無産階級の生活経験に立脚して発達したものでない限り、毫末の価値もないとする。而して斯種の階級観は、彼等の最も唆厳に奉ずる所のもので此点に就ては一歩も譲歩を離せざらんとするこの意味に於て彼等の唯物論的操守にはまた驚くべき程頑強なるものがある。
 何が故に斯の如き強烈なる階級闘争観を抱懐するに至つたか。そは云ふまでもなく、強者階級の不当の抑圧の結果に外ならぬ。弱者たる労働階級の自覚が、個性解放の為に現下の不当なる地位境遇の改善を志すと、強者たる資本家階級は此種改善要求の社会的意義をすら顧念することなく、弱者を何時までも現状に維ぐの階級的利己心にのみ動されて、果ては一方に労資協調の偽善的福音の宣伝に由て、又他方には憚る所なき高圧手段に由て、頻りに労働階級の軟化屈従を策する。之等硬軟両面の手段が如何に悪辣を極めたかは、最近の労働史を繙くもの、何人も看過し得ざる所であらう。労働階級の遂に妥協に望を絶つに至れるも当然ではないか。
 併し乍ら今日の労働者は、無産階級の内部に於ては、又実に高度の道徳律を要求して居るものである。献身、犠牲、規律、訓練、忠誠、信義、敏活等の諸徳の涵養を大事だと認めて居る。殊に彼等は現実の難境に当面して猶ほ高踏的態度に留るものを非とし、個人主義的な独善的な衝動的な無規律な言動を陋とする。之等の点に於て此一派は明に前二流の唯物論者と其選を異にすると謂て可い。


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 之から私の意見を少し書き足して見る。
 右の一節は今日のまじめな社会運動家の腹中を飾る所なく披瀝したものと観てよからう。私はこの告白に依て、今日彼等一派の頭の中に流れてゐる唯物論は疑もなく境遇の産物だといふ兼ての持論を一層確実にされるのである。思想としては唯物論の成り立つかどうかは別問題として、あゝした圧抑された境遇の下に、階級的社会分裂観の発生するのは少しも不思議ではない。飯も碌に食はさないで喰ひ意地の悪るくなることのみを懸念する継母的唯心論者の三省を求めたい。
 さればと云つて当今の労働運動家が之を以て甘んじたらそは飛んでもない大間違だ。況んや自家の態度の必竟境遇の産物たる所以に心付かず、之を理論上に是認せんとするならば、問題を通り越して寧ろ危険だと思ふ。渇して盗泉の水を呑んだのは致方がないといふのは第三者の言ひ草だ。第三者が之を諒としたからとて、本人に自ら自己の過を正当とするの理由なきは明白だ。今日の労働運動に私共の最も憂ふる所は、第三者の諒とする点に自ら深酷なる道徳的反省を試みず、従つてまた由て以て更に向上の理想境を憧憬するの高尚なる情熱の乏しいことである。こゝまで労働運動家の情操が高められて来るまでは、無産階級に真乎人世の精神的覇権を許さるゝ時機は来ないだらうと思ふ。
 無産階級が其の内部に於て一種の道徳律を要求して居るといふ説を聞くは真に喜ばしい。是れ彼等が自ら唯物論者を標榜して実は真の唯物主義者でないことを自白するものだからである。私は思想的に徹底を欠くを責めない。境遇の所産として唯物的立場を執り乍ら、情操に於て理想主義的なるを匿し得ざる所に面白味を見出すのである。併し其の所謂正義も平和も、階級の内面にこだはつて居る中は駄目だ。道徳を特殊階級の埒内に押し込めた結果としての惨憺たる破綻は、所謂国家主義的倫理観に於て最近我々の経験し尽した所ではないか。境遇の圧迫に由て生れた階級的反感は之を諒とする。併し道徳に関しては飽くまで其の絶対的なる本質に於て感激の盃を汲むことを忘れてはならない。理想と現実とさう容易に合はないと云ふだらう。合はなくもいゝ。せめて其の相合はざる所に痛ましき煩悶を感ずる丈けであつても欲しいものだ。何となれば其処に私どもは高尚なる情感の躍動を認め得るからである。


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 また告白の一節にかへる。
 今日の社会主義者及労働運動家の多数は、幸か不幸か、概して無神論者である。何故かといへば、宗教は巧みに資本家階級から利用されて其の自家擁護の具となつて居るからである。牧師や僧侶は会社の招聘に応じてよく工場に来る。而して其勧説する所は、型にはめた様な、勤勉従順の鼓吹に外ならぬ。曰く、神はすべてを見給ふ、監督が見へぬとてゴマかしては不可ぬと。曰く、働かずに不平ばかりを云ふはかの蟻にも劣ると。曰く、諸君の労働は一に是れ社会の為だ、何時間でも又どんな仕事でも精を出して働けと。又曰く、現世に於ける労働の苦痛は来世に於ける幸運のもとだと。資本家と宗教家との間に如何なる腐れ縁があるか知らぬが、斯種の説教に依て被る労働者の害は阿片にも比すべしと認められて居る。斯かる恐るべき酖毒の用を為す宗教に、労働者乃至労働運動家が極度の反感をそゝらされて、遂に無神論に走るのは怪むに足らぬではないか。
 加之今日の宗教家は、霊界の事には通じて居らうが、現実の社会制度に付ては驚くべき程無智なるを常とする。其の結果、安価なる博愛論や平和主義を以て、労働者の正当防衛たるストライキの如きをさへ一概に暴力として非難する。概していふに彼等は無批判に現在の制度を肯定して掛る。之れからが第一の過りだ。従て資本家の暴虐にも眼を閉ぢ、愛の福音を説いて労働者ばかりを責めることになるのだ。そは今日の寺院なり教会なりが、牧師僧侶と共に一に金持信徒の支持に依て立つの結果かも知れないが、要するに労働者が彼等に信頼し得ざる理由は今日極めて明白だと思ふ。
 さればとて今日の労働運動家乃至社会主義者を、無神論の結果放恣淫逸の生活を送つて居るものと見てはいけない。宗教と名のつくものに対して限りなき憎悪の感情を有つては居るが、併しその真摯なる解放運動の精神の中には、宗教に近い一種の崇高なる感情が醗酵して居ることは疑を容れない。この感情は、中産階級の子弟の間に多く見る様な、逃避的な女性的な宗教感情よりもモット力強いもつとタツチングなものである。今日の労働運動家並に社会主義者があらゆる迫害に屈せず、操守堅確にして前進を続けて倦まざるは、蓋しその原動力をこゝに養ふに依るものと思ふ。故に予は彼等の無神論たるを憂ひない。否寧ろ新社会の根幹たるべき新道徳の萌芽が既に彼等の胸中にはぐゝまれつゝあるを認めてひそかに喜ぶものである。


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 之から私の意見を附け加へて本篇を結ぶことにする。
 今日の職業的宗教家に資本家の走狗たるも尠からざること、並に共の相当に真面目なるものと雖も現代社会の実相に通ずる聡明を欠く者多きことは、掩ひ難い事実である。併し之が為に宗教と名のつく有らゆる教説に敵意を示すべしと云ふは驚くべき軽佻と謂はねばならぬ。論者は曰ふ、既成宗教は排斥するが彼等の胸中には一種崇高なる感激が波打つて居ると。宗教と名のつく有らゆるものを排斥すべしとする軽佻な態度と、崇高なる情念に魂の躍り上つて熄まないといふ事実とは、私にはどう考へても同一の人格の内部に起り得べき現象ではないと思はれる。若し果して崇高なる情感に全心の躍るを禁じ能はずといふのが本当ならば、彼等はモット宗教に対して余裕に富んだ雅量を示すべき筈である。宗教の名に拘泥して有らゆる教説を排斥するといふに、勢の已む可らざるものあるを実況とせば、今日の労働運動は要するに醜陋なる利己的運動に過ぎぬものとなる。労働運動が階級的主張から出発して而かも単なる階級運動に終らず、更に進んで個性解放の全人類の向上の運動たるの抱負を実現せんとせば、彼等はモ少し高処に立つて其思想を整頓し其運動を純化するの必要がある様に思ふ。
 今の宗教は下らないかも知れない。併し之を排斥するといふ丈けなら自他共に何の役にも立たない。自他共に大に伸び又大に伸べしめんとならば、本当の宗教を以て偽の宗教に対抗するに限る。若し夫れ偽の宗教の偽善的福音に仲間の毒せらるゝを恐れて故らに悪声を放つのは、丁度我国の軍国主義者が社会主義の憎むべきを民間に流布するのと同じく、御互の最も陋として斥くる所の態度でないか。此点に於ても今日の労働運動家は冷静に反省するの必要があると思ふ。
 猶ほ私の考では、今日の宗教家に若し多少でも労働運動に対して実際的障碍を与ふるの事実ありとせば、そは自ら二つの異つた源から来るものと思ふのである。一つは論者の排斥する様な資本家の提灯持をする類のものであるが、他の一つは、労働運動の人文的真諦に情熱を有つ所から、常に之に対して同情ある而かも無遠慮なる批評を下す底のものである。労働運動は理想に於て人類の為の運動であつて、実際に於ては労働階級の運動である。自分の利益を譲る所なく主張する事に由て、人類全体の利福を増進せんとする底の仕事の、如何に困難にして又如何に動もすれば邪路に陥り易きかは、多言を要せずして明であらう。夫れ丈け此の運動は第三者の忌憚なき批判を必要とするものである。故に労働運動は、その本来の性質上、其主張の貫徹に最も勇敢なるべくして、而かも第三者の評言に対しては極度に謙遜たるべきものである。而して昂奮せる民衆は、動もすると、この態度を守り損ねる。そこで好意の忠告も悪意の反対と聞ゆることがあるのだ。所謂宗教家の労働運動に対する批評の中には、此種のもの亦尠らざることを忘れてはならぬのである。
 且つ此種の宗教家は、今後益其批判的態度を峻厳にするのであらう。従つて或種の労働運動に取つては益忍び難き障碍と感ぜらるゝであらう。此時に当つて所謂労働運動家の最も陥り易き過りは、之等の宗教家を資本家代弁の宗教家と同列に並べて、無智の労働者を誘つて一概に彼等に面を背けしむる事である。功を急ぐものは菽麦を弁ずるに遑がない。斯(この)弊西洋に於てもあつた。独り我国に之を免れ得んとせんや。深甚の慎戒を要する問題と考へるのである。
 終りに私は、今日の多数宗教家が社会改造運動の由来と動機と手段とに就て余りに智識の浅薄なるを嘆ずるものである。労働運動に動もすれば邪路に踏み誤るの恐れありとせば、其の責任の一半は慥に此方面にもある様に思ふ。(大正十二、二、十五)

                        〔『文化生活』一九二三年三月〕