教授と政党員との両立不両立   『中央公論』一九二七年三月

 

     与へられた問題

 労働農民党の事実上の首領となつた大山郁夫君が早大教授の職をやめるやめぬの問題で、新年早々早稲田の学園では大騒ぎをやつた。之に就ては世間でも可なり真面目に注意してゐる様である。無産政党の発達に伴れて同じ様な問題は今後各方面に頻繁に起るべきを予想さるるからであらう。而して差当りこの間題を単に早稲田大学対大山教授の関係だけの事として観れば、其問いろ/\複雑した特殊の事情もあるらしく、第三者としては軽々の論評を慎まねばならぬ様にも思はるるが、併し之を単に教授政党員の両立不両立に関する抽象的原則の論として観ると、答案は決して爾(しか)く六(むつ)かしい問題ではない。私は寧ろ学校当局も世間も何故あんな大騒ぎをしたかを今以て不思議に思ふものである。


    現行法は教員の政党加入を禁じて居る

 第一に私は教師が政党に入ることは現行法上許されないことを指摘しておきたい。斯の法規の是否得失は固より大に之を論議するの余地はある。が、それが明に改廃されぬ限り、之を無視して教授政党員の両立不両立を争ふのは、私共の甚だ了解に苦む所である。
 治安警察法第五条は「左ニ掲グル者ハ政事上ノ結社二加入スルコトヲ得ズ」と規定し、その第四項に「官立公立私立学校〔ノ〕教員学生々徒」を挙げて居る。之は本項に挙げられた者の「政事上ノ結社」に入るを許さざることと共に又「政事上の結社」に加入して居る者の新に学校教員並に生徒たることをも認めざる趣旨なることは言ふまでもない。詰りこの両者の原則的不両立を法定したものである。さてこの規則の不都合なものであることは、従来多くの人から屡々説かれた所である。加之事実の上で之はあまり厳格に励行されて居らぬとも聞いて居る。併し現行法として立派に存在して居る以上、之を全然無視して教授政党員両立の原則を承認せよと主張するのは、迫る者も迫るものだが、之を迫られて大まごつきにまごつく学校も学校だ。教授学生又は学校当局が政府と之を争ふのなら分る。学校内部で之を争ふのは丸で意味を為さぬではないか。一体あの大騒ぎの関係者達は斯の法律の存在を丸で御存じなかつたのであらうか。
 因(ちなみ)に云ふ。治安警察法第五条に所謂「官立公立私立学校ノ教員」とあるは極めて広汎なる意味を有するもので、即ち一切の学校の一切の教員を含むものとせられて居る。形式的呼称の教授たり教諭たり又講師たり臨時雇たるは問ふ所でない。特別の題目を講ずる為に回数を限り一時的に講壇に招聘された者は無論この中に這入らぬ。故に政党員を招いて一場の講演を依頼するが如きは妨げない。が、継続的に教鞭を執る者である以上、そが仮令(たとい)当該学校の教授団の一員たらざる謂はば員外講師のやうな者でも、右の規定の「教員」の中に這入ることは明白である。故に例へば政党に入つたから教授はやめるが講師となつて暫く講義は続けて往かうと云ふの類も、治安警察法の規定とは明白に両立しないものである。その事の是否は別として、大山君が政党員として依然早稲田大学に教鞭を執るといふのは、教授講師の名目如何に拘らず、ひとしく国法の認許せざる所なのである。同じ事は安部磯雄先生に就ても云へる。
 繰り返して云ふ。労働農民党員たる大山郁夫君を依然早稲田大学教授の地位に置かうと云ふ問題なら、之は明白に国法の禁ずる所を学校に強ゆるものに外ならぬ。仮りに学校が承知したとて文部省から一片の通知でもあれば忽ち引ツくり返される問題である。識らずして之をやつたとすれば、余計な事に無駄骨を折つたことを気の毒に思ふが、識つて之をやつたのなら、或は閑人の悪戯たる譏(そし)りを免れぬだらう。孰れにしてもあんな大騒ぎをする丈けの遑と熱とがあるなら、私共は寧ろ治安警察法第五条の改正運動に必死の奔走をして貰ひたかつた。ひそかに聞く所に依ると、或る人は政府部内の関係当局に、あんな無駄騒ぎをさせぬ為に一片の警告を以て法規の存在を知らしたらどうかと云ふたら、迂(う)ツかり之を指摘してあの運動が治安警察法改廃の要求にでも転ぜられては飛んだ薮蛇だから、こツそり知らぬ顔で居るのだと答へたとやら。真偽の程は分らぬが、役人の立場から観たら或はそんな風のものであつたかも分らぬ。


     学園内規として攻究するの必要

 治安警察法第五条の規定する教員政党員不両立の原則そのものの是否得失は、今こゝに之を詳論するの遑はない、又読者諸君に取つては今更その必要もなからうと思ふ。官界に在てもこの規定は、一つには暗にその不都合なことを感じて居るためか又はその実際上の不便を顧慮しての為めか、現に余り励行されて居らぬと聞く。それでもいよ/\之を廃すとなるといろ/\また障碍が起つて容易に解決を見難い事情もあらうが、とにかくその早晩改廃せらるべき運命にあることだけは疑を容れない。既に今日まで其の事が屡々少壮議員間の調査にも上つたとやら。且つ政府部内にも適当の機に之を改正せんとするの考はあると聞いて居る。そこで仮りに右の治安警察法の規定が廃されたとしたらどうなる。或人は云ふ、治安警察法の禁令がなくなつた以上、教員は最早公然政党に入つても一向差支はあるまいと。国民的権利の制限に関する一般的の問題としては成る程さうに相違なからう
併し之には教育乃至学校管理上の問題としてその特殊の見地から何等かの制限を附するの必要はないものだらうか。尤も政党に入つたからとて教員はすべて直に職務を曠廃するものとは限らない。故に両者の不両立を原則的に法定するは勿論穏当であるまい。が、併し実際上政党員なるものにもピンからキリまである。代議士になつたり又は幹部の地位に就いて重要党務を見ると云ふ様な事になれば、そが果して教職と両立し得るものかどうかは大なる疑問となる。尤も多くの場合その間の関係は、当該教員の徳義上の問題として、その自発的に解決する所となるだらうとは思ふ。それでも学校当局が内部規律の問題として之に関し予め相当の方法を講ずるは必しも不当ではないと思ふ。斯う云ふ意味に於て、政党員教員両立不両立の関係は、学校内部の問題として又教員個人の問題として、可なり重要な事項たるを失はぬと考へる。
 先にも述べた如く、治安警察法第五条の規定は現に厳格に励行されて居ないと云ふ。政府も政党も之を八釜しく詮議せぬのは、之を荒立てることに因て有力な党員を喪ふの恐れあるからであらう。併し表て向きの問題にならぬからとて政党と学校とを片手間にやる教員が沢山殖へては困る。そこで政府がこの規定を励行して呉れればよし、然らざる限り、学校は学校として亦自ら相当の内規をきめる必要はあらう。この点に於て教員政党員両立不両立の原則は、治安警察法の規定に拘らず、学校内部の事としては、依然慎重なる考究を要する問題なのである。
 要するに、教員政党員の二者兼務を認むべきや否や、之を認むるとすればどの程度まで之を許すべきかは、治安警察法の規定が無くなれば無論だが、この禁令があつても、実際の取扱上に在て何とか一定の標準をきめておくことは、孰れの学校に取つても不必要な事ではない。


     私が学校当局であつたらどうする
                                                                  

 仮りに私が学校当局であつたとしたらどう云ふ処置を執つたであらう。問題の紛乱を避くるため姑く之を大学の事に限つておく。云ふまでもなく大学は単に学生に教授するばかりの設備ではない。更に学生の研究を指導し併せて又教授自身の倦まざる研鐙に依て一国学術の振興に貢献すべき任務を有つ処である。先づこの事を念頭に入れて考を進めて見たい。
 第一に治安警察法の規定の存する限り、私は教授の政党加入を絶対に許さないだらう。講師でもさうしたものがあれば直に解嘱する。大山君に関連して起つた様な所謂原則承認の要求の如きは、飛んでもない馬鹿な事と一言の下に斥けてしまう。この点では恐らく何人からも異議を挿まれぬだらうと考へる。
 第二に部下の教授教員の中に若し事実政党と密接の関係を有するの明な者があつたらどうする。私は先づ取り敢へずその人に向ひ形式上その党に籍を置かぬ様にと要求するだらう。更に其人の政党に対する関係の実質を精査しその程度に応じて相当の方法を講ずるであらう。
 私は原則としてはすべての教授に対し一様に教へる事と研究する事とに専念せんことを要求し、且熱心に之を期待して居る旨を告げる。講師は、専任の教授を見出す迄の間其人の現に有する学識を信頼して一時講釈を依嘱するものなのだから、教授に対すると同様の専念献身を彼に望むことは出来ない。故に問題は主として教授に対して起るものとしておく。
 さて原則として専念献身を要求すると云ふ事は必しも当然に政党参加を排斥するものではない。教授も亦国民の一人としては政治上の利害得失に大なる関心をもつだらう。その結果被れが政治上ある特定の態度を執るに至るのは怪むに足らぬ。而して単にそれ丈けの事なら教授の職を毫末も妨たげぬことは勿論だ。只その事が一歩を進めて政党参加といふ形式を取ることになると、問題は多少複雑になる。そは政党員と云ふ意味が今日決して単純でないからである。私は本来政党といふものは、政治家が政治家としての目的を達する為に組織する所の、謂はば玄人達の団体であると考へて居る。従つて、一般国民は、彼等を監督すべき第三者として常に必ず厳正中立の態度を保持すべきものと考へて居る。この立場からすれば、政党参加は即ち政治家といふ意識を以て積極的に行動することを意味するのであるから、教授の職分と両立し得ると観るべき根拠は極めて薄弱になる。けれども昨今勃興しつゝある無産政党の場合の如く、既成政党の醜怪なる誘惑から良民の神聖性を匡救するといふ考に基き、その前提の下に大衆の政治的結束を必要として広く党員を天下に求むるといふものに在ては、政党参加は必しも直に政治家としての積極的活動を意味しない。斯う云ふ意味の政党参加なら、単に国民の一人として自家の政治的立場に特定の方向を与へると云ふに過ぎぬから、教授の任務と両立するせぬの問題の起る余地は殆んどない。故に今日の様な場合に在ては、教授の政党参加といふ問題に対しても一概に良いとも悪いとも動きの取れぬ機械的な断定は下し得ぬものと考へる。良い悪いは各々の場合につき彼等が政党に対して有つ実際の関係如何に依て別々に定まるものだからである。
 以上の点を顧慮しつゝ、そんなら抽象的な一定の標準を前以て設定しておくの必要は全然ないのかと云ふに、この点に就ては私に今格別の定見はない。教授の中不幸にして陰に政党の事業に深入りし為に学事を忽諸に附するものが沢山あつたとしたら、私は無論急いでさうした内規を作ることに腐心したであらう。然うした事実がないとしても、若し教授の多数が進んで一定の内規を設け自ら銘々の鑑戒に供せんと主張するのなら、私は決してその勧説を容れるに吝でない。併し大体に於て私は教授の学者としての良心を信じ、別に規則を設くるの必要はないと云ふ態度を持するだらう。学術に忠なる限り、一時情に激して常軌を逸することあるも、結局その好む所に戻つて来るは明白だからである。若し方向転換に新しい使命を感じて其処に大なる熱情を湧かすに至つたとすれば、彼は必ずや教職を辞して進退を曖昧にせぬだらう。教授その人の自決に恃んで十分安心が出来るものとせば、別に内規などを作る必要は毛頭ないのである。
 併し一般論としては、学校当局が教授の政治運動に閑し或種の拘束を規定せんとするは、学校の目的から観てそれ自身決して不当な事ではない。その規定の内容又は動機に付ては自ら別に論があらう。斯種の規定を設くることが直に学問の自由に対する圧迫だなどと考へるのは、飛んでもない見当外れの妄論である。


    私が教授ならどうする

 次に私が教授であつたならどう処置するか。他人の事は暫く措き、私一己の問題としては、一方に教授としての任を辱しめず、他方同時に忠実なる政党員たり得べしとは、私の到底夢想だもせぬ所である。一つには能不能の問題でもある。頭脳明敏加ふるに精力旺盛の英才なら格別、私共の様な平凡な者に在ては、その一つだに満足に勤め了うし得ようとは考へられぬからだ。仮りに格別恵まれた才能と優れた体力の人があり二つ乍ら共に人並の成績を挙げ得るとする。それでも彼は学界の深奥なると政界の多事なるとを望み見て、而も果してその両股の姑息なる態度に自家良心の不安を感ぜずに居れるだらうか。斯くして教授政党員両立不両立の議論は、少くとも私にとつては、能力の問題であると共にまた徳操の問題でもある。
 暫く私の個人的事情を語るを許されたい。私は政治の研究を専門とする丈けに、殊に多大の興味を実際問題の評論に傾けて居るだけに、政治運動に対して食指の動くことは絶えずある。それに色々の事情は亦常にこの方面に私の奮起を促して熄まない。この誘惑 ― と云ふては悪るいのかも知れぬが ― は私が大学教授を辞し続いて純然たる失業者となつてから一段と甚しくなつた。けれども私は、大学の教授ではないが教授であつた時と同じ心持で、単なる一学究としての使命に十分の未練を持つて居るので、大に内面的の勇気を振ひ起しては絶えず右の誘惑を斥けるに骨折つて居る。之を誘惑と観るだけ、私の小さい学的良心は、外の事に係つて其本務の些でも礙(さまた)げられることを極度に憎むのである。併し単に能力の問題として観ても、学海は茫洋として際涯を知らず為すべき事の甚だ多くして業蹟の更に挙らざるを顧みると、月並な言ひ方だが所謂日暮れ道遠きの歎を痛感するばかりである。此場合何の遑あつて他事に手を出す気になれよう。それでも時に一片の赤心事に激して已む能はざるを覚へることはある。あとで後悔するを万々承知であり乍ら、柄にもない場面に思はず飛び出すことも稀ではない。社会民衆党の産婆役をつとめたるが如きは最近に於けるその一例だ。その外にもまだ沢山あるが、恥ぢを惜んで一々は吹聴せぬ。それでも結局私がそこに永久の立場を作るを肯んぜず暫くして再び元の書斎に退いてしまうのは、一つには因循為す無きの性格にも依るのだらうが、一つには何処までも学究としての使命に忠ならんと欲するが為めに外ならぬ。繰り返して云ふ。私は今は所謂大学教授ではない、謂はば学問を好む一私人に過ぎぬ。それでも他に兼務を有つを忌むこと斯の如し。若し私が大学教授の地位に居る者であつたら、更に別個の理由に依り極度の潔癖を此間に発揮したに相違ない。
 思ふに教授は単に学生に特定の講釈をするばかりの者でなく、常に研究に専念して大に学術の発達に貢献すべき任務を有する者である。即ち教授は一つには学生を導き一つには一国文運の発達に資すべく特に設けられた貴重な地位なのである。講釈だけなら或は片手間にも出来ると云へよう。而も研究に至ては窮まる所がない。片手間に之がやれると云ふものあらば、そは教授の地位に対する大なる冒涜ではあるまいか。講釈だけにした所で、之を片手間にやられるのは実は余り好ましいことではない。政党の側になつて見ても、学校教師の片手間に党務を見られるのでは定めし頼りなく思ふことであらう。それも規律や秩序のついた既成政党ならまだいゝとする(既成政党に在ては所謂最高幹部が一切を切盛りし、党員一般の活動に待つべき部分は極めて少いから)。新興の無産政党に至つては、首領から陣笠に至るまで、大童になつて働いても到底追ツ付くものではない。故に此方に真剣に身を投ぜようと云ふのなら、今更何の余裕あつて呑気に学校の講釈などをして居れよう。故に若し私が政党の実際運動に使命を感じたとしたら、私は忍び難きを忍んで断乎として教職を棄てる。教授ばかりではない、講師としての仕事も出来るものなら辞退したに相違ない。
 その場合仮りに学校や学生から切なる留任の要求があつたとしたらどうする。私の答は極めて簡単だ。(一)教授の地位には断じて留らない。之は単に教場で講釈するばかりでなく、学術の進歩に貢献すべき地位だから、自分の如き大半の力を他の方面に致さんとする者の汚すべき所では断じてない。是非早く専心学術研究に献身すべき適当の後任者を作つて貰ひたい、(二)けれども急に後任者の求め難く之を求め得ても準備の整ふまで相当の時日を要すると云ふのなら、従来の情誼上学校並に学生に迷惑を掛けても済まぬから、暫く講師として引き続き講壇に立たう。併し之は一時の急に応ずる変則的便法に過ぎぬから、出来る丈け早く専任の教授を以て代らして貰ひたいと。 斯うした私の立場から、安部磯雄先生の執られたあの立派な態度には私は心から敬服する。之に反し大山君に同情すると称する一派が教授と政党員との両立の原則的承認を主張したあの驚くべき乱暴さ加減に至ては、私の到底了解し能はざる所である。此事件に関連して屡々引き合に出された北沢、内ケ崎両教授に就ては殆んど議すべき問題はないやうだ。内ケ崎教授は用心深くも憲政会に党籍をおいてない。而して自らは頻りに治安警察法第五条の撤廃に努力して居ると云ふ。北沢君の日本農民党顧問たるは形の上で固より何等教授の地位と矛盾するものではない。但し両君とも実際の関係に於て政党とどれだけ深い連絡を有つて居るか、そは局外から詮索するよりも寧ろ両君の自ら決する所に委すの外はない。

     余  談

 以上の論中大山郁夫君の進退に関する点は、固より抽象的の原則の論としての立言である。全体としてあの事実の裁定といふことになれば、事必しも爾(しか)く単純ではない様である。或は曰ふ、早稲田大学当局は教授連の関係する政党の如何に依てそれ/"\取扱を異にして居ると。又曰ふ、労働農民党参加を好機として或る一派は大山教授の排斥を企てたも他の一方に於てはまた斯んなことを云ふ者もある。大山教授が自分で辞表を出しておき乍ら、後に至り教授政党員の原則的両立などと唱へて自ら出した辞表の不採納を教授会に迫らんとするのは可笑しいと。又曰ふ、所謂共産系の一派は大山君の早稲田大学に於ける地位の存廃が自派勢力の消長に大関係ありと観て、大山君を強要して無理にもその地位に噛ぢり付かせようとしたのだと。其他いろ/\の流言蜚語は頻々として私の耳朶をたゝき殆んど送迎に遑ない。何処まで本当か局外の我々には一向見当が付かぬが、少しでもさうした気配ひのあるものなら、成る程あゝした大騒ぎの起るのも無理はないと思はれる。併しこれ丈けは間違なく云へる、教授と政党員との関係に付ての原則は炳として日月の如し、紛々たる陰謀に依て些でもその輝きの曇らさるべき筋合のものではない。而してこの原則の文字通りの確立の如何に緊要であるかは、紛々たる感情的暗闘に依て其事の毫末も枉げらるべきでないことを明白に示して居ると。この問題に絡んで晴々裡にこの点でしてやられたあの点で乗ぜられたなど考へては、定めし切歯扼腕することもあらう。さりとてこの一時の感情を満足させる為め何よりも大事な根本の原則を些でも歪めるのは、大局に明なる者の断じて為す所ではない。是に於て私は切に稲門数千の健児の自重を望まざるを得ぬ。そは彼等の恩師の為に大事な問題であるばかりでなく、亦実に学問の為に並に政事の為に極めて大事な問題だからである。就中、彼等が少しでも大山君をしてその「大」を成し同時に社会の為に十二分の貢献を為さしめんと欲する心あらば ― 一言にしていへば彼等が真に心から大山君を敬愛するのなら、大山君の為に尽すべき道は自ら明な筈だ。大山君をして学界に留らしむるか又は彼を実際政界に送り出すか。それは何れでもいゝ。たゞ理窟にもならない屁理窟を並べ、無理に水陸両棲の醜態を演ぜしめんとするのは、余りに恩師を利用する暴挙のやうに私には見へる。