国家思想に関する近時の論調について

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 近頃僕は、友人某君が労働者の読み物として書いた小さなパンフレットを繙き、其中に、オツペンハイマーの国家論をひき、国家の起源を「弱者に対する強者の労働搾取」に在りと説いてあるのを読んだ。国家の起源を掠奪に在りとする説明は近頃決して珍らしい議論ではない。西洋には無論のこと、昨今我国の流行思想家の中にも、此種の考を発表して居るものは非常に多い。
 今日の国家が余りに資本家本位に傾いて居ることは疑ない。従つて今日の国家の起源を論理的に尋ねて見る段になると、右の掠奪説に多分の道理あることも争ひ難い。併し国家の起源の歴史的説明として之が正しいかどうかは問題であらう。
 掠奪観の国家起源論は、現今の資本主義を呪ふ者に取て有力なる一武器である。従つて之に文句を附けることは、この有力なる武器を奪う結果となるので、動もすると一部の社会改造論者から嫌はるゝ様だが、併し真理は如何なる目的の為にも枉げられない。斯くして掠奪観の国家論は、純粋なる学問上の見地からは随分怪しいものとして批判さるゝを免れないと思ふ。
 暫く一歩を譲つて、国家の起源に関する前記の説明は歴史的に正しいものとしても、史的起源の説明は、決して直に事物の本質を決定するものでないことを知らなければならぬ。仮令国家が掠奪に起源したとしても、其の国家を永く継続存立せしめ来りし所に、該組織が何等か人類の本質的要求に適合するものがあるのではなからうか。親の命令で嫌々ながら結婚した男女の二人が、遂に識らず/\円満なる家庭を作るに至ることある様に、現在出来上つた状態の本質は、その史的起源とは全く別の根拠から発達するといふことも世間には沢山例のある事だ。
 僕の考では、人類の団体生活には統制が要る。統制は一面には教育に依て、他面には強迫に依て附けられる。人類は生れ乍らにして完全なものでなく、進歩向上の段階を踏み登るべきものである限り、此の二つの方法に依る統制は、其団体生活を完うする上に絶対に必要だ。左すれば広義の教育と共に「強制」は人性の自然に基く本質的要求と謂ふべきである。茲に国家といふ組織の合理的根拠があると思ふ。所謂無政府主義は無限の将来に期せらるべき状態を今日現に存するが如く妄想する点に誤りがある。従つて現在の生活関係の規準としては全然無意義である。
 現在の国家が、国家組織を必要とする人類自然の本質的要求を充して居るかどうかは自ら別問題だ。現在の国家の不正を糺弾し、又この点に世人の着眼を促す為に、今日世上に見るが如き種々の説明を生んだといふ事実には、深く鑑戒すべき点があるとは思ふ。此意味に於て、掠奪的国家観にも相当の敬意を表するが、併しその科学的根拠の頗る薄弱なことは、十分に心得て居るの必要があると思ふ。


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 今日の国家組織の正しくないといふ点を反省せしむる為に、無政府主義的傾向の諸学説が或る意味の貢献を為して居ることは、言ふを待たない。併し、吾々は今日如何に開発に赴いたからとて、一切権力組織を必要としないとまで言ひ切ることは出来ないだらう。故に今日若し無政府主義的傾向の諸学説が、多少の共鳴を世上に得て居るとすれば、そは純粋の無政府論が聴かれて居るのではなくして、今日の中央集権的な国家組織を打破しやうといふ点に共鳴を得て居るのであらうと思ふ。権力だの、強制だのと云ふ文字を使ひたがらないのだけれども、要するに、今日までの中央集権的な組織には倦きた、次期の権力組織は何等か変つたものにしたいといふ内心の要求に支配されて居るのであらう。集産主義の外に分産主義の説かるゝも、同じ動機から来るのだと思ふ。ソヴィェット主義が歓ばるゝのも恐らく之に外ならない。治者被治者の区別を撒し、他の言葉を以てすれば職業的政治家といふ階級を消滅せしめ、従来の被治者が自らまた同時に治者たらんとする意味を徹底するには、ソヴィェットは理想的の制度だ。真の自治主義が従来の自治制で実現されず、ソヴィェットで始めて実現されたと云はれるのも此点にある。而して之は明白に中央集権的組織の破却ではあるが、本質上決して権力組織そのものの否認ではない。正確に云へば、権力組織の改造と謂ふべきであらう。此点に於て無政府主義は、政治否認論と共に、言葉の謬用である。否認し排斥すべきは権力組織そのもの政治そのものではない。在来行はれ来りし特種の型式の国家なり政治なりである。国家と政治とは人類の本質的要求に基き永遠に存続すべきものなのである。


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 近頃盛にもてはやさる、ギルド社会主義の主張の如きは、また中央集権否認の傾向の一つを代表するむのである。中央集権打破といへば、之と相対して権力の地方的分散を考うるを常として居つたが、一つ又方面を変へて、職業的分散を考へたのが即ちギルド社会主義だ。人類の生活を最も大切な衣食の方面から観ると生産者と消費者とに分れる。従来の代表組織は、どんなに細かに分けても、要するに、消費者の立場を表はすに過ぎぬ。之からは今まで全く無視して居つた生産者の立場を考ふることが必要だといふのである。而して生産といふ方面から観ると、人はいろ/\の職業に分れる。この職業的団体がまた実に分散されたる権力の分配に与るべき当然の権利があるのだと観るのである。
 この説―否此種の説に多分の真理を含むことは言ふを待たない。従来無視された生産者としての立場を大に重んずべしといふに何人も異議はあるまい。併し生産者としての立場に対立するものを、単に消費者としての経済的立場とのみ観るは、果して正しい見解であらうか。
 人間は生産者に非れば必ず消費者といふ風に物質的にのみ観ねばならぬものだらうか。生産者としての各々の専門的立場を超越した所謂市民的立場といふものを許されぬものだらうか。此処に政治に関する根本観念の相違が起るのである。
 世間には人類の経済的生活に対立して政治的生活を説くものがある。人類の生活を動の方向に政治的なるあり経済的なるありと云ふのならいゝ。人類の生活に政治的経済的等の実質的畛域が分れて居ると云ふのなら、之れ程間違つた考はない。所謂政治的活動は、人類の生活の凡ての方面に亙つて洩らす所なきものである。何となれば政治的といふのは、人類生活分野の或方面を指称するのではなくて、生活全体の強制的規律を必要とする方面に係はるものであるからである。
 ギルド社会主義が、従来の国家を批評して人類の生産者としての立場を顧みなかつたと説くのは正しい。けれども之より一歩を進めて、国家其ものは本質的に人類の生活の全部を包括し得をいと云ふなら大なる誤りである。人はよく謂ふ。国家は本質的に人類生活の円満なる発現を期するものとしては不完全だと。之は国家は強制に依て人類生活の統制を指示するものなるが故に其れ自身完全でないと云ふ意味ならいゝが、人類生活の全班に亘らないからと云ふ意味で不完全だといふのなら、飛んでもない謬見だ。現在の国家の運用が正しいかどうかは別問題だが、要するに、今日ギルド社会主義を説く人の国家論には、随分ひどい謬見が散見するやうだ。


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 国家の本質を僕の説の如くに観ると、所謂政治的活動は人類の生活の凡ての方面に拘はるものである。従つて経済的活動に於けるが如く、生産者としての立場だの、消費者としての立場だのと、区別することが出来ないものである。一部の論者が、国家を以て消費者としての立場を代表するに過ぎずと説くのは誤りである。現在の国家がどうなつて居るかは別問題だ。本質的に観て国家は、生産者だの消費者だのといふ専門的立場を超越して、全法的活動に係るものと謂ふべきである。従つて人類生活の政治的の立場は、所謂職業を超越した市民的立場でなければならぬと思ふ。階級的国家はこの意味に於て国家の本質に合はない。
 この点に於て比例代表といふ観念は政治の本質に合しないものと謂はなければならぬ。ミラボーの言つたといふ「議会は社会の縮図たるべし」といふは誤りだ、「代議士は如何なる階級から選まれても、一旦撰まれたる以上はその階級的利益を代表するものと思ふ可らず」といふものが正しい。比例代表論は市民的立場で取扱ふべき政治を職業的立場で争はせやうといふのだから乱暴だ。
 尤も比例代表は、元の墺匈(オーストリア・ハンガリー)国のやうな先天的に融合しない多数民族の機械的集合に成れる国家には必要であつた。欧州諸国には民族宗教等の関係に依て社会的に固定した各種階級が有機的に融合せずして雑居して居るのが多い。其間にも何とか融和調合せしむる原理を発見し又は創造することが必要であるが、之が作られ見出さるゝまでは、已むなく各種の階級に其の力相当の代表を有たしむることが必要だ。比例代表論存在の理由は一にこの点にある。我国の如きに之を説くは極めて浅薄の見だ。之も政治の本質を誤解せる所から来る一例と見べきであらう。


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 人は専門の職業的立場を離れて、超越的な抽象的な所謂市民的立場なるものを取り得るものだらうか。所謂生活事実に即して人生を如実に観る人は否と答ふるであらう。之等の人の立場と僕達の立場との相違は、結局人生観の相違に帰着するであらう。之等の点はまた他日を期して詳論することゝし、今はたゞ最近二三の論文を読んで感じたるまゝを誌しておくに止める。

 

     『中央公論』一九二二年七月