貴族院改正問題   『中央公論』一九二四年九月

 昨今世情の論議に上つて居る貴族院改正問題の諸説を通覧するに、改正の要求せらるゝ方面は主として次の二点に在る様に思ふ。曰く権限の縮小。曰く組織の変更。


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 権限の縮少を論ずる者は、漠然と上院は本来下院と対等の権力を有すべきものではないと云ふ。殊に下院にも普選の実施せられんとする今日、上院が法律上同等の地位に在るを利用して動もすれば下院を掣肘するのは民主政治の本旨に反すると云ふのである。権限縮少の可否は姑く別論として、其論拠として執る所の右の説明は大変な間違だ。
 下院の組織に普選も行はれず選挙が常に官僚と政党幹部とから勝手に左右されて実質上そこに何等国民良心のはたらきの認められざる以上、上院が下院の思ふ通りに動かぬからとて文句を容るゝの資格なきは言ふまでもない。下院が近き将来に普選を採用するとして、且官民共に従来の弊竇に懲り之からは公明正大に選挙に臨むの決心や、信ずべきものありとして、其処より生るゝ下院の行動に一段と道徳的権威を増すべき見込は略(ほ)ぼ確実だと云ひ得んも、併しそは上下両院の対立関係に於て一方の道義的権威が若干増すといふ丈の話で、従て原則として上院は下院の決定を格別に尊重すべしといふ政治的慣例を発生せしむるはいゝが、法律上の制度として上院を永久に下院に屈従せしむるは決して上院設置の本来の精神ではない。寧ろ一歩進めて上院を無用とするのなら理義頗る徹底する。苟くも之を存置する以上は、万一の場合に下院に対抗して国民に反省を促すの機会を与へ以て一国家の針路を万一の邪路より救ひ出さしめんといふ趣旨に基き、制度上はどうしても下院と絶対に同等なものとして置かなければならない。謂はゞ巡査の帯剣の様なもので、之を濫りに抜かれては困るがさりとて之を取り上げて了つてはイザといふ時国民保護の職責が勤らない。之れあるをいゝ事にして抜きたがる奴があつて困る、何とか方法を講じなくてはなるまいと云ふのはいゝが、面倒だから取り上げて仕舞へといふに至ては、角をためんとして却て牛を殺すの嫌がある。無論之は上院を存置するとしての話だ。別の論拠から之が廃止を主張するのなら私にまた自ら別の意見がある。
 上院の存置を前提として論ずれば、私は権限の縮少は必要でない否正当でないと考へる。勿論此点に関しても現制度の上に多少の整理修正をする余地はあらう。併して大体上下両院は対等たるべしとの原則は動かしてはならぬと信ずるものである。そんなら上院は従来通り我儘を働いてもいゝのかといふに決してさうではない。上院は原則として下院の決定に譲るべきであるが、之は制度上の規定としてゞなく、政治運用上の慣行として止めて置きたいと思ふのである。尤も下院さへしツかりして居れば、斯んな原則は矢釜しく云はずとも自ら立つものなのである。上院の組織に此種の運行を妨ぐる底の欠陥あることは後にも説くが、兎に角、今まで当然の原則が立つべくして立たなかつたのは、一つは下院政治家の発奮が足らなかつた結果でもある。
 私の結論に対して英国の例は如何と抗弁する人があるかも知れない。成る程英国は一九二年の議会法で制度上上院の権限を著しく縮少した。が、之にはまた相当の理由がある。英国の上院は先づ全然貴族を以て成り、時々新貴族の加はるありて(我国の勅選議員に類すと観てもいゝ)清新の空気を注入する余地はある様だが、実際之は極めて少数で、大勢からいへば年々歳々共人に変りなく、殆んど新陳代謝を容れざる固定的集団と謂ていゝ。だから政府乃至下院に取つては膠柱如何ともし難きものなので、そこで制度上から権限を縮少でもしないと、疏通の方途がないのである。我が国の上院は半ば英国の上院に倣つたのだが、併し勅選議員も沢山あつて英国の如く固定して居ないから、必しも英国の如き変例を採用する必要がないのである。但し現制の様に有爵議員が過半数を占め、それが又政党的結束をなして昨今の様に跋扈するとなると、固定的形態を為す点、一寸英国の上院に類するものある所から、実は権限縮少なんどいふ問題も起つたのであらう。若し上院の組織にして到底然るべき変革を加へ難き事情ありとせば、権限縮少も已むを得まい。併し最近の世論の通り、有爵議員の数を半数以下とし且其の互選規則も変へやうといふ事になれば、権限縮少は実は左までに必要でない。約言すれば、英国に在て権限縮少で達した同じ目的を、我国に在ては組織変更で達しやうといふ次第なのである。従て吾人は、若し組織変更に蹉跌を見ることあらん乎、自然の順序は遂に遠からずして権限縮少の要求に進むべきを覚悟せなくてはならぬ。而して「権限縮少」はどこまでも危道だ。政界開展の大筋は「組織変更」を規道として進むべきものである。

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 上院組織の問題に付ては各種各様の改革意見が行はれて居るが、大別すると次の二種類になる。
 第一は消極的に上院の固定的状態を打開せんことを目指すものである。今日の上院は国内最高の智識を集め其良能を自由に活躍せしめ以て下院の決定に十二分の批判を加へしめんとの主意から全く離れて居る。或る特定の勢力が大勢を左右し、下らぬ見識が横暴を極めて居るのだ。之を打開しなくては下院のみが困るのではない国民全体が迷惑する。斯う云ふ根本目標から唱へらるゝ改革要求の第一位に来るものに(一)数の減少といふことがある。即ち有爵議員をして勅選議員より多からしむべからずといふのが之れだ。尤も之は勅選議員そのものが固定しない様に更に幾多の改正を加へられねばならぬが、孰れにしても極めて至当の要求といふべきである。猶この趣旨を一層徹底せしむる為に(二)公侯爵世襲の廃止と(三)互選規則の改正の問題がある。前者は有爵議員数を少くするといふ目的にも添うが、公侯爵だけに多大の特権を認むべからずとの純理論の方からも強く主張される。後者に至ては各爵別々か又は一所に選ましむるかの問題もあるが、実際上重大の関係あるは従来の連記々名制を存するか否かの点であらう。華族の名誉より云へば記名式で差支ないが実際論としては無記名式を可とするに一点の異議ある筈なく、又純粋なる単記がいゝか将(は)た単記委譲若(もし)くは制限連記がいゝかは尚攻究の余地ありとして、連記主義の現制の不可なることだけは、利己的偏執者に非る限り是亦何人も異議のない所であらう。
 第二は積極的に上院に清新の空気を入れんことを目的とするものである。新陳代謝は何事にも必要だ。上院ひとり此理屈に洩るゝ道理はない。さて此趣旨から唱へらるゝ要求に、(一)勅選議員制度の改正がある。現在の儘では有爵議員と同様に固定するの恐れあるのみならず、近来其任命が随分乱暴になつた所から斯んな要求も起るのだ。固定に陥るを防ぐが為に、任期を附せよとか停年を設けよとかの説がある。色々理屈を捏(こ)ねるものはあるが、何とか改めねばならぬことだけは疑を容れぬ。濫任の弊に対しては詮衡委員を設けよとの論があるが、之は実効が挙るまい。之で実効が挙る位なら、之れなくも差支ない筈だ。要は国民も政治家も此点の情弊に自覚して自ら慎戒するの風が起らなくては駄目だ。全然政治道徳の問題にして制度の問題ではないと思ふ。道徳意識を喚起する意味に於て此種の議論の唱へらるゝを喜ぶには喜ぶが、制度論としては賛成もせねば反対もしない。あつてもなくても結果に大した変りはないと思ふからである。次に(二)民選分子を入れよとの要求がある。従来の多額納税議員が毫も民選たるの実質を具へざるは言ふまでもない、之が廃止はどの点から観ても異議のない所として、さて之に代るべき新たに何物を採用すべきかが問題である。理想論として農工商を通じ夫々雇主側と被傭者側とから代表者を挙げるとか、教育、宗教、船員、殖民地等を代表する者を採るとか、下院が地域代表主義なるに対して上院に職能代表主義を加味せしむるむどは、頗る合理的の改革だと思ふ、況んや上院の半数は既に華族といふ特殊団体の代表たるに於てをや。之に異議を唱ふる者は、目の先ばかりを見る所謂実務家か、為にする所ある者か、否(しか)らずんば精密なる思索を厭ふ一知半解の横着者かであつて、今日我国でも識者間には此点の論は自ら定つて居ると思ふ。併し何時の世にも理想論の実現を見るは相当の年数が掛るもので、急激な変更を兎角好まぬ我国目下の状況としては、矢張り過渡的の改革として各府県を一選挙区とし人口に応じて上院議員を推薦せしむるといふ位の所に落ち着くのではあるまいか。之に直接選挙にするか間接選挙にするかの又は選挙の資格要件は如何等の問題があるが、其共の土台がもと/\理屈に合はぬのだから、細目などはどうでもいゝと考へる。下院と同じ様な地域代表主義で行くのなら、寧ろ下院をして推薦せしめた方が簡便かも知れない。併し執れにしても民選分子を入れたいと云ふ要求は結構だ。只質に於て上院に重きを為す底の人才が挙げらるゝ様仕組まれぬでは駄目だ。従来の多額議員の様な沐猴にして冠するものは此際真平御免である。

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 上院改革の問題は実は以上に尽くるのではない。其外上院議員も下院同様に政府と関係ある特殊会社、銀行等に就職するを禁ずべしとの説の如き、当然明白寧ろ今まで之を放任して置いたのが変だといふべき程のものである。又華族にも下院議員被選挙権を認むべしとの説の如きも理の当然であらう。憲法制定当時の如く、民間勢力に不当の畏怖を感じ之に対する防波堤として貴族院を設けし時代に在ては、会社の監査役が取締役を兼ぬ可らざると同様に、華族は人民と截然別天地を劃するの必要ありしならんも、今は然らず、上下両院は最早相牽制するを事とすべきでなく相協力すべき性質のものとなつたから、華族と雖も衆望の押す所あらば下院の議席に就くに何の不都合もない筈である。実際問題としては斯く改めても左したる実益はなからうが、併し理論上は与へるのが本当だ。某貴族院議員曰く、貴族にも下院の被選挙権を認めて自由に政界活躍の途を作てやれば、強て互選規則を改めて少数代表の策を講ずる必要はあるまいと。之は勤労に対して相当の報酬を与へ以て楽に食へる様にしてやれば、己れが借りた金は彼に返済する必要はないといふ議論である。貴族と軍閥程虫のいゝ論をするものはない。
 其外細い点をあぐればまだ沢山ある。併し主たる論点は何といつても権限と組織の問題だ。此点が整理さるれば主たる要求は皆触れられたことになる。依て私も専ら此二点に詳論を集中したのである。

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 理論上の改正論は姑く別として、更に貴族院改革論が一体どういふ縁困で起つたかを考へて見る。世人はよく下院も普選に改まるのだから上院もいつまで旧態依然たる訳には行くまいと云ふ。之も一理はある。併し上院の改革を要求する声は単に茲処からばかり起つたのではない。下院に普選が行はれ従て其面目が一新して来たとしたら、或は却て上院はどうでもいゝといふ事になりはしないかとさへ考へらる。何となれば下院の威重加れば上院は自ら其の当然の畛域(しんいき)に引き退るべきを以てゞある。故に貴院改革論の起つたのは下院のだらしなきに乗じて不当に横暴を逞うしたといふ所に存すると謂はなければならぬ。従て実際政界の問題としては、改革論の順序乃至筋書は実は此点から書き上げらるゝものと見なければならぬ。宛かも病弱の子供の健康恢復には理論上胃腸を強くするが必要だときまつても差し当り喉を悪くした所から医者に診て貰ふ様になつたとすれば、順序としては喉から先きに手当をせねばならぬのと同様である。斯う云ふ見地から貴族院を見ると、昨今の情弊は主として(一)政党的結束に依て一部の集団が大勢を支配すること、(二)其の勢力を利用して下院を不当に掣肘することに帰する。そこで一挙その権限に手を触れよとの議論も出るのであるが、之が理論上正当に非ずとすれば、貴族院の改革は次の順序に依て一歩々々堅実に其の実蹟を挙げて行くのが一番適当ではないかと考へる。
 (一) 有爵議員互選規則の改正に依て上院に於ける最大勢力の弛解を図ること。此論点の理論上の地位に拘泥して末節と做し、以て非難の主力を他に外らさんとするものもあるが、世人はこの狡策に乗てはならぬ。此の一点だけでも近く改められん乎、そは日本の政界に取て実に一大福音たるを失はない。
 (二) 有爵議員数を減ずること。(一)が改まればこの点は実際上左して苦にならぬ。併し或は再び繰り返さるることあるべき(一)の情弊を結局不可能ならしむる為に、(二)も亦絶対に必要であると考へる。
 (三) 民選分子を入るること。理に於て(三)が一番大事で(二)之に次ぎ(一)は所謂末節に相違ないが、実際の活用からいへば其の順序は丸で顛倒していゝ。否顛倒しなくてはウソだ。此点に深く国民の注目せられんことを希望する。
 猶ほ貴院改正には制度上二つの大なる制限あることを知らねばならぬ。一は摂政在任中憲法改正は許されず、従て憲法の改正を要する底の改正案は将来に期せねばならぬことで、他に貴族院令の改正に亙るものは貴族院其ものの議決を経ざれば出来ぬことである。貴族院令の改正増補は同院の議決を経ねばならぬといふを推拡して、総て貴族院に関する事は其の同意を要するの趣意だと一概にいふのは何等根拠なき妄論である。但し貴族院令の改正を法律の形式を以て下院から提案し得るや否やは学問上問題であらう。之は勅令事項と法律事項との範囲に関する学説の異同に依て解釈の岐るゝ所だが、従来の慣例に依れば立法事項たらしめず必ず勅令として発布するを要し、而も政府の専擅を許さず必ず貴族院の同意を要するものと認めねばならぬ。従て上院自ら発議することを得べきものでもない。
 貴族院令に基いて発せられたる規則例へば伯子男爵議員の互選規則の類が、貴族院の議決なくして普通の勅令同様に改正し得るや否やに就ては、有力なる憲法学者の間に消極説を主張する者あるを見るも、併し例外的規定は出来る丈厳格に解釈すべきは本則で、貴族院の同意を要するは貴族院令その者のみと限るのが正論だと信ずる。政治上の得失からいへば無論だが、法理上の説明としても、互選規則の改正に至るまで、貴族院の同意を得べきものとする筋合ではない。


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 以上論ずる所を以て明なるが如く、現下の政治問題として観ると、貴院改革の要求は謂はゞ貴院の大半を左右する大勢カの専横に対する国民の挑戦である。加之順序として先づ互選規則の改正に力を注ぐとすると、そはまた自ら第二第三の勢力に対しても挑戦することになる。そは例へば研究会の専横に対抗せんとて公正会が生れたとする。公正会は研究会に抵抗すべき勢力を作る為に実は彼と全く同じい方法に出で、所謂選挙母体の結束に浮身をやつした。選挙母体の結束をつくる為に如何に悪辣なる手段が弄され又如何に怨恨憎悪の因子を諸方に蒔いたかは世人の既に熟知する所であらう。夫をも押し切つて進んだのは畢竟幹部の連中に今に見ろと云ふ腹があるからではないか。而して今に見ろと高を括り得る所以は、一にも二にも連記制の御蔭に外ならない。然るに若し連記が単記にでも改まらうものなら、釣橋の上で刃物を振りかざして天下を睥睨してゐたお山の大将が、綱を切られて河の中に真逆態(まっさかさま)に落さるる様なものだ。故に今まで威張り散らして得た連中に取つては、実に容易ならぬ面目上の大問題なのである。是れ本問題に就ては流石の研公二会も遂に相連繋して猛烈に反対する所以である。気の弱いものが、せめて来年の選挙だけは旧規則で行きたいと一時の栄華に恋々たる所以も亦実に茲にある。彼等が何と言ひくるめやうとも、国家全般の幸福の為にはどうしても此点に一大英断を施さなくてはならぬ。而して是亦実は華族社会の本当の開発にもなるのである。

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 世間にはまた政府ならびに聯合三派に貴院改革の具体案がないとて責める声も聞える。具体案が本当にないのなら大に責むるの値あるが、併し此問題たる元決してそんな六かしい事柄ではないのである、俄に考へたとて相当の案がないわけはない。事実の推定として私は政府にも三派にも具体案がないとはどうしても信じられない。
 尤も具体案の有無そのものと、之を有ると発表するか否かの問題とは全く別だ。私共は有るものはあると明言して公示し、民意を後援として之でヒタ押しに押す様の男性的政治を冀望するのだけれども、日本の政界は不幸にしてまだ斯んな処まで進んで居ない。昨今は民間の後援も中々力強い。併し伝統的勢力の惰性的威圧もまだ馬鹿には出来ぬ。迂ツかりすると之から先き何んな所で揚足を取らるゝか分らない。加之之等の対手は元来何を考へて居るのか分らない、理窟で押せぬ我儘者が多いのだから、民間政客も之を相手に旨く世間を渡らうといふには、予め明確の政綱を掲げて置かぬ方が便利だ。是れ従来の政党が極めて漠然たる政綱をかゝぐる一方に於て、根本的決定は一に総裁専制に一任し、以て臨機応変の妙に処するを得しめて居る所以である。単にそれ斗りではない。貴院改革の論議も少しく慎重の態度を弛めると、朝憲を紊乱するなどゝ妙な所で陥穴に追ひ込まるゝ恐なしとせぬ。現に研究会の某氏の如きは、貴院の徹底的改革は国家組織の根本と相交渉するなどゝ威(おど)かして、改革の威儀を挫かんと苦心してゐるのもある。之等の点を顧慮すると、政府ならびに与党が具体案の公示を避けるのは、当今の政情の下に於ては已むを得ないと見てやらねばなるまい。敢て頼まれもせぬ弁護の労を取る積りはないが、其の能くせざるを責むるに急いで出来る仕事を徒らに困難にするは控へたいと思ふ。若し夫れ彼等が所謂「善処」の二字に隠れて迎合を是れ事とし、順を追うて徹底的革正を遂ぐるの勇気を欠かん乎、そは固より永く吾人の寛容を恃み得るものではない。