支那の形勢


 張作霖の北京落ちで支那の形勢は急変した。但し格別予想を外づれた急変といふ訳ではない。所が奉天郊外に於ける乗車爆破の惨劇に依て変調は更に一層の著しさを加へた。運の強い張作霖は九死に一生を得たとは云ふものの、毎日の新聞は傷害の重大を以て生死の見定めがつかぬと報じて居る。孰れにしても張家の没落は最早疑を容れぬ事実であり、国民軍に依る支那本土の統一と云ふ事の上に、更に満蒙形勢の急変といふ事が加はり、隣邦の形勢は今や九天直下の姿にある。併し繰り返して云ふが、斯の如きは決して我々に取て意外の変転ではない。若しそこに何等か少しく意外なるものがあるとすれば、其変化の余りにも急激なることだけである。案外に早くは来たが落ちつく先は予定通りだと謂つていゝ。従てまた這の急転に際して如何の対策を講ずべきかに付ても、我国として今更狼狽すべき筋合ではない。怠慢でなかつた限り、政府当局に於ては疾くの昔に相当の対策が講ぜられて居た筈だ。

 たゞ国が近いだけに、従てまた利害関係の密切なだけに、熱烈なる希望が冷静なる形勢の観察をあやまらしめると云ふことが無いでない。愛情に溺れた親がとかく子女の欠点を見損ひ、又儲けたい/\一心で突進する商人が飛んでもない誤算から大損をする等の例にも現はるる如く、斯くあれかしと熱心に真ふ心の闇は、動もすれば灯台の足許を暗からしめずば熄まない。支那の問題に付て、殊に満蒙の問題に付て、我国一部の論壇に抑も斯の弊なしと云ひ得るか。政府の一角にすらこの弊ありしことの結果は、現に惨澹たる禍害を今日に残して居るではないか。満蒙に付ては、就中張作霖との関係に付ては、自己の利害より打算して公正を装うた得手勝手の議論の行はれんことは、今より大に警戒の必要があると思ふ。

 尤も満蒙形勢の変と云ふことに付て具体的のことは未だはツきりとは云へない。張家覇業の破滅と云ふことだけは断言出来る。之に代つて如何なる種類の勢力が支配者の地位に立つか分らない。が、要するに問題はたゞ二つに分れる。誰が支配権を握るにしてもそが支那本土の国民政府と連絡を取るか否の点是れである。例へば張学良が一時父の地位に代り立つとする、満蒙は事実に於て暫く北方の一独立地域たるの形を続けよう。之に反して別に楊宇霆が推されたとする、やがて満蒙は統一された支那共和国の一部分となるに相違ない。二十余年張作霖に依てかためられ其の以前といへども絶へて革命の風潮に見舞はれなかつた満蒙のことだから、変るにしても他地方の如く急激でないのは当然だとして、結局この地方が永く統一的風潮の外に立ち得るか否かは問題である。満蒙だけは別天地だと考へる人は我国に案外に多い、中には我国の力で優に別天地たらしめ得ると信じて居る人さへもある。将来の対策を考ふるに際して、此等の点に慎重なる攻究を加ふることは最も大切だ。但し我国が満蒙に一於て特殊の利益を有つといふことと満蒙を別天地たらしむべしと云ふこととは、全然別個の問題である。

 南方国民軍の北支略服を以て漢土統一の端と観る人は、満蒙も必ずや近き将来に於て統一民国の一部となる運命を疑はぬであらう。従来の行掛り上こゝ暫くは満蒙に於ける覇政の絶滅を期し難いかも分らない。併しそはたゞ時の問題に過ぎないと観る。張作霖の代りに誰れが覇王となつたにしろ、其人の使命は、暫く満豪の混乱を抑へ機の熟するを待つて徐ろに之を中央に捧ぐる役目をつとむるに過ぎない。新に前清朝の遺孤を奉じて独立帝国を建つると云ふが如きは、到底大勢が許さないと思ふ。然らば我々が満蒙対策をたて直すにしても、結局の大勢の何処に趁(はし)りつゝあるかを看取することは、極めて必要な事とせられねばならぬ。
 たゞ問題は隣邦今日の形勢を以て統一大業完成の端緒と観るべきや否やの点である。支那の事といへば朝にして暮をはかられざるを意味すとされる程に、彼地の形勢は由来転変極りなかつたのである。之れ丈けを念頭におけば、今日支那本土を統一するに成功した国民軍政府をも、我々はいつまで恃みにし得るか分らぬことになる。之が結局あてにならぬとすれば、満蒙の形勢も固よりどうなるか分つたものでない。我国の力で如何様に左右することもまんざら不可能でないかも知れぬ。故に今日の国民党政府の基礎は一体どれだけ堅いのかと云ふが最も主要な問題になる。此点に関し最近操觚界の輿論が大体に於て私のかねて聞知すふ所と一致するのは、私の亦ひそかに意を強うする所である。

 結論は今更云はなくとも分つて居るだらう。私はたゞ茲に支那革命運動の歴史を回顧して憂国志士の不屈不撓の活動を讃美したい。
 満人の支配に対する漢人の憤懣を引つ張つて来るなら、支那の革命運動は清朝の成立と共に起つたと謂はねばならぬ。近代精神に目ざめての新しき意義の革命運動を、孫逸仙の初次の陰謀にはじまると観れば、それも今となつては既に三十四年の昔に遡ることになる(孫逸仙が初めて広東に事を挙げんとして破れたのは明治二十八年晩春のことである)。隣邦有為の青年が我が東京に於て中国革命同盟会なる秘密結社を作つたのは明治三十八年である。例へば板垣退助の下に集つた自由党が今日の政友会の前身だといふよりも、モ少し強い意味に於て、この同盟会は今日の国民党の前身であることを思へば、支那の革命運動が孫文といふ英雄の個人的事業から青年学生を網羅する国民的事業にまで進展してからも、今日まで既に四半世紀の星霜を経て居るのではないか。国民的革命運動は遂に明治四十五年十月を以て清朝を斥くるに成功した(清朝の正式に退位したのは翌年の春だけれども)。併しその結果として出来た中華民国は、共和政治の外形を備へてその実永い間官僚軍閥の専恣横暴の為め、如何に多くの苦盃を飲まされたか分らない。此の間また彼等革命志士の忍辱は十七年も続いて居る。其間固より事に当る人を代へたことは一再にとゞまらない。革命の事業蹉(さた)として振はざるを歯痺ゆがり支那人の為すなきを罵倒する声も可なり我国に高かつたが、今にして思へば、革命の精神があらゆる強力の伝統と衝突しつゝ、不屈不撓その目ざす標的を一心に見つめて傍眼もふらず驀進した武者振りには、真に敬服に値するものがあつたのだ。三十余年の踏みかためられた地盤を有する革命の精神が今日いよ/\多年の翹望たる北京を乗取つたと云ふことは、一体我々に何事を語るものであるか。
 孫文がはじめて革命運動に手を着けた頃は、清朝がまだ全盛を誇つた時代であつて、彼の一味は全く郷国に身をおけず常に国外に亡命流離せざるを得なかつた。この時代彼等が如何に数奇惨澹の生活を送つたかは、今に之を熟知する者我国にも頗る多い。而も彼は屈せず機会を見ては運動を繰り返した。又彼に応じて起つたものも外に少くはない。けれども出ては潰され一刻も芽を吹くの余地を与へられず、斯くして革命党は殆んど根を絶やし幹を枯らさるるの趣があつた。中華革命同盟会の成立に依て新に盛容を張つた第二期に入つても、革命運動は漸く衰頽の色を現した清朝に対して猶ほ物の数にも足らぬ微弱なものであつた。革命運動の二大人傑孫黄の連繋成り、天下の青年其下に集りて悪く彼等の制令を奉ずといへども、偶々挙ぐる所の彼等の策動は、徒らに有為の青年を非命に斃すにとゞまつて些の実効を挙げて居ない。只遠く辺境に在て清朝勢力の末梢を刺激し得し位が、第一期に比して多少の進展を見たと云へば云へる。やがて革命は第一段の成功を告げ、中華民国の建設を見た。併し之に満悦の祝盃を挙げたのも束の間で、一代の怪傑袁世凱を頭領に仰ぐ北方官僚の一団は容易に実権を革命党に譲らない。従て革命党よりすれば、前門に虎を防いで後門に狼を迎入れた形になり、革命成功の外形の下に政治は依然として従前の専擅に毫末の改善を見なかつた。外形の成功を更に実際真実の成功たらしむる為に、彼等は更に袁世凱と戦ひ、段祺瑞と戦ひ、誰れ彼れと続いて最後にまた大に張作霖と戦はねばならなかつたのである。これが実に今日までの形勢ではないか。而して今や彼等は始めて多年の苦心が酬へられ、北京の攻略に由て支那本土を完全にその管掌の中に収め得たのである。こゝまで来るにどれだけの貴い多くの犠牲が払はれたか。真に七転八起の苦みを嘗め尽した跡を思ふとき、彼等の作つた這の大勢は最早支那に於て抑へ難きものなるを思はざるを得ぬ。大勢の進みは或は至て緩慢だともいへよう、併しその歩武の確実なるは亦他に多くその倫(たぐい)を見ない。少しく眼識ある者は必ずや之に逆行することの如何に無暴なるかを感得するであらう。


 形勢の変に基く我国新対策の何であるべきかは、漸を以て具体的の形に現はれ来るであらう。吾人も亦爾今必要に応じて之れが講究と評論とを怠るまい。たゞ予め一言して置きたいことは、此際我国も亦根本からその概括的態度を改むるを要することである。と云ふ意味は外でもない。第一に我国は従来専ら隣邦の旧勢力を眼中に置いて来た。尤もこれは古勢力に故らに阿(おもね)つたのでもなければ又不当に新勢力を無視したのでもない。一国の外交方針としては現存の勢力を有りの儘に認めて之を交渉の相手とするは已むを得なかつたのである。而して今や此点は全く方針を改めねばなるまい。第二に我国は彼国の内紛容易に安定せざりしの結果として自衛上種々の特権を要求せねばならなかつた。所謂我国の有する既得権の中には、最近の形勢の変化に伴つて、我から進んで棄て去らねばならぬもの又棄て去るを得策とするものもあるに相違ない。一旦獲たものは事情の如何に拘らず之を離してならぬとするは、特に親善の関係をいやが上にも開拓すべき支那に向つて執るべき態度ではなからう。況んや所謂既得権の中には、或は支那自身の向上発展の為に多少の障害たるものもあるべきに於てをや。之等の点に付て我々は出来る丈け虚心坦懐でありたい。無暗に同情を押売りして宋襄の仁を学ぶ必要は固より毫末もない、遣れないものは返さぬことに決めてもよく、欲しいものは新に請求しても一向に差支はない。要は共存共栄の原則に基き胸襟をひらいて新に両国将来の関係を協定することである。之が為に私は従来の行掛りや約定やを無暗に引援せぬ様にしたいと考へるのである。
 之を一言にして約せば、要するに、支那と日本との将来の関係は在来の約定に基いて決めらるべきものでなく、主としては一旦白紙の状態に還りて別に新に両国の利害を省量し、純然たる理義の指示に遵つて決めらるべきであると云ふに帰する。

                      〔『中央公論』一九二八年七月〕