選挙権拡張論     『六合雑誌』一九一三年一一月

 つら/\我が国に於ける政党が従来、其の党勢拡張の方法を見るに、多くは地方の利益問題を提げ来つて、之を餌として、地方の人民を釣るといふが如き有様であつた。各政党共に、殆んど一として其の主義綱領を掲げ、輿論に訴へて、之を成就するが如きものはなかつたのである。たま/\大正の政変は、所謂「二月革命」を起こして、桂内閣は瓦解し、遂に立憲同志会の成立を告ぐるに至るや、同志会は極力其の地盤拡張の為めに、地方遊説を試みた。兎にも角にも、到る処に演説会を公開し、其の主張を陳弁して、輿論の批判を求めたのである。事態斯くの如くなるに及んでは、政友会も亦黙視する能はずして、遊説員の部署を定め、新党対抗の策に出でたのである。事を隠微の間に決せず、正々の陣を張つて、旗鼓堂々の間に見ゆ、政治の公開―これたしかに憲政の一進歩として、慶賀するに躊躇しないのである。
 併しながら、これは表面丈けの事実で、其の内幕を見ると、実は正反対である。所謂御馳走政略なるものが巧みに行はれて、暮夜饗宴遊楽、事は多く脂粉の香紛々たるの間に決せられてしまふ。これでは何の役にも立たない。勿論今の政治界に於いても、全く言論の勢力がないといふのではない。総選挙の際などに於いては、随分言論の実力も認められて居る。けれども、これとても亦、多くは其の時にのみ限られて、平時には全く用ひられない。否、総選挙の際といへども、最後の決着は言論の力にあらずして、畢竟金力である。それも少し許りの額ではなくて、少なくとも四五千円、多くは五万十万といふ多額に達するといふに至つては、如何なる偉人といへども、金力の後援なくしては、当選を期し難いこと、なる。言論、学問、識見、手腕は何の力にもならずに、たゞ金力の如何によつて定まるといふが如きは、決して健全なる現象といふことが出来ぬ。而して其の結果はと言へば、言ふまでもなく、議会に人物が集まらぬといふことである。議会に人物が集まらぬといふは、すなはち議会が政府を監督するの力を有せぬといふことである。議会が政府を監督するの実力がないといふのは、畢竟するに、人民の意思によつて、政治が行へぬといふことである。
 第一、多少の識見を有する者は、馬鹿々々しくて、政党者流の仲間入をしやうとは思はないのである。言論や手腕あることが、政治家として何の重きをもなさぬからである。そこで政党は人物欠乏といふことになる。人物が欠乏して居るから、いざ政党内閣が出来たといふときにも、政党内の人物を以ては、内閣を組織することが出来ぬ破目になる。山本氏、奥田氏等が、政友会に入党といふことになつたのも、法律上の議論は別として、畢竟政党―議会―に人物なきことを証明するものである。英国の立憲政治が、早く大に発達したのは、畢竟政党に人物が集まつたからだ。仏国も亦然りである。米国の立憲政治が時々まごつくのも矢張議会に人物のない結果である。故に立憲政治の発達如何は、繋つて政党及び議会に人物が集まるや否やにある。而して遺憾ながら、我が国選挙界の現状は、第一流の人物を議会に送り得ぬ状態にあるのである。

      二

 日本に於いては、第一流の人物は、議会に集まらずして、寧ろ直接に政府を組織し得る部分に集まつて居る。無論、日本は今過渡時代にあるから、一概にいふことは出来ぬが、政友会の大を以てしても、内閣大臣の全部を自党内部より出すことが出来なかつた。要するに日本に於ては、政治の中心点は議会を離れて居る。
 そこで、議会は常に主動者の地位にあらずして、受動の地位に置かれてある。併し受動の地位にあるとは言へ、憲政の運用上、必要の機関であるからして、議会の同意を求めねばならぬ。是に於いてか、所謂議会操縦なるものが行はれるので、幾多の罪悪の根源は、則ちこゝに伏在するのである。勿論政界指導の任に当る人は、其の懐抱する政見に従つて、万般の政務を処理するけれども、一方議会操縦の必要の為めに、種々の公正を欠く手段の行はるゝは、避くべからざる所である。然も其の手段たるや、極めて巧みに運用するにあらざれば、容易に政権を掌握すること能はざるが故に、苟くも当今の日本に於いて、政界の要路を占め、其の実権を握らんとするには、単に政治上の手腕識見あることを要するのみならず、また別に政界の時流に通じて、樽俎折衝(そんそせっしょう)の妙味を解することが必要条件である。是に於いてか、政治は遂に一種の専門の職業とならざるを得ない。一度専門の職業となるや、其の事を共にするものが、互に連盟して、堅く城壁を築き、飽くまでも其の地位を頑守せんと努力するが故に、足一度其圏外に出でたるものは、たとひ前述の諸要件を備へたる俊英の士と雖も、復た政権に近づくを得ないのである。例へば清浦子、高島子、伊東子等の如き、海千山千といふ人々であるが、一度桂系を脱出すれば、再び廟堂に立つの機会を捉へることが出来ぬのである。山本伯の崛起の如き、実は偶然の機会を捕へたのである。これは決して健全なる現象ではない。かゝる現状を打破して、見識あり、手腕ある人々をして、自由に内閣を組織せしめ得るやうにせねば、立憲政治の発達は、到底これを期待することが出来ぬのである。
 彼の米国を見よ。現大統領ウヰルソン氏の如きは、もとこれ一介の学究ではないか。然も其政治家としての経験の如きも、短期間の知事たりしことみるに過ぎない。然るにも拘らずして、一度其の手腕あることを認めらるゝや、民主党より大統領候補者に推され、見事勝利の月桂冠を贏ち得た。而して彼は就任後間もなく、自分の旧同僚たるウィスコンシン大学教授レインシュ氏を抜いて、これに支那公使たるの栄誉と責任とを与へた。而してまた彼の万国基督教育年会同盟総幹事モット博士に対しては、英国の大使たらんことを懇請したのである。以て如何に一切の情実を無視して、切に能才を擢用しつゝあるかを知ることが出来る。吾人は真に健羨の情に堪へざるものである。
 言論をして物言はしめよ、而して学問識見をして金力以上の権威たらしめよ。斯くの如くするにあらずんば、憲政の発達は空中架楼に終るであらう。而してこれを成就する所のもの、勿論、宗教家、教育家等の協力を要するのであるが、こゝに制度改正の一面よりいへば、予は遂に普通選挙論―選挙権拡張論―を提唱せざるを得ない。これたしかに一要素、否、一大要素であると信ずる。

      三

 普通選挙にすれば、如何なる利益があるかと尋ねる人があらう。予は直ちにこれに向つて答へたい。普通選挙によれば、候補者は最早金力を以て争ふことが出来なくなる。否でも応でも金力以外の要素すなはち言論、学問、識見を以て争はざるを得なくなる。これ憲政の一大進歩にあらざるかと。これは既に大選挙区制に於いて明かに認むることが出来る。況んや普通選挙になつては、選挙人が非常の多数になるから、中々金力が届き兼ねる。従つて買収は止むのである。これは西洋先進国の実例によつて、明かに知ることが出来る。
 既に金力の及ばざる所、これ則ち言論、識見、雄弁、操守、学識、人格の天地の開くる所である。其の結果は、左の二大利益がある。
  (一) 当選を欲する者並に、後援の政党が、大に人民の教育をすることゝなる。
  (二) 議会に人物が集まる。
 人民教育の一事は、ひとり総選挙の時のみならず、平常よりカを入れてかゝるのである。西洋の政党などは、何処へ行つても大なる出版部を有して居て、種々の時事問題に就いて、平明に解説し、又意見を陳べたる小冊子を、幾十万となく印刷して、極めて廉価を以て販売し、以て其の普及を図るに努むること、実に驚くばかりである。我々研究者なども、其の出版部へ行きさへすれば、独り其の政党の出版物のみならず、学者の著書、反対党の著書なども集めて居るので、極めて便利を得るのである。また夫れ/"\の新聞紙は、絶えず人民を教育して、自他の立場を、人民に了解せしめんと努めて居る。且つ毎年其の年頭に於て、政治上の出来事の年報を発行して居るが、これは学者に取つても参考となるもの多く、極めて有益なものである。若し夫れ総選挙の際の如きは、実に死物狂になつて、輿論の後援を得ることに努むるので、人民の教育されることは、実に非常なものである。
 斯くなつては、最早金力などが、物の役に立つものでない。従つて苟くも自信ある者は進んで、政治の舞台に出でんことを希ふに至るのである。そこで一種の激烈なる生存競争が行はれることになつて結局全体に於いては、議論の筋の立つた、識見手腕ある人が選出されるやうになるのである。よく世人は西洋の議会は、政府を圧迫するとか、下院が上院を圧迫するとかいふのであるが、これは決して偶然でないので、畢竟するに人物の問題である。下院に人物が集まれば、上院を圧迫し、議会に人物集まれば、政府を庄追する、これ寧ろ必然の理である。だから上院に人物が集まれば、逆まに下院を圧迫し、政府に人物が集まれば、議会を圧迫することもないとは言へぬのである。世人或は、英国に於いては下院が重きをなすところから、下院は皆さういふものと心得て居るが、仏国は寧ろ反対である。これ従来の伝説を破るものである。人物を議会に送ることが、如何に憲政の発達に関係するかは、今更喋々するを要しないのである。

      四

 普通選挙に対する反対説は、日本には中々に多い。予も亦固より、文字通に之を主張するのではない。要は選挙権の拡張といふことにあるので、例へば、従来直接国税十円以上の納税者に権利を与へて居たものを、五円以上に改めるとか、又はそれも直接税のみならず、間接税=消費税にまでも及ぼすとかいふが如きも、勿論よろしいのである。而して今其の普通選挙に対する反対説の重なるものを列挙して見れば―
 第一、普通選挙を行ふには、其の選挙権を行使するに適するまで、人民の程度を高めざるべからずとの説。 此の説はノンセンスである。例へば現在の制度に於いても、直接国税十円以上を納付する者は、果してよく其の選挙権の行使に堪へ得るものであるか。否、事実は全く之に反して居る。頻々として買収の行はるゝは何の状ぞ。予を以て之を見れば、現在有権者の三分の二以上―少なくとも過半数はたしかに正当に権利を行使し得ぬ者である。則ち此の議論を貫かんが為めには、遂に現在の制度を改正せざるべからざるに至るであらう。又十円の制限も、之を直接税にのみ限るは不公平である。よろしく之を間接税にも及ぼすべきで、之を直接税に限るは、正に富豪に偏する者である。更に進んで、之を欧洲先進国の実例に徴するも、人民の程度高きに及んで、普通選挙制を採れる国は一もないのである。欧洲に於いて、普通選挙制度を採用した時代の人民の程度は、今日の日本人よりも遥かに低い。否、今日と雖も、平均の教育程度は、日本の方が寧ろ高からう。たゞ日本に於いては、従来の教育方針なるものが、教育政治峻別の制度に出でたので、日本人は割合に政治の事には盲目であるが、一般文化の平均程度は、日本の方が高からうと思ふ。国民に政治的教育を施さずして、政治的智識なきが故に、之に選挙権を与へずといふが如きは、恰も動物を檻中に繋ぎながら、檻外の食物を取つて食へといふが如きである。欧洲に於いて普通選挙をして差支なしとせば、日本に於いても亦差支なしと認めて、何の不可なることがあらう。
 第二、普通選挙にすれば、人民が社会主義などの煽動に乗つて、過激なる変革を喜ぶに至るとの説。
 これは重に保守主義の人の恐るゝ所であるが、此の憂は一応尤もである。けれども人民に政治教育を施さねばこそ、かゝる憂もあれ、若し政治教育を充分に施すならば、かゝる憂は断じてあるまいと信ずるのである。今日の日本に直ちに普通選挙を行へば、一時は弊害も起るであらう。併し各人各党を競ふの結果、政治的教育が充分に行はる、やうになれば、附和雷同の弊は次第に減ずること、思はれる。欧洲の歴史よく之を証明して居る。普通選挙を直ちに日本に移すことは出来ぬにしても、之を行ひさへすれば、何時でも軽卒に人民が附和雷同するものと見るは、吾人同胞を侮辱するものである。


     五

 今仮りに百歩を譲つて、社会主義の如き急激者流が要路に立つたとせば、如何であるか。無論予は社会主義に対しては、正反対の意見を有するもので、従つて社会主義並に之に類する者が、政界に勢力を占むるが如きは、喜ばざる所であるが、議論上かく仮定して見れば如何であらうか。予は彼等が実権を握れば握るほど、思想行動共に穏健になることを信ずるものである。否、これは事実の明示するところである。仏国の社会党、瑞西の社会党の極めて穏健なるは申すまでもなく、特に社会党の過激なるべき理由ある独逸に於いても、所謂修正派の勢力は日に増しつゝあるのである。今年五月を以て没落したる濠洲聯邦の首相フィッシャーが、七八年前労働党の首領として、内閣を組織したる時に、世界に於いてはフィッシャーが、如何に急激突飛の変革をなすべきかと、注目を怠らなかつたが、事実は甚だ案外で、極めて着実穏健なる社会政策的政治を行うたに過ぎなかつた。勿論其の間に多少の失政はあつて、其の結果今年の五月自由党に代られたのであるが、世界の操觚者は、筆を揃へて、フィッシャーの内閣を以て、最近に於ける理想的の善政をなせりと賞讃したのである。だから普通選挙の結果、一般民衆の勢力が如何に政界の実権を占めたればとて、保守派の人々が不当に之を攻撃せざる限り、国運の進捗に差支なきのみならず、それ以外の方面に於いて、寧ろ大なる利益なるを信ずる者である。
 予は以上の理由を以て、憲政の進歩の為めに、選挙権の拡張を希望するのである。