民本主義鼓吹時代の回顧
私がいわゆる民本主義の鼓吹を目的とする論文を『中央公論』に書いたのは大正五年(一九一六)一月である。「憲政の本義を説いてその有終の美を済(な)すの途を論ず」と表題も長いが紙数も百ページにあまる、あのころとしては珍しい長い論文であった。しかし内容にはもとより別段の新しみもなけれは、とくに識者の注目をひくに足るべき創見もない。ゆえに一部の人からは、いたずらに冗漫を極めたかつ浅薄な駄論として誹(そし)られたのであるが、しかし一般の論壇は案外これを重視したものとみえ、いろいろの人からいろいろの評論が書かれたはかりでなく、私の論文を中心としてさらにまたいくたの波紋がえがかれ、爾来こうした方面の政治評論はとんと隆盛を極むるに至ったようである。これしかしながら私の論文になんら卓抜の見あるがためにあらず、ただそれがちょうどあのころ政界の問題になりかけていたほとんどあらゆる点に触れ、かつこれに相当詳細なる釈明を与えつつ、当時欧州先進国等の提示せる諸解決をややわかりやすく書きつらねたからではなかったろうか。ゆえにもし私の論文に多少の取るべきところありとせは、そはその学的価値に存するにあらず〔この点はむしろ今日私の大いに慚愧するところである〕、たくみに時勢に乗ってその要求に応ぜんとした点にあるのだろう。したがって私があの論文において何を語ったかを吟味するは、また一面においてあの時代の要求の何であったかを明らかにするゆえんにもなると考える。以下、当年の時勢を語らんとして少しく私自身を語るに過ぐるを許されたい。
二
あの論文において私の主張せんとしたところは、要するに次の数点に帰する。ただしいま手もとに原文を持っていないからいちいち精密に対照するわけにほ行かぬが、記憶をたどって書いても大した誤りはないつもりである。
一 | 近代の政治は人民の意向を枢軸として運用される、またかく運用されなければならぬ。この意味において輿論はすなわち政界における最終的決定者だ。 |
二 | いわゆる輿論は形式上人民の多数によって作らるる。これを逆にいえば、いかなる思想も一人でも多くの賛同を得ることに努めなければ「輿論」という特別の地位を占め得ない。したがlっつて「輿論」の生成の実際的過程にあっては、つねに諸思想の生存競争が行なわれる。しかしてこの生存競争の正当に行なわれるかぎりにおいて、多数の支持協賛によって生まれる輿論に道徳的価値が認められ得る。これと同時に、合理的に行なわるる生存競争が一般民衆に対して多大の教育的効果あることもまた申すまでもない。 |
三 | 「輿論」となるべき思想そのものは、概していうに、現代の民衆の直接に与り作るところではない。それの実質的創成はつねに少数り哲人に待たねばならぬ。したがって政界の進歩を掌る指導的原理は、少なくとも現代にあっては、必ず少数哲人の作るところである。ゆえにたとえはモッブによる一時的政権専占というがごとき例外変態の場合を除けば、あらゆる形態の政治は内容的にはみな哲人政治だといえる。 |
四 | ただ近代の政治は、少数哲人の思想をただちに指導原理としてこれに最高の形式的地位を与えぬ点において、旧時の専制政治と違う。専制政治においては、何が最高最善の思想であるかを機械的に決め、これに反対する考えの存在を絶対に許さず、しかしていっさいの問題の解決をこれに託して安んじ得べしとする。これに反していわゆる近代政治にあっては最高最善と称するものの多数存在するの事実を認め、そのいずれをもって真に採るべしとするかは、直接に利害の影響をこうむる一般民衆の明知によって判断せしめんとする。ゆえにいわゆる輿論を実質的に創成するものは少数哲人だけれども、これを形式的に確定するものは民衆だということになる。 |
五 | この点において近代政治の理想とするところは絶対的民衆主義とは相容れない。十八世紀末の欧大陸に一時流行したような、しかして昨今ある一部の人が宣伝的にいいふらすような、一般民衆それ自身がただちにすべての問題の決定者たるの能力を完全に具備すとなすがごとき説明は、とうていその納得し得るところではない。実際の運用からみても、今日の民衆はつねに少数専門の指導者を必要とし、いわゆる指導者はまた民衆とふだんの接触を保つことによってますますみずからの聡明をみがいて居る。要するに民衆は指導者によって教育され、指導者は民衆によって鍛錬される。彼此たくみに相連なるのこの関係を表示せんがために、私はことさらに貴族的平民主義だの平民的貴族主義だのという言葉を使ったこともある。 |
六 | かく論じて私は、近代政治の理想は要するに最高最善の政治的価値のできるだけ多くの社会的実現を保障するところにあると説いた。しかしてそれの数ある特徴のうちもっともいちじるしいのが民衆の意向を重んずるという点にあるので、かりに私はこれに民本主義の名称を与えたのであった。 |
ここに、ついでにちょっとことわっておきたいのは、民本主義という言葉は私の作ったものではないことである。民主主義と率直にいってはその筋の忌諦に触れる恐れがある、これを避けてこんな曖昧な文字を使ったのかと非難されたこともまれでないが、そんな非難はあえて気にかけるにも当たらぬとして、事実私の作ったものでないことだけは、一言これを明白にしておきたい。私がこの文字を使ったのは、当時すでにこれが多くの人から使われておったからなのだ。もっとも多くこの文字を使っておられたのは茅原華山君であったと記憶する。欧州留学から帰りたての私は突如こうした用例に接し、なるほど便利だと思って、ちょっと踏襲してみたまでの話、実はあまり適切な表現とは信じていなかった。ゆえにその後の論文には必ずしもこの例に拘泥せず、率直に民主主義と書いたこともたびたびある。民本主義なる文字の創唱に関してはかつて茅原華山君が自分でおれが作ったのだと名のられたことを記憶して居るが、同じようなととを上杉慎吉君の書かれたものの中に見たこともある。
七 | さて右の趣旨を貫徹するための制度として、現今開明諸国に通有なる立憲代議制は適当かというに、これには種々の異説がある。本質的にだめだという説もあり、そうでないとしても今のところとうてい改善せらるべき見込みは立たぬという説もある。いわゆる議会否認論も昨今なかなか優勢だが、しかし私は在来の憲政運用にいくたの欠陥あるを認めつつ、なおこれに改善を加えて、理想的状態に向上せしめ得るとする通説の立場を執り、この見地から主としてわが国の現状を批判し、二、三の改革意見を述べたのであった。当時フランスなどにてはサンジカリズムの運動がだんだん頭をもたげつつあったけれども、全体として大した勢力ではなく、ロシアはいまだ帝政の下にあったので、議会否認の見地に立つ諸説明には、当時として実はそれ以上深き攻究を払う実際的必要もなかったのである。 |
八 | 今日の立憲代議の制度の下において、前述の理想を貫徹せしめんには、何よりもさきに下院の地位に深甚の注意を払わねはならぬは論を待たぬ。この点においていちばんに問題になるのは普選の実行だ。ただし普選といってもそこには種々の段階がある。何がもっともよく下院を少数有産階級の独占から救い出し、これを完全に多数民衆の利害休戚の発現所たらしめ得るか。この目途を明瞭に意識してのみ、はじめてもっとも正しきかたちにおいての普選法が獲られ得る。ドイツではただ普選といったのでは間違いが起こるとて、「普通・平等・直接・秘密の投票権の獲得」を叫んでおった。選挙権の単純なる拡張だけでは何にもならぬのである。次に大切な問題は民衆をして正しく投票せしむるよう細心の注意を施すことである。選挙期は、理想的に進行すれば国民一般に対し驚くべきほど深刻な教育的効果を伴うものであるが、一歩を誤るとこれと正反対に取り返しのつかぬ大弊根を植えつけることにもなる。甲乙いずれになるかは主としてもとより国民自身の問題だけれども、国家の力をもって多少干渉のできぬこともない。これと同時に、また教育された国民が何者にも邪魔されず良心の命ずるまま自由に投票し得ることでなければこれまた何にもならぬ。これがためにも相当に国家の力の働く余地はある。 かくして私は普選の実行とともに選挙取締規程のとくに慎密の攻究を要するゆえんを説いたのであった。けだしこれがなければ、下院は真に民衆意向の発現とならず、爾余の改革は畢竟砂上の楼閣に過ぎぬことになるからである。 |
九 | さていっさいが注文どおりに運んで、下院が完全に民意を表現する機関となったとする。さすれば下院の意思決定は国家内において最高最善の価値を要請し得る地位に立つのだから、その中の多数党が進んで内閣を組織するという慣行を生ずるは自然でもあり正当でもある。私は政党内閣または議院内閣論を支持して、いわゆる大権内閣説なるものの謬妄を指摘するにずいぶんと骨を折った。今となってはあんな問題に力こぶいを入れたのが気恥ずかしく思われるほどだが、これも時勢だからしかたがない。大隈内閣のようやく影が薄らいで来たときとて、こんな幼稚な憲政論が実際上なかなかの大問題であったのだ。多少身辺の危険を覚悟せずしてはあの程度の論陣でも張り通すには困難であったと聞いたら、当節の青年諸君はさだめし不思議に感ぜらるることであろう。 |
十 | 下院の多数党が政権を掌握するとなっても、もしこれが他の対立機関によって不当に障害されるようではいまだもって十分に民意の暢達は期しがたい。ここに不当にというは、貴族ならびに枢密院のごとき憲法上の諸機関は、これを存置すべきやいなやの根本論はしはらくおき、今日の制度においてはやはり一種必要の牽制機能を期待されて居るからである。ただしかかる牽制機関は、ややもすればその特殊な優勝の地位を奇貨として、とかくその権能を不当に濫用したがるものだ。ことにわが国にこの憂えあるは人の知るところ。これをどうにか始末せではせっかくの民本政治もゆがめられがちになる。かくして一方は貴族院に対し他方は枢密院に対し、政府および下院ははたしていかなる態度をもって臨むを可とするか。その間に難問題を生じたとき、これを解決するために、はたしていかなる政治的慣行の成立を希望すべきであるか。 これまた慎重に研究せなけれはならぬ。私はあの論文においてとくに上院に対する関係をややくわしく論じたと記憶する。 |
十一 | 公制度としての牽制機関に対してすら右のごとしとせば、私が制度によらざる牽制機関の存在を許さざるは申すまでもない。それの随一に軍閥があるが、これにもあの論文では深く言及しなかった。枢密院と軍閥とのことは後年別の論文において私の所見を発表したことがある。 |
十二 | それから専制政治の排撃に関連して帝国主義に鋭鋒を向けたこともあるが、これもくわしくは述べない。 |
三
以上述ぶるところによってあの当時何が政界の問題であったかの大要はわかるだろう。さて今日はどうかというに、普選はすでに実行された。しかしそれが私の提唱したものとは似ても似つかぬものなるはすでに読者の推知せらるるところであろう。大権内閣などいうものの今後ふたたび出現する見込みはまったくなくなったとしても、政党内閣は今日はたして民意暢達の実を挙げて居るか。何よりも大事な選挙界の潔白は依然としてはなはだ頼りなしとせられて居る。しからは大正五年代に問題となった諸点は今日なお依然として解決されずに残って居るといっていい。ただ今日は識者机上の理論としては、以上の諸問題はすでにほぼ十分に研究し尽くされたようである。性急な青年は今やさらに躍進して次代・次々代に実用をみるべき問題の考察に没頭して居る。これ今ごろ憲政改革論などをうんぬんするのが、いかにも時代遅れらしくみゆるゆえんであろう。しかし忘れてはならない、実際問題としてはこれがまだまだ新しい題目としてつねにわれわれの解決を迫って居ることを。
四
大正五年代、私のいわゆるデモクラシー論のごときが一般世上のにぎやかな話題となったのは、一つには時勢の要求に応じたのとともに、一つにほそのころまだそういう方面の研究が普及ないし流行していなかったためではあるまいか。これも手っ取り早く私自身の経験を語ってその説明に代えよう。
私が初めて大学の門を潜ったのは明治三十三年(一九〇〇)である。そのころの書生は、先生の講義を忠実に理解するのが精一杯で学校以外のことにはまるで興味をもたなかった。多少社会的に交渉あらんと努める仕事としては、せいぜい教室を借りて演説の稽古をするくらいが関の山であった。これを思えは昨今の学生の気魄には涙の出るほどうれしいものがある。教授諸先生も政府の顧問的の仕事が忙しかったとみえ、休講も多かったし学生に接近する機会などはほとんどなかったようだ。一年生のとき一木喜徳郎先生の国法学講義に心酔し、一日大いに勇を鼓して〔当時私は格別内気で臆病であった〕先生を九段上の私邸に訪うて教えを乞うたことがある。会ってはくだすったが、君はドイツ語が達者に読めるか、でないと話にならぬといったふうの簡単な問答に辟易してほうほうの体で引きさがり、うっかり教授訪問などをするものではないと悔いたのであった。こんなわけで、どうしても学問がわれわれの活きた魂に迫って来ない。それからどういうものか私は早くから政治学に興味をもっていたとみえ、一日こっそり上級のその講義をぬすみ聞きしてみた。講師は木場貞長氏、駄洒落まじりに一冊の洋書を机上に開いて政治は術なりやいなやとかなんとか述べておられた。そのときは何とも気がつかなかったがいま考えるとブルンチェリーの紹介であったらしい。これでもってみても、当時の最高学府の青年が近代政治の理解を全然欠いておったことに何の不思議もないだろう。
私自身の眼をこの方面で大いに開いてくれれた第一の恩人は小野塚教授である。同博士は三十四年欧州の留学から帰られ、私の二年生のとき私どもにその最初の政治学の講義を授けられた。この講義で私の受けたもっとも深い印象は、先生が政治を為政階級の術とみず、ただちにこれを国民生活の肝要なる一方面の活動とせられたことである。先生は盛んに衆民主義という言葉を使われた〔ちなみにいう、先生はデモクラシーを衆民主義と訳されたのである〕。こんなことは現代の人たちには何の不思議もないことだろうが、実はかほどまでに専制的政治思想があのころ天下を横行していたのである。憲法布かれてやっと十年にしかならないのだから、考えてみれはまた怪しむに足らぬことかもしれぬ。
ひるがえって実際の政界をみると、明治三十四年六月できた桂内閣に継いで同じく三十九年一月には西園寺内閣の成るありてわずかに政党内閣の端を開いたとはいえ、いわゆる情意投合の文字は両者の間に奇怪至極の連鎖あるを露骨に表白して、いまだもって政党内閣制の慣行的成立を謳歌するを許さず、やがて日露戦役の勃発をみては、ここしはらくは海外発展の盛容に陶酔して国民はおのずから専制的政治思想に追随せざるを得なかった。明治の末期ごろからさすがにしばらく世運の動き始めをみせたとはいえ、こうかぞえて来ると、欧州大戦の起こるころまでわれわれは、実に眼前の政界に対し、そのまさにあるべき理路のうえに厳格なる検討を加うる余裕をもたなかったのである。
しかしわが国にも早くから民主的政治思想はあった。明治十五、六年代の自由民権論はしばらくおく〔当年の自由主義者のほとんどことごとくが後年専制思想の走狗となった事実をみても、最近におけるわが自由思想が直接に往年の伝統をつぐものでないことは明白だ〕、近年におけるこうした方面の開拓者は、なんといってもいわゆる社会主義者の一団であるといわなければならない。これにも種々のグループがあっていちがいにはいえぬが、これらは他日の論究にゆずることにする。ただ後年の自由思想ならびに運動が概して直接間接にこの方面に淵源するの事実は、はじめから明瞭に、これを認めないわけには行かぬ。かく申す私からが、まずその一つの例をなすものである。
私をして社会主義の研究に眼を開かしめた恩人は故小山東助君である。彼は私を無理に引っ張って文科の故中島力造教授の講義に侍せしめた。社会倫理の講義というのだが、内容は徹頭徹尾ソシアリズムの講義であった。机上に携え来られた本をそっとのぞいたらフリントの『社会主義』である。そこで私もただちにこれを丸善に求めて読んでみた。あまりいい本とは思わなかったが、しかし中島教授のロから聞いたロドベルツスとマルクスとの学説の関係などは今に少しは覚えておる。そのうちにだんだんこれだけでは満足できなくなる。けれども不幸にして大学の講義にはそのころ社会主義を説明してくれるものはほかにはとんとなかったのである。坪井九馬三先生の政治史の講義では少しはかりバクニソとクロポトキソとを聞いた。金井延先生の経済学ではドイツのゾチアリステン・ゲゼッツの話を聞いた。いずれも社会主義と社会党とは不正不義なものと押しつけられるだけで、私の要求するものとはだいぶ距離が遠い。これがついにこれまた小山東助君の手引きによってしばしば社会主義者の講演会に出席し、ひそかに安部磯雄・木下尚江の諸先輩に傾倒する因縁を作ったゆえんである。
そのころ早稲田大学の浮田和民先生は毎号の『太陽』の巻頭に、自由主義に立脚する長文の政論を寄せて、天下の読書生の渇仰の中心となっていた。私もこれにはずいぶんとひきつけられた。そして膝もとの帝大の先生はとみれば、穂積八束先生は申すに及ばず、ほかの先生でも、たとえば英国も選挙権の拡張後いちじるしく議会の品位がおちたなどのでたらめを臆面もなく公言するのたぐいで、どうも頼るべき師表が見出だせぬ。ただ小野塚教授とはまもなく格別の親しみを覚えるようの間柄になり、一年間の講義を聞いた後も、引き続きいろいろの機会に薫陶を受けたのは、私の終生忘るあたわざるところである。
ついでにいっておくが、ちょうどそのころ〔三十四、五年ごろ〕から大学の諸教授もわりあいにゆっくりした気分で学生に接するようになったと思う。今から回顧するに、それ以前にあっては政府でも、条約の改正だ、法典の編纂だ、幣制の改革だと新規の仕事に忙殺され、したがって学者の力をかる必要も繁かったので、帝大の教授は陰に陽にたいていそれぞれ政府の仕事を兼ねさせられていたものらしい。今日は閣議がありますからとて講義半途に迎えの腕車に風を切って飛んで行く先生の後ろ姿をうらやましげにながめたこともしはしはある。ところが明治三十四、五年のころになると、政府におけるそれらの用事もひととおりは片づいたばかりでなく、少壮役人の中にだんだん学才に富む人物が輩出して、ために大学の教授の助力をかる必要がなくなって来た。なかには役人でありながら専門の学者を凌駕すると評判されるような人も輩出する。今の文相水野錬太郎君・前首相若槻礼次郎君のごときはその中の錚々たるものであった。こういうわけで帝大の教授と政府との腐れ縁は漸をもって薄らいで来るのであるが、ここから私はおのずから二つの結果が生まれて来たと考える。一は前にもいったようにはじめて教師と学生との間の親密の連鎖を生じたことで〔これもだんだん学生の激増のために永くは続き得なかったが〕、二は教授の境遇を独立にし意識的にも無意識的にもなんらの拘束を感ずることなく自由に研究し公表するを得しめたことである。その以前の教授の立場が自然政府の弁護者たるの臭味に富みしは疑いなき事実であるとすれば、日本の学界における自由思索の発達は、一面においてこうした妙なところに隠れたる連絡を保つことをも看過することはできぬのである。
かくして私は大学卒業〔三十七年〕の前後かなり自由主義の訓練は受けた。ところが社会主義の研究に至っては当時いまだ決して便宜ではなかった。世間が一般に社会主義を危険視したからでもあるが、第一格好の書物を得ることがむつかしかった。しかし何よりも私の社会主義研究の熱意を薄からしめたものは、いわゆる社会主義者の放縦なる生活であった。回顧するに、私がまだ学生であったころ故小山東助君とシェッフレの『社会主義大網』を会読し、その解し得ぬところを質そうといろいろの主義者を訪ねたのであった。いちいち姓名は挙げぬが、なかには現存の人も多い。かくてそれからそれと種々の人に遇う機会を得たが、当時一方において清教徒的キリスト教信仰に燃えていた私には、彼らのある者の行動に、服しがたき多くのものを見出だしたのであった。そんなところから私は、一度私どもの出していたある同人雑誌のうえで彼らに論戦をいどんだことがある。それはいかに社会問題の解決のための一致共同が大事だとて、安部磯雄・木下尚江・石川三四郎諸氏〔当時私はこの三人をとくに名ざしたと記憶する〕のごとき人道主義者が幸徳君のような無神論者と平気で事をともにしで往けるはずがない、自分の仕事を本当に貴いと思うなら、以上三君のごときはすみやかに幸徳君らと袂を分かつべきであるというのであった。これに対し、木下君は『直言』誌上でまじめに相手になってくれた。数次論戦を重ねて居るうち、木下君の声言にもかかわらず、社会主義の一団はついに分裂の厄を免れなかった。これを縁に私はやがて島田三郎先生の仲介で木下君と相識り、私が大学を卒業した翌年の夏には、小山東助君の肝入りで、同じ年に早稲田大学を卒業した大山郁夫・永井柳太郎の二君を本郷台町の小山君の下宿に請じ、木下君を中心として一夕懇談会を催そうとしたこともある。木下君と小山君とにはなんらかのもくろみがあったのかもしれない。小山君がまもなく東京を去り、私もシナに往ったのでこの会合はなんらの結果をも産まずして消滅に帰したのは、今でもときどき思い出して遺憾の情を覚えて居る。
日露戦争が一方において国民を帝国主義的海外発展に陶酔せしめたとともに、他方国民の自覚と民知の向上とを促しておのずからデモクラチックな思想の展開に資したことは、すでに人のよくいうところである。私は明治三十九年の一月からシナに赴いて満三年をかの地で暮らし、日露戦争の直接の影響として起こった中国の立憲運動の旺盛なるに驚いたのであるが、明治四十二年一月、日本に帰って来て、民主思想の大いに興隆しつつあるにいっそうの驚きを感じたのであった。帰朝後久しぶりで学生に接してさらに意外の感に打たれたのは、彼らが普通選挙だとか政党内閣だとかの実地の問題を多大の興味をもって研究して居ることであった。私が学生であったころのこと大学の向いの喜多床から出て来るとたん、一枚の印刷物をもらったのを何かと読んでみると「普通選挙期成同盟会の檄」と題してある。よく新聞を騒がすのはこれだなと思う間もあらせず、後ろから来た警官に二の腕を取られ本富士署に同行を求められたのを回想すると、実に隔世の感がある。それでもまだこのころ社会主義の研究は今日のように安心しておおびらにはできなかったのだからたまらない。
こういう雰囲気を脱け出でて、私は四十三年四月、欧米留学の途に上った。留学三年にあまるいくたの見聞が後年の私の立場の確立に至大の関係あるはもちろんだが、なかんずくとくにここに語っておきたいのは、(一)英国において親しく上院権限縮小問題の成行きを見たこと、(二)墺都ウィーンにおいて生活必需品暴騰に激して起った労働党の一大示威運動の行列に加わり、その秩序整然一糸みだれざるを見て、これでこそ国民大衆の信頼を得るに足るなれと大いに感服したこと、(三)一九一二年のベルギーの大同盟罷業を準備時代から目のあたり見聞し、秩序ある民衆運動のいかに正しくかつ力あるものなるかを痛感せしこと等である。大正三年春の『中央公論』に寄せた「民衆的示威運動を論ず」るの一篇は主として右の見聞に基づくものであった。なお右のほか私はフランスにおいてしはしばサソジカリストのストライキをも見た。目的のために手段を択ばぬことに肚を決めれば、いかに最小の努力で最大の効果を奏し得るものかを如実にみて、将来の労働運動に一転化の来るべきを予想させられたのであったが、私の性分としてこれにはどうしても好意を寄せ得なかった。組合運動の遅れたフラソスの労働界が、英国などと異なり、いちじるしく精神的訓練も物質的準備も欠くとすれば、いわゆる直接行動に走りがちになるのもやむをえぬのであろう。ニヒリストが圧迫の極度に獰猛なる専制露国の特産物であるように、サンジカリスト的行動方針も実際的環境と離しては考えられぬのかもしれぬ。はたしてしからはこれが仏国に発達せるはやむをえぬとして、少なくともただちにわが国にもこれを入るべきやいなやは大いに考究を要する点であろう。
そのほかいいたいことはたくさんあるが直接の関係がないから略する。概言するに、欧米留学中にあって私はとくに力をいれて、従来虐げられていた階級がいかにしてその正当なる地位を回復せんとしつつあるかの方面を観察攻究したのであった。けだし西洋にあっては帝国主義ようやく行き詰りの色をみせ、これよりは弱者のふたたび息を吹き返す時節の到来すべきを思わせていたからである。
私は大正二年の七月に帰朝した。たとえかの憲政擁護運動なるものがその実まじめな根蹄を欠くものだとしても、明治と大正との政界は、この世代の移りを境として、実に重大の変異がある。一時、寺内内閣の高圧政策によって自由思想に加えられる威圧のすこぶる強烈なるものありしとはいえ、民間における溌剌たる機運の醞醸は何人の目にも隠し得なかった。しかして欧州大戦がこれに勃発の好機会を与え、ついに今日の時勢を作るに至ったことはいまさら事新しく論ずるまでもあるまい。それでも大正七、八年の交まではまだなかなか思想の自由は十分与えられたのではなかった。これに対する拘束は官憲側から来ないとしても、社会的制裁のかたちを取ってきびしく迫り来ることがまれでない。私の身辺に起こった浪人会一件のごときはまずその最後のものとかぞえても差支えなかろう。その後の変遷は別の方の説くにまかすとして、ただ最後に私は、あのころから今日に至る六、七年が、また実に思想と運動との進展に関し、実にいちじるしい飛躍の時代をなすものであることを一言するにとどめておく。
(『社会科学』所収 昭和三年、さらに、『閑談の閑談』所収 昭和八年)
中国革命と朝鮮問題