日支条約改訂問題



 支那と日本との間に近く起ることあるべき条約改訂問題につき、我々国民が十分の了解を得て居らぬことは、色々の意味に於て甚だ憂ふべきことである。
 大正四年の日支条約につき、支那側に於ては改訂論が昨今益々熾になり、中には直に無効を宣言すべしとの極論を為す者すらある。孰れにしてもこの問題は遠らず両国政府の具体的交渉案件となるべきは疑ない。当局者としてはいろ/\掛引もあらう。が、我々国民としては之に対し果して如何なる態度を執るべきか。慎重なる攻究を要する点である。
 対支政策上外務省の執つた過去一年の措置に付ては、上下両院に於て頗る痛烈な攻撃の的となつたことは人の知る所である。内田外相の指導下に於ける我が対支外交が、冷静なる政治的批判の壇上に於て、如何の価値を有すべきかは、今論ずるの限りでないが、上下両院の所謂外交通が異口同音に難ずる所の論点なり根拠なりに付ては甚だ感服の出来ぬものがある。曰く退譲外交だ。曰く先帝陛下の御遺業を傷く。曰く何。曰く何。斯くて譲歩そのことが当局の一大失策なるが如く響き、従て一般世人をして現状の頑迷なる維持その事が外交の一大要諦なるが如く妄想せしむるの恐なしとせぬ。是れ豈当世開明の民衆の真実の要求であらうか。
 吾人の観る所を以てすれば、抑も外交上の得失は譲歩そのことに直接の関係を有するのではない。主張すべきを譲るの失態たるは固より論を待たぬが、譲るべきを頑強に主張するも亦決して策の得たるものではない。譲歩その事が無条件に失態と視られたのは帝国主義時代の謬想だ。侵略は罪悪だからとて、有てるものを皆棄てよとは云はぬが、譲るにしても取るにしても、我々はモ少し新時代の理想に立論の根拠を立て直さなければならぬ。少くとも斯うした議論の些かの響きだに政界操觚界に聞えぬのは我々の甚だ遺憾とする所である。
 内田外相の従来の施設に付ては、政治的見地から観て、兎角の批評を容るゝ余地はあらう。併し我々国民の覚悟を作る上からは、之等の点は深く詮索するの必要はない。我々としては、只問題の要諦を正義と平和との着眼点から何物にも捉はるゝ所なく理解して置けばいゝ。更に具体的に云はゞ、支那側の改訂の要求は無理か当然か、無理とすれば何処までが無理か、当然とすれば何処までを譲るべきか、之等の点を掛引なしに理解して置くのが必要だ。理否如何に拘らず自己本位に立脚して、一点一画の微も相手方の要求には面を背けんとするは醜の極だ。之を憂世愛国の当然の発露と信ずるに至ては、自ら日本国民の気魄を傷くるも甚しいと謂はねばならぬ。
 詳細の論疏はいづれ他日の機会に譲る。極めて簡単に吾人の本問題に対する立場を声明すれば斯うである。
(一)所謂日支条約並に其他の従来の取極に依て日本の支那に於て占むる所の地位は、何と謂つても正当の範囲を超えて居る。古い国際思想から云へば相当の根拠もあつたらう。従て一概に無条件に之を棄てよと云はるれば之に抗弁すべき理由もあるが、相当の方法を以て迫り来る改訂の要求には、今日の新形勢の下に於ては虚心坦懐之に応ずべき筋合である。(二)既に有てる者が其の有てる所に過分の執着を示すを常とするが如く、奪はれたるものはまた回収に急なるの余り動もすれば其の要求を不当の極度に主張したがるも人情だ。此時に方り我々日本人としては、出来る丈冷静に事物の真相に透徹し、向ふから要求せらるゝまでもなく、我から進んで最も正しい解決案を示すべきではないか。(三)此点に於て支那側の具体案は必しも吾人の首肯し得るものではない。併しさうかと云つて彼の要求に全然耳傾けざるは余りに利己的である。我々は彼の過度を責むるの他方に於て、自らの不当を反省せざるの過に陥つてはならない。
 支那側の言ひ分は今の所余りに乱暴のやうだ。併し其要求の真には確に一面の真理がある。この一面の真理に付て、我々同胞の間に一人も同情の声を挙げぬのはどうしたものか。上下両院の議員は挙つて退譲外交は怪しからぬと云ふ。政府当局者は、支那側の改訂要求に対しては唯断乎たる拒絶あるのみなど一部の政界に媚びて居る。斯くして不当の地位を飽くまで固守するを国利民福の為だと思ふなら、我々国民に取つて之れ程難有迷惑なことはない。
 我々は茲に聡明なる読者に諮る。読者諸君は引続き帝国主義の甘夢に耽つて世界の進運に落伍しても構はないか。将たまた譲るべきは快く譲つて彼我の交通を平和と正義とに移すを可とするか。偏に冷静なる判断を乞ふ次第である。

                       〔『中央公論』一九二三年四月〕