所謂排法科万能主義によつて暗示せられたる三大時弊


     (一)

 『帝国文学』十月号にあらはれた芳賀文科大学教授の「法科万能主義を排す」といふ論文は著しく世間の注目を若いた事は十一月の諸雑誌に之に対する多くの評論があらはれた事によつても分る。同教授の論文の中には已に二三評論家の指摘せるが如く多少の誤解と偏見とが交つて居り、且つ法科出身者の跋扈に不平を言ふに急にして、此論文の暗示する根本の大問題を如何に処理すべきやの積極的方面は欠けて居るに拘らず、斯くまで世間の耳目を聳動せるは、畢竟該論文が偶々世人の多年抱懐して居つた教育上の大問題に触れて居るが為めであらう。而して世上の評論家多くは芳賀教授の論文の末節に拘泥して教授の暗示する根本の問題について懇切に考ふるもの少かつたのは予輩の密かに遺憾とするところである。
 予の見るところによれば芳賀教授の該論文は我々平素痛切に感じて居る三大問題―三大時弊に触れて居ると云ふ点に於て最も我々の興味を若くものである。同論文が世上の注目を若いたのも畢竟之が為めであると信ずる。


     (二)

 教授は第一に今日社会の各方面に於て法科出身者が独り法科出身者たるの故を以て最高の地位に置かれて居るといふ事実を指摘して居る。教授曰く「現代の状態は法科の卒業生を殊に偏重する傾向」あり「上は補弼の大臣から下は刀筆の吏に至まで一切の国務政務の施行者商事会社の事務担当者までも法科出身者ならでは其地位を与へられぬといふ有様、専門の技術を要する官衙でも会社でも之を経営し之を指揮し之を監督する役目は法科出身者に委ねて居る」が之は正当の状態でもなければ、又「国家の発達進歩の為めに最善の組織でもない」と。斯くて教授は平安朝の時代が法科万能主義でなかつた事や、又徳川時代の各藩の政治は多く儒学者の手によつて行はれ而して其政治的手腕は実に立派なものであつた事を挙げて居る。此観察に対しては言ふ迄もなく世上いろ/\の批評があつた。教授の言ふが如く法科の卒業生を特に偏重するといふ傾向は事実の上に隠す事が出来ない。然し所謂国務政務の施行者、商事会社の担当者等に適する人才が他科出身者よりも法科出身者に多い、従つて其中から多く此等の任に当る者が採用せらるゝといふ事も止むを得ない現象である。只此等の任に当る者が須らく法科出身者に限るべしとするの不当なるは、教授と共に感を同じうするところである。而して現在の官吏登用の方法は特に法科出身者に便利なるやうに作られて居る事は、教授と共に確かに一つの時弊として指摘するの値打はある。教授の説かるゝが如く今日までの官吏任用令は維新後急に西洋の制度を模倣し、此等制度に関する智識を有する法科出身者を続々あげて官吏とするを必要とする時代に作らしめたものである丈け、それ丈け法科出身者に都合のよいやうに出来て居るが、然し何時までも斯くの如き制度を保存する事は必要でもなければ又得策でもない。任用令に除外範囲を拡張して広く人才を求むるの余地を開き、又試験制度にも改正を加へて、殊に試験課目にも根本的の改正を加へて、文科に属する課目の中例へば哲学、史学の如きも必須科目とするが如きは必要であらう。文官試験が実質上法科大学の試験と相去る遠からざるが如き事実にも多少着眼するを要するかも知れぬ。紙の上では兎も角、事実上法科出身者のみが官吏登用の途に於て特に便宜を受くるが如き地位に置くのは公平でもなければ又真に人才を得る所以でもない。此点に於て教授の論は今日の一時弊に適中して居ると思ふのである。
 併し以上の如き瑣末の点よりも尚一層教授の暗に指摘せんとするところの一大時弊は、今日の社会は実質的運営の方面を軽視し、独り専ら形式的整頓の必要を過重するといふ根本的謬想に触れて居るといふ点であるまいか。凡そ国家公共の事務乃至会社諸団体の煩雑なる仕事は一定の形式に組織統一されて運用せられて居る。又斯くせざれば実効を挙ぐる事が出来ないといふのが今日の実情である。故に此等の事務に従ふものは現に其執るところの仕事の組織を知り、又一般近代社会の同種類の事業に共通なる所謂一般組織を知り而して此智識に基いて現在の智識を整頓し完備する為めの能力を養ふ事を必要とする。此等の形式的組織に関する智識は乃ち法制の学問の与ふるものであつて、今日社会の実凝に当る人に取つては最も大切なものである。併しながら今日社会の実務に当るには単に之れ丈けでは足りない。形式に合するといふ事のみで事効の挙るものではない。更に内容が要る。如何なる理想、如何なる目標に進むか。又此目標に進む途を如何に充実するかの実質的方面を全うしなければならない。形式は目的其物ではなくして、目的を逢する為めの最良の手段方法に過ぎない。而して此等の実質的能力は法制の学問のよく供給し得るところにあらずして、之は寧ろ哲学とか、史学とか芳賀教授の所謂文科に属する学問の供給するところである。之を要するに社会の実務に当るもの殊に国家の政務に当るものに取つては、形式実質二面の智能を必要とすると言はなければならない。形式的智識を欠く政治家に国政を托するの危険なるが如(、実質的能力を欠く政治家に国政を托するも亦甚だ危険である。芳賀教授が法科出身者が単に法科出身者たるの故を以て国政枢要の地位に居るを憂ふるの真意は恐らく滋にあらう。
 然るに我国先輩は人を取るに其形式的智識を重んじ、其局に当る者は実際運用の精神を重んじない。否な、万般の施設をなすに方つても寧ろ運用の任に当る人を見るよりは運用の方法形式の整備を苦慮する。斯く/\の目的を達するには斯く/\の制度を作ればよいとか、これ/\の目的を達するにはこれ/\の法律を作ればよいといふ方面に専ら着眼するけれども、何人が如何なる精神を以て之を運用するかといふ方面を比較的閑却する。例へば今度船舶管理令、物価調節令を発布した。かう云ふ規則を作れば理論上かく/\の弊害が取り除かれ、国民はこれ/\の幸福を受くる、而して此所期の目的を達する為めには之が実行に当る人が大事だと云ふ方面は閑却
する。之れ法制徒に燦然として事効更に挙らざる所以である。全体の考が斯の如くであるから、其の局に当る刀
筆の吏も亦其重んずる所は、自分の為す所が所定の形式に合するや否やの点にある。之れ繁文縟礼を来たすの一つの原因であらう。地方の視学官に少壮の法学士を挙げた方が却て老練な教育家を挙げたよりも成績が好いといふ議論の如きも畢竟教育法令に合するや否やを明かにする事が、地方教育事務の大部分であるとする見地に立つ

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ものである。形式に合するや否やは属官の為すべき事である。当局の首脳者は根本的に教育其物の進行を計らね
ばならぬといふ考に立つものなら、文部省の一属吏たりし福原氏の如きを大学機長の任に置くといふが如き奇怪
な現象も我国に起らなかつたであらう。要するに我国では政務運用の任に当る其人を重んずるといふ事をせずし
て形式的組織其物を重んずる。組織を重んずるの弊は強制主義を重んずる事である。何故なれば人を一箇の器械
として之れに定まつた仕事を強制する事が、其目的を達する捷径であるからである。斯くして政治組織は軍隊式
になり、其局に当るものは政治の理想に全然盲目ならんとするの傾向を呈する。今日我国の政界に行はる、思想
は、百般制度を精細に整へ、最も有効に此組織を活用するといふ事の外に何の高遠なる理想があるか。而して組
                                    ドイツ
織尊重の傾向が今度の戦争で尚一層強くなつたやうだ。之れ政界の先輩が独乙の強きは軍国的組織の輩固なり⊥
       はかばか
にあり、英仏の捗々しく独乙を屈し得ざりしは平素組織の整頓を怠りしにありと見たからである。併し深く考ふ
れば独乙の強きは単に組織のみでない。・英仏は亦個々の人其物を尊重して屠つたが故に、組織の整はざるによつ
て来る弱点を大いに補ふ事が出来た。故に我々は形式的組織の方面の必要を高調する〔と〕共に、之のみにては駄

 日だといふ事を深く考へねばならず、且つ又組織を過重するの弊は遂に国家を専制的無理想に導く事の虞あるこ
とを警戒しなければならない。芳賀教授の所謂国家を指導するに足る高尚なる理想を欠く、又其教養の浅薄なる
法科出身者が蚊属するといふのは、偶々我国の政界に組織過重の弊あるを適切に示すものであつて、此点に於て
 教授の憂る所は我々大いに之に傾聴するの必要があると思ふ。


      (三)
 第二に教授はすべての方面に於て其首脳者たるものは常に法科出身者に限るの謂れなきを指摘し、特種の部門
 に於ては其路の専門家を長官とするの正当なるを説いて居る。教授日く「筍くも常識ある限りそれぐの専門家
 は単純に技師たるのみならず、其専門の学術技芸に関する経営に当る方が国家としての利益ではあるまいか。其
 方が事業の進捗の上に効果が多いのではあるまいか=…・専門家をして最初から其局に当らしめて、扱それに必要
 な法制的智識を後から学ばせてもよいのではなからうか。」と。之れにも大きな問題が横はつて居る。予輩も専
 門家は其専門の部内に於て其長となり、一切の計画の指導者となるといふ事は適当の事であるのみならず、又必
 要の事であると思ふ。然るに我国では常に此地位に行政官を据える例になつて居る。大学総長の地位に一国の文
 化学術の進捗に何等の交渉なき行政官を置くの例は已に之を述べた。地方の視学官は言ふを侯たず、美術学校長、
 音楽学校長の如きまで行政官たりしものを挙げて居る。甚だしきに至つては美術の鑑賞に就いて何等の智識も興
 味も無き一属僚が文展の審査委員長となつて居る滑稽事すらある。斯くの如くにして一国文運の進行を計り得る
 と思ふならば大いなる誤りである。尤も一局部の長となれば、其人の仕事の中には専門の法制的智識を必要とす
 るものも少くない。而して芳賀教授の言ふが如く特殊の専門家に後から法制的智識を学ばしむるといふ事も実は



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因難である。又法制的智識の修得に余力を注がしむる事は得策でもない。此方面の事務は例へば書記官若くは事
務官といふ地位に専門家を据ゑることによつて補はしむる事が出来る。故に理想的制度としては専門家を長とし、
其下に法制的智識を配して之れを助けしむべきである。法制的智識を長として其下に専門の士を率ゐしむるは、
冠履転倒の甚しきものである。尤も各部門の長となるのには其専門的智識と共に夫れぐの理想と見識とが無け
ればならぬ。学校の校長ならば教育的見識とか経験とかなければならぬ。唯其道の専門家であるといふ丈けでは
十分で無い。然しながら此等の理想見識は必ずしも法制的智識を前提するものではない。法制的智識なしと錐も
其人の教養次第で之れ丈けの資格は備へ得る。芳賀教授が「筍くも常識のある限り」と言はれたのは、恐らく此
点を意味するものであらう。唯事実上日本今日の教育の有様では深遠なる教養に基き、高き見識の専門家を見る
といふ事は頗る困難であらう。唯所謂常識ある人物即ち見識ある人物は本来高等普通教育で養はねばならぬので
あつて、此方面の必要が何も他の各専門家に限つた事ではない。法科方面にも此必要は無論大いに感ぜられて居
る。専門家に見識ある人物が無いからといつて、一局部の長官たる地位を法科出身者に持つて行く理由とはなら
ない。況んや法科出身者と錐も教養ある人士の乏しきは同様なるに於ておや。此点に於て予輩は我国の高等教育
の組織の中に人物を作るといふ方面に尚一層努力を加へねばならぬといふ必要を感ずるものである。


      (四)

 第三に教授は今日文科方面の著しく衰退して居る事を嘆ぜられて居る。日く「国家の思想界を指導すべき文科
は今日全く度外視せられて居る:…・今日の状態で行くと全国の秀才は文科には最も嫁が遠い:::今日の有様で行
                                 かな
って将来第二流第三流の人のみが文科に入る事が国家教育の方針に協つてゐるのであるか」と。一国文化の進歩

 は、一つには文科に属する学問を研究せる人々に侯たなければならない。而して此方面に天下の秀才は多く足を
 向けないといふ事は、国家の将来の為めに真に憂ふべき現象である。予輩は今日の天下の秀才が多く法科とか医
 科とかに集まり、文科理科の如き最も根本的な基礎学の方面に身を投じないといふ最近の著しき現象を耳にし、
 教授と共に其憂を同じうするものであるが、唯其原因の何れにあるかといふ事に就ては、教授の説の如く単純に
 説き得る問題ではないと考へて居る。文科出身者をもつと枢要なる地位に挙げたり、官吏登用の途に於て尚一層
 文科出身者の便宜を講じたり、三一口にしていへば文科出身者に今よりも尚多くの形式的栄達の途を講じても、這
                                                                        〔科〕
 般の憂は取除かる、や否やは大いに疑とせねばならぬ。予輩は今日の天下の秀才が喜んで多く法制や医科に身を
 投ずるの現象を以て、もつと深い所に根抵する現代日本の一大病弊となし、識者によつてもつと痛切なる解釈と
 対応策との溝ぜられん事を希望するものである。
                                           〔『中央公論』一九一七年一二月〕