切支丹の殉教者と鮮血遺書


 徳川時代に於ける耶蘇教の歴史は、最近山本秀憧氏の著に依て大部明にされたが、小野実氏の新著『切支丹の
殉教者』も亦、此方面の文庫に是非とも加へらるべき新文献の一つであらう。併し著者も断つて居る通り、本書
は主に『日本西教史』と『鮮血遺書』とによれる編纂ものであり、殊に後者に負ふ所多きは一見明了で、是等の
                              それ  かかわ
書で既に知られて居る事実以外に余り多く加ふる所はない様だ。夫にも拘らず本書が吾人の一.読に催するは、昔
              つま
の殉教者の史伝をよく要領を摘んで書き現してあるからである。
 徳川時代に在ては耶蘇教に関する書類の出版は一切禁止されて唐たので、正確な材料は今日残つて居ない。西
          力
洋人の書いた夫の『日本西教史』や又渡来宣教師達の『書翰集』などを先づ拠所とするの外はない。之と我国に
残れる断片零墨とを取捨比較して一部の耶蘇教史を編むは中々容易の業でないのである。此点に於て我々は大に
山本秀憧氏の労を多とする。史書として十分完全なものでないとしても、そは何人がやつても当分の所は己むを
得ぬのであらう。
 山本氏の様な行き方の研究も無論必要であるが、今日は又或る意味に於て材料蒐集の時代といつてもい、ので、
                             すこぶ
耶蘇教の歴史に関係のある古書記録類を輯録出版することも亦頗る必要の仕事だと思ふ。此点に於て小野氏の仕
事は、古書その俵の出版ではないが、其の要領を新しい形で伝へて呉れたといふ意味に於て、亦頗る貢献する所
なしとせぬ。
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一6

 『日本西教史』ゃ『鮮血遺書』は今でも容易に手に入るだらう0西教史の事は割合に知られて居るが、鮮血遺
書の方は知らぬ人も多からうと思ふから、一寸其のあらましを紹介しておく。
 『鮮血遺書』は更に「日本型人」の嬰を冠し、仮名をふつて「やまとひじり・ちしほのかきおき」と読ませ
て居る○夫れ丈け本書は、通俗を旨とせる謂は蒜史的物語である0明治二十年に初版を出したが、前記小野氏
                                                  はいし


                                                                も
の『切支丹の殉教者』の序文に記す所によれば、萩教会神父ギリヨン老師の著なりとか0涼し僕の有つて居る本
にはこの事は書いてない0只巻末に編儀兼発行者として加古義一といふ人の名があるのみである。少くとも筆は
日本人のものらしい0昔の物語風に中々流麗暢達に綴られてあるが、編述の基礎として多くの古洋書を参照した
るべきは亦疑を容れない。
内容は我国に於ける西教渡来の発端に筆を起し、夫から共の厳禁されし始末より、幕府の残酷なる厳刑の下に
身を教門に殉じた者を言稗史風に物語つて居る0最後に維新前後長崎在浦1に於ける天主教会の復活を叙し、
附録として「日本殉教者一覧」といふを添へてある0洋装聖ハ版で総体五五〇頁、中に挿入した数葉の絵も古風
を帯びた中々味のあるものである。   イタリアスペインポルトガル
 序君中に此書の来歴を次の如く記して居る0「伊太利、西班牙、葡萄牙等の伝道会集書院に宝の如く保存あ
る聖人が肉筆の遺書と、確乎に証跡ある其頃の書籍に由て、今些小冊を編み、心ある人の覧に供ふ」と。又教
                             ききがけ
門の為に罪せられし人々を激賞して「民権の元祖、開化の魁」と革称して居るが、是等は出版当時の流行字句を
恍ばれて面白いと思ふ。
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 序文を引用したついでに、其中より著者の新教観を抜いで見やう0「近頃我邦に耶蘇新教と移する者あり。是
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                            キリスト
が本名はプロテスタン則ち逆宗と云ふ者にて、真の基督教会に逆ひ、聖霊の恵なさ者なれば、如何に彼等の古さ
書物を探ると雑も、義の為に昔を受て辞せず、命を棄て、惜まぬ如き人は一名も認め得ること能はず。我邦の事
実に就て調べ見るに、三宮年前基督の教を布く甚だ難かりし頃は、プロテスタンの牧師一名も来らず。是れ苦を
厭ひ命を惜む故なり」と。天主教に於て斯うした観方は決して珍らしいのではない。
 右書き終つてから、鮮血遺書の著者ギリオン師の事に関し、小野実氏の書信を接受した。実は手紙を上げてこ
の事の調査を頼んだのである。いろ〈面倒をして詳細の報告を賜つた小野氏に深く謝意を表する。
 小野氏の報告によれば、ギリオン(≦llioロ)は未だ切支丹禁制の解けざりし時代に長崎に来られ、非常な困苦と
戦つて布教に従事せられたのださうだ。神戸外人居留地に天主公教会堂の建設せ斬るゝや、移り来つて之を牧せ
られ、其後京都、伊勢、若狭、丹波、丹後、周防等に転々して沢山の会堂を建てられた。今は七十幾歳の高齢で
萩教会の主任司祭の職に居らる、。有名な聖フランシス・サヴユリヨ書翰記は老師の著で、其外山口公教史、長
崎公教史の著作もある。非常に奇行に富んだ人で、まだ外国人に対する監視の甚しかつた時代には、旅行券を背
に貼り付けて歩いたとやら。愛馬に耳を喰ひ取られて知らずに居たといふ逸話もあるが、之は少し怪しい。兎に
角萩地方では誰知らぬ者なき有名な老牧師であるといふ。
 鮮血遺書は老師の著には相違ないが、筆は加古義一氏の手ださうだ。当時加古氏は伝道師としてギリオン師を
助けて居られ、かたぐ其の口述を氏自ら筆記したものらしい。初版には最後の二編を欠く。即ち重版以来附け
                                           ちなみ
加へられた「若望榎」と「日本殉教者一覧」とは、マルモニ師の筆に成るものだといふ。因に云ふ。若望榎はヨ
ワン・シドーチの事を書いたものである。シドーチのことは僕の近く公刊すべき『新井白石とヨワン・シドー
ュノ
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〔『新人』一九二二年二月〕
チ』にも詳しく説く積りである。