府県会議貞選挙の跡を見て  『中央公論』一九二七年一、月

 先度の府県会議員選挙の結果につき世人の最も痛切に問題とする所は二つある。一つは選挙取締規程のことで二は棄権率のことである。
 新選挙法の取締規程はまことに煩瑣を極めて居る。選挙施行前からこの事は頻りに各方面から訴へられて居たが、実際の経験は益々その煩累に堪へぬことを立証した。そこで改正の要求もボツ/\聞える様であるが、私は規程の煩瑣を難ずる其事には世上の論者と其感を同うするも、然らば何を如何に改正すべきやの点になると必ずしも彼等と同一の歩調を取るものではない。何となれば世上の改正論は概して選挙界に馳駆した者の側から起り或は少くとも彼等の希望に影響せられて作られるものであり、従てその根拠には候補者乃至政党の便宜といふことが横はつて居るからである。候補者乃至政党の便宜も之を図つていけないといふのではない。併し我々の立場として専ら眼中に置くべきは、彼等の便宜ではなくて選挙の目的でなければならぬ。選挙本来の目的を達成せんが為には、時として彼等の所謂便宜の如き之を顧みるに遑なき場合もあらうではないか。蓋し我々国民の立場としては常に一段高い処から斯種の問題を冷静に考察して見る必要があるのである。
 さて選挙取締規程の改正に関しては私にも具体的の考案がないではないが、一々之を説くは別の機会に譲りたい。先には読者の参考に供する為め唯簡単に改正の方針に関する抽象的原則の主なるものを掲ぐるに止めておかう。
 (一)取蹄規程の多くは選挙人を以て自由な良心のない、他から誘はるればどんな馬鹿な事でも敢てするでくの棒と前提し、之を欺瞞し籠絡せんが為に取る候補者側の統計をば出来るだけ制抑せんとの見地から立てられたものである。だからあゝしても不可かうしても不可と規則が馬鹿にやかましいのだが、考へて見れば、選挙民さへしつかりして居れば之等は本来どうでもいゝものなのである。選挙民に鋭敏な良心の自由があり又事物を判断するの相当な能力があれば、相手方がどんな狡猾な手段を持つて来ようがさう去就を間違ふ筈はない。況んや各党の候補者は互に相控制して一方の失態は他方必ず之を天下に明示して呉れるに於てをや。例へば今度の選挙法では極めて細かい規程を設けて戸別訪問を禁じて居るが、選挙民の方でペコ/\頭を下げて頼み廻る様な不見識な奴には断じて投票しないとさへ決めて居れば、戸別訪問なんどは段々やるものはなくなるにきまつて居る。然らばわざ/"\法を設けて之を禁ずるの必要は何処にあるか。斯んなわけで煩瑣な規程の多くは実は選挙民を極端な馬鹿者と前提しての必要条項なのであつて、やがて選挙民の覚醒と共に全然無用となる性質のものである。尤もあつたからとて選挙民の邪魔にはならぬ。選挙民は黙つてそしてよく考へて然るべき人に投票しさへすればいゝのである。候補者に対する各般の命令禁令の如きは彼に取つては何の係はりもないのだ。寧ろ斯種の規程あるため戸別訪問などに来られぬ丈けが幸ひだともいふべきであらう。して見れば選挙民本位の論としては、かの煩瑣なる諸規程の如き別に急いで之を改廃すべき実際的必要はないと云つてもいゝのである。但だ之を無用の規程といつたのは選挙法本来の眼目から見ての理論的結論を述べたまでのことに過ぎぬ。三日にして約すれば、選挙民の立場から云へば、あゝしたうるさい規程の存在は格別迷惑にも苦痛にもならぬのである。
 (二)初めに遡つてあゝ云ふ規程を作らうかどうかと云ふ問題なら、私は原則として之を無用とする論に左袒する。併し既に制定公布されてしまつた以上は、実際の必要あるに非る限り、別に面倒な手数を繰り返して改正するまでもあるまいと考へる。而して大体論として改正の要求は多く候補者側の希望に発し、その要求はまた理に於て深く顧慮するに足らざる所以は、既に前段に於て述べた通りである。唯茲に一つ考ふべきは、選挙の目的から観て例外として速に改正を要する点が二三なからうかといふことである。候補者の醜悪なる運動は固より之を抑止して構はないが、所謂角を矯めんとして牛を殺すの譬にもれず、取締りに急ぐのあまり候補者側の正しき活動までを妨ぐることなきやを一応反省して見る必要はある。候補者例の正しき活動には十分な自由を与へた方がいゝ。それが実に選挙の目的に叶ひ選挙人の便宜にもなるのだ。新選挙法はこの方面に於て余りに無用の規程を立て通ぎた嫌は慥にある。之等は速に改正を要すべきものであらう。
 (三)改正の要求が主として候補者側から起る丈け、特に熱心に改正の叫ばるる個条の中、迂つかり之れに乗つて改正を急いではならないものがあるかも知れない。大体論としては、有つても無くても同じ様なものだが、例へば特に今次の経験に於て依て以て従来の政弊を幾分でも阻止し得たと云ふ様な規程があつたなら(例へば戸別訪問の禁止の如き)、選挙民の十分なる覚醒の猶ほ未だ容易に期し難き今日、姑く之を存置した方が得策であるかも知れぬ。選挙民を醜悪なる誘惑から保護するに役立つ様な規程は、之を不便とする者の提説に聴いて軽々に手を触れてはならぬものと考へる。無論之にのみ頼つて選挙民の根本的覚醒の方途を等閑に附すべからざるは云ふまでもない。

 選挙の結果につき一番やかましい問題となつたのは棄権率の意外に多かつたといふことである。平均五割、中には七割以上にも及ぶ処があつたといふ。之を見て世上の論壇は、今更の様に吃驚し、何れも皆一般民衆の政事に冷淡なるを慨嘆して居る。中には之から論結して一般大衆は本来普通選挙権を要求しては居なかつたなどと説くものすらもあつた。少くとも之を以て政界革正の前途尚遼遠なるの一兆候なりとするの説には輿論のひとしく一致する所の様であつた。併し之は一概にさう悲観すべき現象でもないと私は考へる。少くとも斯かる現象を呈せるに付ての責任を徹頭徹尾大衆の無見識に帰するの説は私の容易に首肯し得ざる所である。
 之に就て思ひ出すのはラスキの言である。彼はその著『政治学綱要』に於て、抽象的概念を基礎とする先人の政治学説を排し、「多年の経験は政治に在て理性の作用の案外に薄弱なものなることを吾人に教へた」と云ひ、又は「大衆は存外彼等自身の需むる所をはツきり頭に入れて居ないものである。否、頭に入れて居る場合でも、示されたる提案が満足すべきものなりや否やの問題に存外無関心なものである」などと云つた。又斯んなことも述べてゐる。「近代政治組織のすべてに通ずる著しい特色は、一方に民衆の福利を掌る専門家の一群あり、他方にまた其専門家の行動をば結果に於てのみ判断しその達成の過程方法には殆んど全然無頓着な大衆があると云ふことである。而して政治作用の細目に全然興味を有せざる且又之を知るの余暇もないこの大衆が、実に一切の最終的決定権を握つて居るのである。一旦与へたものは後になつて容易に之を取戻すことは出来ぬものだ。ふだんは使はぬくせに取り上げようとすれば忽ち異常の昂奮を見せる。斯う云ふ基礎の上に良い政治を実現して行かうと云ふので、近代の政治は事甚だ面倒なのである」と。斯くしてラスキはこの基礎の上に彼れの新学説を打ち立てようと試むるのであるが、その結論は茲でいま評論するの限りに非ずとして、唯読者と共に呉々も注意したいのは、政治的に最も発達したと称せらる、英国人を眼中に置いてすら、彼が斯くまで民衆の矇昧と冷淡とを罵倒せねばならなかつたことである。彼はまた別の処で云つた。我々は民衆といふものは与へられた選挙権を常に必ず正しく使用するものと考へてはいけないと。政治に於ける理性の作用の薄弱を説いたのもこゝから来る。して見れば権利の要求に熱心にして而も之が利用に冷淡を極むるは、東西揆を一にするところとも云へよう。否、英国にして猶且つ然り、況んや我国に於ておやと云ひたい位だ。之を要するに、我々は選挙民の理性を買被つてはいけない。棄権率の多いのに吃驚したのは、畢竟謬つて選挙民の行動に過大の期待を繋けた為ではあるまいか。
 そんなら英国でも矢張り我国今次の経験が示した様に異常の棄権率に苦んだのかと云ふに必しもさうではない。もう少し棄権率が少ければいゝがと云ふ議論は彼国にもあつた。併し相当数の権利行使者のあるに世間は大体満足を表して居る。然らば彼に在て斯く棄権率の少いのは何に因るのであらうか。ラスキの言の如く之を選挙民の覚醒に帰し難しとすれば、他にその原因を求めなければならぬ。抑も選挙民自身の矇昧なるは右述ぶる如く英国も日本も同じ事で、今急に之を如何ともすることは出来ぬ。之は漸次民智の一般に進歩向上するの趨勢に委せなければならない。併し乍ら差当つてその冷淡なるまゝに放任することも出来ないとすれば、我々はまた何等か別に民衆の惰眠を刺激するの方法を講じて、一時的でも政治的活動の渦中に彼等を進出せしむる工夫をすること肝要だ。英国も日本も民衆の矇昧なるに変りはなくして棄権率の多少にあゝした驚くべき差違を示したのは、実はこの刺激の有無厚薄に困るのではあるまいか。然らば刺激とは何ぞやといふに、間接には言論機関の呼号等も数へられるけれども、直接には候補者乃至政党の「呼び掛け」だと許はねばならぬ。仮りに之を政治家の積極行動と云つておかう。即ちこの積極行動が民衆に対つて有機的に働き掛けることの如何によつて、民衆の政治的進出の程度がきまるのである。選挙民は本来他から誘はるるまでもなく自ら進んで有効にその権利を行使すべきであると云ふのは所謂机上の空論に過ぎぬ。放任して置けば棄権するのが事実の当然だ。それが良いか悪いかは別問題として、只その避く可からざる勢なるを認むる以上、棄権率の多い少いは正に政治家側の責任に帰するものと論ずべきではあるまいか。
 して見れば今次の選挙に於て棄権率の異常に多かりし事実に付て民衆そのものを責むるの愚なるは云ふまでもなく、主として責任を問はるべきは政治家階級であらう。少くとも斯う云ふ方針を立ててその真原因を探究すべきものではないかと考へる。
 今度の選挙で我々の最も深く関心すべきは、実は棄権率の多少ではなくて選挙権行使者の態度であつたのだ。棄権率の多いのは選挙民の矇昧を証明する事実には相違ない。その限りに於て是も亦慥に我々の一関心事たるを失はないが、ラスキの言ひ草ではないが、之は疾ふの昔に諦められて居るべき筈なのである。之を今更気に掛けたとて仕様がない。それよりも一番気になるものは、折角選挙権を行使した人達が、従来の選挙民がよくやつては我々を泣かした様に、候補者や運動員の悪辣醜汚なる誘惑に迷はされ、良心の自由を売つてその頤使に盲従したのではなかつたかと云ふ点である。新選挙権者も旧有権者と同じく滔々として皆小利権に眩惑して良心の操守を棄てて顧みざる底の連中であつたとしたら、彼等が権利の行使に冷淡でなかつたと云ふ事は一体何物役に立つ? マイナスは幾ら沢山集つても要するにマイナスだ。だから棄権率の多い少いは実は此際それ程関心すべき問題ではないのである。関心すべき問題は外にあるのに、世上の論壇が専らこの点のみを中心問題として更に新有権者の態度如何に意を注がないのは、私の甚だ怪訝に堪へざる所であつた。
 棄権率の多いと云ふ事を直に悲むべき現象と見るの説を肯定するには、実は次の三項を前提として許さなければならない。(一)新有権者は旧有権者と既成政党との慣れ合に依て政界の腐敗せしめられて居るの事実に対し意識的に強い反感を懐いて居ること、(二)彼等は深くこの腐敗の原因を除くの捷径が自家階級の政権獲得の外にないことを信じ、為に多年普通選挙制の確立を熱求せしこと、(三)従てこの多年の熱望が達せられ普通選挙制が布かれた以上、彼等は猛然としてその積極的行動に躍進すべき筈なること、是れ。無産政党の一部の人達は頻りにこの事を金科玉条として説き廻る様だが、成る程お前はいゝ子だと覚め上げて小供の悪戯を止め得ると同じく、大衆の煽動籠絡の目的の為には結構此上もない説明に相違ない。だが政界の現実その儘の描写としては実は之れ程出鱈目の言ひ草はない。だから私は之れ迄も凡ゆる機会に於て屡々説いたのであつた。普通選挙制の実施に過大の期待を置いてはいけない、選挙権拡張の喜ぶべき所以はたゞ新有権者の一団が従来の政弊に染んで居ないと云ふ点にある。而して単にそれだけに過ぎず、その外に積極的に頼もしい所があるのではない、即ち唯白紙であると云ふ丈けを頼みにするのだから、その当然の結果として我々は、一方には彼等までが従来の弊害に侵されぬ様心配してやるを要すると共に、他方にまた改めてその自覚を促す為め大に誘導啓発につとめなくてはならぬのであると。同じ骨折りでも従来の有権者は一度悪酒に酔つた経験がある丈け容易に足を洗ひしめ得ぬが、新有権者はまだ純真無垢である丈け、骨折り甲斐があらうと云ふまでに過ぎぬ。故を以て普通選挙制の施行を喜ぶ者は、必ずや同時にその喜びを現実のものたらしむる為の教育的責任を感ぜずには居れぬのである。従て斯う云ふ立場の人に取ては、新有権者が競て投票場に馳せ参じたと云ふことは、それだけで安心の出来る事柄ではないのである。
 私は却て斯うも考へる。既成政党などにモ少し新有権者の中に喰ひ入り之を誘惑するの勇気と準備とがあつたなら、棄権率はもつと/\減つたらうと。若しさうであつたら、その投票の大部分は、従来の選挙の場合と同じく、矢張り利権の為に良心を売つた結果に外ならぬことになる。それでも世人は棄権率の少きの故を以て之を満足すべき現象と観るだらうか。私は敢て棄権率の多い方がいゝと云ふのではない。又必ずしもその率の多きを以て直に誘惑買収の無かつた証拠だと説くものでもない。棄権率の多かつたのは何に因るやは別に研究を重ねるとして、唯一概に之を憂ふべき現象と主張するの立場に対し、その見当外れなることを抗論したいのである。この点に関し正しき目標を指摘して呉れる者の極めて少かりしの事実には、特に私が多大の遺憾を感ずる所である。

 次に私は何故に棄権率が斯くも多かつたかに就て少しく愚見を述べて見たい。
 私は先きに棄権率の多少の岐るる所は政治家側の責任に帰することを説いた。詳しく云へば、大衆に呼び掛くる政治家の積極行動が広汎にして痛切であれば棄権するものは少く、従てまた棄権率の余りに多いのはそれ自身候補者側の怠慢を意味するものだと云ふことを述べたのであつた。さうすると斯う云ふ人があるかも知れない。今度の選挙でも各党とも大衆の投票を得る為には死力を尽したではないかと。成る程その通りだ。中にも無産諸政党の如きは、巧妙なる宣伝と痛烈なる弁論を以て民衆に迫ること頗る深酷なるものがあつた。尤もそれはいろ/\の事情の為に広く行き渡り得なかつたので、その運動の行はれた限りに於ては深刻であつても、一般にいへば至て微弱であつたと云はれても仕方がない点はあつた。そこになると既成政党の方は流石に多年の経験と研究とに基いて全国隈なく運動の手を拡げて居る。故に概していへば、之等政党者流から一度も誘ひを掛けられたことのないと云ふ様な人は、有権者中恐らく一人もなかつたと思ふ。どんなに少くとも二度や三度は必ず彼等の運動網に引ツ掛つて居る筈だ。故に斯うした外形から云へば、政治家は決して大衆の呼び掛けを怠つてゐたのではない。一票二票を争ふ候補者に取てこの点に心を用ひざる道理もあり得ないのセある。故に単に候補者乃至政党が大衆に手を拡げたと云ふ外形上の事だけを云ふなら、私も論者と共に彼等の大に爰につとめたるの事実を認める。併し私の主として着眼するのは、その呼び掛けに反応があつたか如何と云ふことである。幾ら手を拡げても空中に発砲する様なことでは何にもならぬ。手応えのある有効な努力が合理的に遂行され、従て骨折りに相応する丈けの成績を伴ふものでなくては何にもならぬ。換言すれば、一旦大衆に呼び掛けた以上、大衆が真に之を自分達の代表者とする様な実効のある努力が払はれたかが問題なのである。斯う考へると候補者乃至政党の努力と云ふものは、動もすれば空中への発砲に類し、力の大なる割合に案外に無駄なものであつたことに気が付くであらう。
 何故さう云ふ事になるのか。之に付ては各党派に付て別々に考察するの必要がある様に思ふ。
 (一) 既成政党は政友会にしろ民政党にしろ大体に於て所謂ブルヂヨア階級を地盤とする。彼等はその範囲内に於て各々その領域に分ち而して互にその拡張争奪に浮身をやつす連中である。故に従来の行き掛り上その相互間には烈しく相争ふとはいへ、ブルヂヨア階級の代弁たるの関係に於ては均しくその利害を一にするものである。従て彼等は彼等の地盤とするブルヂヨア階級の利害を犠牲にしてまで、一般大衆に迎合することは出来ない。相争ふ敵味方として既成政党の双方は、一票でも多くといふので無産大衆にも呼び掛けはする。けれども具体的の新政綱を掲げて堂々と新興階級に訴へ得ざるは勿論、時節柄猜疑心の深いブルヂヨア階級の思惑に遠慮して、一般大衆に思ひ切つて接近することをも能くし得ぬのである。斯くして既成政党は、一般大衆に対して形式上冷淡ではなかつたが、実際上は態度甚だ煮え切らず、序を以て一応の挨拶はすると云ふ位の程度にとゞまり、事実上主としてカを注いだのは矢張り従来の関係に依て結ばれた人達に過ぎなかつたのだ。彼等が選挙場裡に依然優者の地位を占めしは多年の経歴に基くものとして怪むに足らず、あれ丈けの準備と経験とを以てして、無産政党を自家の代表として積極的に後援することを知らざる程ボンヤリして居る大衆をば、ムザ/\網の外に逸し去つたのは、何と謂ても既成政党の恥辱たるを失はぬ。尤も私は既成政党がこの点にもツと良い智恵を出し我々を驚歎せしむる程の成功を収めんことを希望するのではない。寧ろ此点に彼等の臆病で無為であつたことをもツけの倖ひとする。就中その為に新有権者が在来の苦々しき政弊に捲き込まれる危険から免れ得たことは我々の最もよろこぶ所である。我々は更にこの点を無産大衆の意識裡に明白にし、既成政党をして益々近づき難きものたらしむる様努力する所なければならぬ。
 (二)無産諸政党の大衆に対する関係は党に依り多少の相違あり一様に論ずることが出来ぬ様であるが、細目のことは別の機会に譲るとして大体のことを概論するに、何れの政党に於ても大衆対策の根本方針が確立せず従て頗る準備が不十分であつた様に思ふ。前にも屡々云つた様に、大衆は決して政事に緊張して居るのではない。既成政党は駄目だといへば、大衆の何人もがさうだと答へる。だから大衆は既成政党所属の候補者には投票せぬだらうとまではいへるが、彼を抑え彼を牽制せんが為に進んで無産派の候補者に一票を入れるかどうかは自ら別問題だ。
 幾ら候補者や運動者やが諸君の利害はこの通り蹂躙され居るなどと怒号しても、見物の大衆は汗みづくになつて居る彼等の姿を面白さうに眺めては只ゲラ/\笑つて居る。斯う云ふ種類の人に更に有効なる刺激を与へて奮ひ起さしむるは、尋常一様の方法の能くし得る所ではない。この点に付て無産諸政党はかね/"\十分慎密の方策を研究確立して居つたであらうか。是が私のひそかに疑問とする所なのである。
 この事につき私の常に無産諸政党の為に憂ふる所は、既成政党の常套手段を先蹤とすることなきやの点である。既成政党は斯うした問題については毎時最も安価にして手ツ取り早い方法をとる。従て之が為に将来どんな悪影響が残るかを顧みない。所謂目前の目的を達するに急いで百年の大計を疎略にする所に既成政党の特色があり、我々が彼等を頭から排斥するのも実はこの為に外ならぬ。就中最近の政友会の如き、党利党略の為めに国家の利益をふみにじつて屁とも思はぬ所、その横暴残虐真に唾棄すべきではないか。併し之は程度の差こそあれ政友会に限つたことではない、民政党だつて過去の経歴に於て決して国民の前に大きな顔は出来ぬ筈である。何れにしても目前の目的に対しては常に一番の近道を執ると云のが既成政党に運命づけられたやり方だ。斯う云ふ立場から採らるる具体的の方策に至ては、時宜に依り必しも一律には出でないけれども、最も普通なるは種々の形を以てする利権の提供である。積極的利権の授与もあれば、その不当なる既得の優越的立場の保護といふのもある。要するに之が目前当面の応急的手段としては一番有効な方法なのだ。而して既成政党は従来之れで地方の有権者と深く結んで居るものだけに、今更之と大に利害を異にする新興階級に向つて憚る所なく秋波を寄せ難いのである。斯うした妙な廻り合せで新興階級が偶然にも既成政党の誘惑から解放されて居るのは我々の大によろこぶ所だけれども、新に之を背景とし地盤として起つ所の無産政党が、万一また彼等と結ばんが為に既成政党と同じ様な態度に出づることあらば、我々のよろこびは真に一時の糠よろこびに終らざるを得ない。問題は即ちこゝに在る。
 私は必ずしも無産諸政党が大衆獲得の方策に於て全然既成政党を真似たとは謂はない。少くとも買収請托等の如き忌むべき罪悪に付ては頗るその潔白であつたことを確信する。けれども只彼等は、有形無形両面の犠牲を主として中央本部より提供すると云ふ方策に出でた点に於て既成政党の顰(ひそみ)に倣はなかつたか。既成政党なら、少くとも従来の組織を以てしては、此外に行き方はない。併し乍ら本当の政党は ― 少くとも有力なる既成政党の間に介在し大衆を背景として政界の分野に乗り出さうとするものに取ては ― 一から十まで中央から地方に買ひ出しに出張する様な方法では駄目だ。或る点までは中央が世話を見る必要はあらうが、結局は地方に各々自主的立場を自覚させる様にしなくてはならぬ。演説会の費用をよこせの、宣伝ポスターをもつと送れの、応援弁士の旅費は本部で持てのと、中央から頼まれてやる様な積りで言つてよこす各地方の勝手な注文を一々聴いて居つては堪つたものでない。既成政党は徹頭徹尾之で押した、そして相当に成功もした。併しそれが為には莫大な金が要る。是れ彼等が常に金権と密接なる関係を結ぶ所以である。之が為に国家が暗々裡にどれ丈けの損害を蒙つて居るかは云ふまでもないが、兎に角彼等の本来の立て前が之れなのだから、党に依て多少の差はあるが、孰れも皆ふだんから相当の財政的準備はして居る。故に無産政党がまた同じくこのやり方で渡り合はうとするなら、到底彼等に歯の立つ道理はない。概していふに、無産諸政党は既成政党の失態を抉剔するには著しく長ずるが如きも、扨て進んで何かやり出す段になると、屹度既成政党のやり方を追随して恥ぢない様だ。単に大衆獲得の方策に付てのみ之を云ふのではない。何事につけても余りに智恵のなさ過ぎる嫌はないだらうか。
 私はこゝで図らず私の初めに提出した問題に再び逢着する端緒を見出した。即ち今次の選挙に於て棄権率の非常に多かつたといふ問題である。前にも述べた如く、新有権者の多数は概して云ふに既成政党自身の憚りて敢て近づかぬ所である。謂はば之等は無産諸政党の勝手に取り去るにまかされた分域なのである。無産諸政党に取つて之れ程都合のいゝことはない。それにも拘らず無産政党は指をくはえてボンヤリして居たと云つたら、世人は余りにその腑甲斐なきに呆れるだらう。併しそれには相当の理由はある。無産諸政党はいづれも之等の投げ与へられたる大衆を前にして食指大に動いたのであるが、如何せん彼等には之を獲得する為に唯一つの方策しか持ち合せがなかつた。即ち無意識的に既成政党の経験から割り出した地方懐柔策が是れだ。能く考へればこの方策の執るべからざる所以が分る筈だのに、目前の成功を急いでか、彼等には十分之を反省するの余裕がなかつたらしい。而してやつて見ると之には莫大の金が要ることが分つた。彼等は俄に選挙資金の調達に狂奔した。平素金に縁のない連中がどんなに馳け廻つたとて集め得る金高は知れたものだ。斯くして自然の勢は遂に彼等をして思ふ様に手を伸ばさしめなかつたのである。詰り彼等は赤貧の分際を以てして大金持の真似をして見たのだ。事功の挙らざるは当然である。それでもあれ丈の成績を挙げたのは一に時勢の賜である。之を俺達の奮闘の結果だなどと自惚れてはいけない。要するに彼等は最初から肝腎の方針を誤つた。従つて取れる筈の獲ものを我から逃してしまつたのだ。財力の微弱なだけ彼等の張つた網は極めて小なる部分に限られても居る。故を以て既成政党から見放された大衆は、無産政党からも顧みられずして、普選最初の大事な選挙だと云ふにも拘らず、而もその顧みられざることを聊も苦とすることなくして、悠々として太平の惰眠を貪つた訳なのである。棄権率の多いのは勿論大衆矇昧の直接反映には相違ない。併しさう迄させなくても良かつたのをさうさしたのは、何と謂つても無産諸政党の責任と断定せなければならぬ。
 終りに一言する。そんならば今後無産政党はどうすればいゝのか。無産政党は第一に選挙費用調達の悪夢から醒めなければならない。もと/\金に縁の薄い連中のことだ。赤手空拳で行け。但し之を看板にするばかりでは駄目だ。金のないと云ふ所に難境もあるが、金がないからこそ本当の恒久的関係が有権者との間に結べるのではないか。固より之は選挙が来たからとて俄に始めて出来る事柄ではない。金で仕事をする既成政党が、平素は散々国民の面目をふみにじつて置き乍ら、選挙となつて俄に札たば切つても見事に所謂国民の信用を恢復するからとて、無産政党までが、選挙の時はまた如何様にもなるなどと安心して、平素貴重な時間を内輪喧嘩に空費し大事な国民的利害の討究を等閑に附してはなるまい。選挙に際して大衆の獲得を確実ならしめんが為には、平素彼等との有機的関係を十分に開拓しておくの必要があるのである。眼あるものは今度の選挙の経験で少しはこの事に感づいた筈だ。而して来年の総選挙のことを考へると、之が為に備ふるの用意は寧ろ今日を以て遅しとする位である。私は呉々も無産政党の諸君に向つて、当今の政界に於ける諸君の真実の立場に十分反省せられんことを望まざるを得ない。