普選と政治教育

 政治教育を標榜する団体の簇出 新聞の報ずる所によると、水野錬太郎氏を総裁とする「政治教育協会」なるものが去る七月十五日を以て発会式を挙げたとやら。普選は則ち政治的国民総動員であり、従て政治智識を普及向上せしめるのが先覚者たる吾々の任務だといふ辺に、設立の目的があるらしい。之より先き、同じ目的の「大成会」といふが有松英義氏を会長として生れたといふ報道もあつた。普選の実施に依て俄に一千万の新有権者ができる、之を従来のまゝに放擲すべからずとして色々の団体の発生を見るは蓋し怪むに足らない。斯うした団体は今後も色々の人により色々の動機から設けらることであらう。
 併し乍ら之等の団体が純粋忠実に政治教育を目的とするや否やはまた別に考量する必要がある。前記の報道を載せた同じ新聞は同一項目の末段にまた斯んなことを伝へて居る。「勅選一部の有力者間には前記の如き諸運動以外に今少しく政治的色彩を濃厚にし既成政党の圏外に真に民意を基礎とせる新政党を樹立しようといふ計画もある」と。之から推すと、既成政党の埒外に振り落された政界策士の中には、新有権者を踏台にして自家将来の地歩を作らうとたくらんで居る者のあることも想像される。普選実施後の政界の傾向が小党分立の勢を馴致すべく、斯かる新形勢の下に在ては数十名の同士を集めたゞけでも相当の勢力を振ひ得べきを思ふとき、今更既成政党に頭を下げるを肯(よし)とせざる大小の政客が、政治教育などゝいふ勿態(もったい)らしい看板の下に新有権者の瞞着を試みんとするは、成程ありさうなことゝ察せられるのである。
 新有権者に対する三様の態度 普選の実施と共に激増する一千万の新有権者は色々の意味に於て放任しては置けぬ、之を何とかしやうとしていろ/\対策を講ずるものある訣(わけ)だが、夫等の人は一体どんな考で出掛けるのかといふに、其間凡そ三つの異つた態度がある様に思ふ。一は純然たる啓発的態度で、何等裏面の野心を蔵せず、新に得たる選挙権を如何に行使すべきかにつき親切に民衆の相談相手たらんとするものである。水野有松両氏の運動が純粋に斯の趣旨に出づるや否は、両氏従来の経歴に徹して疑はれるのは已むを得ないが、仮令他に積極的の政治目的を有せずとするも、少くとも無産政党運動等に対抗して新有権者の邪路(?)に誘はるるを保護せんとする位の動機に出づるは間違ひないらしい。果して然らば之等の団体は寧ろ次の第二類に入るべきものであらう。純粋に此の第一の態度を執る団体はまだ多く起らないやうだが、個々の運動としては本誌最近の態度の如きは之であり、又学者先輩の個人的運動のうちにも此部類に入ると観るべきもの全くないではない。之等の個々の運動が将来何かの機会に於て組織的に統一さるこしともあらば洵(まこと)に結構なことと考へる。
 第二は民衆の教育乃至訓練を表面に標榜はするものゝ実は自家の主張に民衆を引込まんとする態度である。水野・有松両氏の運動が精々善意に解釈してもこの第二種のものに外ならぬは前述の通である。水野・有松両氏と正反対の目的を有すと観らるべき「政治研究会」の運動の如き亦この部類に属するは言を待たない。この態度を以てする運動は、既に各種の団体に依て始められて居り、今後更に益々盛になると思ふが、我々国民は之等の運動に対しては、其の掲ぐる所の旗幟(きし)の何であれ、そは決して民衆の為の運動ではなくして直接には彼等自身の為の運動なることを忘れてはならない。其人の世俗的経歴や其のならべ立てる美辞麗句に眩惑し、直に我々の為に謀て呉れるものと盲目的渇仰を捧ぐるのは大変な間違だ。さればと云て彼等の所説を我田引水の嘘八百の御託とのみ蔑(なみ)し去をのも正しくない。どうせ商人は売らんことを欲して我が品物を只管に吹聴する。我々はまた必要あつて物を買はうといふ以上、諸商人の言ひ分を比較研究して慎重に進退を決せねばならぬ。故にこの第二種の運動に対しては、之を停車場前の宿引位に見做し、我々はどこまでも其間独立の批評的態度を失つてはならぬ。
 第三は新有権者を露骨に政治的に利用せんとする態度である。此態度をとる者の主として政党であるべきは言をまたぬが、我国に在ては、近き将来に結成を見るべき無産政党の準備的母体たる各種の団体に依て既に盛に此種の運動が始められて居る。之に比較すると、本来誰人よりも此事に熱心であるべき筈の既成政党が今なほ案外に鎮まり返て居るのは一寸不思議である。が、是れ併し乍ら、既成政党の地盤たる従来の有権者が主として有産階級であり、新有権者たる無産階級に改めて媚(こび)を呈するは有産階級の反感を挑発する虞ありとする為ではあるまいか。果して然らば余りに短見な臆病な話だと思ふ。夫かあらぬか、既成政党は挙つて新有権者に対し積極的態度に出づるを慎み、一方僅に有産階級の意嚮を傷(そこな)はざる程度の軽い社会政策的新綱領を餌に遠巻に無産階級の意を迎へつゝ他方別働隊を組織してかの労資協調的精神の下に民衆を指導訓練せんとの冥想的運動を試みんとして居る。斯うした下らない運動が、水野・有松両氏の試みに継いで今後可なり盛に一起一伏すべきはまた略(ほぼ)想像するに難くない。此間に処して、夫の無産政党主義者の運動は頗る意義あるものであり又大に割目に値するものであるが、今のところ其運動に統一が欠け、確乎たる方針も定らず、兼ねて着実重厚の風に乏しいのは、我々の太だ遺憾とする所である。
 猶ほ無産政党運動に関しては我々に特殊の意見があるが、そは他日項を改めて大方の教を乞はうと思ふ。
 普選に伴て必要とせらるゝ「政治教育」の意義 前述の如く、政治教育を標傍する運動には種々隠れたる不純の目的を包蔵するものが多いから油断が出来ぬ。そんなら純粋に「政治教育」を大事な目的と掲ぐるものは皆安心していゝかといふに、さうも可(い)かぬ。そは「政治教育」の意味を取り違へて飛んでもない迷惑を我々に与へるものも尠(すくな)くないからである。若し夫れ「政治教育」の意味を取り違へた結果、無用の所に全力を注ぎ肝腎の弊竇をば却てそのまゝ放任するという様なものに至てはザラに在る。そんなら選挙権の普及に伴ひ憲政の美を済(な)すに必要とさるる「政治教育」とは一体どんなものであるべきか。
 そは外でもない。団体公共の事務を托する為には、常に真に優良な人を挙げ、其選に当つた人は多数隣人の期待に背かず誠実に其任務をつくすといふ、共同生活に於ける極めて平凡なる習性を政治関係にも活用する様民衆を訓練すること是である。
 この事を明にする為に吾人は先づ次の三点に読者の注意を促したい。
 (一) 従来政界の弊竇は、選ぶ者も選るゝ者も共に真面目でなかつたといふことに原因がある。立憲制度に関して一通りの知識があつたとか無かつたとかいふことにはあまり関係しないい否、知識の相当に高い者の側に却て悪い者が多い事実もある。
 (二) 政治知識は全く無用だといふのではない、少くとも代議士たらんとする者には必要だ。一般公民の素養としても之を知つて居るに越したことはない。が、併し之を知らなければ絶対に選挙権の行使が出来ぬといふ訣のものではない。
 (三) 政治のことは能く分らぬが兎に角大事の事だから信用のおける立派な人に投票しやうとの平凡な誠意さへあれば、其人は立派に立憲国民としての任務を尽し得るのである。
 そこで今日我国の政界に何が一番必要であるかゞ明であらう。政弊救済の為に所謂「政治知識」の普及向上が必要だといふなら、学卒業以上の国民総べて政弊の埒外外に超然たるべき道理だ。然らば概して高等教育をうけたと観るべき代議士間の腐敗の事実を何によりて説明するか。故に予輩は断言する。我国の今日に欠けてゐるのは知識ではない、誠実なる習性である。時弊救匡(きょうきゅう)の目的で唱へらるる「政治教育」は、先づ第一にこの点に着眼すべきであるまいか。
 然るに世上の所謂政治教育論者は、どうしたものか此点を重視しない。口を開けば政治知識の普及向上をいふ。こゝが予輩の彼等に慊(あきた)らない所である。
 所謂政治教育論者と吾人の立場との相違 有権者の激増に伴て俄に政治教育の必要なるを騒ぎ出す人々の立場を分析すると、凡そ次の様なものになると思ふ。
 一、従来の制限選挙制の下に在ても選挙民の無識は政弊の大原因であつた。普選の実施に伴てこの原因は一層強く活(はた)らくであらう。
 二、之を防ぐには何よりも先づ選挙民を教育せねばならぬ。即ち立憲政治といふもの、本来の意味を能く了解する様教へ込まなければならぬ(公民教育の普及)。
 三、恒産なき多数の下層階級者の間には、軽卒に過激危険な宣伝に乗る者なしと限らぬ。之等の弊を防ぐ為にも我国独特の政治組織を理解せしむることは此際頗る必要だ。
 右の中の第三点を論ずることは、自ら一箇の思想問題の討論となるから茲には略する。第一点に就ては吾人の服し得ざるもの二つある。一つは選挙民の無識を政弊の主因とすることで、二つは従来見るが如き政弊(例へば選挙界の腐敗の如き)は選挙権者の数に正比例して増大すべしとの見解である。
 手短に云へば、我国憲政の腐敗をもたらせる主たる原因は実は政客彼自身に在て決して選挙民にはない。仮令今日選挙民は概して腐敗してゐるといふが事実だとしても、之は政治家に教へられ又は誘惑されて識(し)らず/\斯うなつたので、始めから悪い事をしやうという了見であつたのではない。加之(しかのみならず)今日腐敗して居る程度から謂つても、一般民衆の方は遥に政治家自体よりも浅い。故に若し今日の政弊を矯(た)めるといふ目的で政治教育を云々するなら、そは第一着に先づ政治家に向けられなければならぬ。と云つて予輩は民衆の政治教育を全然無用といふのではないが、今日の政治教育論が、教育せらるべき対象が独り民衆であると云ふ風にのみ説かれると、予輩は、更に恐るべき弊根たる政客者流の腐敗が看過されて了ふ恐あることを憂へずには居れない。予輩は、今日政治家の腐敗たるや所謂疾(やまい)膏肓(こうこう)に入るものにして到底一朝に癒し難きを知るが故に、逆に民衆の教養を高め之に由て政界の醜状を制せんと考へることはあるが、本来政治家さへ誠実に復れば民衆は自ら正路に落ち着く筈のものと信じて疑はない。何となれば民衆の腐敗はもと政客に誘はれた結果だからである。この見解はまた吾人をして普選になれば今日の政弊は一層増大するといふ断定にも反対せしめる。選挙権の極度の拡張は政客慣用の民衆誘惑手段をして頗る活躍に不便ならしめ、為に政界廓正の運動に意外の功果を奏せしむる機縁となることは、従来多くの国に於て実験せられた所だからである。斯う云ふ点からして、吾人は普選の実施と聞いて俄に「政治教育」の必要を痛感するといふ一派の人々の態度には、其儘賛同することは出来ぬのである。此等の人々のいふ様な「政治教育」は、普選の実施如何に拘らず常に同一の程度に於て必要であるべき道理ではないか。
 併し吾人は之とは少しく別様の意味で、普選の実施に伴ふ「政治教育」を矢張り必要と感じては居る。従来の選挙権者の大部分はもはや中々正路に引き戻し難い。然らば新に有権者となつた無垢の民衆を味方とすることに由て今後の大勢を正しく指導する外はないからである。之が実に吾々の政治教育を説く立場である。結果は同じことになるが、動機が根本的に違ふ。従て実際の運動に伴随する志向に於ても色々相違する所がある。
 第二点の政治教育の内容に関しては、前にも述べた如く吾人の見解は全く論者の立場と相反する。どういふものか我国の識者間には、民衆間に於ける多少の政治知識の普及が政界現行の弊害を防ぎ得べしと考ふる者が多い。普選を実施するに先ち国民教育年限を延長する必要なきやとは、屡(しばしば)貴族院で繰り返された質問だ。普選の実施に応ずる教育的施設として公民教育の課目がどうの中等教育に於ける法政経済の過程がどうのと、是亦再三文部当局から説明された様である。当局の施設だけでは足りまいとて、更にまた民間に諸々の団体の起るを見るのであるが、之等の総てを通じ、政治組織に関する知識の青年間に於ける普及が実に今日の急務だとする見解には皆一致して居る。之等の知識は無論無用ではない。併し其の機械的記憶はどれ丈け憲政の正しい運用に資するだらうか。衛生学をそらんずる者必しもからだが丈夫でない如く、足の弱い者に旅行記を与へたからとてすぐに達者になるとは決まらない。況んや今日の政弊の主因は決して知識の欠乏に在らざるをや。
 吾人は平素、政治知識の普及向上など云ふことは決して今日の所謂「政治教育」の重要な内容をなすものでないと考へて居る。尤も工業教育とは工業上の知識を授くることであり美術教育とは美術を教へることだといふと同じ形式に政治教育を云々するのなら、そは正しく政治知識を授くることに外ならない。併しさういふ意味の政治教育なら、工業教育や美術教育と同様高等専門の教科に属し、普選の実施に伴て特に必要を痛感せらるべき事柄ではない。そも/\当面の問題は、従来とても憲政の運用はうまく往かなかつたが普選の実施を見ば此点一層気遣はるゝ、之には国民の側に何等か欠陥のあるのであらう、之を一つ矯正したいと云ふ所から起る。そこから昨今「政治教育」といふことが叫ばれるのであつて見れば、文字に拘泥して之を単純な知識普及の間遣なりと早呑込みすべからざるは亦明白であらう。
 如何にして政治教育の効果を挙ぐべきか そんならどうすれば政治教育の真の効果を挙ぐることが出来るかと云ふに、第一の先決条件は敢て其の任に当らんとする者に考へ直して貰ふことである。従来のやうな考では前項にも述べた通り結局効果もあがらねば時としては悪い結果を伴ふことすらある。第二には彼等に自分達が必しも其の最適任者でないことを反省して貰ふことである。政治教育の要諦は智識の伝達ではない、特殊なる習性の訓練であるとすれば、タマに顔を見せて一場の講演をした位で出来る仕事ではあるまい。最適任者の誰であるかを見定め専ら其の人々の活動を促し、我々は謙遜して之等の人々を助成するといふ態度に出なくては、本当の効果はあがるまいと思ふ。
 そんなら誰がこの仕事に於ける一番の適任者か。理想的に云へばそは母親である。所謂三ツ児の魂は百までとやら、一生涯に亙る習性の多くが幼年時代の訓練に基くとすれば、母親の感化を第一に問題とするは決して奇矯の言ではない。況んや他日公生活に於て見るが如き選挙代表の事実は、頑是なき幼童の間にも行はる、ものなるに於てをや。例へば兄弟数名集つて御母さんに菓子をねだる相談をする。すると其中の誰かゞ総代に選まるゝに相違ない。其場合談判に成功した総代が途中でコツソリ盗み喰ひしたり又は特別に余分の分け前を取らうとしたりなどせば、彼は決して他の子供達の心服を得ることが出来ぬ。此際もし母親が、総代を選むにはどんな心持で為すべきか、選れた者はまた如何なる心懸であるべきかを、夫れとなく親切に教え込まんか、其の心持がやがて成人して公民としての必要なる心持となるのである。公民教育だなんて特殊の内容を有するものと思てはいけない。子供同志の遊び事にでも必要とさるる心持の自然の延長で沢山なのである。此意味に於て予輩は政治教育の最適任者は極端に云へば母親だといふのである。
 併し今日の母親に此の大任をまかして安心出来ぬことは亦いふまでもない。母親其人に対する心得としては幾度之を繰り返し力説しても無駄ではないが、急速に効果を挙ぐるを要する当面の問題としては、母親以外に別な最適任者を求めなければならぬ。斯う考へて来て私は、茲にどうしても小学校教員に着眼せずには居れぬのである。何となれば彼等は幼年期の習性訓練を専門の仕事とする特別の階級であるからである。
 所が小学校教師と政治教育との関係に就ては、由来我国に飛んでもない誤解がある。政治教育は中等以上の学校教師の考ふべき事で、小学校教師は全然之に関知しなくてもいゝと云ふ見解の如きは、政治教育の意味を智識の伝達と誤解した結果に外なちずして固より取るに足らぬが、小学校教師は国民教育の神聖を保持する為に断じて政治に関渉しては成らぬなどとの見解に至ては、一面に於て相当の理由もあるが、又一面に於て政治教育の効果を挙ぐるの唯一の根源とも云ふべき彼等の活動を故らに封じ込むといふ悲むべき弊害もある。小学校教師が政争の渦中に投ずべからざるは云ふ迄もない。校長が地方有志家の使簇に乗て選挙運動に浮身をやつすは能くある例だが、私共は之を苦々しき事の限りと思つて居る。政治に関する相当の見識なくして慢然政界の渦中に投ずるは、却て悪感化を児童の頭脳に印するの虞なしとせぬ。此点大に警戒を要するが、さればと云つて小学校教師に全然政治と没交渉たれといふのは、羮に懲りて膾を吹くの陋(ろう)たるにとゞまらない。私共はこの点を読者と共に大に考へて見たいと思ふのである。
 我々の共同生活に於ては、どの道、代表者を挙げて或る事業の遂行を托するといふ必要は再々起る。此場合我々はどんな人物を挙ぐべきか又選に当つた者はどんな心持で受託事項を処理すべきか。之等の事は実は小学校生徒の間にでも屡起る事柄だ。或は級長の選挙或は運動会の委員若くは学友会の幹事の選定など、特に其の機会を拵(こしら)えないでも幾らでも出て来る。之等を我々は決して子供のやる遊び事だなどと軽視してはならぬ。若し学校長や教師やが、之が他日公民としての必要なる資格を作る根基となるのだといふに着眼して、不真面目な選び方をするの不利、選ぶ者選るゝ者相結んで私利を図るの不徳等につき、十二分に教え込まん乎(か)、所謂習ひ性となり、他日公民となつた場合、如何にして彼等は不義の誘惑などに陥ることがあらう。悪い事をしたくとも出来ぬといふ習性は、是非とも小学校時代から作るのでなければ本当のものではない。
 私は更に斯うまで考へて居る。総選挙などのある場合、小学校でも学校長教師の真面目な監督の下に生徒をして亦試みに投票さして見たらどうかと。之が本当にまじめに行はるゝなら、之こそ一層適切の具体的政治教育になると思ふ。尤も之には学校当局者の政治に対する一層の聡明と地方有志家の短見偏僻なる苦情に屈せざる独特の見識とを前提要件とする。生活の方便を町村に依て左右されてゐる現今の教員に之を期待し難きは言を待たぬが、本来の理想からいへば、英米諸国に屡見るが如く、小学校がモット実際政治の興味に児童を引ツ込む様にして欲しいものと思ふ。
 去年東北の某県で、総選挙直後、ある小学校で級長の選挙をやつたら一票幾銭とかで買収したものがあつたといふ。教師は公民教育の意味で生徒の自由にまかしたのだといふが、之などは公民教育の意味を理解せぬに基く監督疎漏の一好例である。次は小学校の問題ではないが、高等の学校でよく擬国会をやることがある。本来の主意は矢張り政治教育といふ事にあるのだらうが、予輩は未だ嘗て一度も、この擬国会が国家の選良たるものはどういふ気持で国事を議すべきかの真面目な例を示したといふ話をきかぬ。概していふに現実の議会に於ける最も不仕鱈(ふしだら)な点のみを最も誇張して笑ひさゞめくといふのが擬国会の面目と謂ていゝ。故に擬国会は訓練の機会でなくして宛(えん)として一場の余興に過ぎぬものとなつた。そしてこの擬国会のチャンピオンが他日選れて本当の議員となる。昨今の議会が此種の青年議員に由て更に大に不真面目にされて居るは読者の既に気付かれた所であらう。
 そこで私の結論は斯うだ。政治教育の最適任者は小学教育当局者である。不幸にして彼等は今日此事に余りに無理解だが、之は彼等の責任といふよりも寧ろ彼等を不当に政治から遠ざからしめた社会の罪である。故に政治教育を憂とする識者は、この点の蒙を啓発するに大に努力する所なくてはならぬ。彼等自身のカで政治教育の効果を挙げ得ると考ふるは誤りである。斯う態度をきめれば、更に進んで如何なる具体的方策に出づべきやは自ら明白であらうと思ふ。

『中央公論』 1925.9