露国革命の真相と新政府の将来

 

 ペテログラードに於ける革命の勃発は三月十一日の夜であるけれども、其端緒は既に八日各工場労働者の大示威運動に発してをる。露国政府の食料供給のために取た手段が宜しきを得ないので、下層階級が非常に困難を感じてをつた。食料品の価が著しく騰貴したばかりでない。事実物品がない。そこで労働者は示威運動を以て政府に迫つたのである。政府は初め之れに対して高圧手段に出でたので、所在官民の衝突あり負傷者二百余名を出したと云ふ事である。九日になると此の形勢は更に重大になつて来る。首相ゴリツィンは閣僚を集めていろ/\前後の方策を講じたけれども治らない。十日更に軍隊と人民との大衝突あり、遂に政府は戒厳令をしき軍司令官の命令を以て人民の有らゆる集会を禁じ、其命令に背くものは兵力を以て容赦なく処分する事にした。けれども人民は此命に従はない。十一日に至つて依然として処々方々に集会して居る。之れを解散せしめんとして、或軍隊が発砲を敢てするに及んで人民は大に激昂した。政府は更に厳命を発して明日より直ちに就職すべく、然らずんば武力を以て戦線に送るぞと云ふ命令を罷工中の労働者に発した。茲に於て彼等は益々此の抑圧に激昂し、此夜を以て公然政府に反対すると云ふ決心を定めたのである。即ち茲に革命の火蓋は切られた。察するに此時までは暴徒は単純なる労働者の不平、殊に政府の食料政策に対する民間不平の勃発に過ぎなかつたのが、予て乗ずべき機会を覗つてゐた革命主義者が好機至れりとなして、此頃から乗じたものであらう。斯くて労働者の不平は革命主義者の隠謀と両々相助けて、茲に革命の勃発を見るに至つたのであらう。十二日以後の首都の形勢は最早既に純然たる革命の巷であつた。約三万よりなる一部の軍隊は既に革命に加担し、其結果として起るものは或は将校の狙撃、或は官省の襲撃、或は囚徒の解散、或は高官の監禁である。やがて近衛兵の一部も加はつて来た。三月十三四日の両日の中に首都は全然革命派の手に帰してしまつた。
 之より先き三月九日議会は一度解散を命ぜられたが、議員は其命を奉ぜず、独立の存在を継続して居つた。十二日には革命運動の中堅たる労働者并に兵士を代表すと称する団体の承認の下に、十二人よりなる臨時委員会を設定し、之れに政治上の全権を托した。該委員会は出征軍隊、殊に海にあつては艦隊司令官、陸にては大本営等に飛電して前内閣の滅亡と新臨時政府の成立を告げ、又全国の各方面にも政府の権限は一時議会に移れる旨を告げたが、之れに対して各方面より送り来れる答電は皆委員会を承認すると云ふことであつた。次で十五日委員会は自由主義の諸名士を集めて新内閣を作つた事は既に人の知る処である。同時に新政府は数箇条よりなる政綱を発表した。其主なる点をあぐれば、
 一、国事犯人を大赦する事
 二、言論集会結社の自由を認むる事
 三、宗教並に人種に依る制限を撤廃する事
 四、普通選挙の主義により立法議会を召集し新に政体を定めしめ完全なる憲法政治を布く事
等である。以て新政府が如何なる政治主義によるかを知ることが出来る。
 此革命運動は従来の官僚政治を一蹴したるのみならず、官僚と深き腐れ縁につながつて居つた皇室をも亦非常なる危地に陥れたのである。斯くて皇帝の譲位を見る。即ち三月十八日譲位の宣言が発せられ、位をミハイル大公に譲つたが、大公も亦国民一致の推戴あるまでは帝位に即かずと宣言して之れを辞した。大公自から国民の推戴を云ふ、之れ豈に皇族自から民主々義に屈服するを語るものではないか。


       二


 露西亜は最近まで世界に於て最も専制的なる国として知られてをつた。専制主義は十九世紀の初め以来露国政界の金科玉条であつた。独り自国の金科玉条たりしのみならず、之れを広く西欧諸国に強ひ、自由主義の跋扈を抑へんがためには他国の内政に干渉することをも厭はなかつた。曾て教務総官たりしホビードノスチェッフの如きは西欧文明を呪ひ、専制主義の主張固執を以て世界文明に対する露国独特の天職であるとまで唱へた。従つて専制主義の本塁は誠に堅牢にして、容易に覆へる可らざるものと思はれてをつた。日露戦争後一旦民間の要求を容れて憲法政治を制定したけれども、ストリピンのクーデターは忽ち憲法政治を有名無実のものたらしめ、変装的専制政治の復活を見るに至つた。而して此さしもに強大に見えた専制的官僚政治が一朝にして崩れるとは実に有為転変の甚だしきに驚かざるを得ない。
 然らば何が官僚政治を仆した根本原因であるか、換言すればさしもに強大であつた専制官僚政治に対して革命の成功せし所以は何処にあるか。云ふまでもなく革命を誘致した直接の原因は労働者の不平である。而して労働者の不平を惹起した直接の原因は食料の窮乏である。露西亜は初めから食料に困つてをつたが最近に於ては殊に甚しくなつた。二月中旬既に此ために大示威運動をやらうとした事がある。政府の知る所となつて圧迫せられたが、其後人心は安静に帰しない。然も政府の為す所適宜の措置を欠き、食料供給の道を疏通する上には格別工夫する処なくして、廟堂の大臣は唯如何にせば民間の動揺を抑ふる事が出来るかと云ふ問題にのみ没頭してをつた。政府は此問題を外にしても戦争に対する態度に就て実は既に久しく民間の不平を買ふて居つた。就中最も民間不平の的となつたものは其親独傾向である。民間の輿望に背き廟堂の高官中敵国に通じて単独講和を策せるものありとの隠謀は屡々暴露した。其ために議会に迫られて政変を見た事も一再でなかつた。殊に去年の秋以来は此点に関する政府不信任の声は極めて高かつた。内閣の改造頻々として行はれしは之れがためである。斯く政府は戦争の目的を遂行する上に於て国民の信任を得てゐない。其上食料供給の問題に就て毫も民間のために図る所がなかつたから、遂に三月八九日の大示威運動となり、偶々革命主義者に乗ずるの機会を与へたのである。
 政府に対する民間の不平並に其勃発は革命主義者に乗ずべき間隙を示した丈けのもので、革命運動其ものの原因は猶もつと深い処にある。夫れ即ち十九世紀の初め以来露国の官僚閥族が民間勢力の抑圧、自由主義の圧迫を以て金科玉条とし、飽まで平民の勢力と戦つて来た事である。官僚閥族が平民の勢力と争つたと云ふ歴史は露国特有のものではない。けれども他国に於ては理想の上に於ては少くとも自由主義の抑ゆべからざるを認め、又事実に於ても相当に民間の勢力に譲歩し、従つて実際の政治も両勢力の妥協によつて大体行はれて来た。官僚が傲然として飽まで一歩も譲歩しなかつた事、露西亜の如きは殆んど他国に其例を見ない。そこで露西亜の自由主義者は平時に於ては到底官僚閥族を屈して自家の進路を開拓するの希望はない。若し茲に一点の光明を見るの時機ありとせばそは国難の場合であると云ふ思想を有するに至り、平時でも無論秘密の間に画策運動する所ないではないが、大体に於ては蟄伏に甘んじ、一旦国難が起つて政府が内を省みるに十分の余裕なきに乗じて猛然として立つと云ふ有様であつた。此前例は既に日露戦争の時に示されて居る。彼等は此国難の際に於て自由民権伸長の好機会を捕へんとしたのである。当時彼等は揚言して云ふ「今度の戦争は官僚のなせる戦争にして吾等国民の与り知る所にあらず」と。然して之れは単に口実で、官僚のなせる戦争であらうが、国民のなせる戦争であらうが、兎に角国難に乗じて政府をして余儀なく自家の要求に屈服せしめんとしたのである。之れと同じ思想は素より今度の戦争に際してもあつたに相違ない。即ち今次大乱の勃発するや、恰度支那の昔の革命が内外に事ある毎に、今度こそ乗ずる機会があるだらうと云ふ希望を抱いて大に騒ぎ立つが如く、戦争の進行中必ず或種の機会あるべきを想像して、大に暗中飛躍を試みたに相違ない。其結果として今度の食料暴動を捕へたとすれば吾々は彼等の突嗟の間に事を起して、然も相当の成功を収めたるを見て多少了解する所あるを得るのである。
 尤も彼等が愈よ事を起すまでには余程の躊躇苦心のあつた事を想像する。何故なれば彼等は国難に乗じて運動開始の好機会を見出し得べしとなし、又は国難に乗ずるにあらずんば他に其目的を達する途なきを確信するものであるけれども、しかし軽卒に事を起して偶(たまたま)外敵に対する国家の立場を、為めに大に困難ならしむるは亦彼等の愛国心の忍び得る所でもない。我国などで見るが如く、国難の場合だから挙国一致して政府を助くべし、夫れがために官僚閥族をして功名をなさしめ、又其勢力を伸長するの結果を来すも国家非常の場合だから忍ばなければならないと云ふやうな考の極めて少ない事は明かである。けれども国難を構はず政府の困つて居るに乗じて民権拡張の為めに盲目滅法に突進せよと云ふまでに過激でもない。無論議論として国難に際して一時の損害を忍んでも、自由の確立と云ふ国家百年の大計を樹つる方が結局国のためになる、戦争に負けても構はぬから自由のために飽まで政府に迫れと云ふ説もある。けれども実際問題になると革命主義者の大多数は決して此処まで極端に走るものではない。彼等は自由民権の伸長には飽まで熱心なれど、又一方に於て国家其ものを窮地に陥れる事を欲しないから、何とかして政府の目的を助成するの交換条件として民間の要求の聴従を迫らんとする。盲目滅法に政府を虐じめるのは其本旨ではない。どうしても聴かなければ国家一時の不利益に顧慮せず、飽までお前を苦しめるのだと威嚇しつゝ、実は政府の此際に於ける譲歩を迫ると云ふのが彼等の本当の態度である。故に若し如何に革命主義者が官僚閥族の政府を信任しないからと云つて、官僚閥族の政府が仮令徹底的なものでない迄も、幾分民間の要求を入れると云ふ寛容な態度を取れば、少くとも一時を塗糊して革命の勃発を予防し得た筈である。乍併官僚閥族から見れば国難の際如何に民間の助力を求むるに急なりとは云へ、うつかり自由民権伸長の方面に一歩を譲れば其後の事が心配になる。何故なれば自由民権の伸長は今や世界の大勢である、一歩踏み出せば余勢滔々として何処まで至るか分らない。之れを官僚閥族は恐れてをる。故に唯だ一歩の譲歩は一見何でもな様であるけれども、之れを端緒として乗ぜらるゝ時には、結局官僚閥族は其立場を失ふことになる。之れを知つて居るから彼等は此問題に触れざる限りは飽まで頭を民間に下げて戦争目的の遂行の助成を頼むけれども、一度自由憲政の主義の争になると彼等は忽ち態度を厳格にして断じて一歩も譲らざらんとする。斯くの如きは実に戦争開始後今日に至るまで二年有半を通じての露国官僚閥族の渝らざる態度であつた。さうして民間の議論が八ケましいと云つて議会なども久しく停会を命じて居つたのである。民論の無遠慮なる批判を厭ふて議会に定期の開会を禁じた例は独逸墺太利などにもある。夫丈け此方面に於て政府に対する民間の不平はあるが、露西亜は民論の抑圧官僚の跋扈と云ふ旧い歴史の背景がある丈け、又国難でもなければ到底民間勢力の伸びる機会はないと云ふ信仰がある丈け、露国に於ける対政府不平の方が激烈を極めてをつたのである。されば此半年此の方政府の失政が暴露し、段々一段人民の信任を欠くものあるに及び、革命主義者が其乗ずべき機会の愈よ近づけるを信じて、大に画策する所あつたに相違ない。政府の態度斯くの如くなる以上遂に最後の手段に出づるの外道なきを考へて、各地の同志と連絡を取り、一朝乗ずべき機会あらば組織的に一大活動を開始すると云ふ計画を立てたものであると思はれる。是等の観察は今日明白ではないけれども、今度革命運動が首都を以て初まり、更に全国各方面で之れに響応するものあつたと云ふ事実から推してほゞ想像する事が出来る。

 今度の革命の成功を促した今一つの原因は現在の皇室の不評判と云ふことである。仮令官僚閥族が大に跋扈して其間幾多の弊害を暴露しても、若し皇室が国民敬慕の中心となつてをつたなら、少くとも皇室の安泰丈けは保たれ得たであらうと思ふ。然るに不幸にして皇帝ニコラス二世は多病にして又意志よわく其間陰険佞悪なる権臣の乗ずるものありて、皇室其ものが実に一部の皇族貴族の同情から孤立して居つたのである。皇帝の聡明に欠くる所あるの結果は、皇室は一部の固陋なる官僚閥族、殊に余りに親独的なる一部階級と余りに固く結托して、全然孤立の地位を作つて居た。之れが又実に其顛覆を早め、革命運動をしてしかく速かに成功せしめた所以であると思ふ。

      三

 革命の結果として、露国其ものが将来如何になるであらうか。此の点に関して今日までの材料に基いて云ひ得る点は、第一には当初多くの人の懸念した反動の来ると云ふことは大抵なかりさうだと云ふ事である。遉がに露国の皇室と閥族とは清朝時代の北京の如きものではあるまい。従て人心の沈静に帰すると共に反動の来る事はあるまいかと云ふ事を恐れたのである。乍併今日までの所其気色はない。又将来に於てもなかりさうに思はれる。無論僻遠の地には自由政治の意味を曲解して乱民の暴行を働くこと恰も革命当時の仏蘭西を思はしむるものがある。併し之れは極めて小部分に止つて全体としては之れがために反動を来たすやうな事はないやうである。且又露西亜の先輩の政治家は支那などとは違つて、十分に自由政治の精神を体得してゐるし、又民間にも案外に民主思想は普及してをるから、革命の起らぬ前なら兎も角、一旦官僚政治を卻けた以上、再び其復興を迎ふるやうに人心を転回すると云ふ事は困難であらう。又同国が政教一致の間柄であるため、皇室は同時に宗教的信仰の中心
点なるが故に、此方面から反対の来るを恐るゝと云ふ点がある。此点は最も懸念にたへぬ所なれど、併し一面に於て同国の宗教が余りに固陋頑迷なるため、其反動は既に著しく、近世科学思想の普及と共に従来の旧い信仰の基礎が動揺してをつたと云ふことを考ふれば、此点も左まで恐るべき事はないとも考へられる。自由討究の精神を容れざる国教制度の国に於て国民的信仰が段々動揺して居ると云ふのは最近各国共通の現象である。
 之れを要するに新政府の基礎は相当に固いと云つてよい。人或は云ふ今度の革命は一面に於て国民輿論が親独的勢力を駆逐するの運動であり、従て革命運動には英仏側が隠然多大の援助を与へた。従つて又露国に反動の来る事は、新政府の前途を監視しつゝある英仏側が之れを許さないと云ふ者があるが、其の真偽は予の敢て断言し得ざる所なれども、併し英仏側が三月十八日を以ていち早く新政府に承認を与へた点を以てみれば単に多大の同情を傾けたのみならず、又新政府の基礎を相当強く認めたものであり、新政府が又英仏の承認によりて更に一層基礎の強固なるを加へた事も疑ひない。次で二十四日に米国も亦之れを承認した。我日本は二十七日の閣議決定に基いて四月一日承認の通告を発したのである。
 唯だ問題は露国は将来如何なる政体を取るかの点である。専制政治の復興を見ざるべきは固より疑ひない。露国の議会は既に三月廿一日を以て専制政治復活の許すべからざる事を満場一致を以て決議してをる。唯だ立憲君主国にするか民主共和国にするかゞ問題である。二十一日の議会では一般人民に諮るまでもなく直ちに共和政体を確立すべきを主張せるもの十五名程あつたさうである。けれども大勢はまだ共和と云ふ事に熟してゐなかつた。しかし昨今の模様では段々時の進むに従つて共和思想が勢を得つゝあるやうに見える。何れ此事は其中正式の憲法会議を召集して決定せらるゝ事であらうが、何れにしても余程進んだ民主的政治の行はるゝと云ふこと丈けは疑ひを容れない。例へば君主制を取るにしても英国の制度以上に出づる事はなからうと思ふ。
 之れと閑聯して猶一言すべきはポーランド、フィンランドの問題である。ポーランドに就ては新政府は既に同民族の独立を認め一般投票によつて同国の憲法議会を作り、此議会をして新政府を決定せしめやうと云ふのである。尤もポーランドの運命は戦争の勝敗がどう定まるかと云ふ事にて一様ではないが、併し独逸もポーランドに独立を与ふると云ふ思想は余程進んで居るから、独立と云ふ事丈けは何れにしても疑ひない。若し独逸側が勝てばポーランドは独逸の勢力の下に属く君主国となるだらうが協商側が勝てば結局純然たる共和国を現出すべきは疑ひを入れない。フィンランドに就ては未だ何等の報道に接せざるも恐らくポーランドと同一の運命を与へらる、ものであらうと思ふ。其他猶太人も完全なる自由を与へらるゝと云ふ事であるから、露国の将来に於ては少くとも人種問題は余程従来と其趣きを異にするであらう。

      四

 終りに今度の革命が戦局に及ぼす影響に就て簡単に一言して置く。戦争に及ぼす影響を考ふるに当て、先づ吾等の念頭におかねばならぬ事は、官僚閥族を協同の敵として起つた革命主義者の中に、穏和派と過激派との分立あり、其対立の傾向が昨今益々著しくなると云ふ事である。穏和派は内政上に於ては何れかと云へば君主立憲主義者で、戦争に関しては飽まで協商側と歩調を合せ戦争の目的を達するまで戦ふを辞せず、且つ露国民の将来の発達のためには他国の領土を幾分侵略するの必要を認めてをるものである。之れに反して過激派は内政上には急進的共和制を主張するもので、戦争に対しては全然侵略主義を否認し戦前の状態に無条件に引戻すに同意せば速かに媾和すべしとする所謂平和論者である。此両派の何れが将来に於て勢力を占むるやが露国の戦争に対する態度に大なる変動を来す。政府は今や此の両主張の間に介在して十分態度を鮮明ならしめ得ない様である。従て露国方面の戦争に対する態度は、昨今米国方面から頻に援助を与ふべしと云ふ勧説あるに拘らず捗々(はかばか)しく運ばぬ。此状態は今後暫は続くであらう。
 然し平和論者の勢力が段々加はつても、露西亜が独逸と単独講和をやると云ふ事は一寸考へられない。何となれば露独の単独講和は、其結果として英仏側に非常なる不利益を与へ、独逸に非常なる便宜を提供する。而して彼等の主張する平和は全局のための平和にして、自分のみ平和になれば、外の仲間はどうでもよいと云ふ利己的動機に出づるものでないからである。故に彼等の主張する平和は英仏も独墺も凡て皆其利己心を捨てゝ彼等の主張する所謂「世界人類は相争ふべきものでなく、互に親愛すべきものなり」と云ふ理想に立ち帰つて、全局の平和を見るに至るべきを主張するものである。其ためには独逸を誘ひ、自から独逸と和すると共に、独逸と英仏をして亦同様の和議を結ばしめんとするものである。予輩は露西亜の平和主義者は即ち同国の社会主義者であり、同国の社会主義者は動もすれば忠実に一偏の抽象的理論を固執するの風あるを思ふが故に、彼等は如何に平和論を唱へても自分丈け講和して更に英仏と独逸とが大に相争ふを顧慮をしないものとは思はない。されば彼等の平和論は米国の公明正大なる主張と相俟つて、敵味方を促し、又其要求を和げて平和的終結に近からしむる効はあらんも、然も之れがために断じて単独講和の可能を説くべきではないと思ふ。

                               〔『新人』一九一七年五月〕