過激派の世界的宣伝の説について


 我国の官僚並に其系統に属する一部の論客の間に、露西亜の労農政府を次のやうに観て居る者がある。彼等は其主義を全世界に宣伝し、斯くして万国を其支配の下に置かん事を企てゝ居る。更に又之を所謂猶太人の世界顛覆の陰謀なるものに牽聯して考へて居る者もある。一時当局が無暗に猶太人を取締つた事があるのは此誤解に基いたと云ふ者があるが、真偽の程は知らない。更に亦労農政府は日本を敵とするからとて、朝鮮や支那の排日思想は皆其使簇に基くなどと云つたり、果ては日本に反対の運動をする者を無差別に過激派と誣ゆる者あるに至つては、滑稽の沙汰である。兎に角過激派政府は其主義宣伝の運動の一つとして、日本を敵として居る、吾々は自衛上過激派を敵として戦はねばならぬと信じて居る者が相当に多い。

 過激派が其主義の宣伝によつて全世界を征服せんと企てゝ居ると云ふ事は、或意味に於ては事実に相違ない。社会問題乃至労働問題について、所謂過激派が独特の意見を有つて居る事は、之までも屡々説いた。そして此独特の意見に基いて彼等は現代の社会を根本的に改造せんとして居るのであるが、其改造は自国のみに出来上つた丈けでは十分でない。隣りの国が依然として旧い形式を採つて居ると自国の改造が維持され難い。一つの訳り易い例を云ふなら自分の国で八時間労働制を施いても、隣りの国が十時間も十二時間も働かして安い賃銀で物を安く造るのでは、少くとも差当り競争が出来ない。故に八時間労働制度によつて受くる利益を十分に受けようとするなら、此制度を凡ての場所凡ての国に行はしめなければならない。従つて労働運動に関する諸々の要求は、国境を超越し、普く世界的に行はれねばならぬ性質のものである。労働運動の世界的性質と称(よ)ぶのは即ち之を意味するのであるが、過激派の主張とても固より此例に洩ない。否、彼の如き突飛な改造論こそ最も痛切に世界的性質を主張するものと視なければならない。此点から観て彼が其主義を世界に宣伝し、万国を其思想の下に統一せんと熱中するのは当然である。過激派の仕事は露西亜のみに終るのではない。遍く全世界に社会改革を興さずんば止まずといふのは此為めである。
 露西亜の労農政府が露国其物の改造といふ仕事の外に、今述べたやうな世界的使命を感じて居るといふ明白な証拠は、莫斯科に設けられた所謂第三インタアナショオナアルである。第二インタアナショオナアルに慊らずして此処に新しい旗幟を飜したといふ所に、過激派の特に著るしく世界的に動きつゝある点が現はれて居る。
 労働運動は前にも述べたやうに、もと/\世界的性質を有するものではあるが、実際には先づ各国別々に組織的運動を起す必要があるので、発達の歴史から云へば、先づ国民的運動として起つた。マルクスは単純な理論から一挙に世界的労働運動を起さんとして、一八六四年万国労働者同盟を作つたけれど永続はしなかつた。労働運動は結局世界的に協働すべきものであるとしても、物の発達には順序がある。マルクスの計劃が数年にして消滅に帰したのは、其処にいろ/\の事情はあるが、然らずとすも結局の運命はさうであつたのであらう。斯くして最近までの各国の労働運動は、皆国民の運動として起つたのが初まりである。マルクスの作つた万国同盟の支部として起つたものもあるが、英吉利のやうに夙くから独特の組合運動として発達したものもあり、独逸のラッサアル式の運動の如く、全然国家的立場を採つたものもある。斯くして其初め各国別々に起つたが為めに段々着実の発達を見たのであるが、それが相当に発達して来ると、やがて又本来の性質に立還らねばならない一事になる。即ちそれ/"\の国家の内部に根柢を作つた上で初めて国際的活動に移るといふ事になる。斯くして一八八九年仏蘭西革命百年紀念祭を期として、万国同盟は巴里に於て復興された。之れが即ち第二インタアナショオナアルである。然し之は見様によつては国家的発達から完全な国際的発達に到る途中の段階である所から、未だ十分に世界的性質を発揮する事が出来ない。之を他の例に譬へるなら、数多き小邦に分れて居つた独逸民族が、完全な国家的統一を見るまでの中間の時期に於て国際的聯合関係に在つたやうなものである。故に第二インタアナシヨナアルは許はゞ地方分権的で、聯邦的で、各国の労働団体は殆ど中央の命を奉じない。便宜上聯絡を取るといふ位の極めて弱い聯合に過ぎなかつた。之れでは本当の世界的聯合運動といふ事は出来ない。然らば若し労働運動が、いよ/\其世界的性質を完全に発揮せねばならぬといふ段取りになれば、更に別種の世界的同盟を造らねばならぬは当然ではないか。
 第三インタアナシヨオナアルは斯う云ふ点からのみ異を樹てるのではない。社会改造の原理並に方針について、従来の第二インタアナシヨオナアルと全然観る所を異にするからであらう。併し労働運動の世界的性質を十分に徹底せんとするの要求は、亦自(おのずか)ら同盟の根本組織についても、全く新しい立場を取らざるを得ざらしめた。即ち中央集権的な劃一的な、何れかと云へば専制的な制度を取り、即ち莫斯科を中心として世界に号令せんとするの態度を執る所以である。
 予輩は露西亜の労農政府は同時に全く違つた二つの仕事をして居るものと観て居る。一つは彼得堡を中心とする活動で、如何に露西亜を治むべきかを主たる仕事として居るが、他は莫斯科を中心として如何に世界全体を改造すべきかを主たる問題として居る。彼得堡は露西亜の政府であるが、莫斯科は即ち世界の政府と思つてゐる。故に彼等が世界宣伝部を設けて多額の金を遣ひ、各国に内乱を起さしめて思想的征服の功を揚げんと苦心するのは怪しむに足らない。故に曰ふ、労農政府が世界を征服せんとするの企図ありとするは事実に相違ない。

 併し乍ら若し彼等の世界的征服の意義を政治的に考へるならば、之れ大いなる誤である。此征服の意義を政治的に考へて、レーニンをナポレオンと同一視する者少くないのは、吾々の常に不思議に思つて居る所である。吾々は先づレーニン一派が世界に号令せんと欲するの根本動機をナポレオンなどの政治的野心と同一視するの誤謬に陥つてはならない。レーニンの思想によつて征服さるゝ事が好ましいか好ましくないかは全く別問題として、兎に角彼等の所謂征服の動機は全く之を思想的に考へなければならない。従つて彼等の征服の手段を従来の国家競争の場合のやうに、武力的に考へては大いなる謬である。彼等は本来政治的征服をやらうといふのではない。征服といふ文字に拘泥して斯かる謬見を抱く者我国に案外に多いのは注意すべさ事柄である。
 尤も過激派が世界征服の手段として全然武力を用ひないではない。思想的宣伝の前途に横はる障害物を排除するが為めに各国に内乱を起させるなどは、随分険呑な遣り方だが、内乱を起させたからとて、其後に彼等が来つて自国の政令を布き吾々を圧迫しようといふのではない。と云つたからとて吾々は、彼等の宣伝を恐るるに足らずといふのではない。恐るべきや否やは暫く別問題として、若し吾々が之に対抗して何等かの方法を取らうといふなら、其方法が従来の遣り方とは全く趣を異にするものでなければならないと主張するのである。
 現に我国では過激派の世界的征服の風説に驚き、其征服の意義を政治的に誤解して、之に反抗して国家の安全を計るべく恐るべき多数の兵力を使つて居るではないか。西伯利出兵は現に政府の揚言する所の如くんば、右の目的以外に出でないではないか。
 要するに過激派の世界的征服の意義を政治的に考へて居る者は、当局者のみならず民間にも今日頗る多い。過激思想の流行は是非共之を抑えなければならないとした所が、今のやうな方法では全然無効だ。啻(ただ)に効が無いばかりでなく、之が為めに国力を徒費するの損害も測るべからざるものがある。お前は余り学問に熱中して中毒を起し懸けて居ると云つた者がある時、中毒を文字通りの意味に取つて、頻りに滋養物を取つたり運動したりして中毒症状の起るを防がんとする者があつたら、人誰か其愚を嗤はざるものがあらうか。而して此愚を西伯利出兵による過激派対陣に於て日本政府は将に演じて居る。出兵其物の利害得失も大きい問題だが、吾々は亦別に過激派の企図に対してもつと立入つた方策を研究したいと思ふ。

                                〔『中央公論』一九二一年二月〕