思想は思想を以て戦ふべしといふ意味



 官寒に依る思想取締の無根拠 思想は思想を以て戦ふ可しとは、権力を以てする思想の取締を非とする人々か
ら能く使はれる舌口菓だ。従て前者が少くとも後者を其の内容の一つとすることは疑ない。然らば思想は何故に官
憲のカを以て取締る可らざるか。之を了解するには、先づ今日の官憲が如何なる主意に基いて思想の取締をやつ
                                                ぱつこ
て居るかを吟味するの必要がある。私の観る所では、今日官権の思想取締を是認すべき根拠は、「悪思想の抜底
を放任するは社会に多大の実害を流す」といふ仮定の外にはない。然るにこの仮定ば正しいかと云ふに、能く考
                              ひん
へて見ると随分怪しいものである。思想頚廃して国運危機に瀕すなどと、議会の閑人輩は好んで憤慨の声を放つ
も、事実何を以て社会的危倹と目すべきやは、曾て彼等に依て説明されたことはなく、且之をいふものは、多く
                                         いわゆる
在来の制度に依て佳に自己の立場を維持して居る因循始息の徒に過ぎぬ。従て所謂悪思想と云ひ実害といふも、
実は一部特権階級より観てその利害に反するものの諷にして、全体の見地より観てそが果して悪思想なりや実害
なりやは、容易に断じ去ることは出来ない。而して本当の悪思想ならば、今日開明の世に在て決して永く其の流
行を保ち得るものではない。今日の民智は、もはや相当健全なる社会的淘汰をなし得る程度に進んで居ると考へ.
                                       やや
る。たゞ年老つた人々の間に、今尚ほ封建時代の随習より脱け切らぬ者あり、動もすれば大衆は暗愚にして容易
に過誤に誘はれるものと思ひ込む所から、悪思想の流行と開いて無反省に直に社会の実害を連想するのである。
実害の現存するに非ず、封建的民衆観が知らず識らず之を幻想せしむるのである。貴族院辺の老人の思想問題を
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説くものなどを見ると、此点最も鮮かに分る。斯く云つた丈けではまだ取締つてわるいと云ふ理窟は出て来ぬか
も知れぬが、只官権的取締の如何に薄弱なる根拠の上に立つものかは、極めて明白に分るであらう。
 しばら
 姑く一歩を譲り、「悪思想の抜屁に因る社会的実害の存在」が客観的事実として立証せられたとしても、之に
基く官憲の1取締を是認する為には、少くとも次の二つの事が前提せられなければならない。(一)は思想の善悪を
判定する能力を官憲が具備して居ることで、(二)は一歩を進めて官憲は更に悪思想に代るべき善思想を指示し得
          なが
ることである。併し乍ら今日の官憲に之が出来るか。全く出来ないこともあるまいが、之を判定する最適任者が
少くとも官憲でないことだけは疑ない。而して官憲は敢て平然としてこの判定を実際に試みて居る。甚しきは思
                                                           ・●り
想上の研究を専門の職務とする学者教授の進退にまで、無遠慮に立ち入らうとする。若し世間がこの冠履顛倒を
少しでも是認して居るとせば、是亦封建的思想の余毒ではあるまいか。若し夫れ堂々たる帝国議会の議員までが、
                         ちゆつちよく
軽卒なる世俗の判断に雷同して、学者教授の任免割捗を文政当局に迫るに至ては、実に言語同断である。
 思想取締を非とする積極的理由 思想取締に根拠のないことは前述の通りだ。根拠がないといふ丈けならまだ
我慢も出来る。併し官権の取締には更に之を非とすべき積極的理由もあるのである。今日の政治家がこの事に気
の附かぬのは、私共の常に大に遺憾とする所である。
 何故に官権の取締を非とするか。
 第一に官権の取締は思想上の善悪の別を固定するからである。思想上の判定は極めてエラスチックでなければ
ならぬとは、文化政策上の第一原理である。今日の善も明日は悪となるかも知れぬ。其時々々の判断に拘泥して
は、思想の進歩は停滞してしまう。然るに官権の干渉は、其の是とする思想の信頼を国民に扶殖することも覚束
ないがヾ其の非とするものの講明は機械的に之を禁ずるので、国民の思想生活をば時の政府の判断に依て不当に
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拘束するの弊がある。此種の弊は形の上に現はれぬだけ、余毒の及ぼす効果は怖るべきものであることを知らね
ばならぬ。
 第二に官権の取締は思想生活に於ける一番正しい態度を国民に阻むの結果を来すからである。思想生活に於て
                ヽ ヽ ヽ ヽ.ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
一番正しい態度は、常により正しからんと努むることだ。之が正しいと一時の判断に執着するは、既に過誤の第
              もと                       よつ
】歩に踏み込むものである。固より其時々に於ては、一番正しいと信ずる所に拠て行動せねばならぬことは勿論
                    ヽ ヽ ヽ ヽ
だが、之と同時に、もツとより良き立場はないものかと常に懐疑的態度を執ることが必要なのである。而して斯
の態度は独り自由政策の下に於てのみ育つものである。然るに官権の取締は正に之に相反し、取勺も直さず国民
の思想生活を盲目的ならしむるものに外ならない。尤も中には、どんな事を考へてもい、と許したら、暗愚の民
衆は何を考へるか知れたものでないと難ずる人があるかも知れない。之は前にも述べた如く、大衆を愚物祝する
封建的謬想に捉へられた考方であつて、今日の様に「人」を信じ「その良能の発達」を信ずべしとする時代に在
ては、「自由」こそ各人をして「その無くてならぬもの」を発展せしむる唯一の機会だと謂はねばならぬ。尤も
教育普及の程度その他種々の社会事情に依て、多少の制限の認めねばならぬことはあらう。が、官権的思想取締
の百害あつて一利なきことだけは、何の点から観ても、極めて明白であると考へる。
 思想間遠に於ける自由政策の価値 官権の取締はいけないときまつた。然ちば自由に放任してさへ置けばいゝ
のかといふに、必しもさうではない。自由を許すことが先決条件であることは云ふを待たない。而して官憲と⊥
ては之れ以上思想問題に干与す可らざることも勿論である。併し乍ら官権の干与を非としたのは、民間に於ける
思想的活動を自由にしたいからである。そは精神文化の領域に於て、立派な美果を生むのは、その自由なる活動
                                          ここにわいて
だからである。自由そのものは決して積極的に新しい価値を創成するのではない。於是私共は、一方に官権の
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無干渉を要求すると同時に、他方に於て民間の目ざましき活躍を期待するものである。政府に向つては出来る丈
                                                    ゆえん
け消極的な態度を要求すると共に、民間の識者に向つては出来る丈け積極的な且自由闊達な活動を希望する所以
なのである。
 民間思想家に対する注文 国民の思想生活に於て主たる役目を勤むるものは民間の識者である。官権の取締を
非としたのは、その自由活動を阻むを恐れるからである。併しそれかと云うて、民間の思想的活動は如何なる形
態を取てもい、と云ふわけではない。官権の取締を非としたと同じ理由は、また二三の制限を彼等の態度にも加
へんことを要求する。その主なものを挙ぐると、一は思想的活動は飽くまでも教育的なるべきことで、二は反対
                                                     ヽ ヽ  ヽ ヽ
説に対しては絶対に寛容なるべきことである。思想的活動に最も忌むべきものは宣伝と偏狭とである。宣伝に堕
するは国民の聡明を欺くことであり、偏狭に失するは一種の思想的専制主義を振りかざすことに外ならぬ。斯く
の如きは精神文化の開発を妨ぐること、官権の取締よりも甚しい。思想生活に身を捧ぐるもの、深く反省すべき
点であると考へる。
 私は現下の日本に於て、偏狭なる民間の思想的宣伝が官権の干渉と迎合して国民の思想的自由を揉踊する甚し
きものあるを憎むと共に、之に反抗する者が又只単に反抗其ものゝ為に官権取締の非を唱うるに止まり、自分自
ら亦偏狭なる態度に執して一種の宣伝に浮身をやつすものあるを不快とする。思想自由の積極的意義がもつと国
民の間にはツきりせんことを巽望してやまない。
                                          〔『中央公論』一九二六年五月〕