『三十三年の夢』解題


 このたび明治文化研究会から宮崎滔天著『三十三年の夢』が復刻される。初版の刊行が明治三十五年(一九〇二)、当時非常の評判で版を重ぬること十たびにも及んだが、その後久しく絶版のままで昨今ようやく人に忘れられんとしたのを、こんど私どもの仲間で再刊することにしたのである。私が主としてその校訂の任に当たった関係上ここに少しく本書再刻の理由を述べてみる。


     二

 本書は著者の自叙伝である。数奇風流の運命に身をまかせた人だけに、著者三十年の行事そのものがすでに非常におもしろい。それにその文章がまたすてきだ。単純な読みものとしても人をして巻をおくあたわざらしむるだけの魅力あることは私にも保証ができる。これ創刊の当時大いに洛陽の紙価をたかからしめたゆえんであろう。しかし私どもが二十数年後の今日これをふたたび世上に活かすのは、単に読んでおもしろいからのみではない。そのうえに本書は明治文化研究上の参考文献として実に大なる価値を有すると息ずるからである。


     三

 著者は明治初年(明治三年=一八七〇)に生まれた。したがって彼は自由民権の叫びを聞きつつ西洋文化心酔の雰囲気中にその青年時代を過ごした人である。思うにこの当時の有為なる青年にとって、その行く途はだいたい二つあった。一は官界に驥足を伸はさんとするもので、他は志を民間に布かんとするものである。しかしてこの後者にもまたおのずから二つの型があった。藩閥専制に対する憤慨に動いていわゆる政治的革新運動に没頭するものが普通の型で、まれにまた志を当世にのぶるをあきらめ、友を隣邦に求めてまず広く東洋全体の空気を一新し、よってもっておもむろに祖国の改進を庶幾せんと欲する者もあった。この方は数は少ないが、あるいは早く朝鮮に結びあるいは遠くシナに身を投じて、後年におけるわが国の大陸経営を陰に陽にたすけて居る。わが宮崎滔天は実にかくしてシナとわが国とを結びつけた典型的志士の一人である。そこで、彼の自叙伝はわが国の近代史と密接の関係をもつことになるのである。 いったい明治の初年に生まれた連中はいかなる教養を受けたものか。これを彼の自叙伝はつま

びらかに語って居る。当時の有為なる青年は時勢をいかにみておったか。しかしてその見識の由
来する源はどこか。これを彼の自叙伝は明白に語って居る。ただちに志を内地に布くを避け友を
隣邦にたずねて東洋の大局に着眼せし者あるの事実はまたいかにこれを説明すべきか。これにも
彼の自叙伝は明快なる解釈を与えている。当時の青年を動かした思想の何であるか。時勢はこれ
と如何の交渉をもっておったか。これらの歴史研究上肝要なる諸問題も彼がみずからの過去を語
ることのうちに事細かに説明されて居る。しかもそれが彼の行動の赤裸々の告白とともに、荒削
りの巧妙な名文をもって書かれてあるのだからたまらない。読んでゆくうちに研究という厳粛な
態度をいつとはなしに忘れしむるほどにおもしろく書きこなされてある。しかも虚飾のないあり
のままの記録であるところに大なる歴史的価値あることをみのがすことはできない。
 こうした歴史的価値のうちでも私のことに高調したいのは、シナと日本との交渉に関する部分
についてのそれである。近代におけるシナと日本との内面的関係は、逸仙孫文の日本亡命からは
じまる。かく断ずるゆえんいかんの説明は理屈になるから今はやめておく。とにかく孫文が犬養
毅氏らのやっかいになり、それから多くの心友を日本人中に見出だしたことは、実に他日シナの
運命を一変し、しかしてまた東洋の局面を一変した端緒になる。そして日本人中もっとも早く孫
文と相見、またもっとも厚く彼の信頼を得たものは、実にわが宮崎滔天である。これだけをいっ
ても彼の自叙伝がそのまま日支交渉史の第一章をなすものなるの意味は明白であろう。しかのみ
ならず『三十三年の夢』は著者と孫文との関係の叙述に多くのべ−ジを捧げて居る。ゆえにシナ
革命初期の歴史を語るものとしても、本書はまた実に貴重なる一資料たるべきものである。


    五

 『三十三年の夢』が文芸上の作品としてどれだけの価値あるかは私にはわからない。ただかつて
人づてに内田魯庵翁が大いに本書を推奨されたという話を聞いて居る。私としては徹頭徹尾学術
的立場から批判するにとどめるほかはないが、前述のごとく、彼の行動の正直なる記録というだ
けでも大なる価値があるのだが、そのほかに私の敬服に堪えないのは、彼の態度のあらゆる方面
にわたって純真を極むることである。彼はいくたの失敗をくりかえしまたいくたの道徳的罪悪を
さえ犯して居る。それにもかかわらず、われわれはこれに無限の同情を寄せ、時にかえって多大
の感激を覚えさせられまた数々の教訓をさえ与えられる。なかんずくシナの革命に対する終始一
貫の純情の同情に至っては、その心境の公明正大なる、その犠牲的精神の熱烈なる、ともに吾人
をしてついに崇敬の情に堪えざらしむる。私はここに隠すところなく告白する。私は本書によっ
てただにシナ革命初期の史実を識ったはかりでなく、また実にシナ革命の其精神を味わうを得た
ことを。人あり、もし私にその愛読書十種を挙げよと問うものあらは、私は必ずその一として本
書を数えることを忘れぬであろう。


     六

 本書の右のごとき性質が、おのずから多数の愛読者をシナ人のうちにも見出だしたことは怪し
むに足らぬ。私がはじめて本書の名を知ったのも、実はシナの友人から教わったのである。お恥
ずかしい話だが、本書創刊の当時法科大学の一学生であった私は、とんとこんな方面には意を留
めなかった。卒業後しばらくシナに遊んだけれども、日本人の多い天津に足をとめたためか、シ
ナの革命なんということにはまったく興味をもたなかった。それで大正五年の暮、第三革命の起
こったときまで、シナのことはあまり研究したこともなく、したがって本書の存在さえ知らずに
過ごしたのであった。私のシナ研究は、実は第三革命の前後から始まる。細かいことは略するが、
この革命勃発して数週ののち、当時ひそかに南支の運動に同情を寄せておった頭山満翁・寺尾亨
先生の一派は、今次革命の精神の広くわが国朝野に知られざるを慨し、これを明らかにするため
の用として簡単なるシナ革命史の編纂を思い立たれ、そのことを実は私に託されたのであった。
そのころすでに少しく眼をシナのことに向けていた私は喜んでこれを引き受けた。そして最近の
材料の供給者として寺尾先生は私に戴天仇君・殿汝耕君らを紹介して釆たのであるが、シナ革命
初期の歴史を知るにもっともいい参考書として『三十三年の夢』の名を聞かされたのは、実にこ
の両君からであった。ちなみにいう。『三十三年の夢』は、刊行後まもなく章士剣君によって漢
訳され、シナでは非常に広く読まれたものなそうである。
 これは後日聞いた話であるが、黄興が明治三十七年の革命陰謀に失敗し、上海の隠れ家を出で
て日本に亡命するや、当時まだ無名の一青年であった彼は、東京に来てこれという寄るべもなく
ほとんど衣食にも窮したのであったが、ふとかつて『三十三年の夢』を読んだ記憶をよびおこし、
著者滔天の必ずよろこんで自分を迎えくれるべきを信じて突然身を投じたという。この話を、私
は最初、故滔天君に聞き、のちにまた直接黄興氏に確かめた。これによっても本書がシナの人の
間に広く読まれて甚深の感化を与えて居ることが推察されょう。


   七

 『三十三年の夢』はシナでは今日でも盛んに読まれて居る。こんど校訂復刻本を出すにつき、古
い漢訳本を探したが見当たらない。シナにはあるかもしれぬと、上海の友人内山書店主完造君に
頼んでやったら、古いのはないが新しい訳本ならあるとて、最近の訳本を送って来た。これは章
士剣君の訳とは違う。そのことは序文にも明らかだが、とにかくシナではいまなお広く読まれて
居ることは明白だ。内山君の書信のうちにも、うちのボーイが非常におもしろいとていま現に読
んでいると書いてあった。もっとも昨今はただおもしろい読みものとして賞玩されるにとどまり、
著者宮崎の名もようやく記憶から消え去らんとしているかに思わるる。が、しかし『三十三年の
夢』という書名だけは、孫文の名が不朽であるかぎり、シナではいやでも応でも不朽の生命をも
つ運命におかれてあることは疑いない。
 『三十三年の夢』は日本では版を重ぬること十回なるにかかわらず、流布本ほきわめて少ない。
昨今のように、明治中期の刊行物が潮のごとく市場に出る時勢となっても、本書だけはめったに
顔を見せない。大正六年、はじめて私が本書の名を知って有斐閣の山野君を煩わしたときも、や
っと一冊見つけるにずいぶん長い時を費やしたものだ。その後一年あまりののち、神田辺の古本
屋でもう一冊見つかった。昨今私は見つかり次第何冊でも買っておくことにして居るが、それで
もその後今日まで手に入ったのはたった二冊に過ぎぬ。私の友人でどこかで本書を買ったという
人はまだ二人しかない。ことほどさように本書の流布は非常に乏しいのである。これ私をして故
滔天の令嗣竜介君に諮り、明治文化研究会同人諸君の諒解を得て、復刻公刊を決行せしめた一つ
のおもなる理由である。


    八

 本書をひもどく人のために、簡単にその結構の大略を語っておこう。
 本書は二十八章から成って居るが、こころみにこれを大別すると次の四篇になる。
一 修養時代「半生夢覚めて落花を懐ふ」の序曲から「思想の変遷と初恋」に至る七章
二 シャム活動時代「大方針定まる」より「鳴呼二兄は死せり」に至る七章
三 南支・南洋活動時代「新生面開け来る」ょり「形勢急転」に至る七章
 恵州事件活躍時代「大挙南征」ょり「唱はん哉落花の歌」の大詰に至る七草
161 r三十三年の夢J解題
一修養時代
 これはかりに私のつけた名である。以下みな同じと御承知ありたい。さてこの修養時代の中に
入れた七草において、われわれは著者の思想・行動の由来を詳知することができる。早く世を去
     らいらく   じよ▲ノr−
った父君は蒜落忙して情誼に厚い人であったらしい。母君はまた女ながら子女の教育には非常に
                                      くみ
苦心された方のようだ。長兄八郎はつとに自由民権を唱え西南戦争に西郷方に与して死んだとい
うから、著者が早くから明治政府に対して反逆の児であったのもさこそと首れる。学歴は中学か
ら熊本の大江義塾に転じ、しばらく徳富蘇峰先生のやっかいになったが、やがて帝都に来たって
              や そ         (⊥)
某私塾に入ったという。この間耶蘇教に入り、小崎弘道先生から洗礼を受ける。けだしつねに内
心求むるところありてやまざるのいたすところであろう。これ著者のおよそ十五、六歳のことで
ある。しかし彼らの耶蘇教は永く続かなかった。あるものを求めて耶蘇教に入った彼は、教会に
おいてその求むるところを適確につかみ得なかったからである。ことに彼が信仰に動揺を感じ始
めた青年時代において、イサク・アブラハムなる西洋の一虚無主義者に適ったという話は、別の
意味においてもはなはだおもしろいと思う。この西洋の変人について、著者はみずからその別の
著『狂人零』を紹介して居るが、これまたすてきにおもしろい本だ。これも折があったら復刻し
ておきたいと考えておる。

162
 しかし後年の彼の思想・行動に多大の影響を与えたものとしては、何といっても彼のいわゆる
一兄と二兄とを挙げなけれはならない0まず彼の社会観はこれを一兄民蔵に得たらしい。一兄は
今日の言葉でいえばいい意味のアナアキストでないかと想像される。著者が耶蘇教を捨てたのも
一つには一兄の感化であるが、耶蘇教をすててしかも博愛の大義をすてなかったのもこれまた一
兄の感化にほかならない〇一兄の思想の何たるやは本書の一」十七ページに簡明に説いてあるが、
この人にはまた別に『触和人頼の大権』〔明治三十九年刊〕という独立の著書があることをもここ
                                                    し上人ノエーノ
に付記しておく0次に彼が活動の舞台をシナに択んだことが全然いわゆる二兄弥蔵の悠温による
こともまた明白である0シナに関する二兄の思想は本書二十三ページおよび三十九ページにおい
てもっともよくこれを知ることができる0すなわちシナを興して白人の抑圧に対抗せしめ、力を
                   し
我に養ってのち進んで大義を世界に布こうというのである。著者ははじめハワイに行って米国遊
学の資を作ろうとしたが、二兄にさえぎられて思いとどまり、ついに終生の方針をシナのために
尽くすことに決意したのだという。 芸げ
 さてこれらの話はもちろん著者その人の悌を伝うるものとしてきわめておもしろい。しかし
われわれはまたそのほか当年の時勢を明らかにわれわれにみせてくれるものとしていっそうの興
味を覚えるのである。そは何かというに、あのころの青年で政府に志を得ないものまた志をここ
に伸ばすを欲しないものは、自由民権運動に身を投ずるを普通とし、まれに周瞬の生活救済のた
  た
めに起たんと志したものだが、その好個の代表は実に著老のいわゆる一兄である。そこでわれわ
163 『三十三年の夢J解題
れは一兄の思想を研究することにょりてょくこの種一派の由来・志向等を明らかにすることがで
きるのである0これと同時にそのころの世間には、一つには幕府以来の排外思想の余習として、
また一つには軍国的帝国主義の西洋における台頭の自然的影響として、いわゆる弱肉強食の国際
観がなかなか盛んであった。したがって白人に対する黄色人種連盟策というがごときは、容易に
                                         はいたい
青年の血を沸騰せしむるに足るものがあった。いわゆる二兄のシナ論が突にここに胚胎せしもの
なることも大いに注目するの価値はある。しかして著者酒天その人の思想・行動はこの二億の時
代思想を一身に融合し、かつみずから進んでこれを実行に移さんと試みたものである。ここに彼
みずからがまた実にわれわれの史的研究の好対象たるの面目が存するのである。

    一〇

 二 シャム活動時代
 著者が二兄とともに志をシナに立てたことはその自序にも明らかである。本書に記するところ
にょれば、一兄をもこの計画に引っ張りこもうと、彼は二兄と相携えて郷里に帰った。が、不幸
にして一兄の賛同を得なかった。一兄は単刀直入、理想を日本で行なうべしというのである。そ
れでも著者は一兄の物質的援助を得たので、ともかくもシナに渡ろうとて長崎まで行った。そこ
            かLT
で虎の子の旅費を友達に掠め取られる。いくたの悲喜劇を演じたのち、上海まで往ってはみたが、
約束の送金がないのですぐ帰った〔これ著者二十二歳のときのこと〕。その後しばらく郷里に亀をと

164
                                                ちつぷく                     (l)
めたが、腕が鳴ってじっとしておれぬ。三年ばかり山蟄伏したのち、今度は金玉均に頼って活動の
新場面を開こうと東京に出て来る。芝浦海上月夜の会談はなかなかおもしろく書かれてある。し
かるに金玉均がまもなく上海の客舎に殺され、著者の計画もおのずから水泡に帰したことは、く
                                      (2)
わしくいうの必要もなかろう。そうこうしているうちに朝鮮に東学党の騒動が起こり、風雲すこ
ぶる急を告ぐるに際会する。すなわち今度こそシナにゆかではと東京に出て来る。その途中、神
戸で岩本千綱という人に通う。これが著者のシャム行きの端緒となるのである。
 岩本というはシャム移民会社に関係のある人だ。病気で行けぬから、君一つ代わって行ってく
れぬかと頼まれる。著者の志はもとよりここにあるのではない。けれどもシャムにはシナ人も非
常に多心、将来のため何かの便宜もあろうと、ついに行ってみる気になる。これと同時に、二見
はすでにシナ商館に入り、シナ服を着け、絶対に日本人との往来を避け、シナ人になりすまして
一意専心シナの研究に従っている。志はともにシナにあるのだけれども、一人は横浜、一人はシ
ャムと、おのおの途を分かって進むことになった。
 シャムにおいて日本人と相応じ移民の輸入に尽力したのは、時の農商務大臣スリサック侯だと
いう。白人の侵略に対抗するためには同病相あわれんでわれわれ大いに結束する必要があるとい
うのが、このころの東洋人に通有の思想だ。著者またスリサック侯にわけもなく共鳴したところ
に、当年の気分を味わうことができると思う。しかし肝腎の事業の方ほさっばりうまくゆかぬ。
そこでいったん帰国して別に画策するところがあった。やがてふたたび征途に上ったが、二度目
                                       と えき
のシャムで彼はさんざんの目にあった。事業の失敗はいうまでもなく、虎疫(コレラ)の流行に
                                           てい
友人を失い、自分もこれに伝染して万死のうちかろうじて一生を得た。ほうばうの体でまた日本
に帰って来る。
 さきにシャムから一時帰朝した際にもいろいろの出来事がある。なかに特筆すべきは、横浜に
隠れている二兄より、シナ革命党の一人に遇った旨の報道に接したことである。二度目に帰った
ときは、二兄はすでに病に倒れてこの世の人でなかった。したがってこのシナ人についてもくわ
                                (3)
しく聞知するの磯会はなかったが、のちにこれが孫派の一領袖陳白なることがわかる。著者また
やがて陳自と相知り、これによって孫丈と相許すに至ったのは、不思議の因縁というべきである。
165  r三十三年の夢J解題
 三 南支・南洋活動時代
 さんざん失敗のあげく彼が帰国入京したのは、実はシャムの事業の再興をはかるがためであっ
           か にち上うきエう(▲「)
た0東京に釆てはからず可児長鋏に勧められて犬養木堂を訪う。これが彼をしてシャムをあき
らめてただちにシナの活動にいらしめた端緒になる。
 犬養翁に識られた結果、彼は外務省の命をうけシナ秘密結社の実状視察に派遣さるることにな
つたらしい0このときの政府は憲政党内閣で、外務大臣は総理大隈重信の兼任であったことを知
                         (5)
っておく必要がある。とにかく彼は可児長鋏・平山周の両名と相準えて南清地方に遊ぶことにな

166
った。出発まぎわに彼は病を得て二友に遅れた。病も癒えいよいよ出発のできるときになって、
     (1)                     としとらハ2一
彼は小林樟雄を訪うた。座にたまたま亡長兄の親友曽根俊虎あり、この人の紹介により、横浜に
赴いてかの陳白と相知ることを得たのである。これが二兄の交わったシナ人であることもすぐに
わかった。陳を通じてまた孫丈のことも聞いた。これらの事柄によって彼は大いに知見を豊富に
        ホンコソ
し、喜び勇んで香港に向かったのである。そしてかの地において多数の革命党員と交を締したこ
とはいうまでもない。
 著者が親しく孫逸仙に通ったのは、香港からいったん帰ってからである。孫に遇って彼は大い
に意気投合するものあるを感じ、誓って彼の事業を助くべきを約した。そのうちに日本に政変あ
                                     (3) 上
り〔三十一年十一月〕、内閣が変わって山県首相の下に外務の椅子には青木周蔵が拠ることになっ
た。かくて著者と外務省との関係も自然切れたが、ただ犬養翁はどこからか金を持って来ては引
き続き孫と著老との一味を助けたらしい。そのおかげで著者はその後もしばしは東京と香港との
問を往来する。香港では一度フィリピソの志士にも遇って居る。これも見逃がしてはならぬ出来
事の一つだ。しかしてこれみな明治三十一年夏秋のことに属する。
 ばじゆつ                           (」「)                                        (5)
 戊戌の政変〔三十一年九月〕で、康有為は英国に保護されてひとまず香港に逃げ、梁啓超は難を
日本公使館に避け、それから日本にやって来る。それと一日おくれて康もまた日本にやって来る。
梁を伴ったのは平山周であり、康を伴ったのが著者であることも不思議の因縁である。著者と康
有為との交渉に関する叙述もなかなかおもしろい。
167 r三十三年の削解題
すでにしてフィリピソ独立戦祁〔三十二年二月〕の報道が来る。孫の表もおのずから動かざる
を得ない0まず蒜の人々を況してアギナル巧を助け、余勢をもってシナに攻めいろうというの
である0そのうちにフィリピソの密使が釆て軍琴鰐入を孫文に頼む0孫丈はこれを著者らにはか
る0すなわち犬養翁の周旋にょってこれをその政友中村某(中村弥六)に託することになる。政
                                        そ▲ノ
府の密偵の監視きびしきなかを、かろうじて必要の品々を購い整え、布引丸表に人と物とを満
載して南方に送ったが、不幸にしてこれが1海沖で沈没した0著者は南清動揺の飛報に接し、そ
                       カソLrソ
の内情を調査すべく孫文の秘命をうけて広東に航行する船中においてこれを聞いた。
著者の南清滞在中に著書・三合会・興中会のいわゆる三沢連合が成った0これがそもそも恵
       か ろう(旦  す)  (10}
州事件の起こる端緒となるのである0そのほか恵州事件の発生には、次の事柄がこれを助けてい
ることを注意せねばならぬ〇二寧日に軍器を購いに来た罪島(フィリピソ)の志士が、独立運動
も失敗し、かつ日本政府の監視きびしきにあきらめ、再挙を断念してさてさしあたり不用となっ
た軍器・弾丸をほ全部孫文に提供したことが一つ0また一つは著者の帰国後妄人の紹介で遇っ
た実業家中野徳次郎が、孫派に対し巨額の財政的援助をなせしことこれ。
                  (u)
     けんび
恵州事件は拳匪事件の動乱に乗じて企てられたものではない
四 恵州事件活躍時代
い0この事件は彼らが大挙南征に決

168
し、その旅程に登ってから聞いたのだ。前段述ぶるがごとき事情で、孫の一味は南方で事を挙ぐ
べき計画を立て、三十三年(一九〇〇二ハ月、大挙して南方に向かったのである0向かうところ
はいろいろに分かれたが、著者ら一行のめざすところはシソガポールであった0ここの華僑から
金を集めること、これはあとから孫丈が来てやる。著者はまず日本を去ってここに悠遊しておっ
た康有為を動かし、この一派と孫丈とを連絡提携せしめんと謀った0
 これよりさき同地には、孫派の一味、康有為暗殺のため日本より来るとの秘報が伝わっていた0
むろん横浜にある康の末流の打電したものである○そのためにせっかく上陸した著碧二行は、康
に面会のできなかったばかりでなく、ついに警官の揃うるところとなりて牢屋にまでぶちこまれ
る。この間の出来事についても詳細なおもしろい記事がある0
放免されてすぐ帰国の途につく。遅れて来た孫丈その他の一味みな幸いにして同船である0香
港に立ち寄ったが、政庁は早くも彼らの革命陰謀を耳にはさんで上陸を許さない0その問、内々
      ウニAノし上Åノハ1)
で総督から、李鴻章にすすめて両広の独立を宣言させるから孫に民政長官になってくれぬかとの
交渉があったという。ちょっと注意すべき事件である0とにかくいったん帰国ということになっ
たが、いわゆる意州事件の一般方略は、このとき実に香港沖の船中で定められたのである○
             さんさい                                ていひつしん(2)
(一) 恵州付近の三州田山秦にたてこもり、機をみて義兵を挙ぐること0挙兵のことは鄭弼臣を
         ハ3) 上うひ とう(4)
 総大将とし、近藤五郎・揚飛鴻を参謀とする。
             (5)                               つかさど
(二) 事成らば福本日南を民政総裁にあげ、その下に部局を分かって施政を掌らしめる0孫丈
169 r三十三年の夢J解題
 の大統領たるほいうまでもない。
(三) 孫丈は日本において軍器・弾薬その他必要な物資の調達輸送の任に当たる。
 かくて孫丈は日本に帰った0人あり台湾総督に紹介しょうという。彼すなわちこの方面からも
有力なる援助を得べきを期待して台湾に行った0しかしこの期待は実現されなかった。時の台湾
総督は児玉源太郎で、民政長官は今の後藤子爵人後藤新平)であった。
              いた
すでにして三州田挙兵の報到る○これ実は、東京の電命を待つにいとまなくしてやむなく兵を
動かしたものである0幸いにして連戦連勝であったことは本書の記述に明らかである。しかし日
本内地の画策はことごとく画餅に帰した0第一、金が思うように集まらぬ。第二、台湾方面の期
待はまったく空に帰した0第三、唯二の頼みであったフィリピソ寄贈の弾薬〔二十五万発、代価六
                   つちくれ
万五千円と称す〕は、受託老の詐欺にかかり、土塊同様のものということがわかった。そこで百計
つき、孫は血涙をのんでやむなく南清戦場の同志に随意解散を電命した。この事件に関する著者
の「孫丈に与うる書」はけだし本書中の圧巻である。
                      はし
 かくて彼は、なすことことごとくいすかの嘆と食い違い、不平を酒に紛らして江湖に流浪する
               (6)           もんもん
こと一、二年、ついに意を決して桃中軒雲右衛門の弟子となる。この際における彼の悶々の情は
自序の中にも明らかであるが、ただ漫然高座に扇子をたたいてロを糊せるにあらざることは、彼

170
の好んで唱える自作「落花の歌」にょっても明らかである。この歌のことは本文にも出ている。
しかし歌詞そのものは掲げていない。著者の旧稿を探りて、いま次にその全文を載せる。
                        しも   あぷら
 一将功成り万骨枯る 国は強きに誇れども 下万民は膏の汗に血の涙 芋さえ飽かぬ餓鬼道
                                          わだち
 を たどりたどりて地獄坂 世は文明じや開化じやと 汽車や汽船や電車馬車 廻る軌に上
                                         つるぎ
 下は無いが 乗るに乗られぬ因縁の からみからみて火の車 推して弱肉強食の 剣の山の
 修羅場裡 血汐をあびて戦ふは文明開化の恩沢に 滞れて浮世に迷児の 死して余栄もあら
            ひとつたは
 はこそ 下士卒以下と一束 生きて帰れば飢に泣く 妻子や地頭にせめ立てられて 浮む瀬
                                         き
 も無き細民の その窮境を苦に病みて 天下の乞食に綿を依せ 車夫や馬丁を馬車に乗せ
                         こし
水飲み百姓を玉の輿 四海兄弟無我自由 万国平和の自由郷
砕きし甲斐もなく 計画破れて一場の 夢の名残の浪花ぶし
あい
相の 鐘に且つ散る桜花
此世に作り建てなんと 心を
              いり
刀は棄てて張扇叩けば響く入
    一四
                            よ せ
 本書は著者の桃中軒入門をもって局を結んで居る。その後寄席芸人としての著者数年の行動に
                                          ふところ
も、自作の記録がいろいろ残って居る。今でも読んで非常の興味を覚える。黄興が著者の懐に
飛びこんで釆たのは、著者が四谷の某席亭で張扇をたたき、一夜わずかに四十幾銭を得るにとど
まり窮乏の極に達tていたときだとは、かつて著者から親しく聞いたこともある。しかもシナに
171 r三十三年の夢』解題
対する宿昔の志望は、境遇の変にかかわらず依然としてたえず胸中に燃えて居る。されはこそ彼
                                         ひつきよう
は孫と黄との提携にも尽力し、明治三十入年、中華革命同盟会の成立にも骨折ったのだ。畢克彼
は終始妄シナ革命党の恩人であった0死にいたるまで隣邦青年の愛慕するところたりしも怪し
むに足らぬ0かくして彼はシナの革命運動とは切っても切れぬ関係にある。これらのことどもの
大略ほ、おそらく宮崎竜介君の小伝にも明らかであろう0なおこれは近代日本とシナとの内面的
関係の攻究上に大関係もあることだから、そのうち遺稿の全部を整理して出版しておきたいとも
考えて居る〇一部の読みものとしてもおもしろいことは、本書を読まれる方の容易に首肯さるる
ことであろう。
終りに毒しておきたいのは、著者はただにシナ革命運動の助援着であったばかりでなく、そ
の真の助援着であったということである0真の助援者という意味は、不純の動撥に動かされず、
終始妄、心からの忠実なる味方であったということである0シナ革命運動の友人をもってみず
から任ずる老の中には、実は種々の人がおったのだ○そのこれに加わる動機は決して竺でない。
もっともほじめのうちはこうした細かいことは外部には現われなかった。第一革命後になっては
じめてこれがそろそろ問題に上って来る0そのゆえはこうだ0シナの青年も日本に亡命でもして
居る間は、玉石同架いやしくもわれを助けるという者の援助はことごとく甘んじて受けていたの
だが、いったん革命に成功してそれぞれ要路に立つことになると、彼らはもはや公人としての立
場にある0私情においてはすべての人に恩義を感ずるも、公人としてはその間の区別を立てて、

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真にシナの革命に理解あるの同情者でなければ、友としてその忠言をきくわけに行かぬことにな
る。そこで不純な動機をいだいていたものは、自然遠ざけられざるを得ない0しかしてみずから
反省することを知らβる者は、漫然としてシナ人の忘恩をののしるに至る○くわしいことは略す
                                 せつ.ぜん
るが、さきのシナ革命頂人は、第三革命の起こったころはついに敢然として二つに分かれてし
まった。しかしてわが慣天宮崎は、実に最後までシナ革命の熱心なる真の助援着であった0私が
故人と親しイ…見相語る頂得たのも、実はこの関係に基づくのである。
 最後に特志の研究家のため、次の二、三点を注意しておく0
 (一) 『三十三年の夢』は初刊当時章士剣君これを漢訳し、最近また別の漢訳本が出た0章士
剣君は今日相当に名を知られた政治家である。その漢訳本はいましきりに探して居るがまだ手に
入らぬ。最近の訳本は、『三十三年落花夢』と題し、去年(大正十四年=一九二五)四月の新刊であ
る。上海の出版だが、訳者は本名を出していない。四六型の一四〇ページ足打ずだから、かなり
省略してあるものらしい。
               ピ▲ノとAノ
 (二) 本書三十四ページの篭頭に見える『狂人渾』は、四六判一五〇余ページの小冊子で、
「緒言」のほか「ナポ鉄」「釈迦安と道理満」の二篇から成って居る0読んでおもしろいはかりで
なく、考えさせられることのすこぶる多い本だ。別の機会にその紹介をものしたいと考えて居る0
1ア3 r三十三年の夢J解題
                                へ⊥)
聞くところにょると、著者は浪花節だけでは飯が食えず、秋山定輔の勧むるままに『二六新聞』
に続き物を書いてみた0初めて出したのがすなわちこの『狂人諾』で、これが評判のょかったと
ころから、また何か書けと頼まれて、『三十三年の夢』を草したのだという。しかしこれを単行
本として出したのは、『三十三年の夢』が早く、『狂人譜』は言ばかり遅れて居る。
(三)去書二八ページにある婆∋ぎ1S男声iJロ喜竺ロLo已oP..は、日本にはあま
り知られていないが、西洋ではかなり有名な書物である〇一つにはこれにょって孫逸仙はョーロ
ツ・ハ人の間に非常に有名になった0この中に書いてある革命の精神が大いに西洋の識者の同情を
ひいたのである0しかしこれょりももっとこの本が世の注目をひいたのほ、この事件にょって国
際公法上に宗例が開かれたからである0孫丈はPソドソで一シナ人に誘惑されシナ公使館に幽
閉された0まもなく本国に送られて殺さるべかりしところを、恩師カソトリーの尽力にょって助
                     (2)
かった0このとき外務大臣のソ〜スべリー侯は、公使館外における誘惑がすでにシナ官憲の警察
行為の始まりだと主張し、英国主権の侵害を名として孫の引渡しを迫ったのである。いわゆる継
                                         (3)
続航海主義の陸上における準用とみるべきものであろう0先年、私は在英福島繁太郎君の厚意に
より完を求め得た〇四六形一三〇ページあまりの小冊子で、英国外務大臣の公文書もはいって
居る0なおこれには「倫敦被難記」〔民国元年1海刊〕と題する漢訳本もあることを注意しておく。
              ロンドン
 (四)カソトリー〔官誌C邑i仲〕というのは、孫丈が少年時代に学んだ香港医学校の先生で
ある0日本人以外において孫のもっとも親しき外国の友人といえば、彼をもって随一とサる。ロ

174
ソドソに帰ってから彼ほ署訂監0巾CEコP∽on訂巾qを作り、多くの友人を糾合していろいろの
意味における後援を孫に寄せていた。彼がSh巧小daヨJoロ仲甲とともに作った:S亡コベ已∽g賀d
th仲A宅Pk等iき叩OfChiロP;も孫を知るためにはぜひ読まねはならぬ本だ。公刊の年代は書いて
ないが、たぶん第一革命後孫が大総統に挙げられたころに書いたものだろうと思う。
 (五) 本書一六九ページにある天佑快のことは、本間題に関係がないからとくにいうの必要は
                   (ュ)
ないが、これにはその仲間の一人鈴木天眼の書いた『天佑侠』なる刊本があることを一言してお
  き上ふじ  (2)
く。清藤幸七郎編となって居るが、清藤はすなわち本書の呑宇だ。しかし実際の筆者は天眼子だ
と聞いて居る。これまた読んで非常におもしろい。ただしこの天体侠の活動は、志を隣邦にのぶ
るという点は同一だが、根本の動機は著者たちのとはまるで違う。著者のは誠心誠意シナのため
に尽くそうとしたのだが、天佑挟め方は徹頭徹尾日本のために朝鮮をはかろうというのである○
ことに日本人の武勇を輝かそうとて無用の暴挙をほしいままにしたのは、痛快はまことに痛快だ
が、著者の立場とはまったく違う。この天佑侠の人たちも、多くはじめは著者とシナのことをと
もにしたのである(したがってまたシナ助援者のうちにはそのはじめ種々の人がはいっていたこ
とがわかるだろう)が、のちにはだんだんと離れたようだ。しかしてこの間に立って著者が終始
一貫純正なる動機をもって真にシナの友たるを期したのは、いまさらながら敬服の至りに堪えな
 ヽ 0
−∨
                           (3)
 (六) シナ革命の歴史については、私が文学博士加藤繁君とともに作った『支那革命史』(大正
十毒‖完二二)を参照せられたい0巨函自讃の嫌いはあるが、多少の自信がないでもない。た
                                            (4)
だしこれは第妄命をもって終わっておる0その以後のことに関しては、私にも数部の著作あヶ
他にも相当の本があるが、いまいちいちここには述べぬ。
               (『三十三年の夢』所収明治文化研究会大正十五年)
175 r三十三年の夢J解題