情報局編輯 週報 号外 四年目の神機  1945.3.10発行

ルソン島に 腥風漲り
硫黄島に 血煙り昏く
敵の空襲いよいよ熾烈
本土決戦 将に迫らんとする秋
往時を偲び 現在を想ひ
無量の感慨と 無限の憤激に
我等の闘魂は 火と燃え上る
由来 長期戦においては 多く
第四年目がその運命の岐るゝ重大神機に当る
いま四年目の神機を真に神機たらしめんため、
我等一億闘ひ抜き、
勝ち抜く決意を鞏うせんことを誓ふ

 

 目 次

一、宿命的なる日米決戦
二、次ぎに來るもの
三、戦局の因つて來る所以
四、媾話なき戦ひ
五、盛衰隆替の岐路
六、四年目の神機
七、ラバウルに学ぶ
八、決戦の変貌
九、神武必勝
十、莞爾邁進

 

一、 宿命的なる日米決戦

 三年ぶりで、再びマニラはこれを敵手
に委ねるのやむなきに至つた。
 マニラ市そのものは、軍事的には大な
る価値はないとは申しながらも、この喪
失は政略的竝び経済的見地からみるとき
甚だ遺憾千万であり、真に痛恨を禁じ得
ない。
 遥か眼を西方に転ずれば、欧州の天地
また、風雲昏く、盟邦ドイツは死力を竭
して窮境に血闘を続けてゐる。
 寒夜、地図を按じて黙考し、戦局を念
うて沈思すれば、凛然たる決意と共に、
戦慄にも似たる一大勇猛心が腹の底から
湧き上つて来るのを覚える。
 「必ず勝たねばならない」のだ。
 戦ひは正にこれからである。
 光輝ある三千年の伝統を承けた大和民
族がその真骨頂を現はすの秋は来(きた)つた。
 日米決戦は実は、単なる日米戦
争あらずして、避けんと欲して
も避くる能はざるところの、神魔
両軍の関が原であり、このことは
利害得失の打算及び一切の感情を
超越した厳かなる事実の現前であ
ることを知らねばならない。
 米国は我を呑みつくさんとして総力を
挙げて襲ひかゝつて来た。
 既に七人の姫たちを奪ひ、最後に残る
櫛稲田姫に魔手を伸ばし来つた往時の八
岐の大蛇そのまゝの姿である。顧るに
 米大陸の原住民は遠き上古において、今の
ベーリング海峡に当る地点を通過してモンゴ
リア人種がアジアよりアメリカに移住したそ
の子孫たるアメリカ・インデアンであるが、
次ぎに米大陸に足跡を印したのは西紀前千
年頃ノルマン民族の海賊であり、さらに降つて
十五世紀にはスべイン人、十七世紀には英国
から例の五月花号(メイ・フラワー)でピューリタンの徒が落ち
のびて来た。
 十八世紀末にはミシシッピー河地方に仏人
の勢力が培養され、このほかオランダ人、
スウェーデン人、スコットランド人、アイルラ
ンド人及び黒人も輸入せられて遂に独立をし
たのであるが、独立当初こそ外見上些か理想
境らしく見受けられたこの国も、十九世紀末
以来、急激なる悪質欧州移民の増加により、
空気は年一年と濁つてゆき、精神的に歳々頽
廃して、いつの間にやら悪魔の代表者として
最もふさはしい資格を完全につくり上げて仕
舞ふに至つた。
 正邪、陰陽、表裏、明暗はこの世の姿
である。
 天に太陽ある如く、地に日本皇室あり
てこそ、世界の平和と、安寧と、幸福と、光
栄とは統一維持せらるべきを確信し、日
月とともに六合にあまねき天照大御神の
神勅を奉じたる日本を陽明の表とすれ
ば、奸佞邪智、貪婪あくなき野獣的欲望に
燃えて世界制覇の不逞な野心に爪牙を研
ぐ米国は、恰も、陰暗の裏ともいふべき
であらう。
 日本は太陽の国であり、米国は星の国
である。
その位置も地球の相反せる方面
に横たはり、同時に天日を仰ぐことので
き得ざる運命にある。我は最も古い国で
古きを尚び、彼は最も新らしい国で新を
誇る。
 われは一小島で、彼は一大陸。
 われは日の国を名に負ひて太陽を国旗
とし、彼は星の国と呼ばれて星条旗を国
旗とす。
 しかして
 彼は貪婪なるエホバの性格を映じ、他
民族の犠牲を基盤として、世界制覇の獣
慾を逞うせんことを企図し、
 我は神勅のまにまに八紘一宇の大理想
を奉じ、共存共栄の真秩序を建設せんこ
とを念願する。
 即ち彼は弱肉強食の野獣性を肆(ほしいまゝ)にし、
東亜を征服しこれを己が餌食として飽く
なき貪慾を満さんとするものである。か
うして、神国日本が太平洋の一角に儼と
して存在することが障碍となるのであ
る。従つて太平洋を隔てゝ相対するこの
二つの国は、どうしても戦はねばならぬ
宿命をもつてゐるのである。
 要するに
 日本と米国とは選ばれたる正義
の神軍と兇奸なる魔軍との代表者
であり、所詮氷炭相容れざるもの
である。
 而して彼はその貪慾を満さんとして我
に襲ひかゝり、我は決然立つて降魔の剣
を抜いたのである。実に、日米決戦は避
けんとして避くべからざる宿命的なもの
であり、最後の瞬間における天佑は固よ
りこれを確信するところであるが、天は
自ら助くるものを助く。国民はあくまで
人事を尽し、全国民が百分の百の犠牲を
払ひ、臥新嘗胎、霜辛雪苦、悪戦苦闘を
しなければならないのである。
 しかしながら米國の富力、海軍力、空
軍、科学工業、悪辣なる外交手段、いづ
れも大は即ち大なりといへども、決して
畏怖するの要はない。
 肇國以来の大和民族本来の意気に甦
り、皇祖皇宗の聖勅を高く掲げ、渾身の
勇を以て奮ひ起ち、断じて勝ち抜かなけ
ればならね。努力を忘れて拱手傍観する
もの一人たりとも存する限り、神明の加
護は決して仰ぐべくもないであらう。

 一億国民悉く私心を擲ち、赤誠に燃え
つゝ人事の限りを竭すの秋、そこに初め
て太平洋をも蔽ふべき神風も吹き始める
のではなからうか。


二、次ぎに来るもの


 「マニラ」を掌中に握り、硫黄島に上陸
して調子づいた敵は、図に乗つて、その
兇暴なる魔手を更に伸ばして来るであらう。
 次ぎに来るもの。
 それは左の諸作戦たるべく、これが前
後して、若しくは同時に敢行せられるで
あらうことは想察に難くない。

1. 支那大陸接岸作戦

 北は樺太、千島、北海道から、南は四
国、九州と大きく東海に弧形を描く日本
本土は、多くの飛行場群を擁し、沿岸到
るところに防衛陣を固めた、厚みも幅も
ある強力な戦域である。この日本本土に
対し、洋上からの攻撃のみでは容易にそ
の目的達成を望み得ないと判断した敵
は、前々から支那を狙つてゐた。ニミッ
ツも既にしばしば「日本に対して最終的
打撃を与へるためには、どうしても支那
大陸を手に入れなければならない」と告
白し、また比島作戦開始に先立つて「比
島は支那大陸への跳躍台である」と言明
したのをみても、敵の意向の那辺に存し
たかが窺ひ得られるであらう。
 雄渾極まりなきわが大陸作戦が、昭和
十九年の春と共にまづ河南の沃野に展開
せられ、引続き夏、湖南、秋、桂林と、
めざましくも繰り展げられたのは、敵米
の支那接岸作戦の機先を制したものであ
つた。しかしながら、敵もまた断じて軽
視を許さぬ戦意の下、本年一月十二日に
は、その第三十八機動部隊を以て、バ
シー海峡を強行に突破して南支那海に侵
入し、各地を空襲、痛憤に堪へぬものが
あつた。しかも、今や敵はルソン島に数
多くの飛行場々獲得するに至つた。
 ルソン基地航空部隊の掩護下ならば、
敵は南支那海沿岸もしくは仏領印度支那
沿岸の何処か、その好む所に上陸するこ
とも敢へて不可能ではない。
 われわれとしては、注視を怠つてはな
らないところである。

2. 台湾、南西諸島上陸作戦

 作秋来、敵機動部隊は幾度となく台湾
東南方海面に出現、游弋しつゝしばしば
台湾及び南西諸鳥に空襲を反復してゐ
る。
 なほ現在においては、支那基地及び比
島基地からも爆撃行を続けるに至つた。
 かゝる情勢である以上、いつ何時、敵
がこゝに上陸を企図するか、それは予断
の許されないところである。

3.近海島嶼上陸作戦並びに本土上陸作戦

 超空の要塞B29は、その航続距離の長
遠、携行爆弾量の大を誇ると共に、特に
絶対不落が鳴物入りで宣伝せられてゐ
た。
 たしかにB29は優秀である。
 しかしながら我が制空陣の邀撃は、よ
くこの空の怪物を制圧し、これに甚大な
打撃を与へつゝある。
 昨年八月十六日以降、成都及びマリアナか
ら本土(朝鮮を含む)に来襲したB29は、昨年
末までの間において延約一千百機に達してゐ
るが、このうち我が方に撃墜せられしもの及
び撃破されて帰還途中墜落したものの計は、
最小限およそ二百五十機内外と推定せられて
ゐる。
 一機の搭乗員を十一名として、敵の確実な
る人的損害は少くも二千七百五十人を下らな
い。
 かくて敵が誇つた「戦闘機の護衛なしで敢
行し得る爆撃」は明らかに失敗であつたこと
を、今では敵自身がはつきりと覚り、しぶしぶ
ながらこれを告白するに至つた。
 こゝにおいて、マリアナよりもなほ一
層日本本土に近い地点に基地を獲得し、
こゝから長距離戦闘機を随伴して来襲し
ようと考へるに至つたことは、蓋し当然
の帰結といはねばならない。
 かくて二月十九日、硫黄島に対して強
引に上陸し来つたのであるが、更に小笠
原島、八丈島等の諸島嶼に、次ぎから次
ぎへと爪牙を伸ばし来るべきは、これは
たゞ時間の問題に過ぎないであらう。
 これらの近海諸島嶼が逐次敵手に帰す
るに至れば、その島嶼基地航空機と機動
部隊と両々相俟つてする本土空襲の激化
は、極めて熾烈を加へるであらうことが
予想せられる。
 かやうな事態ともなれば、都市
といふ都市は殆んど悉く現在のロ
ンドン、ベルリン、或ひは那覇の如
き焼野原と化するであらうし、ま
た各工場は爆砕せられ、且つ鉄道
その他の交通機関は分断せられて、
戦波は本土全面に波及し、国民皆
戦の響きをますます身近かに感ず
るに至るであらう。
 しかして短期決戦を企図する敵
は、勢ひに乗じ、或ひは短兵急に
日本本土に上陸を企てるかも測り
難い情勢にある。
 本土の何処へ上陸し来るか。
 それはいづれへとも断定し難い
が、何処へ上陸し来るとも、これ
は全く容易ならざる事態を惹起す
るであらう。
 弘安の昔、元兵博多の浜を侵し、幕末
の頃、夷敵長州の地を汚すのことはあつ
たけれども、来るべき米鬼の侵寇に比す
れば論ずるに足りない。
 凶敵米鬼、神州に迫る。
 獣軍一たび皇土に上陸し来らん
か。
 そこに起るべきは有史以来嘗て
なき残虐無慚の暴行、破壊、殺
戮、凌辱であらう。
 われ等は 神州の民。
 フランス、イタリア国民等の如き汚辱
されたる生を貪るよりも、一億玉砕の意
気込みもて、断乎として祖国を護り抜
き、戦ひ勝たねばならない。
 本土決戦迫る。
 肚を据ゑて速かに一大出血強要の準備
を進めようではないか。

 4. その他

 敵が比島に航空基地を獲得し、且つ敵
機動部隊が南支那海を遊弋するといふ現
象は同方面における制空、制海の両権
が遺憾ながら敵の掌中に握られてゐるこ
とを意味するものであり、従つて日本本
土と南方資源地域との交通は、今後殆ん
どこれを望むべくもないことは免れ得ざ
るところであらう。
 事態こゝに立ち至つた以上は、既に南
方圏からの物資輸入に依存することな
く、日満支自給圏の確立、特に本土自給
態勢の強化等、あらゆる創意と努力とを
傾けて、この隘路の打開に邁進しなけれ
ばならない。
 なほ欧州戦局の推移に伴ひ、英国艦隊
の東航は当然予期すべきであるし
 そのほか国際情勢の微妙なる動きは、
何時、いかなる新事態が惹起せられるか
も測り得ない雰囲気にあると申さねばな
らぬ。
 のみならず、本土に対するX一号式新
兵器による攻撃、或ひはB29よりも更に
更に強力と伝へられるB36の現出、もし
くは特殊電波兵器その他の手段を以てす
る無制限殺戮攻撃等もまた予想せられる
ところである。
 かくて国内は有史以来、未だ嘗てなき
ほどの徹底的辛酸、惨苦を満喫するのや
むなきに至り、幾十百万の人々は家を焼
かれ、肉親を喪ひ、飢に苦しみ、寒さに
震へる等の苦しみに遭遇することとな
らう。
 現在、これはソ聯民衆、ドイツ国民、
英国民衆が例外なく悉く体験してゐると
ころであり、特にフランス、イタリア、
ルーマニア、ハンガリー等に至つては、
日本国民の想像すら及ばない程度の生地
獄のやうな生活をしてゐる。
 この全世界をあげての大戦において、
日本のみ独りその酸苦から免れることは
不可能であり、われわれとしては「千辛
万苦来らば来れ」の意気を堅持して、こ
れに備へねばならない。

三、戦局の因つて来る所以

 「ローマは一日にして成らず」といふ。
 「桃栗三年、柿八年」といふ。
 また「春は播き、秋は刈る」ともいふ。
 いづれも原因、結果の間に時間的空間
存在の必然性をいへるものである。
 鶴の雛を孵すにも、卵を二十一日間は
温めなくてはならない。
 人間一人が生れ出づるにも最小限十ケ
月間を要する。
 即ち今日あらはれる現象は、その原因
を遙かの過去に発してゐることを忘れて
はならない。
 現在わが方の戦況は、あまり有利とも
云ひ得ないのであるが、その主なる原因
が航空機及び艦船の不足に基づくもので
あることは、既に論議しつくされてゐる
周知の事実である。
 顧れば一昨々年の珊瑚海海空戦以来、
敵は夥しい艦船並びに航空機を喪失した
のであるが、しかしそれにも拘はらず、
後から後からと尨大な数量に上る艦船や
航空機を繰り出してをり、その補給力の
逞しさには遺憾ながら一を輸せざるを
得ない。
 これに反して我が方は、航空機が足り
ない、艦船が足りないと絶叫され続けて
ゐる。
 何故であらうか。
 これだけの開きはそもそもいかなる原
因に基づいてできたのであらうか。
 人或ひは生産陣の努力不足を訴へる。
 或ひはそれもあらう。
 人或ひは生産の隘路を口にする。
 或ひはそれもあらう。
 しかしながら、これ等はいづれも近因
の一、二たるにとゞまつてをり、その遠
因、真因たるや真に重大視すべき問題で
あり、その真因を探求して、反省、発奮、
以て戦力増強の劃期的飛躍を図らねばな
らないはずであるにも拘はらず、これが
案外に看過せられてゐるのは不思議でな
らない。
 この際、肅として「現戦局の因つて来る
所以」を顧み、過失を匡(ただ)し、怠慢を改め、
奮起一番、過去の失敗を速かに償ひ、以
て勝利への道へ突進しなければならぬと
考へる。
 二十数年来の歴史を冷静公平にふりかへつ
てみれば、第一次世界大戦直後から敵、特に
米国は次ぎの打倒目標を日本と決定し、爾後
その謀略攻勢の重点を日本に指向して、執拗
陰険なる「音なき戦ひ」を開始したのであつた。
 にも拘はらす、我が国民はこの奸悪なる隣
人を迎ふるには余りにも好人物過ぎた。徳富
蘇峰翁が「誤解とは善い者を悪く解するのが
通常であるのに、日本人は悪魔、野獣のやう
な米国人を善良な紳士と逆に誤解するの過失
を犯した」と率直に評したのはけだし至言であ
る。
 しからば過去久しきに亘つて、我が国に
加へられた音なき戦ひとは、そも何か。
          ×
 近代戦の三大要因と称せられる武力、経
済、思想の各分野において、敵が二十数年前
から日本に対してとり来つた悪辣巧妙なる一
方的攻勢を、いま冷静に回顧し、改めて敵の
対日作戦準備がいかに手廻しよく、前々から
着々として進められ来つたかを再確認した
い。
          ×
 即ち「武力的」には大正十一年のワシント
ン条約、昭和五年のロンドン条約を中核とし
来るべき日に備へて、彼等は日本の手を
足をり、そして外濠を埋め、甲冑を剥ぐに
些かの仮借もなかつた。
 しかも間断なく放つ「世界平和」「日米親善」
「軍備縮小」の呪言によつて、麻酔せしめられ
た我が国民の大多数が、むしろ欣然として、
進んで自己の弱体化に拍車をかけたのは、時
代風潮の然らしむるところとはいひながら
も、甚だ遺憾千万のことであつた。
 ロンドン条約締結に先だち、加藤軍令部長
が国家の前途を憂へて帷幄上奏を決意したけ
れども、浜口総理大臣及びその他の人々に暴
力的に阻止せられたことは「統帥権干犯」事件
として心ある人士を憂憤せしめた。
 またロンドン条約成るの日、海軍参謀草刈
少佐は国家の将来を深憂し、屠腹以て世を警
めたが、しかし、それはたゞ「狂死」と嘲り葬
られたに過ぎなかつた。
 痛憤血凝、泣いて訴ふる加藤、末次両提督
らに対し、聖将東郷元帥また倶に哭きながら
「しかし訓練には制限がなからう」と悲壮な訓
諭をせられたのも、またこのころの出来事であ
つた。
 明治、大正、昭和を通じて一代の指導者と
目せられた某老政治家の如きは、完全に敵謀
略の虜となり、連年議会毎に大声叱咤、烈々
火を吐く雄弁を振つて「軍備縮小」を絶叫しつ
づけた。
 いま、当時の議会風景及び時代風潮を想起す
るため、左に参考として議事録に記録せられ
た同氏の議会演説の要旨を抜粋してみよう。
 昭和十年三月二十日、氏は壇上に立つて、
 「白、和、瑞、丁等、小国ノ国民ハ独英仏等
帯甲百万ノ強国間ニ介在シ乍ラ殆ンド無防備
同様ノ状態デソノ生ヲ楽シンデ居ル」
と説き、以て軍備の不要を叫んでゐるのであ
るが、十年前無防備同様の状態でその生を楽
しんでゐたこれら小国の、人々が、現在、彼我馬
蹄車轍の下、完膚なきまでに踏み荒され、飢に
泣き、寒さに苦しんでゐる現況をみて、いか
にその短見なリしかが察せられるのである。
 同氏は更に語を継いで
 「軍備ヲ整へレバ列国ノ猜疑心ヲ喚ビ起シ、
徒ラニ敵国ヲ増シ、却ツテ国家ヲ危殆ニ陥
レル惧レガアル。
 軍備ニヨツテ国防ノ安全ヲ求メヨウトスル
ノハ本来無理ナ注文デアル。
 閣僚中ニモ非常時熱、危機病ニ浮カサレテ
謂ハレモナク米英等ノ侵略ヲ危惧スルモノ
ガアル」
 とて縦横の論を揮ひ、議事堂も割れるばかり
の拍手喝采を浴びた。
 あらゆる意味において、一億国民の血涙を
しぼつた彼の五・一五事件及び二・二六事件等
は、実にかゝる時代風潮の中に生起したもの
であつた。
 なほ更に
 昭和十二年二月といへば、支那事変勃
発の僅かに五ケ月前であり、大東亜戦争
の始まる僅々四年前のことである。
 当時、支那にあつては蒋介石が米英の
庇蔭を恃み、上海在留邦人を黄浦江に圧
迫殲滅し、支那大陸における日本の勢力
を一掃すべく、頻りに上海周辺地区に大
軍を集中し、無数のトーチカを築造し、
戦車壕を掘り、そして十重二十重に鉄条
網を構築して、戦備おさおさ怠りなき状
態であつた。
 また米英両国は香港を固め、シンガ
ポールを整へ、コレヒドールの守りを厚
くして、いはゆるABCDの鉄環の緊縛
に余念のない有様であつた。
 山雨将に到らんとして風楼に満つるの
観を呈しつゝあつたその頃、これ等の情
勢を無視して氏はあくまで所信を貫徹す
べく、二月十七日の議会演説において左
の要旨の獅子吼を敢行したのである。
 「本員モ聊カ世界ノ形勢ヲ観察シテ居リマ
スガ、国際関係ガ日本ニトリ今日ホド良好
ナ時代ハ本員六十年ノ政治生活ニ於テ未ダ
曾テ見タ事ハナイノデアリマス」
 現実の事態には一切眼を閉ぢて、たゞ
机上に空論する氏の説は、魂を米国に売
つた謀略俘虜の悲しき妄語であつた。
 「アメリカハ目下盛ンニ軍備ヲ拡張シテ居
ル。
 イギリスモ、ドイツモ、ソヴィエトモ皆軍
備ヲ拡張シテ居ル。
 故ニ日本モ軍備ヲ拡張シナケレバナ
ラナイ。コレヲ多分危機トカ非常時トカ言フノ
デアリマセウガ、之等ノ言葉ハ私ニハ一切
ソノ意味ガ分ラナイノデアル。
 何故ニ日本ガ危機デアルノカ。
 欧米ハ互ニ軍備拡張ノ競争ヲヤツテ居ルカ
ラ、ナルホド欧米ハ危機デアルガ、然シナ
ガラ欧米ノ危機ハトリモ直サズ東洋ノ安機
デアル。
 ニモ拘ラズ欧米ガ危機デアルカラシテ、東
洋モ危機ナリト申スノハ、余程事態ヲ解セ
ヌモノノ言葉デアル。
 第一、米、英、蘇ノ三大国ガ日本ニ向ツテ
手出シヲシナイノハ明カデアル。
 欧米ガ懸命ニナツテ軍備ヲ拡張シテ居ル現
在コソ日本ニトツテ軍備縮小ノ絶好ノ機会
デアル」
 何たる堂々の詭弁であらう。
 しかしてこの軍縮演説に対しても、例
によつて万雷の如き拍手が送られたので
ある。
 再言する。
 これが支那事変の始まる五ケ月前、
 大東亜戦争の始まる僅かに四年前に於
ける日本帝国議事堂の議会風景であつ
た。しかしてまたかゝる説をなす代議士
は決して一、二にとゞまるものではなか
つた。
 この状況をみて、血の滴るやうな赤い
舌を出し「我が事成れり」と悪魔の微笑
を漏らすもの。それは太平洋彼岸の国
であつた。
 しかも敵アメリカはこの間、この老政
治家が明らかに証言したが如く「アメリ
カは目下盛んに軍備を拡張して」をつた
のである。即ち来るべき日に備へて建艦
を急ぎ、且つ民間航空機の発達に藉口し
て飛行機工場の大増設を断行し、なほ一
旦有事の際は、直ちに飛行機工場に切り
換への出来るやうに、自動車工場その他
の重工業工場の拡張に狂奔してをつたの
である。
 大東亜戦争開始と共に、かねての計画
に基づき、あらゆる重工業工場を一挙に
飛行機及び造船工場に転換せしめたがた
めに、彼等は目下飛行機及び艦船の大量
生産に大なる效果を示しつゝあるのであ
つて、それは皮相なる一部論者のいふが
如き
 「アメリカはもともと平和愛好国であ
つて、軍備はなかつたのであるが、日本
の卑怯なるだまし討ちによる真珠湾の惨
敗に発奮して、爾後戦力生産線は急速な
る上昇曲線を描くに至つた」と申すやう
な、甘い、そして薄いものでは断じてな
いことをハッキリと看破しなければなら
ない。
          ×
 要するに、彼は二十数年間巧み
に日本を欺きつゝ周到な準備を整
へ来つたのに対し、日本は敵の悪
辣巧妙な謀略に陥つて二十数年
間、軍縮風の吹きすさぶまゝに、
軍需工業の発達が阻止せられたと
ころに、現在の航空機の量差を生
む大きな禍因が胚胎してをつたの
である。
 当時、敵の謀略標語たる「世界平
和」「日米親善」「軍備縮小」の声に
陶酔した人々は「世界平和だ」「日
米親善だ」と浮かれ切つて
 「戦争もないのに何の長刀ぞ。野
暮な軍需産業よりも、儲けの多い
平和産業だ、軽工業だ」
と、敵の思ふ壷に篏つて仕舞つた
ので、当然日本の航空機工業等は
著しく遅れたのであつた。
 開戦と共に一切の軽工業工場、平和産
業工場をを航空機工場に切り換へるべく、
必死の努力が試みられたけれども、これ
は盗人を見て縄を綯ふものであり、二十
数年間周到な準備を整へ来つた敵の生産
力と比較し、そこに大きな開きをみるに
至つたのは当然すぎるほど当然な帰結で
あつた。
 現戦局の苦しき原因は、生を神国に享
けながらも神を無視し、そして三千年
来の皇国精神を忘れ果てて、敵の謀略に
耽溺して自ら招いた神罰とも申すべきで
あるが、この国家存亡の危機に突入した
今日、過去の誤謬を悔いて、皇国民本来
の真面目に立ち還り、緊褌一番、必死の
努力を傾注したならば、生産の驚異的増
率、戦力の画期的増強は期して待つべき
のみである。
          ×
 次ぎは彼等の「思想的」攻勢であるが、
これはまた余りにも巧妙であり、その卓越せ
る手腕は今更ながら一驚を禁じ得ない。
 対日作戦に備へて予じめ日本国民の中に魂
を米人化されたるもの一人でも多かれと企図
した彼等の狙ひは、我にとつて甚だ遺憾なが
ら、彼等にとつては絶大なる成功をみたのは
否定すべくもないところであつた。
 即ち大正の中期から滔々として流入して来
た軽佻浮薄、そして頽廃的な肉慾主義、乱倫な
背徳賛美等を内容とするアメリカ映画によつ
て、日本の青年男女は誘蛾灯にむらがる青蛾
の如くに、狂ひ、乱れ、崩れ、そして身を焼
き爛らしていつた。
 ワシントン会議における成功は、一に日本
がユダヤ文化に中毒症を来してゐたことによ
つて彼等がかち得たものである。米英的秩序
維持のために造られたデモクラシーに、日本
の政治家達をして退却と協調のなかに正義と
平和の幻想を抱かしめた。米英資本主義に追
従してゐた我が国の経済等は、軍縮を謳歌
し、またユダヤ映画によつて国際芸術(国家
性を無視せる)を信奉する映画文化人層は、
既に全く民族性を喪失して、平和主義と国際
主義の埋毒芸術に陶酔してしまつた。
 迫り来るアジアの危機をよそに見て、
 我が国の政治、外交、文化、経済、教育に悉く
ユダヤ的自由主義の下に乱舞をつゞけた。
 外交は悲しくも有名なるいはゆる「幣原外
交」によつて代表された徹底的な米英屈従妥
協主義であり、自ら日本的、アジア的意識を
捨てて、東亜を米英的世界の一単位としてこ
れに迎合し
 政党は国内財閥と結託して金権
政治を生み、党利党略によつて国
政を恣にし、その結果、労賃の低
下、労働時間の延長、失業者の増
加、農村の疲弊、民族意識の消衰、
軍備縮小論の蔓延等をみると共
に、享楽的、虚無的傾向をも生ず
るに至つた。
 かゝる秋
 満洲事変勃発し、ついで上海事
変が起つて風雲急なるに至つた
が、政党は財閥擁護政治に終始し
て国家百年の大計を忘れ、財閥は
ドル買に狂奔し、階級闘争は次ぎ
次ぎに引火していつた。この間
 敵米の謀略攻勢は、めざましいものがあつ
た。昭和七年一月にはジョン・フォードが、
二月には、リチャード・バーセルメスとロナル
ド・コールマンがアメリカ映画人として華や
かに訪れて来た。
 五月にはユダヤ人チャーリー・
チャップリンがやつて来た。数箇の
歓迎団体はチャップリンの争奪戦を
行ひ、新聞記事は殆んど全頁をそ
の歓迎に費した。当時、憂国の至
情に燃えつゝ在満皇軍の将兵が、
荒涼たる原野に血みどろの聖戦を
戦ひつゞけてゐたのであるが、そ
の記事の如きはチャップリン記事の
ために圧倒せられて見る影もなか
つた。
 チャップリンの来朝目的。
 その恐るべき真の目的を看破し
得たる日本人の数は極めて少かつ
た。このユダヤ謀略使節を狂人的
熱烈さを以て歓迎した人々の群。
 それが日一日、年一年と祖国日
本を危地に追ひ込んでいつたので
ある。
 世界中の映画は、その九割まで
がユダヤの掌中に握られ、ユダ
ヤどもはその欲するがまゝの企図
を映画化し、これを提げて非ユダ
ヤ国に対して謀略攻勢をつゞけた。
 アメリカ大使館、イギリス大使館の試写室
には、親米英分子や、限定された少数の知識
階級が招待せられ、ユダヤの宣伝映画が幾度
となく秘密公開せられた。
 メトロ大阪支社の試写室では、検閲却下の
ツト面の試写会が催され、深夜まで酒池肉
林の騒ぎが演ぜられた。ユダヤ達はかやうな
秘密の映写会を根城にして日本人を誘惑し、
日本婦人の貞操を弄んだ。
          ×
 説けば限りがない。しかして、このユ
ダヤ映画の濤と相呼応して、淫蕩卑猥な
ジャズ、果ては個人主義、刹那主義、
享楽主義、民主主義、功利主義、自由主
義、実利主義、唯物主義、崇金主義、共
産主義、等々、ユダヤの奸智に源泉する
邪悪思想が怒濤の如くに氾濫し、しかも
我が国においては指導者たるべき知識
層、有産層、学者等がまづ脆くもその術
中に陥つたがために、これらの甘美を装
ふ毒汁が、純真なる青年子女をいかに深
刻に蝕んだかは、想起するだに慄然たら
ざるを得ないものがある。
 今にして想へば、さながら悪魔
の饗宴場に酔ひ痴れたる餓鬼の群
を見るやうな心地がする。憎むべ
きは元兇アメリカ・ユダヤ。
 この恐るべき敵の謀略に盲(めし)ひたる当時
の狂態が、父祖継承の大和魂、皇國精神
にいかに大なる弛緩を来し、曇りを生
じたかをみる時、誑された憤りが肚の底
から煮え上り、沸々たる敵愾心となつて
燃え立つのを覚える。
 顧るだに肌に粟を生ずる敵の思
想謀略。いま白日の下、これを遺
す所なく剔抉して、限りなき憤り
に唇を噛むもの、果して幾人ぞ。
 《註》
 軍縮論者なる某政治家は、また極めて熱心
なサンガー説の支持者でもあつた。彼は昭和
のはじめ頃「産児制限は今や議論の時代に非
ずして、既に実行の時代である」と到る所で
熱弁を揮つた。
 或る学者の説によれば、サンガー来朝以降
の十年間において、産児制限説に共鳴した結
果、闇から闇と葬り去られた幼き生命の数は
数十万の多きに達するであらうとのことであ
るが、もしも、これらの幼き生命が、太陽の
恵みに浴し得てゐたと仮定すれば、今頃はい
づれも二十歳前後の青年となり、この重大戦
局に、大きな御奉公をなし得る戦局を加へて
ゐたことであらう。
 特別攻撃隊の若き勇士達が二十歳前後の花
桜であることを想ふ時、この感が特に深いの
で、敢へて附記する次第である。
 また大東亜戦争開始以来、一切の外来邪悪
思想と絶縁し、純乎として純なる日本精神に
よつて育くまれた幾多の青少年達が、戦場に
工場に、いかに老壮年者を瞠目せしめる活動
をなしつゝあるかを想ふ時、外来思想に毒さ
れたる過去の青壮年達は、今こそ敵アメリカ
の思想謀略のいかに奸悪巧妙なリしか、思ひ
半ばに過ぐるものがあるであらう。
          ×
 次ぎは「経済的」攻勢であるが、軍備的
及び思想的攻撃に絶大な成功をみた敵
は、頃合よしと見計らつて遂に奥の手た
る経済圧迫により、武力戦をこ交ふること
なく日本を屈服せしめんとして重大な脅
威を加圧し来つた。
 かくてアメリカ・ユダヤの吹く笛に踊
り、日本精神(忠君愛国、敬神尊皇、皇室
中心主義等)を溷濁、動揺せしめられた
人々が、ほくそ笑む悪魔の黒影に気付く
ことなく、放埒享楽に狂ひに狂ひつゝあ
る中に、祖国日本は刻一刻、日一日と千
仞の断崖上へと追ひ込まれていつたので
ある。
 近代戦遂行上、緊要欠くべからざるも
のの一つに液体燃料が数へられてゐる
が、日本にはこれが乏しい。
 アメリカは、いち早くこゝに着眼した。
 そして日本の人造石油研究の発達を
徹底的に妨害するため、鬼面に羊の仮面
をつけ、さも親切げに極めて安価に日本
にガソリンを供給した。
 それは世界中のどの国に対するよりも
廉価であつたがために、米国の戦慄すべ
き真意を解し得ぬ人々は、叩頭頓首、随
喜の涙を以て米国に感謝し、いはゆる円
タク全盛時代を現出し、ガソリンを濫費
して享楽に耽り、既に殆んど人造石油研
究の如きは棄てて顧る者すらなかつた。
 しかも日本国内における液体燃料会社
の実権の大部分は、彼等米国人の牛耳る
ところとなり、日本の燃料事情等は、日
本人それ自身よりも、米国人の方がより
精通してゐる等の矛盾すら招致する程で
あつた。
 これは極めて卑近なる実例の一つたる
に過ぎないが、このほか大東亜戦争開始
前の日本は経済的に、米国のためガンヂ
がらめの状態にまで陥れられ、危機一髪
の窮地に追ひ込まれて仕舞つた。
 即ち
 昭和十四年一月には突如として日米通
商航海条約の廃棄を通告し来り、つゞい

 翌十五年一月には屑鉄の禁輸、
 十六年一月には真鍮その他六品目の禁
輸、
 同年七月には在米資金の凍結を敢へて
し、
 さらに八月一日には石油の禁輸を断行
し、これを以て敵は対日経済圧迫の打つ
べき手を悉く打ち了つたのである。
 しかる後、十一月二十六日に至るや
 1. 日独伊三国同盟よりの離脱
 2. 汪政権の否認
 3. 支那、仏印よりの撤兵
てふ真に忍ぶべからざる最後通牒を我に
突きつけ、短兵急に我が自滅を強要し来
つた。
 事すでにこに至る。
 隠忍自重にも、また限度があつた。
 この天人倶に許さざる暴逆非道の兇敵
に対し、我は遂に万止むを得ず
 「勝利か、然らずんば死」 否、
 「勝利。断じて勝利あるのみ」の烈々た
る決意を以て蹶然として奮起した。
 宣戦の大詔を奉読して
 「東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ
悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆
ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自
存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破
碎スルノ外ナキナリ」
と仰せられたる大御言葉を承り、
上御一人の大御怒りを拝し奉つては、満
腔のの熱血逆流し、「兇敵撃滅」の決意一入
鞏くなりまさるのを覚える。
 今や響きなき戦ひは終焉を告
げ、仮面を脱いだる悪魔の軍を邀
へて、日本男児の国は、こゝに敢
然、破邪顕正の剣を提げて起ち上
つたのである。
 千辛万苦、固より期するところ。
 たゞ戦はんのみ。
 たゞ勝たんのみ。


四、媾和なき戦ひ


 堰を切つたる奔流か、弦を放れし強箭
か。憤激こゝに爆発したる皇軍の大進撃
は、将に疾風枯葉を捲くの概があつた。
 世界を驚倒せしめつゝ我が雄渾豪壮な
る作戦は大東亜全域狭しと展開されてい
つた。
 アメリカ海軍長官ノックスは、戦前「日
米開戦の暁は三ケ月にして日本を屈服せ
しめるであらう」と満々たる自信をほの
めかせつゝ豪語してゐた。
 在ハワイ、アメリカ東洋艦隊司令長官
は十一月二十六日には、既に開戦準備の
訓令を受けてゐた。
 しかしながら、米国全陸海軍将兵の常
識を支配してをつたものは「あの弱小
日本がよもや強大米国に向つて・・・」と
いふ軽侮感であつた。
 油断はそこに生じた。
 一方、我が方は一撃必殺の精魂をこ
め、乾坤一擲の勇を揮つて電撃作戦を開
始した。
 緒戦半歳の大戦果は、かくして我が方
の収むるところとなつたのである。
 いはゞ緒戦の戦果は「我が窮余
の一撃が敵の油断に乗じて獲得し
得たる望外の収果」であつた。
 一時的狼狽から立ち直つた敵は、よろめく
足に力をこめて立ち上り、かねて準備蓄積し
てゐたその物的戦力た総動員し、我が攻勢終
末点たるニューギニア、ガダルカナルの線に
おいて攻勢に転じて来た。
 かくの如く敵が二十年来準備し来つた尨大
な戦力を正面から繰り出して来ると、彼我の
物量戦力はその懸隔があまりにも大とな
り、ために我々は歩々の抵抗により時間の余
裕を得つゝ、この間、決戦戦力を拡充し、そ
の成る[_][_]おいて攻勢移転を企図すると共
に、個々の戦場においては専ら敵に出血を強
要し、これに致死量を流出せしめんとする戦
法を採用するのやむなきに至つた。
 しかして昭和十七年後半期以降の戦局
は、率直にいつて我にとつてあまり有利
とは評し難い経過を示してをり、特に比
島、硫黄島に敵の来寇あり、本土近海に
敵機動部隊の出現を見たる以上、爾後、
戦況は急速度に凄惨苛烈の様相を加へ来
るであらう。
 戦況が苦しくなればなるほど、薄志弱
行の徒輩が、安易なる生活を希求するの
余り和平策を考へ、媾和を念(おも)ふに至るの
は当然考へらるべき現象であり、これら
の事例は古今を問わず東西を論ぜず、歴
史の明らかに訓(おし)へるところである。現在
においては、敵国よりする宣伝は「日本抹
殺」の威嚇、脅迫を主とするものである
が、戦局がいま一段苛烈深刻となり、国
内人心が動揺し始めたならば必ずや「甘
き条件を以てする媾和」の陥穽を準備
し、我が国内に和平風潮を蔓延せしめた
上、一挙「抹殺のローラー」を以て圧倒
し来るべきは炬を見るよりも明らかであ
る。
 しかして国内の和平分子は自己
に指向せられる非難を免れんがた
めに「媾和を論議するのは国家を憂
ふるが故にである」と称する者が多
いのであるが、これ等の平和思想
を抱懐するの徒は、一般に利己的
な不純な考へに立脚してその説を
なすものであることを知らねばな
らない。
 元来、戦争の目的を達成するにはまづ敵の
継戦意志を破砕することが肝要である。
 然るに自らその継戦意志を放棄せんとする
が如きは明らかに利敵売国行為であり、敗戦
主義であり、叛逆行為である。
 こゝにおいて、平和思想抱懐者と目せ
らるゝ者に対しては敵国謀略の手が伸び
て来易い。
 もともと戦争は、平和的手段により妥
協し得ず、武力に訴へたるものである以
上、戦ひの途中にて妥協点を発見せんと
するのは自家撞着も甚だしいといはねば
ならぬ。
 しかるに些かの苦しみに悲鳴をあげ、
敵の甘言に欺かれて媾和を乞へば、敵は
先づ抵抗不能の程度に一切の武力を剥奪
したる後において忽ち掌を飜し、苛酷極
まる条件を強制するのが例である。
 「媾和謀略」 それは甘美にして陥り易
き蟻地獄であり、この蟻地獄には、前者
の轍を踏む幾多の国家民族が性懲りもな
く後から後からと陥落してゆく。
 今こゝに数多くの前轍の中から一、二
の戦例をとり上げてみよう。

 大阪冬の陣

 太閤秀吉が心血を濺いだ大坂城は流石に難
攻不落の堅固さであつた。
 遺孤秀頼を奉じ、義を重んじて、戦ふ籠城
軍の健闘ぶりは、実にめざましいものがあ
り、この名城、いつ陥つベしとも思はれなか
つた。
 しかしながらこの堅城にも、その内部に脆
弱な腐朽部があつた。
 淀君及び権臣織田有楽、大野治長等がそれ
である。
 老獪家康は、この弱点を見逃がさなかつ
た。脅迫、甘言、威圧、懐柔のあの手この手
を縦横に駆使し、特に極めて寛容なる和議
条件を呈示して、ひとまづ互に干弋を収め、一
旦大阪方の鋭気を頓挫せしめた。
 狙ひはこゝにあつた。
 一度和議成るや、条約を無視し、大阪方の
抗議を馬耳東風と聞き流して、強引に大阪城
の外濠のみかは、三の丸の大濠まで情容赦も
なく埋めてしまつた。
 城中の詰問も、嘆願も、哀訴も、それは既
に何の甲斐もなかつた。
 こゝにおいてか数ケ月ならずして夏の陣の
火蓋は切つて落されたのであるが、勝敗は早
や問題ではなかつた。
 大阪落城の哀史はそゞろ後人の心を打つの
であるが、念ふに、治長等といへども、媾和
が豊臣家を救ふ所以なりと信ずればこそ、こ
の手段を選んだものであらう。
 しかしそれと同時に、彼等は自らの安
易なる生存をも希求してゐたであらうこ
ともまた察するに難くない。
 彼等は秀頼を奉ずる主戦派の強填なる戦争
意志を排斥し讒言して、媾和へと奔つた。
 彼等は死地を逃れんことのみを念ひ、かへ
つて死中に活を得るの決意を忘れた。
 陥穽への虚隙はこゝに存したのである。
 いふまでもなく家康とつては、媾和はそ
の目的ではなかつた。
 媾和は填濠の手段に過ぎなかつた。
 その填濠もまた究極の目的ではなかつた。
 それはたゞ落城を容易ならしめる一手段に
過ぎなかつた。
 秀頼を亡し、秀頼の幼児を斬り、剰へ豊国
廟を朽廃せしめ、そして天下の覇権を握らん
とするのがその最終目的であつたのである。

 第一次世界大戦

 米英は、その敵ドイツを殪すために
 「聯合国の真の敵はカイゼルの軍国主義で
あつて、決してドイツ国民には非ず」と執拗
に宣伝し、ドイツ国民はこの宣伝に迷はされ
て、次第に国内の結束が乱れ始め、且つ国内
の思想的不安と飢餓とに悩まされて、遂に戦
争を断念するに至つた。
 しかし、かくして一旦休戦を求め、張りつ
めた気分の弛緩したドイツ国民に与へられた
ものは、十四ケ条条約とは似てもつかない苛
酷なる降伏条件であつた。
 聯合軍側の思想謀略に乗ぜられ、カイゼル
を追放して民主的体制を建設するならば、敗
者の立場立たずして平和を実現し得べしと
信じたドイツ国民は、物の見事に裏切られ
たのであつて、その後の長年月間におけるド
イツ国民の惨憺たる窮乏は、こゝに改めて述
べるまでもないであらう。(先般のクリミア会
談において、またしても「ドイツ国民は敵で
はない。われ等の敵はナチスなり」といつて
ゐることをわれわれは見逃してはならない)

  今次の大戦

 戦波が北阿よりイタリアに移るや、米
英軍は無差別爆撃の脅威と並行して、巧
言、甘言至らざるなく、巧みにその媾和
慾を扇動した。
 しかるに裏切者バドリオがひとたび反
枢軸側に色眼を使ふや、彼等はイタリア
を取つて押へ、直ちに無条件降伏を強要
した。
 焦土抗戦がいかに苦しくとも、無条件
降伏の後に来る恐怖状態とは比すべくも
ない。
 飢餓と、悪疫と、殺人と、凍死。
 これが「欧州をドイツの桎梏から自由
の天地に解放する」ことを標榜した米英
軍が欧州に齎した現実である。
 投獄と、銃殺と、密告と、赤魔
と、血腥い政変とに騒然たる中を、
住むに家なく、食ふに物なき数千
万の民衆が、敗戦の屈辱を背負う
て彷徨する哀れな姿こそ、米英に
よつて解放せられた「自由欧州」の
冷厳なる現状である。
 降伏は国家の崩壊であり、民族
の滅亡にほかならぬ。
 この現実こそは、弱気な敗戦論者、安易な
妥協主義者達の所産であり、理想と努力とを
喪失した国家、民族の末路である。
          ×
 フランスはいま恐怖時代である。
 米英軍の走狗となつてフランスに帰り、臨
時政府の首班にをさまつたド・ゴールが、ま
づ手がけた「対独協力者」に対する血の粛清の
口火として、フランスはまたもや世紀末的な
殺戮時代に入つた。
 全国的な食糧難から醸成されつゝある極度
の社会不安を背景とする強盗、殺人、凌辱等
の暗澹たる民情と共に、流血の政争が闘はれ
て、今や完全なる無政府状態に陥り、かてゝ
加へて、米英兵の横暴非道は募るばかり、フ
ランスは正にこの世ながらの生地獄である。
 北部フランスの町々では、パリと同様に家
具や書籍を焼いては燃料としてゐるが、寒波
に襲はれて、凍死と餓死とはますます増加す
る一方である。
 米英軍のパリ解放以来、こゝに数ケ月間、
パリ市民は石炭その他の燃料はたゞの一片す
ら配給を受けてをらず、僅かな馬鈴薯のほか
全く一物の配給もなく、もはや米英軍によ
る「解放」当時の熱も希望も全く消え果てて、
悲痛な諦めの中に自暴自棄の泥沼に身悶えて
ゐる。
 一方、
 イタリアは
 バドリオ政権による降伏以来こゝに一年有
半。
 陰謀とテロと米英ソの角逐に、政情は混沌
として、全く百鬼夜行の無政府状態である。
 幾百万の民衆は餓死線上に徨ひ、小鍋一杯
のスープの配給を受けるためにも、寒さに震
へながら長蛇の列をつくつて、長時間立ちつ
くしてをり、幼児はその約半数が既に餓死し
てしまつた
といはれてゐる。
 なほアメリカ、イギリス、カナダ、ポーラ
ンド、ギリシャ、アフリカ等の各国の兵士達
が軍紀もなく、風紀もなく横行し、ためにイ
タリアの婦人達はその年齢の多少を論ぜず、
しかも昼夜のけじめもなく、浅間しい凌辱を
受けてゐるものの如く、イタリア婦女子の貞
操道徳は全く最低限度にまで転落してゐると
伝へられてゐる。
          ×
 今や世界各国は凄惨なる武力戦のほか
に、執拗陰険なる宣伝謀略戦を展開して
ゐる。
 わが国に対しても、前駐日大使グルー
等を先頭に押し立てて、巧妙執拗なる攪
乱謀略の手は伸びて来つゝある。
 しかも日本人の中には、今なほ米人に
対して正当なる見解を持たざる者があ
る。
 彼等の或る者は、日本がドイツと提携
したがために、ドイツの巻添へをくつて
米人から憎悪されてゐると考へる者もあ
るが、これは全く思はざるも甚だしきも
のと申さねばならない。
 米人が日本人を憎むの情は正に
本能的であり、彼等は日本人の骨を
舐(しやぶ)り、肉を啖(くら)はねばやまぬであら
う。
 負傷せる日本兵をローラーで轢き殺し
 重傷にもがく日本兵にガソリンを注いで焼
き殺し
 日本兵の髑髏を以てべーバー・ナイフをつく
 り日本兵の髑髏を玩具として弄び
 或ひは病院船を爆撃し
 或ひは漁船の乗組員を捕へてなぶり殺しを
なし
 或ひは都市に無差別爆撃を加へる等のこと
は、彼等にとつては何等不思議とも感ぜぬ日
常茶飯事である。
 但し、尽忠の赤誠に燃ゆる日本軍将兵
の猛烈極まる闘志には少からず辟易し
てゐるやうである。さればこそ、彼はそ
の得意とする謀略戦により日本国内の結
束を混乱せしめんと企図してゐる。
 二月十六日の空襲にあたつては多数の
宣伝ビラをも撒布した。また既に中波に
よる謀略放送をもマリアナから開始し
た。さらに新らしい手が、次ぎから次ぎ
へと試みられることであらう。
 数ケ月前、ニューヨーク電としてデー
リー・ニュース紙は次ぎのやうに伝へて
ゐる。
 「大統領ルーズヴェルトは、戦争中止の唯一
の条件は日独両国の無条件降伏にありと呼号
したが、かくの如き苛酷な条件をもつてす
れば、日独両国民はそれこそ最後の一人まで
戦ふべく、従つて米国は貴重な人命の多く
を犠牲にしなければならぬ。
 それよりも、寛大な条件を与へて両国政府
の指導者と国民とを離間し、降伏を余儀なく
させる方が遙かに賢明な策である。日独両国
が一旦手をあげてしまへば、約束を違へたと
いつてもそれは後の祭だ」
 正にその通りである。
 再言する。
 戦ひ半ばにして求めようとする媾和は
蟻地獄である。
 戦争に於ける媾和偸安(ちうあん)の陥穽を乗り越
えて、一億特攻隊の決意もて起ち上ると
き、また何者かこれに乗ずる虚隙を見出
し得ようぞ。
 日米決戦は媾和なき戦ひである。
 闘ひつゞけ
 しかして勝つよりほかには道の
なき森厳なる天定の戦ひである。

五、盛衰隆替の岐路


 その岐(わか)るゝや、初差は微にして末は無
限の大に相隔つ。
 誤つて醜を千歳に遺すも
 正を踏んで万古に芳名を伝へるも
 その分岐点は機微一髪の間に存する。
 一大事に臨んで動物的本能たる「利己
保身」の私慾に捉はるゝか。
 将又(はたまた)神格的なる捨身尽忠の大義に生き
るか。
 たゞ、それだけで永久に芳醜が決定せ
られる。
 小は一身の成敗利鈍より
 大は一国の盛衰隆替に至るまで。
          ×
 戦ひは敵よりも後まで頑張り通したる
ものが勝つ。
 簡明周知のこの原則を、多くのものが
肝腎なるときにこれを忘れ、勝ち得べき
戦ひをみすみす自ら放棄して敗北を招い
た例は、古来数へるに遑がない。
 勝兵は勝つてしかして後に戦ひ
 敗兵は未だ敗れざるに既に敗る。
 物的戦力、智謀、術策、いづれも戦争
に必要ではあるが、しかしながら国家危
急興廃の岐路に方つてこれを救ふもの
 それはたゞ単なる智慧や才覚ではな
く、牢固たる肚と不動の決意とである。
 最後の肚さへシカときまれば、神謀鬼
策は限りなく涌き出づるものである。
 赤坂、千早における楠公戦術のそれの
如くに。
          ×
 茫々数千年の青史を繙けば
 時空を貫く一脈の清流。
 それは
 危きに臨んで動ぜす、堂々道を踏んで誤
らなかつた馥郁たる芳香の跡である。
 歳を遡ること二千百数十年の往昔
 南欧の雄カルタゴ、ローマの両国間には三
次に亘つて長い激しい戦ひが繰り展げられ
た。
 抜山蓋世の英雄、カルタゴの名将ハンニバ
ルが第一次ポエニ戦役敗戦の恥を雪ぐべく、
捲土重来の大遠征を敢行したとき、スべイン
よりアルプスの嶮を突破して、イタリアに侵
入し、トレビヤ河畔に陣を布いた。
 時あたかも仲秋の月清く、薄明の夜気に漂
ふかすかなる薫風。このほのかな香りが荒涼
たる陣中に在つて遠く故山に想ひを馳せてゐ
たハンニバルの感傷をそゝつた。
 「月桂樹の香りだ。誰ぞ行つて一枝求めて参
れ」
 声に応じて近侍の一人が香りを探ねて一軒
の農家の庭に立ち入り
 「ハンニバル大将軍の命令だ。月桂樹の一枝
を伐つて捧げよ」と言葉もおごそかに家人に
命じた。
 声を聞いて、うす暗い茅屋の中から、たち
出でた家人を見れば、それは齢の頃十六、七
歳ともおぼしさ可憐清楚な美少女であつた。
 「おやすい御用です。一枝といげす幹から伐
つて差上げませう」
 やさしき腕に小斧を揮つて丁々と伐り終つ
た少女は、その月桂樹を胸にかき抱くと見る
まに、忽ちトレエビヤ河に臨む断崖の上に走り
寄つた。
 アナヤと驚くハンニバルの武将達を見下ろ
しながら、この美少女は花弁のやうな唇から
凛烈たる叫びをあげた。
 「ハンニバル将軍はいま勇将猛卒を提げ
て、この守備なき孤村に臨み、欲するものは
何物をも求め得べしと思つてをりませう。し
かしながら、私の月桂樹のみは、如何なる力
を以てしても奪ひとることはできない」 いひ
終ると共に、微笑すら湛へた少女は月桂樹を
抱いたまゝ逆流渦まくトレビヤ河に身を投じ
てしまつた。
 百万の敵をも恐れぬハンニバルではあつた
が、この一少女の奪ふべからざる志操には慄
然たらざるを得なかつた。
 宜なるかな。
 この少女と志を同じうするローマの市民達
は隠忍自重。全国総動員の概を以て極力新軍
の編成に努カし、カンネの戦ひに殆んど全滅
して皆無に等しかつた陸軍を再建し、二十二
師団約二十万の大陸軍と、百五十隻より成る
大海軍とを新設し、遂にザマの一戦に大いに
カルタゴ軍を破り、敵をして城下の盟をなさ
しめ、大ローマ完成の基礎を築いたのてあ
る。
 《往時のローマ市民の烈々たる闘志を偲ぶ
につけても、現在のローマ市民の無気力に
基づく悲惨なる生活が想はれ、一入の感概
を禁じ得ない》
         ×
 本年は第四十回目の陸軍記念日を迎へ
た。日露戦役前の彼我の国際的地位、武
力此等を知らぬ人々は「勝つべくして勝
つた」如くに思ひなす傾きがあるが、当
時にあつては決してそんな生やさしい戦
ひではなかつた。
 開戦にあたつて
 畏くも明治天皇の御軫念のほどは拝察
するだに恐懼の至りであつた。また重臣
閣僚、陸海軍当局の苦心も並々ならぬも
のがあつた。この間の事情を金子竪太郎
子爵は次ぎのやうに語つてをられる。
 「明治三十七年二月四日午後三時、宮中にお
いて御前会議が開かれまして、元老を始め関
係大臣列席の上、日露開戦の決定をなされま
した。 しかしてその夜六時半、伊藤枢密院議
長より私に電話がかゝりまして、即刻私に会
ひたいから、霊南坂官舎に来るやうにといふ
ことでありました。私はすぐ参りまして伊藤
議長の書斎に入りましたところ、伊藤議長は
安楽椅子に腰を掛けて只一人限り、ほかに誰
もをらぬ。さうして下唇を噛んで下を向いて
考へてをられた。(中略)
『今度の戦争については、実は陸海軍までも
成功の見込はつかない。しかし日露の形勢や
むを得ず、日本は国も賭して戦ひを始めたわ
けで、勝敗は眼中にない。あの強大なロシア
の大軍が朝鮮に侵入すれば、すべて朝鮮の土
地は奪はれるかも分らぬ。それ故、陸軍では朝
鮮にてこれを防ぎ止むる戦略なれども、これ
が十分の成功さへ見込が定まらぬのである。
わが海軍は旅順、浦塩の艦隊と戦つて、或ひは
みな沈没するかもしれない。これ等に対して
勝算は誰もないが、博文は独りこゝに決心し
て、一身を捧げて聖恩に報ゆる覚悟である。
もし我が軍が朝鮮にて敗れてロシア軍が侵入
して来たときは、博文は昔、北条時宗の故事に
傚つて自ら武器をとつて身を卒伍に投じ、ま
た時宗の妻女の如く飯を炊いて兵卒を犒(ねぎら)ふ
やう我が妻に命令し、夫婦ともども九州或ひは
長州の海岸に出かけて国のために戦ふ決心で
ある。もし軍人が皆死んだならば、博文は国民
と共に海岸を守つて、露軍には一歩も日本の
土地を踏ませない決心である。成敗利鈍は我
が眼中にはない。博文の爵位も、財産も、生命
も皆 陛下の賜物てある。 君の爵位も、財産
も、生命も、博文と同様なれば、同様の決心を
もつて国事尽してくれ』と熱誠をもつて説
かれましたから、そこで私も伊藤公の至誠に
励まされて成敗を問はず、一命を君国のため
に尽しませうと決心して承諾いたしました」
 何といふ凛烈悲壮なる伊藤公の決意で
あらう。
 しかして当時は上下を問はず、いかに
この戦ひが重大至難なものであるかを痛
感してゐた。
 いま表面に現はれた彼我の国力を比較
すれば
 人口     四、七ニ○万人対一四、六八○万人
  総男子数 二、四〇〇万人対七、四五○万人
  平時兵力     一七万人対一二四万人
  砲数        六九〇門対四、二〇〇門
  戦場師団数    二五師団対四五師団
   (戦争末期)
 しかも戦ひによる死傷者は日本軍の二
十万人に対し、敵は十四万人であつて、
これらを数字の上のみからみれば、日本
は全く勝利の要因は何一つ具備してをら
なかつたと申すべきであらう。
 しかるに御稜威の下、政治家は政争
をやめて協力し、軍人は死力を竭して奮
闘し、国民は士気を昂揚して努力したが
ために、遂に全世界をして「神秘の勝利」
と歎賞せしめる結果を捷(か)ち得たのであ
る。
         ×
 西暦一九一八年三月二十一日午前四
時。ドイツ軍は、西部戦線で掉尾(たうび)の勇を
揮つて最後的な総攻撃の火蓋を切り、第
一線の三十箇師団は大挙攻撃前進を開始
した。
 特にその左翼は素晴らしい進展をみ
せ、三月二十五、六日頃からは陣地戦か
ら運動戦、運動戦から追撃戦への性質さ
へ帯びて来た。英軍も仏軍も相ついで撃
破された。
 アミアン方南においては、へーゲル元帥
のあらゆる努力にも拘はらず、十五キロ
にも及ぶ空隙が出来た。この間には一兵
もをらなかつた。
 聯合側にとつては危機一髪の情勢とな
つた。独軍と終局の勝利との間々隔てる
距離は数歩、もしくは数十歩を出なかつ
たのである。
 パリでは首都の撤退問題が論議せられ
た。イギリスもフランスも意気銷沈した。
 老虎クレマンソーは戦線から帰来、ポ
アンカレーに「事態極めて悪し」と報告した。
 そして国民に向つて
 「われわれは何のために生れて来たのか。ド
イツと飽くまで戦ふために生れて来たのでは
ないか。
 パリが落ちればボルドーで、ボルドーが落
ちればピレネー山脈に立て籠つて戦ふのだ。
さうして必ず勝たなければならない」
 と咆哮、消えかゝつた戦意に点火した
のであつた。
 この最大の危機に際し、英軍戦線の後
方ドウランにおいて軍事会議が開催さ
れ、政治家もまたこれに出席した。
 席上フォッシユは英仏両軍の協同動作
を確立すべき委任を受け、こゝに統一指
揮の任に当ることとなつたのである。
 彼の着任第一声こそは、実に闘志横溢
したものがあつた。
 「戦争は土地を取られても負けたのではな
い。退却しても敗けたのではない。負けたと
思つたときが負けたのだ」

 といふのであつて、「敗北は敗れたり
との感覚による」旨を明らかにしたので
あつた。
 しかして五月二十七日早朝開始せられ
た独軍の第三次攻勢は、よく聯合軍の意
表に出で、ために攻撃は予想外に進捗し、
三十日、三十一日にはマルヌ河畔に進出
して、パリはよたもや危殆に瀕するに至
つた。
 仏軍はヴェルダン以来嘗てなき大敗を喫した。
 パリの危険はフランス国民の意気を沮
喪させたが、しかしながらフランスの首
脳者は強固な意志を堅持し、難局に処し
てビクともしなかつた。
 クレマンソーは六月四日、議会におい
て、パリ市中に拡まりつゝあつた不安と
動揺とに対して、
 「国民として各自の任務を最大限に尽したな
らば、必ず最後の勝利を期し得べし。余は
パリの前において戦ひ、パリの市中において戦
ひ、将又、パリの背後においても戦ふであら
う」

 と叱咤し、これによつて顔色蒼然たり
しフランス国民も、さらばとばかりによ
ろめく足を踏みしめて頑張りつゞけた。
 一方ドイツ軍は、潰滅に瀕したフラン
ス軍の意外にも強靱にして執拗なる抵抗
に遭ひ、遂には攻撃意志を挫折せしめら
れ、クレマンソーの演説した日から僅か
に一週間目の六月十三日に至つて、その
攻撃を中止した。
 ドイツ軍は今一息といふところで呑舟
の大魚を逸し、フランスは最後の血の一
滴に蘇生して最終の勝利に一歩近づいた
のである。
 戦ひは惨烈である。
 この惨烈なる戦ひに勝ち抜くためには
強靱なる神経と、勁烈なる断行力とが何
よりも肝要である。
 老虎クレマンソーは正に決戦総理
であつた。彼は戦争遂行に障碍ありと認める
ものは何人といへども容赦せず、前首相
たりしカイヨー以下幾多の名士をも一網
打尽に検挙して、その断乎たる「勝ち抜
く決意」を示した。
 フランスを既倒にかへしたものは実に
この徹底せる「戦争遂行の意志」に存し
た。
         ×
 第一次世界大戦のあと、英国首相ロイ
ド・ジョーヂは
「ドイツがもしも後三週間頑張つてをつたな
らば、英国が白旗を掲げてゐたであらう」
 と述懐したが、これは深く味はふべき
言葉である。
         ×
 昭和十九年十二月二日
 イギリス首相チャーチルは議会におい
て、「ドイツの攻撃による英国内一般市民
の損害は死者六方、負傷者八万にして、
破壊せられたる家屋は四百五十万」であ
ると発表した。
 この数字はもちろん何割か控へ目に発
表されたものであるが、仮にこの数字
をこのまゝ呑み込んだとしても驚くべき
数である。イギリス全土に存在した家屋
は総数約一千二百万戸であつた。
 この総数一千二百万戸中、その三分の
一以上にも相当する四百五十万戸が破壊
され、全国民の三分の一以上は住むべき
家を喪つたのである。
 昨年来、日本本土にもB29による爆撃
が開始せられ、各地に若干の被害もある
が、これをイギリスの場合に比較すれば
全然問題ではない。
 かやうな痛撃にも敢へて屈せず、ねば
りつゞけてゐるイギリス国民の図太さは
我々も他山の石として学ぶべきであら
う。
         ×
 四年前
 西暦一九四二年の秋から冬にかけて、
スターリングラードは殆んど完全にドイ
ツ軍の包囲下にあつた。
 猛烈なるドイツ軍の砲爆撃は昼夜の差
別なく市中に集中せられ、家は吹きとば
され、街は破壊せられて廃墟のやうにな
つてしまつた。
 のみならず、食糧飢饉は日一日と深刻
化し、一般民衆は一日僅か百二十五グラ
ムのバンしか与へられなかつた。百二十
五グラムといへば薄い切れつぱし二枚く
らゐに過ぎす、これと水のみで生きねば
ならなかつた。
 市中には牛や馬の姿はもちろん見当ら
なかつた。人々は犬や猫を撲殺して食用
に供したが、これもまたゝく間に食ひ尽
した。
 次ぎは天井裏の鼠を捕へて食つた。
 遂には革帯を煮てスープとして飲み、
また机や椅子等を壊し、板材の継ぎ目の
膠を小刀で削り取りこれを煮て啜つた。
 それもだんだんと窮屈化し、連日夥し
い餓死者を生じた。
 多い日には一日四万人にも及ぶ餓死者
を数へることもあつた。
 外電によれば、墓場を発いて死肉を求
め、遂には市民が市民を屠つて食ふに至
つたと伝へられてゐる。
 かやうなこの世ながらの生地獄に当面
しても、民衆は遂に堪へ通した。
 恐るべき耐乏力といはねばならない。
 五年前
 ドイツ軍がマヂノ線の一角を突破して、フ
ランスに突入し、パリに迫るとの報に接する
や、フランス民衆は倉皇色を失つて右往左往
し、避難民は道路に溢れて軍隊の機動を妨
げ、政府は脆くも降伏して、ナボレオンやク
レマンソーを持つた歴史を一朝にして泥土に
委ね去つた。
 人間は一椀の雑炊、一箇の果実
のことですら、喧嘩口論も腕力沙
汰も、やらうと思へばやれるし、
しかしながらその反面、同時に数
万人が餓死しても、護らうと思へ
ばあくまで郷土を護り抜くことも
できるのである。
 食糧が十分でない。
 戦争資源が乏しい。
 空襲は激化する。
 物量差には敵し難い。
 戦つても無駄である。降伏にしかず。
これも一つのものの考へ方であらう。
前記のフランス人の選んだ道がそれであ
り、しかして賢明な(?)このフランス
人達は現在においては戦つて死ぬるに比
べても、なほ遙かに酷なる恥辱と苦痛の
無限地獄に身悶えてゐる。
 パリ市民とスターリングラード
市民との相違を説明するもの。
 それは生理学に非ず。
 物理学に非ず。
 智慧才覚に非ずして、たゞ全く
「意志のカ」である。
 降伏を想ふ者には一日の絶食も
完全なる降伏理由となり、
 不屈の国民には数十万の餓死者
も降伏の理由たり得ない。
 現在
 ドイツ本土に突入したソ聯軍の戦力は
世界の驚異である。
 「恐るべきソヴィエトの底力」
を驚歎する人々は、ソヴィエトがいかな
る忍苦の荊辣を乗り越え来つたかをまづ
観察すべきであらう。
 外電によれば、独ソ開戦以来のソヴィ
エトの総動員数は約二千六百万人であ
り、一九四四年秋における現有兵力はお
よそ八百数十万人と伝へられてゐる。
 その損耗の莫大なる、真に驚くのほか
はない。
 しかして残存兵力八百数十万中の一割
強は女兵であり、これが歩兵、戦車兵、
航空兵として男子と共に第一線の砲煙裡
に奮戦してゐるのであつて、ソヴィエト
は「戦死者なき家庭なし」の諺を超越して
戦ひつゞけてゐるのである。
 これを日本内地の恵まれたる生活と比
するとき、内地のこの程度の窮乏に悲鳴
をあげつゝある人々は顧みて忸怩たらざ
るを得ないであらう。
         ×
 前大戦の末期「媾和の陥穽」に陥り、惨澹た
る窮境に苦しみ抜いた経験を持つドイツは、
今や西に米英仏の聯合軍、東にソ聯軍の怒
濤の如き攻撃を受けつゝも「勝利か死か」の
決意も固く、儼として祖国防衛戦を闘ひつゞ
けてゐる。
 盟邦ドイツの健闘ぶりこそ、まことに瞠目
に値すべきものがあり、われ等は衷心よりそ
の最終の勝利を祈念するものである。
         ×
 盛衰隆替の岐るゝ秋。
 「汗血塗炭、悪戦苦闘」これ以外に勝利
の途はなく、たゞこの中に勝利の秘鍵は
存す。
 敵を屈せしむるものは、たゞわが不屈
の闘志のみ。
 国内生活いかに窘窮(きんきゆう)すといへども
 空襲いかに激化すといへども
 敵、たとひ我が本土に上陸し来るとい
へども、我等は「神州不滅」の大信念の
下、断乎戦ひ抜き、頑張り抜き、遂には
敵をして戦争意志を放擲せしめ、さらに
進んではこれをまつろはしめ、以て三千
年の伝統に更に陸離たる光彩を加へん哉
である。

六、四年目の神機

 峠がある。人生にも、病気にも、そし
て戦ひにも。
 戦ひにおいては
 戦争第四年目。
 長期戦の場合には一般にこれが「戦ひ
の峠」であり、いはゆる「四年目の危機」と
称せられる時機である。
 この「四年目の危機」を切り抜け得たる
国は勝ち、この危機に躓いた国は悲しむ
べき運命を辿るのが常である。
 元寇の役等は別として、わが国は外国
を相手とする深刻な長期戦の経験を有し
てをらない。
 日清戦役は僅々数ケ月の短時日であつ
たし、日露戦役といへども僅かに一年数
ケ月を以て終つてゐる。
 従つて惨烈なる近代的長期戦の教訓は
これを外国に求めなくてはならない。
 こゝに長期戦における「四年目の危機」
を、フリードリヒ大王の七年戦争及び第
一次世界大戦に探究してみよう。
         ×
 長期戦の様相を概説すれば、
第一年目は
 彼我両軍ともに闘志最も旺盛であり、
国民の士気は昂つて戦意烈々たるものが
ある。
第二年目は
 戦闘は最高潮に達し、彼我力戦して譲
らず、戦局は苛烈の度を加へて来る。
第三年目は
 戦ひは苛烈であるが容易に勝敗は決せ
ず、国内の情勢漸く逼迫を告げ、一抹の
不安が漂ひそめ、戦場においては奇手が
放たれ始める。
 第一次大戦における飛行機、戦車、ガ
スの出現等はこれに属し、今次大戦にお
けるドイツのX一号、アメリカのB29、
我が国の特別攻撃隊等はいづれも同断で
ある。
第四年目は
 戦局の前途暗澹として国内の不安動揺
はその度を増し、精神薄弱の徒は「媾和」
を考へ、一般国民は敵を憎むの情を転じ
て政府を怨み、軍を責める等の過失を生
じ易くなる。
 敵国はこれに乗じて謀略の手を差し伸
ばし相手国民の戦意挫折に狂奔し、特に
戦ひ有利ならざる国は、非常なる危局を
露呈するに至る。
五年目以降は
 四年月に萌芽したる「危機」が、一方
国においては為政者、指導者の異常なる
努力及び一般国民不屈の頑張りによつ
て逐次解消して、歩一歩戦捷に近接し、
他の一方国においては「危機」が大きく
拡がつて収拾し難き状態となり、漸次敗
運が色濃くなりまさつてゆく。
「四年目の危機」
が勝利の前奏曲となるか敗滅の葬送曲と
なるかは、一にかゝつて国民の「戦ふ意
志」の強弱に懸つてゐると申さねばなら
ない。
 勝敗は紙一重、間一髪の差に起因して
天地霄壌の両極端に開き去る。
         ×
  他山の石
  その一つは七年戦争
         ×
 北欧の小新興国プロシャと、中欧の強大国
オーストリアとは、豊沃の地シレジヤを挟ん
で激しい争奪戦みつゞけた。
 第一次シレジヤ戦争(一七四〇−四ニ)
 第二次シレジヤ戦争(一七四四−四五)
により小国ながらプロシャは英主フリードリ
ヒを戴いて、新興の意気高らかに溌剌たる勃
興振りを示した。
 爾後十年間。
 プロシャでは猛烈な訓練と周到な作戦準備
が行はれた。
 当時の欧州諸国の勢力を人口によつて一瞥
すれば、
  プロシャ    二百五十万
  オーストリア  一千三百万
  フランス    二千万
  イギリス    一千万
で、軍隊は
  プロシャの  十ニ−十五万に対し
これ包囲してゐる敵対国は、
  オーストリア  約二十万
  ロシア       〃十万
  フランス      〃十万
  スウェーデン   〃二万
  バワリヤその他 〃六万
 計約五十万に近く、その懸隔は大なるもの
があつた。
 しかしてオーストリアは大国の面目にかけ
て、シレジヤの奪回及びプロシャの剿滅を目
的とし、反普大同盟を結成して戦争目的の完
遂を企図したのてあつた。
 このオーストリアを盟主とする反普大同盟
に対して、プロシャは人口、軍隊、国富ともに
極めて貧弱、加ふるに国土は列強の中間に孤
立し、国防上適当なる山脈、河川等の戦略要線
を有ぜす、且つ英国とは一七五六年初頭同盟
を結びたるも、実質的にはいさゝかの援助も
期待し得ないといふ不利なる状況にあつた。
 第一年目(一七五六年)
 十年間プスブスと燻つてゐた戦雲は遂に火
を吐いた。
 一七五六年五月、英国まづ仏国に宣戦し、
次いで墺露両国戦備を整へつゝあるの状況を
みて、フリードリヒは七月下旬開戦の決心を
定めた。
 九月 ドレスデンを無血占領し、更にヒル
ナを囲み
 十月にはロボジッツに勝ち、ヒルナを陥れ
た。
 かくてフリードリヒは寡兵ながらも精鋭の
軍を提げて積極攻勢作戦を指導し、敵同盟軍
の機先を制し、先づその盟主たる墺軍を各個
に攻撃してこれに大打撃を与へ、対普包囲国
の一角を破摧することに成功し得た。
 これを大東亜戦争に比するとき
 彼我の国カ、富力、物質量等の関係或ひは日
本がABCDの鉄環裡に包囲されながらも、
断乎機先を制してその一角を突破した等の点
において、七年戦争第一年目の経過と相似た
るとこるが少くない。
 とまれ緒戦の戦果によつて、プロシャは国
運こゝに興隆の緒にについた。
 第二年目(一七五七年)
 この年はクラウゼヴィッツがいはゆる「会
戦の戦役」といつた年で、五月プラーグに墺軍
を包囲したがこれを抜き得ず、
 六月、コーリンに敵の側面攻撃を企てて成
らず、攻撃頓挫して退却のやむなきに至つ
た。
 しかもこの間、母后崩御の訃報に接し、慟
哭落胆、顔色憔悴して別人の如く、且つプラー
グ郊外の戦闘で、第一シレジア戦争以来、赫々
たる武勲を樹ててきた老将シュウエリン元帥
を失ひ、またシレジヤの留守を托してゐた信
頼最も深きウインターフェルド将軍、小戦に
仆れ、フリードリヒ麾下の軍隊はコーリンの
敗戦に痛く傷ついた。
 十月、仏軍四万ライプチヒに迫る。
 フリードリヒはエルベ右岸地区から兵を返
し、十一月初め、二万を似て仏軍を攻め、卓
越せる指揮によつて、ライプチヒ西方ロスバ
ハに大勝した。
 このロスバハの大勝は国民の歓喜と自負心
とを一時に爆発せしめ、フリードリヒを欣慕
敬仰、ドイツ人としての愛国心はこゝに高潮
するに至つた。
 しかるにこの間、墺軍によつてシュワイド
ニッツ要塞は略取せられ、なほプレスラウも
王は救援のために急行したが、到着に先だち
敵の手に落ちた。
 しかしながら王は敗兵を収容し、士気回復
に努め、十二月初め、プレスラウ西北方ロイ
テンにおいて典型的なる側面攻撃によつて成
功を収め、墺軍に徹底的な大損害を与へた。
 即ち十二月四日、フリードリヒは三万五千
のプロシャ軍を率ゐて、ロイテン付近に陣地
を占領してをつた六万四千のオーストリア軍
を攻撃するに決し、部下の諸将を集めて次ぎ
のやうな演説を行つた。
 「余は明日、ロイテン附近の高地上に堅固な
陣地を占領してゐる二倍の敵に向ひ、技術上
のすべての法則を無視して攻撃を敢行する。
 刻下の難局を打開するためには、この大胆
なる攻撃を断行する以外に方途はない。
 余は諸君の経験と勇気と忠実なる輔佐とに
信頼して、明日の赫々たる勝利を確信するも
のである。
 若し敵を撃破することができなかつたなら
ば、全軍隊の砲兵陣地の前で斃れんのみ。
 全滅を賭して戦ふのだ。
 諸君の一人といへども余を見捨てる者はな
いであらう。
 余が明日屍を馬革に嚢(つゝ)み、ために諸君の勲
功を賞することができなかつたならば、祖国
は余に代つて諸君を賞するであらう。
 どうか陣営に帰つたならば、余がいま言つ
たことを部下の者によく伝へてくれ。生あら
ば明日、諸君の行動を一々観察したい。
 騎兵にして命令を受けて直ちに敵中に突入
しないものがあつたならば、会戦後は直ちに
下馬を命じ留守隊に追ひ返すであらう。
 歩兵にして前進を躊躇する者があつたなら
ば、佩刀も褫奪し且つ肩章の縁を剥奪するで
あらう。
 さらば諸君よ。
 明日の今頃は勝利の凱歌か、永遠の訣別か
どちらかだ」
 フリードリヒの面目躍如たりである。
 明くれば十二月五日。 大王の軍隊はロイテ
ン陣地の前面で村落や凹地や小丘等を利用
し、敵にかくれながら右に旋回、ロベスチン
の部落に入つてから横隊に展開、突如として
敵の陣地の左翼から側面攻撃を敢行したので
ある。
 戦闘は午後一時頃から四時頃まで続いた
が、墺軍は全く不意を衝かれて潰滅し去つ
た。
 墺軍の損害は死傷一万、捕虜一万二千、砲
百三十一門、軍旗五十五旗。
 素晴らしい大戦果である。
 かくてフリードリヒは東奔西走、よく四周
より侵入する敵を撃攘したが、コーリンの失
敗はロスバハ及びロイテンの二大勝利を以て
するも、情勢を開戦当初の状態にまで回復し
得ず、一七五八年以後プロシャは大規模の積
極攻勢作戦を企図し難き境遇となり、戦争は
遂に長期化せんとするに至つた。
 大東亜戦争において、
 恰もがダルカナルの撤退、アッツ、ギル
バートの玉砕等の悲涙を呑む一方、着々南方
資源を開拓して戦力の拡充に飛躍的な進展を
示し、長期戦態勢を確立しつゝあつた大東亜
戦争第二年目の我が国の状況と彷彿たるもの
がある。
 第三年目(一七五八年)
 反普同盟軍の大勢は、
 墺軍は全力を挙げて軍備を充実し、且つ軍
制を改めて対普積極企図を遂行せんとし、
 仏軍また兵力の大なるを恃み、普国西境に
積極的行動をとらんとし、
 露国においては主戦派再び勢力を獲得して
兵を普国に進め、且つ旧教たるローマ法王は
回教徒[ママ]たるマリヤ・テレサに左袒し、新教徒
たる普王に反坑する等、プロシャにとつて
は四面有利ならざる情勢であつた。
 戦ひは、
 二月のウイゼル河畔戦、
 四月のシュワイドニッツ戦、
 六月のクェフェルド戦においてそれぞれ勝
つには勝つたが、五月末から六月にかけての
オルミュッツ要塞の攻囲戦では墺軍ダウン将
軍の巧妙極まる機動作戦のために、輜重の大
縦列が襲撃潰滅され、解囲退却のやむなきに
至つた。
 この間、露軍はワイクゼル河を渡つて西進
したので、王は主力をシレジヤに残し、一部
の兵を提げて北進しつゝ所在の兵を合し、八
月下旬、ツオルンドルフ(オーデル河中流キ
ユストリン東方)附近に露軍四万を攻撃した
が、両軍とも損害大にして、普軍は辛勝し得
たに過ぎなかつた。
 九月末に至るや、「墺軍ドレスデンに向ふ」
の報を得て王は同方面に向つたが、敵を軽視
して不用意に接近し、ために墺軍によつて反
撃を蒙り、ホホキルヒの敗戦を記録したので
ある。
 この年にクラウゼビッツのいはゆる「攻
囲の戦役」であり、フリードリヒに国内財政
逼迫せると、敵側列国の情勢とに鑑み、荏苒
時を過すを許さず、攻撃を持続して一挙
ウィーンをも衝き、戦争を解決せしめんと企
図したのであるが、戦勢は一般に不振てあつ
た。
 戦局の前途は混沌として光明なく、軍の素
質はいよいよ低下し、財政は極度に困難とな
り、しかのみならず最愛の姉ウィルヘルミー
ネはこの年逝去した。
 暗然たる王はこのを文学によつて心を慰
めつゝ、戦力の充実向上に肝胆を砕いた。
 普国は将に累卵の危機に直面するに至つた
のである。
 大東亜戦争第三年目は
 二月、クェゼリン、ルオットの全員戦死。
 三月以降の緬印先制反撃作戦。
 春、洛陽。夏、湖南。秋、桂林の大陸作戦。
 サイパン、テニヤン、大宮、べリリュー、
 レイテ等の悪戦苦闘。
 B29による本土空襲の激化。
 国内生活の緊迫。
等々、戦局は起伏高低、幾変転しつゝも、全
般の情勢は我にとつて危急を告げるに至り、
普国第三年目の窮境と類を同じうするの観を
呈した。
 第四年目(一七五九年)
 いよいよいはゆる「四年目の危機」である。
前年ホホキルヒで勝利を得たので、マリヤ・テ
レサは速かに普国を滅ぼさんとして、頻りに
仏露両国の積極的行動を督促しつゝ自国の兵
力をますます増強し、
 仏国は海上における対英行動の失敗を西部
ドイツ奪回によつて補ふべく攻勢を企図し[_]
 露軍は墺軍と協力して普軍主力を撃滅せん
と図る等、普国にとつては、その外憂一方な
らぬものがあり、加ふるに
 国内的にこれをみれば
 (1) 戦局の前途暗雲に閉ざされをる上に、
  軍の素質は急速度に低下し、特に歴戦有
  為の諸将相ついで陣歿し、軍隊の疲労は
  日と共に顕著となる等、軍事情勢は悪化
  の一路を辿り
 (2) 家庭にあつては、前年母后を失ひ、今
  また最愛の姉と別れて、大王の精神的打
  撃は甚大なるものあり
 (3) 同盟国イギリスにおいては、ピットに
  反対する平和運動漸く擡頭し来り
 (4) 新領地は租税の重圧と徴兵の屡々なる
  とに不平の度自ら増加する等
いはゆる内憂外患到らざるなく、プロシャは
第四年目の危機を迎へ、千仭の断崖に立つて
烈風にあふらるゝが如き、万死の窮地に陥る
のやむなきに至つた。
 しかしてこの年度の作戦経過は
 四月 仏軍とベルゲンに戦つて普英軍敗れ
 六月 東部戦線に露軍と戦つてまた敗れ
 八月 普英軍はミンデンの戦勝を得たが、
     戦果は小であつていふに足らず
 しかもこの間
 露軍が更にオーデル河畔に進出して来たの
で、八月中旬、五万を以てキュストリンの東
方クネルスドルフ附近に陣地を占領せる露墺
聯合軍七万を攻撃したが、その結果は惨憺た
る大敗を喫し、この夜は「万事休す」として自
殺を決心したが、部将の「闇の深くなるのは
暁が近づいた証拠です」との諫言に辛うじて
気を持ち直し、やがて露墺両軍間の不和に一
道の光明を見出し、絶望の底からフリードリ
ヒは士気を回復して立ち上つたのである。
 彼は部下に向つてかう呼びかけた。
 「運命に向つて戦はうではないか。
  驕慢、自負に酔ひ痴れてゐる敵に、勇気を
  振つて立ち向はうでげないか」
 かくてこのクネルスドルフの厄日を辛くも
持ちこたへたのであつたが、しかしながらフ
リードリヒは、この墺軍を何とかして駆逐し
ようと試みて成らず、この年、普軍は全く振
はず、しかも同盟国イギリスにては和平論高
まり、且つ墺露仏の結束はいよいよ固く、プ
ロシャは作戦の主動権を失ひ、且つ国内(新
版図)を完全に戦場化するのやむなきに立ち
至つた。
 大東亜戦争第四年目
 敵はレイテ、ミンドロより長駆して遂にル
ソン島に上陸し来り、こゝに激烈なる攻防戦
が展開され、一方、敵の機動部隊は制空、制
海両権を握つて南支那海、台湾沖等を我が物
顔に横行遊弋し、二月中旬には本土に近く迫
つてその艦載機によリ空襲を行ふと共に、硫
黄島に上陸し、且つB29による本土空襲は日
と共に本格化しつゝある。
 なほ南方物資の輸送杜絶、国内生活の窮乏
化、都市、工場爆撃被害の増加等々、国内の
諸情勢も著るしく逼迫するに至つたのである
が、しかしながらこれを往時の七年戦争第四
年目のプロシャの窮境に比するときは、まだ
ものの数ではない。
 日本の有する余力。
 日本の持つ底力。
 いま果たしてこれが十分の十出されてゐ
るや否や。
 機構の欠陥、心横への不備、その他の
原因によるとはいへ、日本は未だその有
する全力の何割かで戦つてゐると申した
ならば、果してそれは過言であらうか。
 何割かの力しか出してをらずにゐて、
早くも前途を過度に悲観視するが如きは
断じて皇國民たるの所以ではない。
 不安、動揺、悲観、弱音はいづれも自
ら描いた幻影に脅えての所産である。
 すべてを 上御一人に捧げ、尽忠の誠
もて自己の任務に邁進しつゝある人々
は、何等の不安もなければ動揺もない。
 要するにこれを端言すれば、
 自己のつくすべき本務に全力を傾注す
ることなく、胸底寸毫にても傍観者的傾
向あるものは、とかく悲観論、不安説を
あげつらひ、これに反して誠心誠意、そ
の任務を遂行してゐる人々は些かの不
平、不満、不安、悲観をも云為しない。
 いはゞ不平不安論、悲観動揺説
はその人の努力不足を告白するバ
ロメーターとでもいふべきであら
う。
 とまれプロシャの苦悶はなほつゞく。
 第五年目(一七六〇年)
 墺、仏、露同盟諸国に日と共にその兵力を
増加して攻勢を企図した。
 これに対しプロシャの国力は漸次衰耗し、
兵は著るしくその数を減じた。
 かくて、
 六月にはランドシャットの戦ひに普軍敗
れ、墺軍はドレスデンかを維持しつゝ、別に一兵
団を以て東南部シレジヤの各地を略取した。
 フリードリヒは形勢挽回に努めたが、八月
末三万を以てリーグニッツ附近において十万
の墺軍に包囲せらるゝに至つた。この戦ひで
は糧食は欠乏して危殆に瀕し、辛うじて巧み
なる戦闘指揮によつて墺軍に一撃を如へ危機
を脱して勝利も得たのであるが、後、大王が
シレジヤ方面に出動中、墺露軍は短時日間な
がらも、十月に至リベルリンを占領したのであ
る。
 やがて、
 墺主力軍五万がエルベ河左岸のトルゴウに
進出して来たので、大王は十一月初旬、鋭意
力攻、悪戦苦闘の末、辛うじてこれを撃退し
た。
 かくの如く、
 本年度においては、フリードリヒは国内、対
外情勢に鑑み、サクソニア防衛作戦を計画せ
ざるべからざるに至り、且つその兵力と地域
との関係上、至るところ守備薄弱。
 のみならす戦ひの主動権すでに全く敵手に
帰し、大王は或ひはシレジヤ或ひはベルリン
と奔命に疲れ、プロシャはいよいよ窮地に陥
り、今や殆んど降伏の一歩手前に彷徨するに
至つた。
 危い哉、プロシャの運命。
 第六年目(一七六一年)
 武力戦においては形勢いよいよ悪化し、東
部方面は全く露軍に解放せられ、ベルリンは
再び危地に陥つて。
 しかるにも拘はらず、愛国の熱情に燃ゆる
ベルリン市民及び一般国民は貴賤貧富の別な
く、みな国家を重んじ、一身を軽んじ、大王
の心を以て心となし、
 「普国人民一人残らず悉く死滅せざる限り、
国家は絶対に滅亡せず」

と絶叫した。
 この国民の気魄はまた大王の士気を励ま
し、大王の負けじ魂はまた国民に反映してこ
れを奮起せしめ、上下相倚り相助け、国歩艱
難の危局を一歩々々乗り切つていつた。
 即ち、
 春とともに、
 墺露両軍協力してシレジヤを窺ひ、大王は
同地方防衛に努めた。八月末に至り、ジュフ
イドニッツ北方ブンチェルウイッツ附近ににお
いて、五万五千の寡兵を以て十五万の敵に対
し、陣地を構築して守勢に立つたが、遂にシ
ュワイドニッツ要塞は強襲せられてこれも失
つてしまつた。
 この戦ひにおいて大王軍は将に殲滅せられ
んとしたのであるが、頑張り抜いてゐる間に
墺露両軍の協同緊密を欠き、大王は起死回生
の幸運なる運命を一髪の危きに握り得たので
ある。
 しかしながら、
 この年十月。
 英国においてはピット失脚し、その後継者
たるピュートはプロシャに対する補助金を拒
絶すると共に、英国の起案したる和平条約を
強要する等の不信態度に出で、且つサクソニ
ヤの大半は墺軍によつて領有せられて、プロ
シャは万死の破局に曝されるに至つた。こゝ
においてか墺国のマリア・テレサは自国の優
勢を看取し、普国の没落近しと判断して兵を
減じ、経費の節約を図る等、全く戦勝者たる
態度を示しつゝこの年を送つたのである。油
断と驕慢とに虚隙を生ず。
 墺国の禍根こゝに胚胎す。
 第七年目(一七六二−六三年)
 墺露両軍の挟撃下に越年して新たに迎へた
この年は、プロシャにとつて形勢全く不利。
 七ケ月間の戦ひに総人口の十分の一は死亡
し、また武器を執り得る男子六分の一は戦
場の露と化し、たゞ一人の住民さへなき村落
さへあるに至つた。
 また軍隊もその編成装備は甚だしく劣悪と
なり、将校戦死するもその欠も補ふこと能は
ず、新兵の募集は至難を極め、戦争末期にお
いては合格、不合格の論なくこれを徴集し、
甚だしきに至つては一箇大隊全員敵の脱走兵
俘虜より成れるものすらあつた。
 が、天は遂にこの英雄児を見捨てなかつ
た。この年一月十九日、ロシアの女帝崩じ、
後嗣ペーター三世はフリードリヒ大王の崇拝
者であつたがため、五月五日プロシャと和議
を結び、その上、二万の援軍まで約束してくれ
たのである。
 これで形勢は一変した。
 しかし、この転機も六年間の絶望的な戦局
に遭遇しながらも、大王以下国民が不屈の意
志と鉄石の団結とによつて、あくまでも頑張
りつゞけて来たその賜物であると申さねばな
るまい。
 このプロシャの超人的頑張りに対し、流石
の墺国も遂に攻勢的企図を放棄し、逐次消極
的態度をとるに至り、墺軍将校の間には「勝
利の媾和」に対する自信が喪はれて戦意の減
退を来した。
 こゝにおいて、
 フリードリヒ大王はロシア軍の援軍を待つ
て慎重の行動を開始し、漸次シレジヤ、ザクセ
ンを回復し、墺軍の後方連絡線を脅威しつゝ
次第にこれを後退、駆逐した。
 かくて、
 さしものマリヤ・テレサも対普戦争の前途
に対し、
「いくら改めても屈服せしめ得ない。もう駄
目だ」と断念するに至り、プロシャとしては
完全にその戦争目的を完遂し得たのである。
 普国はこの七年戦争によリ、軍の損害及び
戦費支出のほか、敵の侵襲による住民の被害
夥しく、国力は疲弊の極に達したが、しかし
ながら、屈服して滅亡流離の悲惨に遭ふに比
すれば、その辛酸も問題ではなかつた。
 プロシャはこれより遂に大ドイツ帝国の偉
大を建設する基礎を確立したからである。
          ×
 われわれがフリードリヒ大王に学ぶべ
きもの。それは多々あるけれども、まづ
その
(一) 深謀遠慮と現実洞察力
である。
 彼は比較的強大ならざる国力を以て、
その目的を遂行せんとするに方り、あく
までも現実を洞察して空転しなかつた。
自己の実力を知つて実力相応の戦ひしか
試みなかつた。空虚な虚勢や、浅薄なる
虚栄心や、上滑りの名誉心等の一切をか
なぐり捨てて、自力最適の戦法を採用し
た。
(この点、比島における山下将軍が艦船の協力
なく、銀翼の援助乏しき立場において、従来
の戦術観念を一擲し、自力、最適の戦法によ
つて成果を挙げつゝあるのは、偉とせねばな
らぬ)
 しかし、。このことたるや、いふは易く
行ふは難きものであり、真に私心なきも
のでなければよくなし能ふところではな
い。次ぎは大王の
 (二) 断行力
である。
 長期に亘る戦ひにおいて軍の包囲、迂
回、集中、分散。
 これは机上案としては必ずしも困難で
はない。しかし、これを実行するとなつ
たとき、古今の将帥中、果して幾人がよく
フリードリヒに匹敵し得るであらうか。
 或る史家は「フリードリヒの陣形に伴
つてゐた危倹は殆んど無謀に近いものが
ある」と述べたが、当事者として責任の
衝にあつたフリードリヒの眼には、この
危険はその史家の眼に映じたよりも三倍
も大きく見えたことであらう。
 また彼が軍を率ゐて敵の眼下を行軍
し、往々にして敵の砲火をすら憚らずに
行軍したことも、無謀といへば無謀であ
るが、しかしそれとても、敵の戦法、兵
力配備、敵将の性格等を熟慮考究の上、
行つたことであり、決して単なる無謀に
非ざることを確信したるのち敢行したも
のである。
 しかしながら、彼がこれらの事情を看
破し、危険によつて欺かるゝことなく、
恐怖の念すら生ずることなく、やつての
けたことは、その大勝と決断力と意志の
強固とによるものといはなければなら
ない。
 しかし、実行の困難は以上で尽された
わけではない。
 われわれは彼の軍隊がこの戦役間、東
奔西馳、不断に運動してゐたことを看過
してはならない。
 瞬時も戦闘準備を緩めることなく、難
行軍に次ぐ難行軍を以てし、しかも敵の
面前において或ひは右へ、或ひは左へ転
ずることを余儀なくされ疲労困憊はその
極に達したのである。
 借問す。
 すべてのかうしたことが大なる摩擦を
伴ふことなく、易々として行はれたと信
ずることができるであらうか。
 上下の信頼と将帥の卓抜なる武徳がな
かつたならば、かゝる困苦は士気を沮喪
せしめ、秩序を失はしめ、軍隊の崩壊を
来すに至るであらう。
 われわれがフリードリヒに敬服するの
は、実に実行上に伴ふ一切の困難を見事
に克服した点に存する。
 (三) 頑張り
 フリードリヒは、常に歴史を訪ねて自
己の修養に資し、戦ひが終れば戦訓を研
究して、これをを部下の教育に活用した。
 七年戦争中、冬季はその年の作戦の跡
を研究し且つ反省し、その結果を次年度
の企画及び訓練に活かした。
 即ち王はあくまで頑張ると共に、頑張
る手段に関しても全精魂を傾注したので
ある。
 人或ひは曰く
 「戦争末期、露国が墺国より離脱したのは
プロシャにとつて一つの僥倖であつた」
と。さりながら、この僥倖をプロシャが
克く掴み得たのは飽くまでも戦ひ抜き、
頑張り抜いたがためである。
 即ちプロシャ必死の努力の賜物であつ
て、僥倖も坐視傍観してゐては決して近
づいて来るものではない。
 勝ち抜くもの。
 それは理論に非ず、理屈に非ずして、
たゞ不屈不撓の頑張りりである。
          ×
 他山の石
 今一つは第一次世界大戦

          ×
 欧州列国の利害得失相交錯し、戦雲
漠々として殺気漲る。
 この秋、
 一九一四年六月二十八日
 墺国皇太子及び同妃、ボスニヤ州首都
サラエヴォにおいて、セルビアの一青年
のために暗殺せらる。
 七月二十八日 墺国はセルビアに宣戦布告
 八月三日 ドイツ、ロシアに宣戦布告
 八月三日 独仏開戦
 八月四日 英国、対独宣戦布告
 かくて欧州の天地忽ちにして砲煙渦巻
く修羅場と化するに至つた。
 動員兵力
   ド イ ツ  千三百万
   オーストリア 九百万
   ロ シ ア  一千万
   イギリス  八百三十万
   フランス  七百九十万
   イタリア  五百二十万
   アメリカ  三百八十万
即ち
 同盟側 二千四百万
 聯合側 三千七百万
であり、有史以来の大兵力である。
 しかしてドイツは二正面作戦を行つた
のであるが、
 戦争第一年目は西主東従の作戦であ
り、
 第二年は東主西従、
 第三年はヴェルダン戦、ルーマニア作
戦を主とし、
 第四年目には無制限潜水艇戦の実施に
より、経済戦的色彩が濃厚となり、この
年、アメリカが参戦して聯合側に力を添
へたが、一方ロシアに革命勃発し、仏軍
内にも暴動惹起し、聯合側は極めて危険
なる状態に陥つた。
 第四年目から第五年目にかけて、戦争
の惨禍と窮乏生活とのために平和熱が高
まり、
 第五年目の春、
 ドイツは東方の戦ひを終熄し、西方に
大攻勢をとつて将に英仏軍を瓦解せしめ
んとしたのであるが、聯合軍は間一髪の
危局を切り抜けて総反攻に成功し、この
秋、戦争は経止符を打つた。
 この第一次大戦においては、聯合側が
勝ち、同盟側が敗れたのであるが、しか
しながら、その過程においては勝者もず
ゐぶんハラハラする場面に直面し、戦争
中途では絶望の淵に投け込まれたことも
一、二度にとゞまらない。
 運命の神は危局を勝者の上にも、また
敗者の上にも公平に投げかけたのであ
るが、たゞ勝者の側では指導者及び国民
の意力によつて破局に立ち至らなかつた
までである。
 たしかに勝敗の分れ目は紙一重であ
り、最後の五分間である。
 味方が苦しい時は敵もなほ一層苦しい
のである。
 フォッシユの言の如く
 「土地を取られても敗けたのではない。
 後退しても負けたのではない。
 負けたと思つたときが負けた」
のである。
 戦争は意志と意志との闘争であり、魂
と魂との戦ひである所以はこゝに存す
る。
 第一次大戦に現はれた「強い意志と弱
い意思」「勝利の感覚と敗北の感覚」につ
いて、歴史の頁をめくつてみたい。
          ×
 第一年目(一九一四)
 露、仏、英は東西呼応して独墺に対し攻勢
をとり、
 独墺は対露持久を図りつゝ、その主力はベ
ルギーを経て仏国内に侵入し、仏英軍に対し
 墺_軍のセルビア侵入作戦
 露墺会戦、東普作戦、南ポーランド作戦、
 ロッヅ作戦
等が展開せられ、西方戦場では
   国境会戦、マルメ会戦、エーヌ会戦、延
   翼競争、イーゼル河畔及びイーブル附近
   会戦
等が繰り展げられた。
 開戦劈頭
 リェージュ要塞の奇襲攻略を企図した独軍
は、大胆不敵にも何等の攻撃準備射撃を行ふ
ことなく、八月五日夜、要塞内深く突入した。
 が、この乱暴な侵入部隊は、或ひはその前進
を阻まれ、或ひはその指揮官を失ひ、或ひは
捕へられ、まさに失敗に終らんとした。
 この危機に当つて兵団幕僚として配属され
てゐたルーデンドルフ大佐は、突撃縦隊の一
つなる歩兵第十四旅団と行を倶にしてゐた
が、旅団長戦死するや、直ちに部隊の先頭に
立ち勇敢な手兵を提げて突進し、堡塁線を突
破して要塞の内部に侵人、その核心に直進し
た。
 ベルギーの守備隊は全く不意を衝かれ度肝
を抜かれ、多数の兵員を擁しながら白旗を掲
げ、かくして大胆極まるルーデンドルフの奇
襲は「強い意志」によつて大成功を収め得た。
 緒戦の好潮に乗じて
 独軍は怒濤の如き大進撃に移つた。
 連戦連勝。
 仏軍も英軍も算を乱して退却した。
 英軍の士気の沈滞は甚だしいものがあつ
た。
 仏軍の士気また全く喪失し、この頃、聯合
国側の危機は頂点に達してゐた。
 しかし頑張つた。たゞ頑張つた。
 九月六日
 独第二軍は西に旋回してパリに対しようと
したとき、俄然、敵の猛攻を受けて戦況重大
となつた。
 敗退の軍を建て直して、この日ジョッフル
は攻勢に転じたのである。
 独第二軍の指揮官はドイツ陸軍の長老
ビューローであつた。彼は第一軍との間に生
じた間隔を気に病み、頗る悲観的観察をして
ゐた。第一軍司令官クルックは之に反し勇
猛果敢、積極的に進出をつゞけた。
 九月八日、モルトケは作戦指導のため、大
本営幕僚ヘンチュ中佐を前戦に派遣した。ヘ
ンチュは慎重且聡明であつた。
 この神経過敏なヘンチュはベルギー海岸に
対する英増援軍上陸の予想幻影に囚はれてゐ
たやうで、ドイツ軍右側背の危険を絶えず考
慮してゐた。
 このヘンチュが悲観的雰囲気に包まれた第
二軍司令部に現はれ、ビューローに面接し
た。
 心配性の老将と神経過敏の参謀。九月九日、
両者協議の上、退却命令が下された。
 ヘンチュは次いで退却を肯んじない第一軍
司令官クルックを説得し、遂に後退せしめる
ことにした。
 ビューローも、クルックも、ヘンチュも、
誰一人この退却が戦争の運命を不幸に決定づ
けたことに気付かなかつた。
 マルヌ会戦は決して独逸軍が撃退せられ
たのではなかつた。
 五分々々以上の情勢の中で、自ら非なりと
判断して後退したのである。
 ビューローやヘンチュの「弱い意志」の悲し
むべき結果であつた。
 次ぎに
 東方戦場においては
 ロシアはレンネンカンプの指揮するニーメ
ン軍とムゾノフの指揮するナレウ軍とを以
て二方面から東普に侵入を企図した。
 これに対しブリットウィッツ大将麾下の独第
八軍は、先づニーメン軍をグンビンネンに撃
ち、勝敗決せぬうちにナレウ軍が進入して来
たので、側背の危険を顧慮して退却を開始し
た。
 大本営はこの決心を認可せず、遂に軍司令
官を更迭し、ヒンデンブルグ大将を新たに軍
司令官に、ルーデンドルフ少将を参謀長に就
任せしめた。
 かくて有名なタンネンベルヒの殲滅戦は生
起した。
 作戦は放胆な構想で、レンネンカンプ軍を
側背に抑へながらサムゾノフ軍を両翼包囲で
破滅しようとの考案であつた。
 しかしてそのポイントをなすものは、退却
して来た独第八軍主力が両翼からの包囲を完
成するまで、今サムゾノフ軍から猛攻を受け
てゐるショルツの軍団が持ちこたへ得るか否
かに懸つてゐた。
 三日間に亘り、ショルツの軍団は五倍近い
サムゾノフ軍を向ふに廻して悪戦苦闘、この
間しばしば危機を孕み、左翼は遂に後退のや
むなきに至つたが、漸くにしてこれを支へた。
 しかも、
 独第八軍の両翼包囲将に完成せんとしたと
き、東北方よりはレンネンカンプ軍来攻の虚
報伝はり、南方からはロシアの援軍が来着
し、やむなく包囲を解かんとまでしたのであ
るが、この危機は包囲翼部隊の奮戦その他に
よつて克服せられ、敵将サムゾノフは森林中
を彷徨の末自殺し、その軍団は殆んど全滅、
ロシアは九万の捕虜を出した。
 いはゞこの戦ひはヒンデソブルグの「強い
意志」に基づく果敢なる作戦指導と独軍各部
隊の健闘に対し、勝利の女神がその手を差し
伸ばしたものといへるであらう。
 十一月、
 ロッヅの戦ひ。
 ロッヅ附近においてロシア軍を包囲猛攻中
のシェッファ将軍の指揮するドイツ予備第二
十五軍団は、時の経過と共にロシア増援軍の
ために逆包囲せられ、戦勢は逆転し、今や分
厚い敵の包囲下に、脱出すら見込なきに立ち
至つた。
 降伏か、
 全滅か。
 しかしシェッファ軍団の戦闘力は驚くべき
ものがあつた。シェッファは主力を率ゐ、前
衛と本隊との間に負傷者と数千の捕虜とを挟
み、血路を切り開きつゝ帰途についた。
 前にも。後にも。右にも。左にも。
 次ぎから次へと敵兵は現出し、これをそ
の度毎に突破して進んだが、遂に敵の重囲に
陥つてしまつた。
 その頃別な道を進軍したシェッファ麾下の
リッツマン師団は重囲を突破してゐた。
 シェッファは丘の上に参謀長と共に殆んど
絶望の中に立つてゐた。
 そこに息せき切つた自転車伝令が飛び込ん
で来た。
 行方不明になつてゐたリッツマンからの包
囲脱出の報告であつた。
 全軍の士気は頓に揚り、喚声と共に敵線を、
突破した。
 かくしてシェッファ軍団は数多くの捕虜ま
で連れて危地を脱出し、味方の戦線に帰つて
来たのである。強烈なる「意志の力」もて断じ
て行へば鬼神しこれを避く。
 第二年目(一九一五年)
 この年度における大小幾多の作戦の中で、
特に興味深いのはダーダネルス作戦で、これ
は装備貧弱なトルコ軍が勇戦力闘の末、英仏
軍の企図を挫折せしめたものである。
 四月二十五日
 エヂプトで準備を整へた輸送船団は戦艦掩
護の下に海峡入口に迫つて来た。
 仏軍は海峡南岸に上陸を企てて惨敗し、
英、濠、ニュージーランド聯合軍は北洋に上
陸して、橋頭堡の拡張に必死となつた。
 トルコはコンスタンチノープルの運命にか
かるこの一戦で、断じて寸土も渡さじと健闘し
た。
 軍需品の欠乏に堪へ、肉弾以て勇戦した。
 かくて、
 世界最強の英海軍と陸の仏軍との威力を以
てしても、遂にトルコの貧弱な弾薬と刀剣と
を以てする抗戦に阻まれて、その上陸作戦は
失敗に帰した。「強い意志」を以て戦つたトル
コ軍の健闘は偉とするに足りる。
 第三年目(一九一六年)
 この年の山は西方においてはヴェルダンと
ソンムてあり、東方においてはブルシロフ攻
勢であり、そして独墺軍のルーマニア席巻で
あつた。
 一九一六年二月二十一日に切つて落された
ドイツ軍のベルダンに対する攻撃は、面も
向けられないほど猛烈を極めた。
 仏軍は潰滅に瀕した。
 ヴェルダン要塞司令官はジョッフルに対し
「ヴェルダン北方の部隊はその南方に退けな
くては救出することができない」
 と報告して来たが、鉄石の意志を堅持した
ジョッフルは断乎としてこれを拒絶し
「退却命令を下した指揮官は悉くこれを軍法
会議に附する」
 と厳命し、苦戦のために全く神経を失つた
指揮官を叱咤した。
 彼我の損害は夥しいものであつた。
 猫額大の地の争奪にも屍山血河の惨烈なる
戦闘を惹起した。
 かくして九月、この凄烈なるヴェルダン戦
は終りを告げ、死傷はドイツ三十三万六千、
フランス三十六万二千と称された。
 ヴェルダンにジョッフルの「鉄の意志」で
支へられのであつた。
 一方、
 六月下旬から英仏軍によつてソンムの攻勢
が惹起された。
 飛行機、砲弾、毒ガス等々、物量にものを
いはせての大攻勢に、八、九月頃の独墺軍に
非常な危険にさらされたが、しかしドイツは
よく頑張り抜いて危機を克服し、十一月下旬
に至つて敵をして攻撃を断念せしめるに至つ
た。
 損害 ドイツ軍 四十五万。 イギリス 四
     十七万。フランス 三十五万。
 こゝこ
 見逃してならないことは、
 第三年目の末期になると流石のドイツにお
いてもヴェルダン、ソンムの戦闘による多数
の損害は国民の意気を銷沈せしめ、且つ聯合
側の封鎖がだんだんこたへてきた。
 食糧は配給制となり、国民道徳は低下し、
不良少年が増加し、犯罪は多くなつた。戦争
成金は私慾を逞うし、軍部と政治家は互に衝
突した。
 聯合側はこの同盟側の窮状を知り、大規模
な宣伝戦によつて独墺両国民を疑惑と不安と
に陥れると共に、ドイツ軍の残虐性を誇大に
吹聴し、アメリカの抱込みに狂奔した。その
音頭をとつたのがノースクリフてある。
 彼は劈頭ドイツに開戦の責任を負はしめ
た。皇帝及び政府が責任者であつて、ドイツ
国民は罰すべきにあらずとたした。
 ドイツが抱懐もしなかつた世界征服計画を
喋々した。
 それから平和への希望を示唆し、その実現
のためには暴力、同盟罷業、脱走、武器の放
棄等々が必要であるとドイツ国内に教唆し
た。
 戦争の進むにつれて革命を讃美し始めた。
ホーヘンツオルレン家と軍の首脳部に対して
悪口雑言を加へた。
 一九一六年十二月十二日
 ドイツが無賠償、無併合の媾和提議をした
ことは、聯合側をして同盟側与し易しの感を
与へ、その戦意を強化するに役立つたといふ
逆効果を生じた。
 第四年目(一九一七年)
 いよいよ1「四年目の危機」である。
 二月一日
 ドイツはとつておきの切札、無制限潜
水艇戦を開始すると共に、すべての攻撃
を中止し、守勢持久の策に出た。
 フランスでは
 ヴェルダンの英雄ニヴェールが総司令
官となり、シャンバーニュから大攻勢を
とつて失敗し、九月辞任してペタンがこ
れに代り、フォッシュが参謀総長となつ
た。
 ニヴェール攻勢の失敗後、聯合側は大
なる危機に直面した。フランス軍の損害
は死傷十二万。敗戦の影響は全土を蔽
ひ、軍隊は軍紀弛緩して攻撃力なく、戦
場後方に抽出せられた師団には暴動が起
り、この暴動は実に十六箇軍団に波及し
た。
 兵卒は将校の命令に服従せず「バリに
帰つて革命を起すのだ」と噪ぎ立て、とこ
ろどころに集合しては兵卒会議を開くと
いふ有様で、正に瓦解の寸前にあつた。
 またドイツの潜水艇戦のためにイギリ
スの制海権は揺ぎ始め、ロシアは崩壊に
瀕する等、聯合側の危さは全く頂点にあ
つた。
 しかし、イギリスでは総理ロイド・ジ
ョージと総司令官ベーグの戦意はあくま
で強固で、バリにおける軍事会議の席
上、直ちに猛烈なる攻撃を維持レてドイ
ツを撃破すべきを主張し、フランス側の
米軍到着まで攻撃延期の微温意見に反対
した。
 この危機にあつて、聯合側の窮状をド
イツに秘匿するため、英軍の主力を傾注
して、フランドルに攻勢をとつたのはロ
イド・ジョージの卓見であつた。
 今や勝敗の岐るゝ秋である。万難を排
し、死力を竭して猛攻せねばならぬとの
見解は正しかつた。
 かくして聯合側は「強烈なる意志」の力
によつて危局を打開することに成功した
のである。
 この間
 ドイツでは
 一九一七年は軍事的にはむしろ有利で
あつたに拘はらず、政治的には不利な情
勢を醸しつゝあつた。
 七月十九日
 ドイツの帝国議会は媾和の決議をし
た。この際は寧ろ決戦態勢強化の決議案
を上程すべきであつたに拘はらず、国民
の総意を代表する立法府が自ら戦意の低
下を告白したのである。何たることであ
らう。
 聯合側はすかさずこの決議に対して峻
拒の意思表示を行ひ、戦勝熱をあげた。
 しかもドイツ首相べートマン・ホル
ウェヒは八方美人的態度に終始して、か
へつて社会秩序の紊乱に拍車をかけ、機
関紙は不謹慎な言論を以て国内の相剋を
助長していつた。
 特に政党者流の間における最も不幸な
幻覚は妥協和平の思想であつた。ドイツ
は軍事で敗れずに政治で敗れたのであ
る。
          ×
 戦ひを決するものは「意志の力」
である。
 幸福は危局の傍に立ち、
 不幸は好調の隣りに佇む。
 そのいづれを掴みとるかは「意
志志」の自由である。
 第五年目(一九一八年)
 既に「盛衰隆替の岐路」において述べた
る如く、独軍掉尾の大攻勢もクレマン
ソーの「強き意志」の鉄壁に潰え去つた。
 かくてドイツは国内ますます乱れ、戦
力も著るしく減殺役した。
 機に乗じて聯合軍は疲労困憊の極に達
しながらも最後の攻勢に出た。
 勝敗はかくして一決した。
 ドイツは幾度か勝利の機会に遭遇しな
がら、遂にこれを逸したたのである。

七、ラバウルに学ぶ

 かの南溟の孤島に残るラバウルの将兵
たち。その四周に強大なる敵と相対し、
兵器糧秣をはじめ、あらゆる必需物資の
補給は遮断せられ、且つその頭上には絶
えず敵機の銃爆撃がつき纏つてをり、地
上には最早や住むべき一軒の家も残さず
徹底的に破壊し尽されてゐる。
 困苦欠乏の生活といへば、これほど徹
底した困苦欠乏の生活はいであらう。
 しかもこの廃墟と化した最悪の条件の
中から将兵達は雄々しくも起ち上つて、
活溌な現地自活の営みと共に、明朗必勝
の境地々開拓したのである。
 昨年初頭
 全般の作戦の関係上、従来ラバウルに
配置されてゐた航空部隊は全部これを他
に転用することとなつた。枚とも柱とも
頼む航空部隊が一機残らずをらなくなる
のだ。
 流石精猛な将兵達も当然一種のわびし
さを感じ、撫然たらざるを得なかつた。
 しかし、いつまでもそんな気持でゐる
ことは許さるべくもない。将兵達は気を
とり直して陣地構築に、現地自活に、猛
訓練にと取り掛つた。この頃、部隊長達
が第一線陣地を巡視すると、各陣地には
それぞれ「必死敢闘」の標語が掲げられて
あつた。
 敵機は毎日七、八十機平均は来襲する。
 各隊は必死になつて山腹に横穴を掘つた。昨
年秋までにはトンネルの長さは延三百キロ位
り、兵舎、病院、弾薬庫、糧秣庫、被服
庫、諸工場等すべてが地下に完備され終つ
た。
 また敵の来攻に備へて、あらゆる努力が陣
地構築に指向せられ、これと並行して、現地資
材を利用する幾多の新兵器が創製せられた。
 爆弾、砲、火焔放射器、擲弾筒、ビール瓶地
 雷、戦車爆雷、応用迫撃砲、手榴弾
 その他、ラバウル新兵器は数十種類の多き
に達し、これが各隊に無数に準備された。
 これと共に、血みどろな猛訓練が重ねられ
た。
 軍の幕僚達も対戦車攻撃の訓練をはげん
だ。軍医、主計等も今では立派な肉薄攻撃班
長となつた。
 しかも
 食糧自給のために朝は一同暗いうちか
ら起きて鍬を振つた。
 最高指揮官以下一人当り平均二百坪内
外の耕作を担任した。
 そこにはたゞ一人の傍観者もなく、た
だ一人の徒食者もなく、たゞ一人の非協
力者もなかつた。
 みんな黙々として働き、骨肉の愛情を
以て扶け合ひ、真に温かい団結によつて
繋がり合つた。
 食糧品のみならず、創意工夫はすべて
の生活面に延びた。
 食用油、現地酒、豆腐、医療薬品、紙、
布、石鹸、硫酸、黒色薬、新聞、その他一
切の生活必需品が将兵達の苦心によつて
生産されていつた。
 最早やこゝには代用品の観念はない。
 すべてが創造であり、欲するがまゝに新
らしい生活形式が生れてゐる。
 そして将兵達は「最後の勝利を獲得す
るまでは九年でも十年でも頑張り抜く」
と満々たる自信を抱いてゐる。
 そこには微塵の冷たさ、寸毫の暗さも
存在しない。
 すべては決死を乗り越えた明朗な闘魂
に満ちてゐるのである。
 密林の開墾、洞窟工場の建設、食糧自
給の確立、これらはいづれも不可能に近
いとさへ思はれたほどの困難さではあつ
たが、この難問題を将兵の一人々々が心
血を濺ぐ刻苦奮闘によつて見事に解決し
たのである。
 昨年の秋ごろ
 部隊長や幕僚が第一線陣地を巡視すると、
二、三月頃には「必死敢闘」とあつた標語がい
つの間にやら「明朗敢闘」の標語に書き改めら
れてあるのも微芙よしく見出すのであつた。
 今日見るこのラバウルの明るくも逞しい不
屈必輝態勢こそは、いかなる障碍をも体当り
を以て啓開してゆかんとする将兵の血と汗と
脂との集積によつて結実したことを知らねば
ならない。
 「やる」と決意して努力を傾注すれば、既に
そこには隘路は存在しないのである。
         ×
 ラバウルは日本本土に連なる。
         ×
 戦況の緊迫は既に内地を銃後から第一
線に変貌せしめた。
 やがては本土において地上砲火を交へ
ることも予期せねばならない。
 終局の勝利はこれを確信して疑はない
が、その過程においてはある期間本土戦
場化も覚悟しなくてはならぬ。
 これは固より好まざるところではある
けれども、現実は現実としてこれに備ふ
べきである。
 この場合
 敵の砲爆撃に、よつて鉄道はじめ
あらゆる交通機関は遮断せられ、
軍隊輸送、食糧輸送は至難となる
であらう。
 所在部隊は各々その地方毎に戦
ひ、各地方は郷土国民部隊で編成
して戦はなくてはならなくなるで
あらう。
 大和民族、誰一人でも、生ある
限りは、いかなる戦況になつても
断乎として戦ひ抜くのだ。
 最後の勝利。
 たゞそれだけを目標として、血
みどろになつて戦ひ抜かねばなら
ない。
 防空壕は散文壕である。
 山といふ山には一日も早く、一
本でも多くの横穴を掘らう。
 隠れるためではない。勝つため
にである。寸上といへども耕さう。
 一握りの豆、一蔓の芋、一葉の
野菜、それが勝利の糧となるのだ。
 今や
 隘路を論議し、上司からの指示
を待つ他力本願的態度を一擲し、
国民の一人々々がラバウル将兵の
意気と努力とを以て実行に着手す
べき秋である。
 苦しまう。
 頑張らう。
 そして輝かしい勝利への大道を
切り拓いて進まうではないか。

八、決戦の変貌

 四十年前の日露戦争では、奉天会戦が
陸の、日本海海戦が海の代表的決戦であ
つた。
 大東亜戦争において、これと同意義の
決戦はいつどこで戦はれるか。
 この問題は開戦後まもなく起つた。
 それは単なる概略上のみの問題ではな
く、常に政戦両略に亘る大きな問題であ
つた。
 この問題が起るのは、戦争の観念的方
式として
 1. 緒 戦
 2. 幾つかの会戦
 3. 最後の決戦
といつたやうな、段階を経るものとの旧
い先入感が附着してゐるからにほかなら
ない。
         ×
 戦術は
 十年日毎に一新せられるといはれてゐ
る。
 昨日まで最高至上とされた戦術観念
が、今日は惨めにも敗残の戦法として葬
られてゆく。
 この変化を捉へ、この変化に乗じ得る
ものは勝ち、旧観念の脱却に後れたもの
は敗れる。
 精強天下に鳴つた甲軍一万九千が長篠
の一戦に殲滅されたのは、勝頼が甲軍の
騎馬突撃の突破力を過信した結果、信長
の新戦法たる銃隊威力の前に、残酷と思
はれるはどの惨敗を招来したものであつた。
          ×
 フランス周辺の列国軍は悉く若きナポ
レオンに撃破されてしまつた。
 ナポレオンはまづ戦闘隊形を横隊密集から
縦隊へと切り換へた。
 そして当時、欧州各国の将軍達が金科玉条
として墨守した会戦回避戦法に対し、兵力を
結集して行ふ会戦主義を以て臨んだ。
 これは旧戦術に対する新戦術の採用であ
り、ナポレオンの幸運と大胆とが、すべての従
来のの慣用手段たる旧式戦術を無価値にして、
数多の第一流国家を殆んど一撃の下に撃破し
去つたのてある。
          ×
 会戦主義の利刀は徴兵といふ命題から
出発した国民戦争の初期、まだ動員兵力
が少く、武器も進歩してをらなかつた頃
には、一回乃至数回の合戦を以て戦争を
終結せしめた。
 短期戦の現出となつたのであり、普墺、
普仏戦争がそれである。
 しかし戦争の進化につれて、動員兵力
が増大し、武器が進歩し、特にその量が
増大して軍需工業動員の時代となり、戦
争と国民生活とはいよいよ緊密なる関聯
性を帯び、全国民一人々々の闘志が勝敗
の分岐点となり、各国の戦力は著るしく
増強せられ来つて、こゝに戦争は再び長
期戦に還元するに至つた。
 第一次ヨーロッパ大戦はそれであり、
日露戦争は、その中間に位するものとい
へるであらう。
          ×

 現代戦において

 戦場の王座を占めるものはいふまでも
なく航空機である。
 航空機はその特質上、持久戦闘は許さ
れない。日々決戦に次ぐ決戦である。
 また
 現代戦は武力戦であり、補給戦であ
り、生産戦である。
 従つて数回の会戦、一、二度の決戦に
よつて戦争は終末点に達することなく、
「決戦の連続」によつて次第に終局に近づ
くのである。
 戦争は明らかに「この一戦主義より数
段決戦主義」へ移行した。
 大東亜戦争は日露戦争の如く、一、二
の会戦を以て戦争全般の勝敗が決せらる
ものではなく、決戦の連続する大長期間
において、彼我の戦争意志が「いづれ
が五分間前に挫けるか」によつて最後の
勝敗が一決するのである。
 「局所戦闘の成敗に一喜一憂する勿れ」
との戒めはこゝに源泉する。
 我等はかくて次ぎから次ぎへと行はる
べき敵の進攻を、次ぎから次ぎへと邀へ
撃ち、これにあくまで出血を強要し、遂
に敵をして進攻を断念せしめなくてはな
らない。
 敵の進攻を断念せしめる。
 これは固より容易なことではない。
 戦争の前途は真に長遠であり、多難で
ある。
 しからば、いかにしたら敵の戦争
意志を破砕し得るであらうか。
 それは
 「どんなに攻撃しても
  何年かゝつても
  どうしても日本を降伏屈服せし
  めることは不可能である。
  払はさるゝ犠牲と獲らるべき效
  果とは到底相償はぬ」
ことを痛切に自覚せしめるまでは
敵の戦意は挫けないであらう。
 果してしからば
 問題は簡単であつて
  「たゞ頑張る
の一事に尽きる。
          ×
 戦ひはまこと一局の碁に似たり。
 戦局は変転し、戦勢は浮動す。
 大楠公ですら幾度か敗れ、幾度か退きなが
らも敢へて屈せず、いはゆる七転八起、遂に
建武中興に大きな役割を演じ得たのである
が、勝敗進退は兵家の常てある。
 「どこどこを取られたらもう駄目だ」
 「どこどこまで来られたらもう敗けだ」
といふが如きは、断じて兵を知るものの言で
はない。
 首都モスクワを奪はれながらも、ロシアは
遂に大ナポレオンを敗退せしめた。
 石橋山に自決を覚悟した頼朝も、最後には
驕る平家を撃滅し去つた。
 信玄の猛攻に敗北し、あはや、その居城と
共に崩滅せんとした家康は、強靱な頑張りに
よつて遂に自らの運命を大きく開拓した。
 戦争は要するに「意志と意志との戦ひ」で
ある。敵の戦争意志を破摧するの地は決して
限定せらるべきものではなく、その遠近は敢
へて問題ではないのである。
 東郷元帥の率ゐる聯合艦隊は、何も必ずし
も海路はるばるバルチック海まで出かけて敵
艦隊を叩くの要はなかつた。
 嘗てラバウルの戦ひ酣なリし頃、一部の論
者は「ラバウルこそ日米の決戦場」 であると
なし、仮にラバウルを失ふが如きことあら
んか、日本は忽ち敗北に陥るかの如き極論を
あげつらふ者もないではなかつた。
 サイバンのときまた然り。
 固よりラバウル、サイパンの戦略的重要点
たるば疑ひもなきところであり、ラバウルの
孤立化、サイパンの喪失は我にとつて大なる
打撃たることは申すまでもない。
 しかしながら、これらの現象は痛手は痛手
ながら、それは決して我が致命傷ではあり得
なかつた。
 サイバンを喪つた今日、現に我が国民は一
層の憤激に燃えつゝ勇気凛々として戦つてゐ
るではないか。
 もちろん感情的にこれを観ずれば、能ふ限
り遠隔の地において敵を撃滅し得れば、それ
な何よりも好ましいところである。
 しかし戦ひには冷静なる戦力判断を必
要とする。こゝにおいてか即ち知る、
 戦ひは自力最適の時、所、位によつて
敵を制すべきであろと。
 戦況いかに変転し、戦勢いかに移ると
も、われに神武必勝の確信と努力あれ
ば、究極の勝利は断じて疑ふ余地はな
い。即ち、
 真の決戦場は経緯度を以て劃さ
るべきでもなく、山河陸洋をて
限定せらるべきものではない。
 強ひてこれを求むるとすれば、
それはたゞ戦ふ国民の胸底三寸に
ありとでも断ずベきであらう。
 さもあらばあれ、
 われらは不撓不屈、必勝の信念を堅持
し、敵に出血を強要しつゝ決戦を反復
し、強靱なる神経を以てあくまでも戦ひ
抜き「勝利獲得の希望を喪つて絶望感に
のたうつ敵」を撃つて摧いて、また撃ち砕
き、最後の光栄ある勝利をシカとこの手
に掴み取らなくてはならない。

 九、神 武 必 勝

 作戦要務令綱領第三に曰く
 「必勝ノ信念ハ主トシテ軍ノ光輝アル歴史
ニ根源シ、周到ナル訓練ヲ以テ之ヲ培養シ卓
越ナル指揮統帥ヲ以テ之ヲ充実ス」と。
 げにも
 大和民族の必勝の信念は将に「光輝あ
る皇國の歴史」に根源しなければならな
い。
          ×
 大日本は神国なり。
          ×
 肇國の神勅を信奉し
 天壌無窮の国運を確信し
 父祖伝承の日本精神を体得するとき、
限りなき光栄と包み切れぬ歓喜とに満た
されて、腹の底より勃々たる一大勇猛心
が涌き上つて来る。
 念ふに
 日本精神の体得は「天皇に対する信仰」
なくしては到底求め得べくもない。
 およそ、知職による理解にとゞまると
きは、その知識の程度において深浅濃淡
の差異を生ずるが、知識を越えて信仰に
至るものは絶対である。
 皇軍将兵が戦死に方り「天皇陛下万歳」
を唱へるのは正に信仰の境地である。
 心を空しうして至誠なれば、知識教養
の如何に拘はらず、直ちに崇高なる信仰
信念を体得し得るが、これに反し、いか
に知識、学術に通ずるとも、いやしくも
至誠至純の心に欠くる者は絶対に
  國體信仰
  天皇信仰
  神武必勝の信念
に到達することは不可能である。
 「神は信なり」
 信ぜざる者に千万言費してこれを説い
ても、それは時間と精力の浪費たるに過
ぎないであろう。
 我等は「光輝ある歴史の事実」を確認し
「神武必勝の信念」を確立し、以ていかな
る難局に陥るとも微動だにしない信念を
固めなくてはならない。
  歴史の事実。
  それは、まづ

 一、宝祚無窮の大事実である。

 天孫降臨の抑時、畏くも 天照大御神

 「豊葦原ノ千五百秋ノ瑞穂ノ国ハ是レ吾ガ
子孫ノ王タルヘキ土地ナリ。
  宜シク爾 皇孫就キテ治セ。 行矣。宝祚ノ
隆ヘマサンコト当ニ天壌ト窮リナカルヘシ」
と宣賜し給ひ、以来、皇統連綿として今
日に及ぶ。
 神勅は今日現前の事実であると共に、
天壌無窮の真理である。

 二、神武必勝

 皇戦の本義は 天皇が御武威を発揚し
給ふところに存する。
 御武威の発動は必ず皇道に則り、常に
公明正大なる大義名分に立脚し給ふ。
 大東亜戦争また米国の非望を破砕し、
皇國の自存自衛、進んでは東亜の安定を
確保せんとする正義の戦ひである。
 神威赫奕。勝つや必せり。

 三、金甌無欠の國體

 皇國の歴史は皇祖列聖の神徳を根基と
して展開したる尊厳なる事蹟である。
 いかなる難局川に遭遇するも常によく狂
爛を既倒に回し、禍乱を戡定して揺ぎな
く、金甌無欠の國體は万邦に卓立し、宇
宙に冠絶してゐる。
 理窟に非ず、理論に非ず。
 これは正しく儼然たる歴史の事実であ
る。
 四、皇軍の本質

 軍人に賜はりし勅語の冒頭に、まづ
「我が国の軍隊は世々 天皇の統率し給
ふところにぞある」
と示され給へるが如く、皇軍の特色、
皇軍の本質は
「天皇御親率の軍隊」
なりといふ点に存する。
 他国の軍隊はいづれもその君主、或ひ
は国民大衆の生存、欲望等のために、用
ひらるべきものであり、その君主、その
国家よりこれをみれば、一応いはゆる忠
誠的、愛国的にも観察し得らるゝのであ
るが、その用ひらるゝ因つて来るところ
を仔細に考究すれば、それはたゞ単なる
制覇的意慾の下に駆使せられる凶器たる
に過ぎない。
 しかるに
 皇軍は、
 大日本天皇、皇祖の御神勅を奉じ、生
成発展、万物共栄の大理想たる八紘為宇
顕現のために、まつろはざるものをまつ
ろはしむべく用ひらるゝ神器とも申すべ
きものである。
 皇軍進むところ万象皇風に蘇り、
 聖旗駐る処万物皇化に潤ふ。
 外国軍、いはゆる凶兵の行くところ、
存するはたゞ殺戮、たゞ破壊あるのみで
あり、日本軍即ち皇軍征くところ在るは
これ仁愛、これ建設である。
 皇軍は神勅を奉じ、天意に基づいて動
き、米軍は邪教を擁し、人意に基づいて
動く。われら現人神、御稜威の下、神武
の剣を提げて立つ。
 天地に正気存する限り正義の軍
 われら勝つ。必ず勝つ。

 五、大義悠久

 われら生を父祖に享けてこれを子孫に
伝ふ。
 父祖三千年の血潮は脈々としてわが血
管に波立ち、更に永遠の子孫に伝流す。
 大楠公の肉体滅してこゝに七百年。
 大楠公の精神純血は今正しくわれ等の
五体に脈動してやまず。
 大義悠久、日月と倶に亡びずの信念わ
れ等に牢乎たり。
 若林中尉はガダルカナルに「後に続くも
のを信ず」と叫んで、悠久の大義に生
き、
 山崎部隊長は孤島アッツに、
 「部隊に長として遠く不毛に入り
  骨を北海の戦野に埋めて
  米英撃滅の礎石となる
  真に本懐なり
  況んや護国の英霊として
  悠久の大義に生く
  快なる哉」
と唱へて完爾玉砕す。
 大楠公精神七百年後に発してこゝに燦
然たりと申すべきであらう。
 今
 敵まさに本土に迫らんとするの
秋。みたみ一億。
 悠久の大義に生くべき信念の下
 一人一殺
 一人十殺
の闘魂を振へば、最後の勝利何ぞ
疑ふの余地があらう。
 敵いかに尨大なる物量を以てするとい
ヘども、われ等の大信念を奪ふことは断
じて不可能なるべく
 我にして、この大信念を堅持し、最後
の一人に至るまで徹底的攻撃を敢行した
ならば、遂には神助と相俟つて敵を撃滅
し得ること、また期して待つべきのみ。
          ×
 以上概説したる如く、われ等は
 「神助のまゝに厳たる」これ等の事実を
確認し「神州不滅、神武必勝」の信念を強
化し、一切を捧げつくして勝利の一途に
邁進すべきであらう。
 しかして、遠からずして展開せらるべ
き皇土決戦における「必勝策」を問ふもの
あらんか、直ちに明確にこれに答へん。
 曰く「必勝の策我に存す」。
 即ち、従来の島嶼作戦における戦勢決
定の鍵は、後方の補給の如何に懸つてゐ
たのであるが、遺憾ながら我が方は舶腹
の不足、敵潜水艦の跳梁、敵航空兵力の
優勢等のため、十分なる戦力を欲するが
まゝに補給し得ず、これがために常に苦
杯をを喫するの外はなかつた。しかるに本
土決戦場においては敵の補給が最大限
に延び切るに反し、我が方の補給路は最
小限に短縮せられ、茲に戦力差、物量差
の均衡は我に有利となり、我が戦力発揮
が著るしく容易となる事は理の当然であ
る。
 もういかに敵潜水艦が跳梁しても
 また、如何に我が艦船が乏しからうと

 敵機が如何に躍気となつて補給遮断を
企てようとも
 それらは既に戦局にさまで大なる関係
を与へるものではない。われに精猛なる
数百万の貔貅存するあり。
 今こそ初めて我が陸上部隊主力が恨み
重なる敵と相見えんとするのであり、真
の決戦が茲に「必勝」を期して展開せられ
んとするのである。
 のみならず
 本土上陸を企図する敵に対しては我
が軍の各種特別攻撃隊が先づこれを洋上に
攻撃して、その夥しき兵力を海中の藻屑
と化せしむべく
 次いで沿岸に逢着したる敵に対して
は、準備したる水際において甚大なる痛
撃を与ふべく
 更に本土奥地に侵攻せんとする敵に対
しては、満を持したる数百万の精鋭これ
に殺到して徹底的にこれを潰滅せしめる
であらう。
 これに備へたる軍機の秘はこれを窺ふ
べくもないが、われ等はたゞ満腔の信頼
を以て軍に協力すれば足る。
 尚ほ状況に応じては、一億悉く強度防
衛隊及び防衛協力隊として立ち、所在の
武器を執つて抗戦し、敵をして応接に遑
なからしむべきである。
 「皮を斬らせて肉を斬り、肉を斬らせ
て骨を斬る」が如き不徹底なる戦法は潔
くこれを一擲し「必死必殺」の相討ち戦
法に出たならば、婦女子と雖も米鬼一敵
の必殺は断じて不可能ではない。
 われら国民の一人々々は、それ
ぞれかの特別攻撃隊員の如く、地
にひそみ、穴にかくれ、水を潜つ
て敵に迫り、一人必ず一敵を斃さ
ずんばあらず。
 捨身必殺
 己を虚しふする相討ち
 敵一万上陸し来らば我が一万
 これと相討ちに果て
 敵十万来寇せば我が十万これと
 和討ちに斃れ
 敵百万寄せ来れば我が百万これ
 と相討ちに死すれば足る
 われら
 やまと男の児
 やまとをみな子
 やはかみすみすのどに死すべき
 われ死するのときは必ず少くも
 一敵を屠らん
 武器の如きは論ずるに足らず。
 銃器、ダイナマイト、竹槍、日本刀、
出刃包丁、剃刀、ハンマー、鋤、鍬、石
塊。
 必死必殺の決意だにあれば、その用ふ
る武器の如きは問ふところに非ず。
 何ぞ必ずしも正規の銃砲弾薬にのみ頼
らんや。
 敵に一千万の特別攻撃隊員なく
 我に一億の特別攻撃隊員あり
 一たび死を決すれば砲撃、爆撃は何ぞ
敢へて恐るゝに足りようぞ。
 上御一人の御馬前に一億挙げて
決勝に従ひ、官民の総力を戦勝の
一途に凝集し、皇土の万物を悉く
戦力化したならば、神州の正気茲
に煥発し、絶対必勝すべきは毫末
も疑ふ余地はない。
  勝つ。
  断じて勝つ。
          ×
 「敵々知り、己を知るものは百戦殆ふか
らず」といふ。
 敵には恐るべき強点がある。この敵の
恐るべき強点、即ち物的戦力については
われわれは既にこれをよく認識してゐ
る。しかしながら敵の救ふべからざる弱
点は如何。
 ものにはすべて急所がある。
 いはゆる「弁慶の泣き所」がこれであ
り、この急所を看破してこれを衝けば案
外に脆いものである。
 蹴癖馬も尾根(びこん)を上に持ち上ぐれば猫の
如くに柔順となり、猛牛も鼻輪ををさへ
ればかよわき少女にも引き廻され、虎豹
の猛獣も松明一本で慴伏し、鬼をも泣く
大男も心臓に木綿針一本刺さるれば、呆
気なく斃れる等これである。
 近代地上戦の花形戦車は向ふところ敵
なき猛威を示すが、これとても要するに
盲目の聾であろ以上、この弱点に乗ずれ
ば、一人よく一塊の爆雷でこれを破砕す
ることも可能であり、不落を看板ののB29
も急所を射も抜けばあつさりと墜落し、
ニコバル沖の英制式空母も、爆装すらな
き阿部中尉の戦闘機に、急所に体当りさ
れて轟沈する等またこれである。
 アメリカは物量を誇る国である。
 鬼面人を驚かすに足るその外貌に正直者の
日本人は一応、大いに敬意を表するのである
が、さてこの巨大米国には果して何等の弱点
短所もないであらうか。
 われわれは肚を据ゑて冷静に敵の弱点、死
角を看破しなくてにならない。
 仔細に検討すれば敵の弱点は、各々これを
挙げ得るであらうが、いま左にその二、三の
点に触れてみたい。
 その第一は米英戦法の弱点である。
 彼等は圧倒的物量戦力の伴ふ場合は極めて
積極勇敢であるが、一時的にもせよ物的戦力
の欠乏した際は、尺寸といヘども前進するこ
とは甚だ困難である。
 しかして物量には自ら限度がある。
 洋上の眇たる孤島サイパン島攻略にすら、
敵は数万トンに達する鉄量の消費を余儀なく
せしめられた。
 日本本土に対し果して幾千万トンの鉄量を
準備し得るであらうか。
われ等はねばり強く
敵に物量を浪費せしめ、徒費せしめんか、遂
には敵は自ら消え去るであらう。
 弱点の第二は
 「海外兵力交代難と軍隊士気の漸低」であ
る。
前大戦の際はアメリカは動員兵力四百
万、遣欧兵力二百万。参戦一年にして休戦と
なり、大部は戦闘を交ふることなく帰国した
が、今次大戦においては昭和十九年夏までに
陸軍兵力七百七十万、海軍三百六十万、計一
千三百万を動員し、総人口比十二対一、損
耗平均に月十万、補充能力月六万であり、し
かも適時外征将兵の交代、休養を必要とする
米国において、その交代要員を得難いことは
戦争長期化と共に大なる禍根となるであら
う。
 のみならず
 平時享楽を追及して、奔放生活を楽しんで
ゐた米人は、戦争長期化と共に道徳頽廃し、
軍隊における士気は低下して不軍紀に陥り、
抗命、暴行、逃走等、各種犯罪を構成し、遂
に上下一致の団結を破壊し、厭戦、反戦とな
るに至るべきは明らかなる推移である。
 本年一月二十六日サンフランシスコ放送
によれば「一米軍高級将校は欧州戦線の米軍
に概略一万二千名の脱走兵があると発表し
た。パリにおいては或る者は闇取引のために
脱走したものもある云々」といつてゐるが、
これはよほど内輪に見積つて発表されたもの
であらう。
 しかし仮にこの数字を真数としてしも、一
万二千名といへば約一箇師団に近い兵数であ
る。一箇師団の脱走兵。
 似て敵の軍紀のほども窺ひ知られるではな
いか。
 次ぎの弱点は
 「米国内の反戦運動の萌芽」である。

 動物的な本能的生活を欲求し、爛熟した享
楽生活を追及する米国民は、生命に対する極
端に近いほどの恐怖心を有してゐる。
 戦ひが順調、好調且つ短期なれば、一応沈
黙してゐるが、戦争が長期化し、出血が増大
し、負担が重くなると、失望は不満となり、
厭戦となり、反戦となるに至るのであつて、
現にその初期症状は明らかに暴露されつゝ
ある。
 のみならず、風紀問題、特に花柳病は職線
銃後を通じて容易ならざる問題となり、家庭
団欒の破壊、享楽生活の絶望等は、婦人達の
「夫を返せ」、兵士等の「家庭に帰せ」の声とな
り、戦場における仮病真症半ばする神経病
患者、自暴自棄及び故意の酩酊暴行、その他
の犯罪と相俟つて、輿論の騒擾は年と共にそ
の度を加へつゝある。
 同盟罷業の続出、交通事故の頻発、
 工場欠勤率の増加、工場火災の激増、
等々に、明らかにその徴候が察知し得られる
のである。
 更に第四の弱点は
 米英ソの反目である。

 詳述すれば限りないが、要するに狡狸老狐
の寄り合ひであり、表面に協同一致の看板を
あげてゐるだけに、内部の反目葛藤は想像以
上のものがあるやに看取せられる。
 以上は極めて表面的なる三、三の例たるに
過ぎない。
 しかし、われわれは敵国内部の弱点の研究
をするよりも、我れ自らの戦意昂揚、戦力増
強を図るべきであるが故に、この問題はこの
程度で打ち切りたい。
 たゞ「弁慶にも泣所あり」と知れば足る。

十 莞爾邁進


 「隣家の麦飯」といふ諺がある。
 今は昔の経験ではあるが、自宅では白
米を食ひながらも、隣家の麦飯を窺つて
「隣りの麦飯の方がうちの飯より美味さ
うだナ」と浅間しい比較をなすの謂であ
り、人間の持つ弱点を巧みに衝いた寸鉄
である。
 有史以来未曾有の大戦乱。
 交戦各国いづれの国も負けず劣らず苦
しいのであるが、他国の苦しみはこれを
想はずに自国の苦しさをのみ憂へ
 或ひは敵の有利と味方の不利とを過大
視して敵の弱点、味方の利点はこれを過
小視し
 すべての事物を見るに、たゞその暗黒
面をのみ観察して自らそれに屈託し、終
日熊の胆を嘗めたるが如き顔をしてゐる
者が少くない。
 朝は味噌汁を美味ならずとして眉を顰
め、昼は雑炊の少食を憤り、夜は空襲を
極度に恐れ、不景気な表情と不愉快な泣
き言を吐いて、家人のみならず隣組の人
人をまで不快ならしめる如き、これは
亡国民族ならばいざ知らず、最終の勝利
を確信する日本人のとるべき態度ではな
い。
 どの国もみな苦しんでゐるのだ。
 だれもかれもみな苦しんでゐるのだ。
 この苦しみを克服して頑張つた国のみ
が勝ち残るのである。
 不平、不満、不安を訴へる人は、概し
て真剣にその本分に全力を出し切つてを
らない人であり、将棋で申せば遊び駒で
ある。

 今や
 老若男女を問はず、国を挙げて真に一
丸となり、直接戦争に、また戦力の培養、
増強に努力しつゝあるの秋である。
 戦ふ國家は全國民を軍隊と、武器を製
造する生産者と、その原料や製品を運搬
する者と、食糧確保に任ずる者等、直接
間接、戦争遂行上大切なる業務にふり
あてて最大の力を発揮してゐるのであ
る。
 「将棋では遊び駒のある方が必ず負け
である。初心者の将棋を見ると、よく一
歩ぐらゐはと軽視するが、運命の変るや
うなな必死の一戦では、この一歩ぐらゐと
いふ一歩の怠慢が勝敗を決するから、実
に恐ろしい。飛車とか角行とか、或ひは
金銀のみが重要といふものではない。勿
論これ等は戦ひの中心をなすものである
が、勝を得る基をなすもの、即ち勝利を
導くものは数の多い一歩々々が真剣に自
己の職責を果す質の優秀さと技倆の向上
である」と。
 これは木村名人の将棋談義だが、よく
この間の消息を物語つてゐる。
 遊び駒なき将棋こそ勝利の鍵である。
 しかも全部が適材適所に配置され、上
下の脈絡一貫し、左右の聯繋、緊密なる
状態にあらねばならないのである。
 もともと日本の強味は家族制度にあ
る。戦時の窮乏生活に耐へるため、最も
物をいふべきは、この家族主義であら
う。
 夫は妻を労り、妻は夫を助け、
親は子を慈しみ、子は親を敬ひ、
兄姉は弟妹を導き、弟妹は兄姉に
従ひ、互に愛情と微笑とを以て扶
け合ひつゝ、いかに強く戦争の惨
禍に耐へ、いかに長く窮乏生活に
耐へ得るかといふことが勝利の鍵
である。
 困苦欠乏を呪はしきものとは考
へず、かへつて勝利の手段と考へ、
豪快明朗なる精神もて戦ふとき、
そこに自ら勝利の道は拓かれてゆ
く。
 盛衰、隆替を賭した決戦である以上、
苦難の来襲は当然である。
 当然を当然とすれば一切の苦難は敢へ
て驚くに足りない。しかしてこれらの苦
難は、いづれも勝利の嶺への峻坂であり、
輝く凱歌の前奏曲である。
 一億が一忠に帰し、勅を奉じて総体当
りの決意も固く、あらゆる力をたゞ「勝
利へ」の一点に結集するならば、兇敵醜虜
の撃滅期して待つべきのみ。
 我が国は
 申すまでもなく神の国である。
 皇祖皇宗の神霊上に在します。
 大御稜威の下、天壌無窮の皇國の天定
運命を固く信じて、一億の臣がそれぞれ
の持場職場において尽忠の誠を竭したな
らば「神武必勝」最後の勝利は断じて我
にありと確信するものである。
 みたみ我ら今こそ
 「完爾邁進明朗敢闘
の合言葉を以て、あくまでも頑張りつゞ
け、戦ひ抜き、そして輝く最後の勝利に
向つて突進しようではないか。

(昭和二十年三月十日発行)