自己主張の思想としての自然主義



 毎月出る雑誌や単行本を一々読む訳でないから誰がどんな説を言つて居るか委しい事は無論知らぬが、自己主張の思潮として自然主義を見て居る人は余り無ささうである。自己主張と云へば意志を予想する。然るに自然主義は寧ろデテルミニスティックな傾向である。此二つは一見調和しがたい矛盾に見える。所が、桑木博士は「新仏教」の問に答へて最近十年間の重なる思潮として、本能主義――ニイチエ主義の鼓吹、宗教的自党の勃興、自然主義唱道の三つを数へて、何れも自己拡充の精神の発現なりと断ぜられて居る。博士の説は一頁余りに過ぎぬものであつたから元より委しい事は分らぬが、自分は博士の此見解を以て、大網を捕へ得た極めて明快な説と思つて居る。尚博士が此の自己拡充の主潮に対立させて、漢学復興、報徳宗の運動、義士祭典の流行等を反抗的保守思想として挙げられ、之を尻目にかけて居られるのは聊か痛快である。今自分は此の一見矛盾に見える自然主義と自己主張との関係に就て少しく詳論して見たいと思ふ。
 近代思潮は其がどんな思潮であつても大か小か自己拡充の精神及び其消極的形式たる反抗的精神を含有して居る。自然主義が本来極めて科学的デテルミニスティックで、従つて自暴的廃頽的であるに拘らず、一面に自己主張の強烈なる意志を混じて居るが故に、或時には自暴的な意気地のない泣言や愚痴を云つて居るかと思へば、或時には其愚痴な意志薄弱な自己を威丈高に主張する事もある。是畢竟近世思想が現実的と云ふ事を超現実的な中世に反抗して主張し来つた結果である。反抗の精神も現実的精神も其当初の予期を越えてはてしなく進歩するに及んで、両者の間に相容れざる矛盾を生ずるに至つた今日に於いても、当分離れる事を好まないのである。恰も近世の初頭に当つて、相容れざるルネツサンスと宗教改革との両運動が其共同の敵たるオーソリティに当らんが為めに一時聯合したる如く、現実的科学的従つて平凡且フェータリスティックな思想が、意志の力をもつて自己を拡充せんとする自意識の盛んな思想と結合して居る。此の奇なる結合の名が自然主義である。彼等は結合せん為には共同の怨敵を有つて居る。即ちオーソリティである。
 ルネツサンス及宗教改革の共同の敵たるオーソリティは教会であつた。十八世紀の独逸に於て啓蒙主義と敬虔主義とが滑稽なる聯合を形作つて当つたオーソリティも教会である。然し今日の教会は自然主義の正面の敵となる程有力なるオーソリティではない。今日のオーソリティは早くも十七世紀に於てレビアタンに此せられた国家である、社会である。廟堂に天下の枢機を握つて居る諸公は知らぬ。自己拡充の念に燃えて居る青年に取つて最大なる重荷は之等のオーソリティである。殊に吾等日本人に取つてはも一つ家族と云ふオーソリティが二千年来の国家の歴史の権威と結合して個人の独立と発展とを妨害して居る。こんな事情から個人主義の基督教が国家の抑圧に対して唯物論たる社会主義と結合したり、之れに類似の一見不可思議な同病相憐の結合が至る所に見出だされる(但し天渓氏が自然主義と国家主義とを揺り合せて居るのは只噴飯の外はない。花袋氏、泡鳴氏も聞えた自然主義者でありながら、確か天渓氏同様の説を何処かで為して居るのを見た事がある様に思ふ。然らば随分不徹底な自然主義である)。
 こんな事を云つたら、やれ進化論がどうの、やれ社会有機体説がどうのと、こちたい事をふり廻す人が出て来るかも知れないが、其れを御尤もとしても、兵隊には取られる、重い税はかゝる、暮しは世知辛くなる、学問が細かく分化する、是等の事実のゲミューツレーペンに影響せぬ筈がない。芸術は其内生活の忌憚なき発現であるから、風俗上どうの学理上どうの、国家の元気がどうの、東洋の運命がどうのと云つて今更始まらない。寧ろ其形式即ち芸術のみ忌憚なき生活の真相を示し得る事を多とせねばならぬのである。先頃夏目先生が本欄にヒロイックな出来事も不自然でないと云ふ最近の事実から、自然主義と自称する者も此の方面に手を付けぬのを非難されたやうであるが、聊か見当違ひの議論では無いかと思ふ。自然主義の自然といふ事が事実有得べきことと云ふ意味で、事実有りさうにも無いといふ事に対立した者ではなく、寧ろ有りふれた平凡なと云ふ意味で、滅多に無いと云ふ事に対立した者である。故にヒロイックな出来事は其滅多にないと云ふ訳で第一に描写せられないのである。加之、上にも云つたオーソリティに対する時代通有の反抗的精神の為めに広瀬中佐や佐久間大尉の、従順、謙遜、犠牲、献身、のヒロイックな行為も鼻の先で扱はれる様な運命を免れないのである。
 以上は自然主義の現在に対する自分の解釈であるが、解釈は必ずしもヂャスティフィケーションではない。何処までヂャスティフワイして何処迄しないかは目下の自分には明確な定見は有たぬ。けれども自分は現実的、自暴的、廃頽的、憂欝的、悲観的のみの傾向に対するよりは之れ等に反抗的主義的の熱意を混じた傾向により多くの同情を有つて居る。前者と云へども近代的憂欝に対する同感の情から、幾分興味を有たぬ事はないが、そんな先の見えぬ暗黒な思想は自分の堪へ難い処である。之れに反して自己主張の精神の燃えて居る処には、よしや其れが乱雑であつても、渾沌であつても此処には創世記的の俤が忍ばれて、新しき世界新しき生命が何処かに動いて居る様に思はれる。之れ自分が現時の諸芸術殊に小説に対して生命の色濃き、作家の強烈な主観の主張の現れた者に同情の注目を注いで居る次第である。
 従つて自分は、桑木博士が自然主義をもつて自己拡充の精神の一発現と見られたのに全く服するのみならず、更に博士が此の思想を代表する青年を保守的な老人株が抑圧する事なく寧ろ之れを善導する事を勧めて、現下の思想界に対して秋毫も悲観的の気振りを見せて居られないのに深く同感する者である。淫靡な歌や、絶望的な疲労を描いた小説を生み出した社会は結構な社会でないに違ひない。けれども此の歌此小説によって自己拡充の結果を発表し、或は反撥的にオーソリティに戦ひを挑んで居る青年の血気は自分の深く頼母しとする処である。

                      (明治四十三年八月九日)