明治思想の変遷

           (明治三十年史総論)


 明治初年以来、三十年間に於ける最近の歴史を述ぷるに先ちて、そが根柢となれる国民思想
の推移を尋ねむに、そも/\維新の当時にありては、幕府仆れて王政古に復へりたれども、未
だ然るべき政体だに定まらず。嘉永このかた、一国の怖れとなりし外国の事情も、定かに知る
由もなく、尊王討幕の余焔は未だ志士の胸に消えざれども、誰れありて国論の向ふ所を一にし、
万邦対峙の中に我が国民に千万年の進路を示せしものなし。『広く天下の公議を尽し聖断を仰
ぎ、同心協力共に皇国を保護仕候へば、必ず海外万国と可竝立候』とは慶喜将軍が大政奉還
の奏聞中の語なれども、狼狽為す無きのさまはこゝにも自から現はれたり。洵に数百年の長夢
より目ざめたる国民が、頭を挙げて世界の大観に眩惑し、一朝かゝる乱離の世に処し、剰へ外
邦の交渉を控へたるもの、如何でか明確なる国民思想を作り得べき。今や王政維新を促したる
国学神道は、是の国家の大局面に何の力もなく、往にし日の攘夷の志士も亦為すに所なく、国
民一般の思想は、謂はば渾沌の裡に自然の成行を待てる有様なりき。幸に聖天子上に在まして、
鋭意励精、補弼の翼賛を納れさせられ、天佑を保全し、大業を克復し、茲に新政の大本、万代
の鴻謨を立てさせられ、天下の人心を率ゐて向ふ所を一にせられたるは、洵に天地の佑沢、我
が国家の慶事なりとこそ謂ふべけれ。誠にかゝる危殆の世にありて、国家の中心として万民を
卒ゐさせられたる我が皇室の稜威功徳の程は、我が国人の夢忘るべからざる所なり。
 されば維新以降の国民思想は、一に聖天子の叡慮によりて、其の方向決まれりと謂はむも不
可なし。明治元年三月、畏れ多くも聖上には現しく紫宸殿に臨ませられ、公卿諸侯を率ゐて天
地地祇を祭り、五事を以て天下の億兆に誓はせ給ひしは、とりも直さず我が国民上下の思想を
統一せむとの聖旨なりき。後年の国是は一に是の五事よりして定まれるものなれば、こは吾等
臣民の金科玉条として日夕体認すべきものなり。
 一 広く会議を興し万機公論に決すべし。
 一 上下心を一にし盛に経綸を行ふべし。
 一 官武一途、庶民に至るまで各々其志を遂げ、人心をして倦まざらしめむことを要す。
 一 旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし。
 一 知識を世界に求め大に皇基を振起すべし。
是の五つの事は、洵に当代の急務にして、かねて永世の基礎なり。勅意の宏遠なること誠に感
銘に堪へざるなり。上は国交政治より、下は文学美術に至るまで、一として是の大旨に本かざ
るものなし。広く会議を興し万機公論に決すべしとは、まさしく立憲代議制の濫觴にして、官
武一途、庶民に至るまで各々其志を遂げしむとは、即(や)がて門閥の旧習を打破し、広く人才を天
下に求むるなり。知識を世界に求むとは、広く世界の文明を収容し、長短互ひに相補刪して我
邦の新文明を開くなり。三十年間明治の歴史は、何れか是の大御心に本かざるべき。げに是の
五事の詔勅は明治思想の根源とこそ謂ふべけれ。
 遮莫、維新の革命によりて、社会百般の制度は殆ど其の根柢より破壊せられたれば、世はさ
ながら餓ゑ渇えたるものの如く、苟も是の欠陥に投じて新世紀に処するの道を示せるものは、
最も熱心に歓び迎へたり。げに聖詔の示す所によりて、大体の方向は定まれるものから、実行
の機に臨みて聊か望洋の嘆を免れず。時の人が新に唱へたるものが、果して永世の主義として
依頼するに足るものか、其利何処にありて、其弊何処にかある等の問題は.未だ思料するの遑
なく、ひたすら日前の急需に迫られて、新なるものを迎ふるに忙はしかりしぞ自然なる。斯く
て先づ入り来れるものは西洋主義なりき。こは一旦国を開きて西洋の事物に親しめば、見るも

の、開くもの、想ひしに優りて驚かるるもの多かりければなるペし0
                              てう
是の王撃蒜入するの縁となりし事情はくさ・ぐあれども、胡にありては、音響音の人々、
                                や
野栄諸叫を鋭察し、締れて彼邦の文物の耽れの比に非ざるを唱へしと、野にありては、編繹詮
                  レ がく
吉、中村正雲敬宇)など∽諸畢者が、私学ヴ開きて盛に洋畢を世に法めしとは、其の最も亙接
                      すで
の繰となりしならむか0就レ中宿浮氏は、慶應年間より已に是の目的の筋に、今戸まで是の年波
      二一                      事
の名を冠せる私撃宗空南に開き、政治、道徳−風俗、習慣、言西洋の功利単によりて子
璧訊へたるは・是の王義の預張にはゆ−しき勢力なりき0共の所記の三の例を拳けむに、
準か閑人は盲より天理人道竺定不琴南盲動かざるものの如く思惟すれども∵良いみじき
誤り写り0『忠臣二君に仕へ、甲州武士が徳川其他に仕へて働きたるも、主妄理人道に庚りた
るに非す0年若き寡貯が落髪して尼寺に入り、亡夫の音韻々弔ふも天理人道なり0再縁して子
宝み、よく華丁を教育するも天理人道なり0今の世に兄舞岡胞か蒜となら瞥天理人道に
反るならむと維も、アダムとイブの子供等は誰と縁組したるやQ立た日本書紀に仁徳天皇は八
田の皇女を皇后とすとあり、然るに亀☆は天皇の妹なりっ今より思へば不思議なれども、其爪
                                          くつが
時代には矢張の天理人道に基きし也』云々と説きて、本邦盲来の尉随なる道徳を根本より覆へ
し、又「椛論」と云音響て、扁震は、完にて享に双び響忠臣拳碍せらるれa
        言】)                           叱ら



                           〓)
も、湊川にて死なでもよきに死したるは、是れ樵兵衝が禰にて首をく、れると同じ事なり』と
論じ、苛も事の驚際に盆なくば、其の行演篭も質するに足らすとの拳ぞ逆ペたり。また世の人
が峯名に拘りて雲宰ぞ知らす、潰す所概ね迂潤なりとて、『畢校に石山撃ぞ川ひて数畢には明なれ
                                                        ニ〓
ども、店先∽帳合には暗く、作叉詰諦は上手なれども、手紙の文句は出水す、窮理書は読みた
                    ′、ふう
れども、竜の築き様と、流しの水はきには工夫を川ふるを知らず、化畢の吟味は経たれども、
甘酒の作り様と、豆腐の製法は未だ之を開かす。或は十ニニ誘埠ナが西洋流∽畢校に入り、又
                                    ねかりルくろ
は西洋人の手に就き、西洋音の唄を習ひ、西洋風のメリヤスを組み、却て糠袋∽縫ひ積も知ら
                     息 そひともじ                     ∋〓           から仁
すJ或は和漢洋の書窒頂みて三十一字も少しは出来れども、人身窮理は忘却して自分の鰹∽骨
も知らす、凰を引いて容鰹な述ぶることも知らす』云々と説き、従来s教育が資際の仰事に疎
遠なるを諷せり。扁澤氏の是等の詮は、今日より見れば何でも無き事なれども、維新草創∽雷
  すに
時、優れたりとは謂ひながら、古来の武士道・儒教、薗畢の批卜飴ほ人心に浸潤せりし際に於
て、敢て斯かる詭を唱道していさ、かも忌博する所なき其の識見と膿勇とは、眞に敬服すべき
ものなり。斯かる人ありて是の資金功利の畢な呼戟し、其の別棟を披き逝きたればこそ、爾来
諸般の西洋文物の▼斯くは容易に人中来り得しなれC想へば日本の新文明か、是の冒一由の先
                           ●− ヽ
年Lに員ふ所如何ばかり大なりけむ。其訟の往々奇矯にして、やや正琵に遠ざかれるものも無・

                                          ーhヽ
きに非ざれども、柄に應じて琴ぞ輿ふるの道としては、寧ろ其の眼識の明を琴フベきなり。「裔
                       吾川                      〓)
澤全隼」が明治の小歴整仏りとの恵も是の逸りに布すペし。霜澤氏の外に中柑正庶民ありて、
                                          ?と
東京小石川に同人社と云へる私塾を開き、均しく西洋の功利蓋我に本きて触曾の教育に力め.
    〇≡
英人ス†イルス氏の譜著を澤して1西圃立志編」−「西洋品行論」などを公にせしは、編渾氏と
共二皿ハの功浸すべからざるものありきJされと其詮は、癌渾氏のかた造に平民的、通俗的なり
しが麓に、赦曾の感化カに於ては、中柑氏のかた逢に劣れりしは是非も無し。
 斯く上下の風潮・西洋王手に傾きければ、西洋語、殊に英青利諾々畢ぷもの、年毎に増さり
行き・随うて幾多の著澤書は響こ跡と相接して世に出でぬ。些二川の例を畢けむに、歴把には
南開新誌・黍西通鑑、西洋輿傑俸ありJ地理.風俗には輿地誌略、西洋新書、西洋見開錬あり。
條身倫理には、智氏家訓、勧繋訓蒙あり。政治経済には、新政大意、立憲政鴨喀∵昂訊公法、
民約論、銀行論あり0其他、開化問答、文明開化、世渡りの杖、道理樹幹等、一々枚輿に逗あ
らサ8鋪道電信より衣食住百般の有形的事物が、靡然として洋風に化しっつある開に、是等の
著澤が諸官私立拳校の洋畢教授と相呼應して、如何ばかり常時の人心を風化せしやは、恐らく
は今の人の想像し符ざる所なるペし01民約論」の如きは殊に甚し。是の書は前世紀の彿蘭西人
ルソdc著にして、極端なる民王論なわ0其の要旨は、『融合の王は人民なり、君主政府は人


民が自己の利益の為に造作したるものなわば、人民に郡合慈ししと見る時は、何時にても是々
改廃するの樺は人民にあり』と云ふにあり。是れ悌蘭西大革命の一原寧曾潰せるユ革、彼邦に
                       ひとた       〓)
ては努力ありたる書なり。是の喜一度び中江篤介氏によりて薄されてより、急進改革ぞ書ぷの
士は、竿フて是を読み、其詮を鼓吹し、民横自由の饗、一世々聾勤せり。西洋に心酔せる常時
          −】
の融合も亦漫然是の詭激笠島を看過して多く怪真す、一部の保守∽士、もしくは先覚の士の
              lりひ い
外は、そが我が民情は鰹と祁容れざるものなることを認めたるものなき程なりき0けに代議政
                                    はや
艦は、明治元年の瓦事の御誓文に本けりと云ふものから、そが開琴ぜして言H々速からしめた
                                あづか
るは、是の「民約論」の如き普によりて陶冶せられたる急進肴流の運動輿つてカありと謂はざ
るペか・hす∂
 斯く民間思想の大勢が西洋王我に靡ける開に、朝廷にありても人材公選の詔あり(明治二年)0
明治四年には履弼置撃ぞ断行し、五年には初めて末曙閲に蛾道を開業し、同じ年に徒衆の太陰
暦を度して太陽寧伊一用ひ、入年には政燃費草の詔を壊し姶ひ、かの御誓方の意を壊充し、元老
                           かに
院々設けて立法の源を庚め、大審院を置きて審判の樺を驚くし、且つ地方官骨轡ぜ召集して民
       山J′b
情疏通S準ゼ披き、漸次に立患政憶S完成に琴つかむことを朔せり。蕾時朝野の心を一にして
改進の道を急ける様は、是等の事資に就いて見るも略t明ならむか。

 故に是の革新の気勢々助長するに少からざるカありしは新田紙なりごは朝野の閑に立ちて、
常時にありては活眼達識の士を多く記者として網羅したりければ、其の詭く所は幼稚なる常代
の融合にとりて.光明となり指針となれるも少からざりしなるペし。新開の由来豊埠ねむに、
けんぢ   べいじん
元冶の頃、米人某が硫曙に於て毎舟歌掴、胡を定めて刊行せし『新開璧と栴せるか本邦新開
                                    もレはルヽき
拡の囁矢ならむ。其他維新の前後、末曙閑に甫囲新開、内外新報、内外研尚、涼押草笛の教種
ぁりしが、共頃のものには離託と云ふもの無く、椎t公私の和琴ぞ秩序なく櫨列せしに過ぎす0
新聞紙本来の品性は、其の常事常にだも知られざりし程なれば、まして融合の是れに射する眼
も甚だ低かりしものなるべし。されば兎にも角にも新開紙S絶裁々具へたるは、明治九年以後
に出でたる東京日々、京曙毎旦今の毎旦、報知、朝野、曙の譜新何に納まれりと謂ふべし0是
等新桝の記者は糾何なる人芸りしかと云へば−東誉H芸編地、東鞋n増額日の沼閑、報
                             〇亡
初の矢撃欝〈葦、朝野の鷺、嘉、曙の岡本宗雄革荏の名士にして、中七は然ら
                           へ預)

ざる人もあれども、其の多くは何れも西洋思想を抱拝し、所謂る新文明の先覚を以て自任せし
人々なりき。されば其の主張唱道は、施設に断念の差別こそあわ、粥洋思加甚以て一楷を撃の
むとせるものに非ざるは無し。人若し常時の新尉‥轡ゼとりて其の論説な読まば、西洋三毛、欧
化王家が紙面に妨流せるを見むn

 けに常時の敢曾に最も勢力ありしは、三戸すれば欧化主義なりき。是∽王或は、其の魂はわ
たる形の上より見れば種々あれども、其の根本の目的は、孜邦一切の文物を西洋化するにあり。
                                 レ
脅に其の衣と食と住とを洋にするのみならサ、常に蛾道々布き、電轡ゼ架し、其の外部の生活
を洋にするのみならず.珂障も、民心も、出来得るならば其の髭をも、眼をも、皮栢をも、洋
にせむとするにあり。素より常時の急進者流と雉も、斯くは明に共の目的を自覚せす、椎{漠
然何とはなしに洋風を欽恭して是れに挨倣せしならむも、其の形避に就いて見れば、一般に甚
だ寝相無謀なりしなり0随つて是れょり漸く隼外自卑の風習を馴致したるは、是れ亦おのづか
らなる勢なりき。是∽外を食ぷの傾向は、明治の初年にも已に明に存せしことは、常時の杭渚
日刊新開に左の如き記事あるにても知らるペし。
                                〓)   (ニ)
  此程横濱に居られし大原前倖後段、昨十【日九夕牛に御入城に相成る。・::貫:立て洩帝の道筋にて
  は、家々戸を験し、細き紙札にて目張りをなしたり。洩術の時、道路にありし士艮は皆平伏縛据ぜり。
  然るに西洋人は、更に我閑人の匁す如くぜすして、鳥上にありて倣然と是れを見物すろに、誰も蕾む
  ることをぜす、嘲γ故障あること無し。賓に日本人の開けしこと是れにて知るべし。云々。
                   圭】                  盲−)
数年前には、l諸侯∽行列を杭ぎりしとて、外人を斬り捨てにせし勢なりしに、今は即て外人
の無紹を努めざる一ぞ開化せりと賞讃す、時勢の費逐を見るペきなり。析洛は夙に互市境なりけ

     ふう             こ
れば、外人崇罪の凰も早く行はれたるペく、之に反して全響芸風潮に麻きしは、明治十年乾
くにありしも亦怪むに足らずJ常時の国民は、外を容るるに急にして内を顧みるに遽なく、建
                                                          _】■


                                や
に全く裁か同粋々地却して偏へに外物を隼びしも、忘凶思想の磯達上已む・竺静ざる一階段なり
と謂ふべし〇然れども是の傾向に封して全く反動なきに非す。明治六七年の頃に一時盛んなり
   〓)
し亀嬰∽如きは、其の一例として見るペし。
 駁ふに倉皇敬抑を以て立てる鴎畢が幕府と州容れざりしは自然の弊にして、斯道の豪傑平田
篤乱の如きは」殊に惨酪なる迫害な受けたりき。然れども叢肝の構成漸く衰へ、其の根縛漸く
拓ぎそめし頃より、同畢者流は多年の座制に射する反動Jして、陰に陽に食王討幕の気勢を助
紬●9


                                          ●‘
けl維新の大挙ゼ成就する上に於て多少のカを寄興したり。然れば、維新以後の悪日が、上下
な壌けて偏へに西洋に心酔し、是の大挙〃歳すにカありし本邦料有の同学ゼ願みす、却て是を
葦除せむとするの有撃完て、申でか多少の反動なくしてむむべけむや。殊に一方には、朝廷
                       lカ

にては閲拳の徒な用ひて復古の政な助けしめ・明治元年の祭政二致の詔を初めとして、同三年
                                                     .レ
には帥預錦祭の詔あり、大数宣布の詔あり、教郡省を設け敢導職を置き、紳道路撃ぜ布く上に
    ちから
於て多少力を盤せしかば・欧化主義の大勢動かすべからざろ際にも、触曾の一部には囲畢の飴
虐全く準えすして残りき0是の鈴煩は明治六七年の頃に至りて一時に墟がり、組畢紳道の研究





                                         ・ヽ・U
を以て東京に遽畢せる音律二時琴心多かりき0されど、共勢ひ固よわ施H中天の弊ある欧化主
義に比すれば十の言も足らす。例へば哀の坂・}弊て江河の硫流を防ぐ・か如く、何等著し
                                                                                           いちじろ


    のこ
き赦果を胎さざりしは、是非も輝き勢なりと謂ふペし。
 かくて所謂る皇畢各流の些細の反封を蹴倒して.欧化王者は忘榊千里の努々以て進行せり0
是の際、融合上下の事の泣〓すべきもの多々ありと挑も、是の欧化の傾向は板垣、副島、後藤、
  〓)                ウニ)
江漆、四参議の民選議院設立の桂白、及び是等の諸氏を中心とせる愛珂公柵禁り組蛾に到つて其
の頂粘に達せりしが如し。
 所謂る民選議院設立S趣旨と解するものは、今日より見れば誠に軍純幼稚なる思想にして、
所詮は欧米各姐の政鰭の実に恢慈し、民約論的の思寧ぞ以て是々解挿し、苧ぞ我邦に施さむと
 つ・亡
力めたるものに過ぎず。我が閉慣民性の特質、歴史、及び欝批S現勢に就いては殆ど嘩ゆる所
       もと    かによ  モレり
なし。其の観察素より一面に偏れるの準ぜ究れす。四参議等の桂白の誓Hに臼く、『方今政礎の
     か息       レも
嬰タる所、上皇真に在らず、下人民に凝らず、而して狩り有司に蹄す、是々以て政令首相・朝
令暮改、政刑情驚に成り、賞罰愛惜に出づ。是々撮鵡するの菜、昭夫下∽公議を張るにあり0
天下の公議を張るは、民選議院を立つるにあるのみ。夫れ人民、政府に対して納税の事務ある
            l●−す
ものは、理として普に其の政府の事に囲輿するの横利あるべし.是れ天下の通論にして−民選

議院の掘りて立つ庚の原理なり』と。同時に建白肴諸氏が組織したる変蟻公演の「本誓」に左
の一俵あり、以て常時民選議院を王張したる諸氏の思想の如何に「民約論」に感化せられしか
を知るペきか0日く、
  我盟り斯の政席を硯ること・斯の人艮の蒋に設くる所の政府と看倣すエり外ながるペし。而して普紫
  の目的ほ、唯、斯の人民の通報横理を保全主張し、以て斯の人艮をして白辛目射撃止不礪の人民モ。
■  を得ぜしむるにあるのみ0

■ 同じ「木誓」の中に、『斯の王我は愛君、愛囲、一片至誠∽上よりの発憤』なりと炉じ、天皇
…陛下御誓文の旨警淫奉する・の窓に外なしと述べ昔。されど常時許氏は、是の如き極端なる


如(f柑)の青年を鼓舞して起したる立志触S趣意富を見るに、蜜に左の如き言ありっ
      ひと
  乗れ我墾脅しく日本陸の人艮たり。則ち三千有飴萬人悉く同等にして、潰脱尊卑の別なく、常に丑二
  定の横利を享有し、以て生命を保ち、自立を保ち、職架を勤め、滴緋を長じ、不現彗皿の人民kるべ
  き三・暗々乎として明白なり。是の横利巧るものは.威厳以て是れを奪ふを待†.官費以て是れを
  歴†るを待す・委し天の均しく人艮に斌輿する所のものにして、而トて斯の権利を保有ぜぎ、とは.


  ま托
  亦人長の宜しく勤勉†べ与所のもの[りご召々.
こはまさしく天職人樵論にして、帝王にも乞食にも同等の櫻利ありとするものなりQ
 斯かる極端にして且つ幼稚なる思想によりて、駒家の大事を料理せむとしたるも・所詮は明
                                         はレ
治初年以来の欧化王者の頂弘に達したることを表はせる也。是の過激なる欧化王手は、撃仏く
も閥民の閑に柾屈せる保彗義の反動を惹屯し、其の結果は遂に民選議院反封論となりて顆は
れぬごは常時狩襲畢者の審nる加漆弘ム爵によりて其緒を幣き、西周、森有鵡諸氏是れに
                     nち  ニl)

和して、一時新聞紙上の論壇に両派互ひに火花を散らして戦へり0其の意見の要に日くヨ制度
悪法を創定せむには、先づ邦閲今日∽世恩人晴々詳賀して、是れに恰常適切なるものを環ばざ
                  袖だ
るペからす。今日未だ準;ざるの民智に委ぬるに民選議撃ぜ以てせば、是れ愚人をして愚論を
尉はしむるに過ぎす。民選議院の王論者は・ルソー氏の詑により、政轡ぜ以て全く約束よの成
るとするも、政府の事々輿和するの楼利は納税と祁射する植利にあらす。況や一団の政貯は、
必ずしも約束に起るものにあらず、盲来歴史上の沿革、共の源を異にするものあるに於てを
や』とっ
 是の保守詭の見るところは、欧化壬我者流の見る所とは大に異なれるを認むペし。欧化三番
者流は飽くまで民を以て王となし、政府君主を以て民の為に存在せるものとなす0然るに保守

 主事者流は、各同梱別の席数に大きて、政貯と人民との関係おのづから定⊥小れるものあるが故
 に、政和は必ずしも人民任意の約束に成るものにあらすとなす。両者正に相反す。然れども常
時の言論に就いて見れば、保守論者が指摘せるは、我が政府と人民との翔悸は歴史的に成りて、
欧米詰邦の比にあらすと漠然と言へるのみにて、一も鯛隠と云ふことに音別せザ。想ふに攻憶
と開鰹との差別の如きは、其の深く国別せし所に非ざわしならむ。且つ稚邦にありて『政肝と
人民との関係』の如何なる粘か、如何に欧米各拭と異なるか、其の歴史上の治草の郷遽に彼此
の差ありや等の疑問に射する精細なる鰐将に至りては、是等の論者三日も就き及ばざれば、其
詭に果して如何ほどの確資なる論球ありしやも知り難し。想ふに椎.漠然たる信念と観察とに
水き、其の保守的感情に導かれて、欧化王寺の極端詮に反射せしに過ぎざるペきかっ
丁斤選議院に反射するものには、倫ほ卑しとするものと、滝野的に非なりとするものとのこ種
ありしが、廟議は遂にかの五事の御誓叉に本き、欽定怒法制定の詔な奏話しご明治九年九月「後
 に到りて訊曾開設の切々さへ定めたり(十四年十月)。こは素よhエ粥横公論に決すろ雷初∽、御誓文
を貫通する聖旨に飢づと維も、抑」又一世輿論の向ふ所を容納せられたる大神心に依らすむば
 あらす0
 政治上に於ける掛化王養の流行は、国民思憑全鮭の反射とも見ろべきものなれば、そが社禽
の内部に於ける怒響も亦推し測らるべし.されど革曾の上に於ては・壷の攻撃卜於ガるか如
く、庶接の利害未だ甚だ明ならざるを以て、是れに反射する王‡も亦現はるること比柁的に頂
                か な
かりき0されば民選議院反射の畢可成りに喧しき時にも、帝政抑鬱如き保守王手の政篤の現は
れし時にも、君父に射する義済よりも自己に射する事務を先にせる1勧膏訓蒙」、1智氏家訓L箪
の粥慧這、依然として倫理教科書として閥民教育に用ひられ、殊に西南戦争終り宝口けて、汚
洋心酔の政治家内閣々組織寸るに及び、西洋の文物は上下のり慧易轟けて歓迎せられたり0自
由王手の攻篤か、其の機関新開紙上に鼓吹せる民樺論、自由論は、伐然として蒜の融合を司
配し.其S首領が、蒜垣死すとも自由は滅びず』と叫びたる言糞は、改革に準山なる人々には
殆ど聖者の璧首して偉へられき。天賦人樺の詮は更に男☆同樵の論を産み出だし、女子にし
て所琴八壷姐の志士と共に局思の人となるものすらありQ革命に関する研詣小詑は盛に撃品、
      〓)
りつトン、ヂスレーリ等の政治小読も亦盛んに世に出でき0常時和漢拳者∽開に多少の反動はあ
りしかども、さしたる赦泉もなく、徒死の漢字を排せむとする1かなのくわい」、さては団字ぞ
も共に捨てむとする森縞字曾等、踵々壊して竜りき0狩り拳術の上にて西洋の我れに優れるの
みならす、其の文畢にまれ1菜術にまれ、我れに取るべきもの無しとせられたれば、和洪の古
書蓋は殆ど其の償を失ひき。西洋凰の慣慧臼、舞慧蒜盛に奨励せられ、太宰畢生が女畢生と

混同して、英語にて忠臣撃ぜ演じたるも是の頃なり0西洋人と云へば、何虚か我れょりも高等
なる人間の如く思はれ、融合議の事物の中にて、我れに取るべきもの殆ど無しと思惟せられ
       〓)
き〇斯かる時に弘道曾の如き日本国有の道徳王琴ぞ唱ふるもの起りたれども、其の詭く所はは
腑に過ぎて、汎く時の人に替れらるるに至らす0偶数界の人々は是等専蕾浪と連衡し、破邪顛
            ちtひ


 つ−)
正の旗峨々礪へしけれども、基督牧は欧化王寺の後抜に操りて前後比類なき全盛を極めたり。
世界的眼光を以て日本を祝賀すと呼ばはりたる徳富蘇峰氏の「脾来の日本」は、.一世の雲是
         つ
曾に歓迎せられ、績いで世に出だせろ璧抑1図民∽友し・も亦青年書生に軍試せられき、一然れど
も其の唱道したるは1民約論」の亜流なる平民主事なりき。其の系統より云へば、無論欧化三
番の一度物にして−我・か閥鮭民性∽特質、本邦固有の美所長所等に就いてはて言ふ所なかり
き○兎に角・明治二十年の頃まで、閑民思想の大勢な聾断したるものは、西洋王攣畝化主事.
随つて外物摸倣主義.外人崇邦主義なりき。
 絃に三写ペきことは、吾人が是迄西洋主事、もしくは欧化王護として呼び来りしものの中
に就いて・審かに是を検すれば−更に教程の小分流の封立を見るペきことなり0其の族職の最
                                        はじ
も酢明なるもの凡そ三ゐりJ第一は英音利流の功利主事にして∵這編揮氏を首めとして、す
      言−)
ペてミル、ペンサム等の訣に私淑するものの唱ふる所なり。準正体蘭西流の自他主事なり0
                        はリ         ニ)
こは「民約論」の謬肴たる中江氏をせめとして、大井、枚増.諸氏の組越したる所なり。竹竺こ
                               へニ)
は燭逸流の圃象主義にして、こは加旛、海江田、諸氏の唱ふる所にして、妃冊掲逸の駅家堺者
               冨ニ
スタイン、ビLアルマ・ノ諸氏の詭に本く。是の中、尤も根鰐深く且つ勢力あるは、無論英青利
流の功利主義なり。然れども是の王者は、主として触曾の蜜利に∽み注目し、政憶等に関する
大間拉には比較杓に冷淡なりき。然るに俳腑西流の自巾主義は、融合の根本的改革の根源を、
                              l壬つしぐ′9
政憶の革新に布せりとなし、目前卑近の功利を措きて.蕃地に是の大間琴イ虚へて是を鼓吹せ
り。是れ尿道議院の首唱者が、扁渾氏一流S功利論者に非すして、手こして彿蘭西流の自由論
者なりし所以なりっ若し夫れ猫逢流の図家論者は、本邦の薔朗£−打破して西洋の新思想を輪人
することに於ては、他の二流に均しと杜も、政治の問踵に関しては全く彿蘭西流の自内論者に
嬰仏り、飽くまで常王の無上樵を王張し∵掲民平等の植理を認かす。是れ民選議院の設立に戊
封せるものの中に、純然たる保守論者の外に狩逸聾者の多かりし所以なり。融合上の努力の上
ょゎ見れば、猥逸流の勢力徹々たりきと維も、政辟の要路に常れる人々の中には、彼地に遊び
て国家畢∽講地学ぞ培き、もしくは其の感化を受けしもの割合に多かりしを以て、官史社曾には
勢力ありき。かく西洋王手の中にも、おのづから三窺分立の婆ありけれども、民選議院の問拡
に紺しては、繁々避けむが虜め、其の大勢の上より欧化王養と保守主事の申Lしして記述せり。

先に述べたる如き緻化主義の勢力漸く其の極端に琴つくに随ひ、二十年間の新教育、新時勢を
               きと                 モモ
綻験せる閑民は、漸く中心に於て其の撃官費り来りぬ。今や二戊動の堤起せらるペき時横は方
に迫りぬQ是の反動の気勢を代表して新鶴したるものは雑誌「日本人」を扱隣とし、志賀、三
 〓)
軍諸氏によりて唱へられ‡心空洞る閥粋保存王我な・りき。
 閥粋保存王我とは如何なろ主事ぞと云ふことに就きては、常時区々の論戦ありしが、詮する
所、其名の示すが如く・我が開粋を保存すろにあり0既に保存すと云ふ以上は、保存せらろペ
き閥梓の存宰ぞ憫定せるや論なし0而して特に是の圃粋々保存すべきゲ王とする以上は、是を
打破するの反射王挙ゼ預想するも亦勿論なり0岡持保存論者は、菜よ幻天の除化壬撃ゼ以て、
其の反射‡苧こ思惟せること明なれども、保存せらるべき閥粋の何なろかに就きては、明に説
示する所なかりしが如し○唯盛然披れの長を取りて我れの寧ぞ補ふは、是れ眞に一団文明に稗
              l¶”
左する所以なり。夫の一もこも無く外邦の文物に心酔して、我れの長所実所々桝稟するは甚だ
不可なりと設けるに過ぎザ。されば其の所詮の多少明撃ゼ快きたるより、反射論者より無差別
              性叩とけ
に欧米の文物を排斥し、熊が仰をのみ猫わ貧しとする同随なる保守者流と同一観せられたり。
こは誠に誤畔なるべけれども、其詮の消極的方面を訣くに淋しくして、積極的方面を詮くに粗
                  かと
なるが虜に・圃粋論者か自ら招きたる廃も多少あるべしと恩はる0所詮は闘枠其物の性質に就
いて、的撃仏る科畢上の説明を映きたるの弊なわと謂ふペきか。
 然れども閥粋保存王寺其物の慣値は如何にもあれ、そが閥民思想を覚醒し、是れまで徹上徹
下に践直し来りたる欧化壬養の適否に就いて=人猿省々促したる功績は、明治歴むの上に特笠
すべきものなり。けに一個の王手の勝敗は、一時の論戦に於て決せらるべきものにあらす−井
のよ我の位りて以て堪りたる閥民思想の根棋にして陀乎不動のものならむには・終には最後の
勝利一?占むべきなりっ甜粋保存王寺は、決して二三氏の創意に興りたるものに非サして、維新
以来、欧化壬葺の演に多年の屈竿竹忍びたる帥民端紳の自然の凝撃仏りとすれば・根耗たる固
           かは
民の絹抑にして衰へす準bざる限は、依然として其の勢力を保持すペし0其の名或は攣らむ、
そを唱ふる人も或は琴bむ、其S訟く仰の詭の形も亦或は変らむ、されど其S王手∽嘗質に至
りては、時勢の遊歩と共に金t進塘して、決して衰退すること無かるペし0閥粋保存王我は怯
に是の如き王巷なりしなり。
 けに切符保存王手の唱へられたろ頃より、国民思想の漸く其の方向を縛じ来れることは掩ふ
べからざる事寓なり〇従来にありては、国民の思想を動かしたる重力は、鴇に西洋思奨怠りき0
かの民選議院S慧糾の際にありて、是々重唱せるものは東より論を待たす、是れに反射せる主
力も亦西洋畢者なりき。囲拳紳道の宗兢々引ける純粋なる日本壬雲仙者も是の中にありしかど、

そは極めて少数にして、特に言ふに足らす、申論は主として西洋畢者の卒論なりき。故に加瀬
氏一波の掲逸拳者が民選議院を命早とし、若しくは香認するにも、其の論嫁は一に西洋の畢理
にあり、一も本邦国有の開腹民簡々根涛として立論したるも∽あらざりき。然るに圃粋保存主
義は、具の根本の浦紳に於て是等の託とは輿なり、其の立論の基礎を外邦の畢理に求めずして、
稲つて本邦の特質に求めたりっ其訟は如何に粗箕にもあれ、其論は如何に幼稚にもあれ、兎に
角、猥立の日本思想によりて欧化王‡に封桑せしは、賛に是の閥粋保存壬義を以て初めとすべ
                                   〓)
し。是の駄に於ては、是の主義は怯に今日の日本王手の堀騒たりしもの也。
 斯く脚梓保存王寺∽勃興によりて代表せられたる如く、囲民的意識は漸く共の白鷹の域に進
みたれごち、人・だ俄に欧化主義積年の勢力を凌駕する緒にサ、其の牢ひ漸く激しからむとせり。
宗教界に於ては、彿教は保専思想と胡呼應し.以て欧化王手と密接∽関係ある基督数々攻撃し
   つと
て甚だ力め、漠畢は囲畢と粕携へて造に俳故に野球せり。明治廿二年二月に於ける憲法の発布
は、我が欽定語法S性質を明にし、かの英俳譜姐に於ける諸種∽志法と口々同うして論すペき
ものに非ざるセ知らしめしかば、多年彿蘭西瓜の民約悪法を望みたる白山論者は、定めて多少
其の杢想したる所と邁ひたるを驚きたるべし。然れども足れょり政憶上に関する急進論者S黎
                きレはさ      と息
は、憲法停滞の上に多少の異議一甘挟むの外、気勢頓に衰へ、掲逸的組家畢と抱合せる一種の組
怯論は、汎く閥民の政治思想を其の根本に於て統一せり。然れども融合上教育上に於ては、西
洋‡養猶ほ未だ力を失はす、閲嬰、儒教も亦一方に割渡して各・其の轡豊肪ひ、人々其の信す
              〓)
る研によりて左支右吾し、一般鈎民の其の適錨する所に迷へるの槻あむ。偶−教育勅語の換発
          −しヽ
するあり.閥論是に於て山定し、忠君愛姐、拳固叫致を以て国民道徳の大旨趣として奉捜する
に至れり。是の劾語∽教育上、触合上に於けるは、猶ほ悪法の政治上に於けるが如し。共に人
心を統一し、組民思想の大方向を規定すろの山犬要素なりき。
 斯く記し来れば、裁か皇室か管に我が姐民全憶の伐増する大支柱、大中心なるの事蜜は、い
ょいよ明なりと謂ふべし。先に維新革創の際、拳闘乱雑して残す所々知らざるに常りてや、か
の五事の御誓叉を以て天地億兆に誓はせられ、先に明治新文明の大方針を示し・民をして其の
向ふ所を知らしめられき。西洋心酢者流か、民選議院の設宰ぜ拉白するや、駒渡の特性、民情
    かんが
の現轡ぜ鑑みさせられ、慣すに年月を以てし、圃民々して其の準備を致さしめ、更に期に先ち
て欽定語法々発布して我が祖絶∽再邦に冠紹する所以を示し、以て姐艮の覚悟を定めさせられ、
今や又維新以来戚の如く乱れたる徳政の為に、是の千古不磨の大詔を下し姶はり、民をして国
民道徳の大丸締趣々知らしめ給ふ。膏に執民の盲動を導き、各・其の正路に就n狽得せし
め給ふ叔慮∽程は、我が覿艮の蔑重にも感銘奉捜すペき所なり。

 遽英、教育勅語一たぴ下りてより、従来の閥樺保存王我が一挿して囲家主‡の思想となり、
金・其の全捷の準∽芸仰ぎしには反して、自由平等を言ふこと厚くして忠常愛国を訟くこと薄か
りし従来の欧化真義は、今や耳の所信を柾け、詔勅の示し給へる臨束王寺の道徳に調旗せざる
べからす。粥洋心術の風、是れょり漸く衰へ、基督致も亦漸く其の世界的性質を改めて隣家的
となり初めぬ。同家王寺は埠勢ひに乗じて次第に欧化王手の城塾に迫り、絃に鴇なくも最も数
                                      ●〓‘
烈なる卒論を惹起しね。所謂る教育宗教衝突論是れなり。時方に明治二十五年の暮なりき。
 是の卒論は読者の記憶せる如く、井上哲次郎氏が宗教と教育との関係に就いて「教育時論」
記者に射すろ談話に其の萌芽を壊し、攻で『教育と宗教の衝突』と駐する三帥文に杖恋々成し、
                          たぐ
而して常時の宗教教育融合に、民選議院の畢論以後に倫ひなき論戦の花々吹かせたるものなり.
氏の訣の要に日く、『ニ弟一)耶蘇教は隣家の差別を認めす、其の詭く所の道徳は純然たるm世閑
の道徳なり。是を勅語か忠君愛園を以て国民最高の徳と潰せるに比すれば、全く而立し難きも
のなり。(第≡耶麻軟は既に出榊開の事を王とすれば、常に重きを未来に置き、現世は佳に未
来世界の門戸に過ざやとなす。是れ勅語の精帥か全然現性的なると州容れざるなり。(第三)椰
蘇教詮く所の愛は無差別的博愛なり.然るに勅語示す所の愛は差別的の博寧仏り。是を以て二
者互ひに衝突するを免れす。ニ弟四)耶蘇教の映鈷として特に著しきは忠孝竺声はざる事なり、
蕾に言はざるの愛仏らす、往々是れに反する致旨ありご疋れ勅語か示す所の克登兄孝の教と容
              ニ}                    ミ)
れざるなり』とJ氏は博引労詮、最も鋭利明快なる論法々以て其の旨趣々放射せり○是れ蜃に
                         ニーー)
基督教徒の死活問寧ぜ含蓄せる最も手将き攻撃なりしを以て、本多、構井、ニ氏を初めとして,
苛も耶麻教内に身を置くものは、輩に口に極力其∽論を駁し、就レ中高椅九郎氏の如きは・『償
再挙者の犬僻論』と隠する長論宰ぞ雅誌「閥民の友」に招け、井上氏の論旨々反撃し、且つ論
語空言極めたり。和漢単者及び偶数徒は是れに反し、井上氏に左祖して基督教徒に懲り・甲
論乙駁、締結の決すペき模様なく、裁断々後年の輿論に残し、数月を経て漸く鐘辞せり0常時
是の卒論∽盛なりしことは常に驚くべきものにして、新開雑誌として是の申論を掲けざるはな
く、知名の畢者にして質香の誓還せざるは純音有様なりき0以て如何に是の問煩が常時の触
骨に畢きを潰せしかを見るペし。其の源は井上氏にありと雄も、蜜は量れ欧化王琴ゼ代表せる
基督教と同家王手との格闘にして、殊に防禦の位置に立てる基督故にとりては、曹に盛衰の問
抵ニトるのみならす、驚に死活の問艦を包有したるなり。
是の卒論の勝利何れにありしや、畢に議論上の牢としては、基督教徒にも・それん\道理の取
るべきあり、勿論最初より攻勢を取れる井上氏のかたに多小の優勢を認むと鉦も、何れを全勝・
何れを全敗とは決し難かりしに似たり0然れども革質の上より見る時は、基督教徒の勢力是れ

より俄に頓堆して、全く教育上に其の根球々失ひ、唯、其の讐苧ぜ守りて自活の道に汲々たる
の勢あり。偶く同数の中に改革の士あれば、そは従来の他界王我々捨てて其孜々圃家主頚に調
和せむと務めたるの人たるに過ぎず。基督教の達迎王頚遣れょり漸く明なり。是れに反して囲
                                      ひ
象王頚の道徳は、是の論戦によりて愈l其の教育上の基礎一ゼ囲うし、其の勢力延いて廉く赦曾
の四遽に及び、漸く一世の思想を統一するの途に銑けり。
 然れど怠M時駒民一般の思想未だ幼稚にして根抵より同家王寺の眞将帥を官得すること能は
す、其の所謂る固家王撃サ包ものも、形式上より勅語を解療し、浸りに自食の気習に琴bれた
るの形避なきにあらす。先覚の士にありては、素より是の事なかりしなるペしと維も、固民の
全鮭に就いて是々観れば、所謂る囲艮的意識は未だ十分明瞭に椎柴し了せられざりしに似たり。
此革は常時の論文記事を一読して知るべしと維も、尤も手近き例は、彿教徒が教育宗教の衝突
論に際して、草小銃意井上氏を環助し、共に基督教徒を攻撃したることなり。是れ今日より見
                            iち
れば欝だ笑ふべき矛盾なるにも係はらず、常時の名僧智識速か、鼻面目に是れに徒事したるを
以て見れば、常時の人には隣家王我の甚だ曖昧の中に誤辞せられありしを想ふペし。そを如何
にと云ふに・抑く先に抱けたる井上氏が、渡りて以て基督故に大打輩を加へたる四倍傑の何れ
か−移して以て彿教攻撃の好利器とならざるべき0井上氏は耶蘇教・脊攻撃して日く、『馳家の羞

別々認めサ、純然たる出性別の道撃ぞ以て椎二の道徳とする宗教は・小蒼愛姐∽上に立つ勅語
と雨立すべからサ』と8和して俳軟は嘗に是の如き宗教にあらずや○井上氏は耶蘇致を攻撃し
て日く、『重きを出世閑に置き、現布世々以て未来爬の門戸と残す如き宗教は、勅語の現世的溝
紳と刈容れサ』とゥ而して俳故は印ち是の如き宗教にあらずや0井上氏叉日く、『平等無差別の
博寧官設く宗教は、差別的博寧官設く所の‥彗柑と正に相反せり0又忠孝を以て道徳の基礎とな
さざる宗教は、即ち勅語の潔仏り』とっ是れ亦やがて俳教の性質と正に胡適合す0是れにより
て見れば、井上氏は特に耶麻故に就いて言へりと維も、非の賛は彿耶雨故に射して均しく打黎
を加へたるなり。望見.氏か舜けたる四慣性の如きは、彿耶雨教の通性たると同時に・一切宗
教の本旨なれば也“故に彿教徒たるものは、基督教徒と共に氏の訟に対して駁撃せざるペから
                     、】ヽ
ざる位地にありしなり。琴るに普正に出でず、却て井上氏に徒つて基督教▲ぞ攻撃し、敢て怯ま
ざりしは、驚に奇怪干満なりと謂はざるペからす。是れ彿教徒は、其の多年仇敵親し凍りたる
甚督教.か、偶l攻撃の封象となりたるを見、欣喜の餓り、一もこもなく、己れの敵とする基督
教・ぞ攻撃するものは、印ち己れの味方なりと夙断し、そが却て俳那粥教の共同の敵なることに
心附かサ、其の浅慮鰻見、眞に憫笑するに飴りあり。所詮は基督教攻撃の二語に舷惑して、其
の攻撃の彗日の如きは、三浦細に吟味するの遽なかりしに依るとは云へ、抑く又教育勅語が

閥民道徳の原理たる研の同家王寺倹ォ質を明にせす、儀つてそれと宗教との関係等の詰問塩は、
未だ了解するに及ばざりしなり0想ふに是の悌教の援助を受けたる井上氏は、中心意外の川棚あ
りたるべく、又早晩偶数徒が、基督教徒に射したると同一の攻撃は、如ち自家に封するの攻撃
              ▲−、¢
なることを朝党するの秋あるペき々思ひて、彼等が自己の琵見に漸塊するを気の養に思ひしな
らむ〇而して常時は知らざる配して、彿教徒の来援に任せしが如きは、氏も亦柴士の術批a有
 せゎと謂ふべし0
 何は蒐もあれ、是の一事にて如何に常時のや−教育ある人すら、閉家王‡の眞瑞紳に適ぜざ
                                         へニ)
りしかを想見サるに足るQ常時、取畢融合に喧しかりし久米氏の『祭天の盲俗』と超する三柵
文に射して、囲畢家、紳道奇流が、拳術界には許すまじき瀬法の迫害々行ひしにても、国家な
ど云ふことの、圃拳希開にも附せられざりしを見るべし。されば欧化王義も、亦是の埴漏に乗
             や、
じて侍ほ北ハの餅努々保ち、動もすれば捲土重水の努々示したり0是の時に雷りて、外部よりM小
ひ掛け錐き一大刺撃の閥民思想な根抵よわ筋撼し、所謂る姐民的意識に明白なる自覚を輿へた
るあり0明治二十七人年に於ける日活戦争印ち是れなり。
 言ふまで・ら無く、日活戦争は、我邦が東洋平和の維持の濱に、絢命を賭しで閲ひたる隣家生
存上の一大危機にして、隣つて本邦政治把上の最大事驚たると共に、また明治思想史の局面を
 】重したる契鮎なり。こは最定年の事なれば、濁しく詑くの要は無かるペけれど、是の戦争は
悪Hの上屠下盾に論なく、執れの方面に向ひても最も活倍なる団艮的逆動を催竜し、多年、理
論、香寧ろ察論によりて教育せられたる図艮に向ひ、死活、興亡S厳鵡なる革質によりて、囲
家囲民の豊事々教へたり。閥家と世界との関係は如何に一個人と駒家との関係は如何に一世
界に郡し、国家に人となるに於て−同家と国民とは爪齢ポ壷悟なかるペからざるか〇一国の道
撃義は如何なるものならざるべからざるか0是等の榊抵々、今や閥民は其の血と涙とを以て
          こ、               ヘニ)
経験し、研究し、且つ辟繹せり。是に於て教官勅語は更に新なる光明に照らされ、多年摸稜の
開に牛信牛疑したりし忠常愛閲の眞満抑は、今や最も適切に曾得せられたるを撃乙ぬっ是の如
くにして国民的意識は、従来に較ぷれば一屠明瞭に、一屠具象的に、又一居残命と活力あるも
∴のとなれり。素より戦勝の結果として、一部の囲民の開に自尊自負の気象々生じ、怯つて排外
の風を示したるもの攣ざにあらすと姓も∵−は姐民全憶の上より見るも、又一世の先覚にして
圃民指導の低地に在るものに就いて見るも、極めて少数−且つ一時的のものに過ぎざりき0兎
に角、所謂る閑家王義は、日活戦中以後に及び、他年封重し来りし欧化王手に射して・おしな
ペて令勝々収めたり。
 是に於てか圃民思想は更に一歩を進め・従来海内にのみ注ぎて自家域内に其の反射者々認め

たろ眼々轄じて、今は印ち廉く世界に注ぎ・顧みて世界の一国として我が日本を観察せむとせ
り0先には圃民思想は内に牢ひたり、今は別ち外に向ひたり。素より団円に於ても、例へば世
界王寺と同家王手と個人玉串等の申はありしかど、そは従来の如く、囲粋保彗義と欧化主義
との牢の如く、其の眼界、閥内に終始せしもののみにはあらすして、兢く性界に射して、=凶
                  かに
の位地を考察したるよわ起りたりと見む万富芸るべし0されば、外而上の形遽は相似たれど
も、内面上の精紳に於ては大に相異なるものありき0世界主義.個人壬準竺唱へて姐家某番に
反射するものも、其の詭く所は・従来の如く徒に西洋に心酔し欧化を唱ふるものにあらすして、
少くとも表痢上にては世界の大勢より打算し来りたる王手なりと構す。されば二者の牢は何れ
にせょ、謂はば共に日本の世界的観察に本けるものにして、徒死の欧化玉串と隣粋保存主義と
の牢の偏狭なるの比に非すと謂ふべし。
 既に泄界の蒜凶として日本を観察し、悠久なる其の前途の濱に、圃民の嘗行主事を規定せむ
とする以上は、庚く和を帖界に求め、耐かも圃憶民性の後遽に稗金する程のものは、如何なる
ものをも是を鉾取し−また囲利民痛の埠進に有害なるものは.如何なるものにても是を排斥す
るの覚悟なかるべからす〇されぜ、是の虜潤なる駒家‡我者流の眼には、地の斉西によりて好
悪∽偶を挟むなく・時の古今に随つて褒庇の意を零する寧なかるべし。是の公平無私なる取捨
        きレはき
                             ひら
撰確よりして、絃に従来拘束王我の方法上に一新生而を拓き、窺に融合の人心を二時撹乱する
  や
の已むべからざるに到れり、是れ利治思想史の上に於ける一大進歩として特発犬零すべきもの
 なhソっ
 そを如何にと言ふに、従来閥民間の思想∽申に於て明に現はるるが如く、明治十年代に於け
る西洋主事と保尊王我との率にありては」共の国別の根操は.主として西洋と日本との土地の
…差別にありき。故に保守者流は、西洋のものとし云へば、一もこもなくこ慨に反封し、御つて
図夢、紳道、粍蓼、彿牧等は、盲より日本に布来せりとの庚にて聯合し、カ及ばすながら西洋
                                             I−
王手に常巾たり。二十年前後の閥粋保存王‡に禿りても、ま仁多少是の跡ありっ印ち是の王手
に同情を表したるものは、帥畢者、紳道家、漠拳者.偶数徒ハ仏りき。弐し彼等は欧化主義とし
云へば、彼等と先天的に胡麻むペからざるものと思惟し−日本和光のものとし云へば、先天的
に一致すペき健質のものと速断し、叩坤に粥洋、瀧洋の名将の環等によりて蹄合したりし也。是
れ他なし、彼等の目的は欧化王諒其物を攻撃するにあり、されば共の事菓は蜘豪閲民の肺炎の
                                    ハ小
銭に咤平たる道徳壬琴芝やると云ふが如き、遠大なる増山ありて残されたるも∽に非ざれは也0
謂はば彼等は何の理由もなく、何の目的もなく、(もし強て理山々求むれば、欧化主義∽蹟撞
                                  け y,’
は彼等にとわて不利なるが故に)主として名目の上£就いて所琴Q宅煉ひ身銭したるなり0然

れども、今や偏狭なる盲動は・国民的意識の覚醒によりて、其の謂はれ純盲こ−と漸く明になれ
りっ観民は其の開粋∽保存と云ふが如き事の以上に於て、我が閲家拘民の世界的任地と其∽前
途と云ふ−庚大且つ厳寧言問撞に遭遇し、弦に其の覿民的大王琴ぜ樹立†るの必要々自覚し
       〓)
ぬJ今や徒に秒触紆食的の随見を固守すべきに非す。如何に盲より我姐に存布せしものにても、
叉我邦に固有せるものにても、苛も肺来S圃豪姐民にとりて金なきもの、若しくは富あるもの
は−弼漁なく排斥せざるペからすり謂はば雅兄二切の事物に就いて、名目の東西に拘らす、其
       なづ
の所布の彼我に響与、無私公平∽秤丑によりて是々取捨し、撲繹せざるべからす。是を以て
従来味方なりと思ひて相許したるものも・今や案外にも両立する能はざ一Q仇敵なること、又は
破水不倶戴天の餞として州嫉現したるものも、今や思ひかけなく一堂に握手すろ等の奇観を呈
するに至れり0けに従来の有様に比すれば奇軌なりと維も.蟹は浩然の事にして、敵味方の区
別なく其の名目に泥みて同居したる是迄の有様こそ却て奇観と云ふペけれっ是霊芋るに、息
迄は軍に名目S異例によりて節合せしものが、今や其の内部の木質の如何によ巾て去就を映し
たるなり○是の新邁動の王動者となりたるものは、東より閥家主霊的者にして、そが捲りて以
て斯く一切外物に封して公平なる撰搾取捨々魚したる槙準は、我が囲慌及び民性なりき。是の
国民思州あ新選勃々代表して興りたるものな日木三番となす。是れ咋三十年五月の事なり。
 日本主事は以上述べ来りたる如き気遊に貼られて起りたるものなれば、そが同氏思想に射す
                         ●q▲」
る鯛凝は、費に雄大なるものなり0即ち書疋れ−定の標準に本きて全開民の思想を統一せむと
企つるなれば.其の閥係滋響するところ廉く且つ探し0而して是の王手の所謂る〓宗標準な
るものは、我が閥怯及げ民性の科唇的研究に本けるなれば、甚の取捨撰搾も・従来のもろ/\
                           卜hr
の王寺に見る如く、朴頭粗箕にして鼓寧ぜ排ぜざる儒ひにあらサ、随つてそか一時和合を動か
し、物琴ぞ懐したるも遅くペからざる努なりと謂ふべきハ仏りご正の斯道動は明治思想の饅達上
に最も重大なる意琴ぞ有せりと思惟するを以て、研か其の王張肴の詭々紹介せむに、概ね左の
如し0
 日本‡‡ト」は、冒本閑民の守らべき王者』と云ふ事なり0精しくは閥棍民性に基き、皇組窪
  〓)
甜の不惑を憶認して、其の姐豪的大慧首、閉民的大抱負と・曾驚現せむことを期する所の賓践
道徳の王‡を謂ふ0大凡そ人種土地を異にする所の団家姐民は、共の発達の慧首亦相同じき
1ぜ得すっ故に仲界の人文は一規にして律すべからず。図家図托の眞正なる蜃達は、兆の閥民の
自琴心に基かざるべからす0日本王我は、是の所謂る囲民的忠誠の上に立てるものなり〇蓋し
                        〇一)
雷竺家は我が閥憶の精華官り、驚に是れ我が皇組曇不の宏遽なる通謀に其き、再世臣子の永
く景仰憶認すべき所なり。されば閲机及び皇室は、臣民たるものが錐上の崇響ぞ捧ぐペき所な

りQ是の故に日本玉手は囲組を崇斉して、建固の理想を拳捜せむことを済む。また我が歯民は
由来公明、開潤、有銭、進取の人民なり、浪嬰保守と憂鬱悲哀とは決して其性に非ざるなり0
            〓)
されば日本主義は光明を旨とし、生タゼ偽び、あの追撃ぞ重じ、禁慾を訓へ、厭惟撫麓を勧む
る所のもろJlの敢我々排斥サ0また億竺殊に出で、上下其の心をこにし、内に臨みては
 へl〓        つ払
枕草粕説しみ、外に射しては毎に開成を鵠張して、盲来未だ曾て外侮を受けサ、是れ我蜘の宇
内に冠紹せる所なり。是を以て日空義は、平時にありても武備を錆び、いよ′1囲民の碑結
み衰附にせむことを済む。黙れど土苛に自ら食びて他を掛れざるに非ず、図内々修めて海外
    言−)
に臨み、輿邦と北ハに永遠の平和を染まむことを希ふ。されば日本末義は、世界平和の維持を希
ひ・更に巷みて人類的情誼の蚤琴ゼ期す。要は我が日本建国の大理想を蜃印し、我が国民の大
砲員を驚捜せむとするにあり。
 日奈義の新邁動は、絃に述べたる如く、圃絶と民性とに基けるが故に、差常り共の攻撃の
衝に滞りたるものは、基督教、彿故にして、儒教、猥逸凪の形而上畢、及び彿蘭西流の自由平
準ら亦多少排斥せられたりっ而して他方に於ては、猫逸流の拘束主事と英音利流の功利論とは、
人醜よい廠迎せられたり。そ々如何にと云ふに、日本壬我は、我が亀弧娃閲の不面の中に我が
拘束蓋我の大理想々認め、又其の歴史上の研究に本きて閑潤.生々、鏑武等のもろもろの現柑

的性質を翰民の特質として認めたれば、出仲間的、非姐豪的なる基督致と偶数とが、先づ排斥
                                        すで
せられたるは、極めて自然なりと謂ふべし。かの宗教教育の衝突糊坦の際、基督教と共に共に
既に打撃ぜ被らざるべからざりし偶数が、是の日本‡‡に於て逐に其∽必然の逆命に把過した
                                     おも
・るは、是非も漉き次第なりとこそ謂ふべけれ。而して日本王覇王張者∽東なる一人は、驚に往
年『教育宗教衝突論』を革して、意外にも彿致披の来援を受けたる井上氏なるにても、彿教徒
が今更の如く是の打将に解きたる迂潤さは知らるべし。著し夫れ、従来常に欧化王‡の先天的
                                                      ▲エろ▼−
反射帝として、維新の初めより我が阿東の思想と墟携し光りし儒教が、是の日本王‡に歎はれ
ざるのみならす、却て排斥せらるるの傾きあるは、全く是の教の保守過嬰的なるところが、や
がて日本王我の進歩的なる所と衝突すわばなるべし。然れども日本真義は.儒教∽全部を畢け
て攻撃するものに非サ、忠拳を鋳び、現世的なるの馳に於ては、二者其の軌な一にせるものな
れば、其∽反掛は価耶補数に於けるが如く烈しからざること亦自然の勢なるべし。又是の王我
と彿蘭西流の自巾壬我との相容れざるは論なきことなり。さりながら悪法発布以来、是の種の
極端論は、政治界には殆ど其の跡を留めず、椎.融合の中に一種の融合末寺となりて存するに
過ぎざれば、其の反射も他に比すれば微々たるを究れす。狩逸の純理替拳は、革理の研究とし
ては演斥せらるるに非サ、只、世の名論生駒何となし、竜も蜜柑開の事に閑輿せざるも∽、是の

涜の学者に多きが故に、是の駄に於て閲占本義論者の攻撃蒜れるのみ、然論根粒的に州
                      ▲−
容れざるものにはあらざるが如し0是れに反して、猥逸凰の図家論が歓彗られたるは、雪
白然宗にして、現に讃驚初めとし、今日の国家義論希の訟は主として是れに渡れり。是
れ猫逸のと我れの固鰹とは、英彿等のそれょりは比較的に犯れに導き.か虜なるペし。然れども
是王彗柵肴の国家論∽根抵は、飽くまで我圃の歴むに本くものにして、只表の性の準き所
に従つて彼邦の詭乍参照したるに過ぎざるなり一次に英吉利S功利論の歓迎せられたるも、そ
か準か国民性の塊噂王苧こ埠ければなるべし0然れどち日卒王我∽現世義か、か∽席捲氏一
流宗令宗きと同日に論すべきものに非ざることは、是の流の人の所論にて十分に世空漠砕
ふ癒するに足るべし。
                                はhし
 言ふまでも無く、欧化士壷の流れを汲める洋行締わの人孝首めとし、宗教によりて衣慧ノる
偲侶牧師は音ふを待たザJ蒜凶梓保存王我の系彗引ける人芸巾に−ら、眞に拘束凶比など
                                  や
云孟Tに洗いて科挙的芸蕊肝せざるものは、其の外面の連動か朽謂る八ツ常りに類するに誇
きて、何れも反抗の気頻々繁り、曾て宗教教育衝突論の常時∵‥…攣皿郎氏が井上哲次郎氏に向
つて窺せるが如く−申本王我論者の人身攻撃写ら敢てするを侍らす、論難に栂ぐに望言以
                          く‥レ   「と
てし、雷嘗に梢ぐに逸警以てし・首裏勢ひみ轟かむと力めたり。日本壷論者の中にも、
」時の客気に振られて詭汲の言論を弄びしものありしは、泄をして是の新連動の性質を誤肝ゼ
    ちから
しむるに力ありしが如し。是れ同室番の人々の心漕かに嘩倍する所なるペし。されど是黎は・
轟近時に闊はる事なれば、其の髭響の大小、勢力の消長は、今日預め知り難き言勿論なり0
されば絃にはすペて施設を慮さざるペしQ
 さはれ、記者が是の主義に射する私己の関係を離れ、上に述べ来りたる歴史的観察にて明に
下し得べき程S判断によれば、日本王寺の運動は決して二丈の創普だ成るものにあらすして−
嘗に沈速なる根球な囲民性の中に有するものなり。其の系準三日へばlそは位に明治初年の所
謂る皇単によりて代表せられたる保守主事の流れを汲めるちのなることは明なれど・も、其の性
質に於て殆ど新鮮音でに進歩し来れることは、猶ほ人間が警り出でて而かも悪性質に大
                 仁′          モJ,べ′モリ†
人ケる差別あるが如し0皇畢的思想は、其の木々乱せば本邦歴史と北ハに初まり、物部守屋の排彿
論となり、和気清麿∽忠節となり、菅原導典の和魂沃才論となり、皇菜台以下の彿敬語宗涜を
                                 こくがくレヤ
日本化する中心勢力となり、北畠規虜の紳皇正統詑となり−は川時代の詰姐阜者∽抑道駒政論
となり、一時維新の改革に琴フて其カを失ひ、更に十九帖紀新文明の光によりて新に其S林灼
たる本来の光輝々反射し凍りたるものなり。今の日本王寺ほ・やがて其の系統の正嫡にしあれ
ば、其の根抵は決して淡くペからす、其の枝華化賛は年と共に盛になり行くペき也。けに是れ

                    〓)
阜量、畏保窒筆の貫か覆せし如く、議の汚慧嘗是れ無き還せじ、曇
の名碍の如きは或は添空とあるペし、唯それによりて代表せらるろ浦糾藁に至つては、暗
        かは
と共に悪筆して、早晩潅に其の志の犬晶毒現するの翌荒すペきは蓋し疑象れ
ざるなり〇
以上は、明治禁このかた三十年開の彗思想変遷の表なり○表の事、素より多様、多
端l又多岐にして、等しも椎;義方針によりて活警るものにあらざれども、概して音
ふ時は・彗の思欝其の道徳義によりて決定せられ−随つて開城に其の高般の活動を毒
すべきは、苧ヱ個人に於ける誓と異ならす0されば壷民の根本思想の冤として、王と
して其の道徳義の箪違ぷるも、強ちに盃とは響ペからじ0是の悪文は、髪れ娘
                                   ちなが


                                              こLし−一−
意想に就いて誓をして盲瞭然たる姦せしめむこと姦したれば、故らに煩墳繁縛の事
革晶列して、さなきだに併し難き思想艶に諒の麓差すを欲写〇想ふに誓篭れに
よりて、最琴二十年間の禁吏に就いて少くも大鮭の覿箸得たるならむ。
 最後に、誓をして是の豊の経行を窟明らかに了併せしめむか慮に、左の竪姦へ十
h′0

      明治思想普蓮二覧表
  竺殴(柑駕神聖  撞 雲段(柑芸術琴) 第四投(謂綜年)




               (国家主義一\



                                                                  へ鵜守汝)


                ■懲岬叩ほ)



       (井年数)
 是の表は、償りに三十年開の思想の攣準ぜ四段に分てり。第一段は明治初年より六七年の頃
に至るまで、印ち所謂る呈畢の幼稚なる保守的反動が、幼稚にして而かも強大なる欧化主事に
封宜したる時代なり。枠竺一段は、民選議院首唱者の政憶改革論に射し、保守論者が狩逸流の隣
家三番論と共に、前代に比してや−強硬なる反抗を試みたる時代なり。第二顔は∵‡年前後

に於ける団粋保存王手の勃興、及び共の結果として、是のこ王諺がや、鮮明なる反射を現はせ
る時なり。二十五年に於ける教育宗教衝突論も亦是の時期に尾すべし。第四段は、昨三十年春
に於ける日本王手の新遊動が、同性民性を規準として国民思想の統一を唱へたるときより、今
日及び今日以後に及ぷ0是の時期にありてはト申本思想と外哲還の区別全く明瞭となれり0
精しノ、は本文と思坪とを封照すペし。囲中の線は、各時期によりて諸種の思想の離合を示す)
中に就き、逆縁は其景に於て鮎線よりも大なるを表はし、清純内にあるものは粘線と共に其量
の小なるを示す。又是の表の中に日本思想と名けたるは、日本綿布の思想、及び是の思想が中
心となりて外来の思寧ぜ統一したるものを組碍す。一言すれば、日本固有の思想が王となわて、
外既の思想を客とせるもの也。而して是の日本陶有の思想の小にても、中心核子となれるもの
は.紳道に本ける駒家的観念なり8又外団思想とは外団の思想を王として日本固有の思想を客
とせるものを云ふ。讃者もし第一投よわ第四投までを通質する時は、団民的窓紹の腑く明瞭と
なるに院ひて、是のこ個の思想の差別も亦次々逐ひ†明晰となり、殊に日本思想が我が閥鰹民
性の歴史的椚究に本き、外に向つては外米の文化を同化し、内に於ては典分子を淘汰せる形避
                                         ゑ
は尤も著しき有線るペし。償し足れ素より大鰹の観察なれば、読者も其の心して覚るべきなり。
                                   (三十叫年四月)