国家主義と其の経済原理    早稲田大学教授経済学博士 林癸未夫

 国家主義とは私の信ずるところに依りますと、国家に於て体現されるところの全体主義を謂ふのであります。但し私がこゝに国家と申しますのは専ら民族国家を指すのであります。民族国家と云ふのは、他の民族の血液を余り交へないで、殆ど純粋に或一つの民族だけによつて建設されて居る国家を謂ふのであります。例へば我日本を初めと致しまして、ドイツ、フランス、イタリヤ、ポーランド等の如きは概ねそれであります。従つて他の異民族を征服しまして、それを不消化のまゝに支配してゐる帝国国家、例へばブリティシュ・エンパイア或はソヴェート・ユニオンの如き、或は条約其他の原因に依りまして多くの異民族の寄り合ひ世帯を造つてゐ聯合国家、例へばアメリカ合衆国竝びに最近問題になつて居るチエッコスロヴァキヤの如きは民族国家に属しないのであります。
 そこで私がこの報告に於て国家と申しますのは右の民族国家だけを指すのでありますが、この国家を一個の統合的全体(eine soziale Ganzheit)と認めまして、その国民たる個々人は総べて国家の分岐として存在するものであり、国家に依つてその生活を保証されてゐると同時に、各自の知識才能に応じて国家に奉仕し、国家永遠の生命を培養しつゝあるものであるといふ一つの国家認識を指して、全体主義的若しくは一元的国家論と申すのであります。さうして斯様な全体主義国家認識を基礎と致しまする国民の倫理的規範が即ち私の所謂国家主義なるものであります。つまり国民たる個々人に対して、彼等が国家の一分肢として国家に依存してゐる事実を明白に意識させまして、一切の思想及び制度を国家本位に指導し、建設致しまして、益々国家の全体性を顕揚し発展せしめ様とするものが即ち国家主義であります。
 そこでこの国家主義の原理を明かにするためには、遡つて全体主義国家論に言及しなければならないのでありますが、この全体主義的国家論は個人主義的国家論と鋭く対立するものでありますから、勢ひ両者を比較論究することが必要であります。
 個人主義的国家論は主としてイギリス系統の学者に依つて主張され来たつたものでありまして、その国家認識に於て全体主義とは全く違つたものであります。即ち国家なるものは本来自由独立な個人が、各自の利益幸福を確保する為の一つの手段として組織しました一箇の派生社会に過ぎないと考へるのであります。勿論国家は上に権力機関がありまして、それが法律を作り、秩序を維持して居るのではありますが、併しそれは国家そのものゝ為ではくして、国民たる個々人の利益幸福を擁護する為の単なる手段に他ならぬと見るのであります。その意味に於て国家は資本家の組織する株式会社や無産者の組織する労働組合、産業組合の類と本質的に異る処はないのでありまして、たゞ異る処はその機構が遥かに大きいことと、法律と名づけられる強制規定が設けられて居ることだけであります。併しこの法律も実は国民たる個人が、自己の利益幸福を擁護する為に必要と認めて、政府にこれ発布する権能を賦与したものであると考へるのでありますから、国家の主人公は常に個人でありまして、あらゆる個人を支配し、総べての社会を統制する国家の権威なるものは初めから認めないのであります。国家をそれ程偉いものと考へるのは一つの神話であり幻想であると見るのであります。個人が主であつて国家は従であります。だから国家が法律に依つて規定する各種の制度は常に個人の利益幸福に適合するものでなくてはならないのであります。政治であれ経済であれ教育であれ国防であれ、其他一切の国家施設は結局の処それが個人の福利に合致する限りに於て計画され実行されなければならないものでありまして、さうでない限り国家の存在理由は消滅するのであります。個人は元来自己の福利を擁護する手段として国家を設立したのでありますから、この目的に違背する国家は存在価値を失はざるを得ないのであります。だから国家がそれに与へられてゐる権能を踏み越えて、個人の生活に干渉することは甚だ忌むべきことであります。乃ち国家の権限はなるべく之を狭くして、国家の支配以外に於ける個人の自主自由なる活動の領域を出来るだけ広くしておくことが望ましい。そこで警察、国防、租税等の如き是非とも法律に依らなければ実施し得な事柄だけを国家権力に委ね、それ以外の経済、宗教、学術、文芸等は全く個人の自由意志に放任すべきであると考へるのであります。要するに個人主義的国家論は、国家の全体性を否定致しまして、国家は或る必要から設立された一つの派生社会であつて個人の生活の一部分だけを支配するに過ぎないものと見るのであります。
 然るに全体主義国家論は従来主としてドイツ系統の学者に依つて唱導されたものでありますが、併しこれはドイツ等より寧ろ我が日本の方に一層適切に当てはまる理論であります。即ちそれは国家をもつて個人が或る便宜の為に造つた派生社会とは見ないで一国家は個人に先立つて存在する一箇の本然社会でありまして、個人を生み出し、個人を育て上げ、個人をその中に包容しながら個人から超越して自立自存して居一箇の全体であると見るのであります。譬へば人体は頭・手足・各種の内臓・耳・目・鼻・口等の諸器官から成立つて居りまして、其等の諸器官は更に幾億万かの細胞の結合から成り立つて居るのではありますが、併し先づ多数の細胞が存在し、それ等が結合して諸器官となり、その諸器官が更に組立てられて人体を造るのではないのでありまして、人体は生まれ出た瞬間からその内部に細胞や諸器官を包容し又其等の細胞を分裂させ、諸器官を成長させてゆく一箇の本源的な力として独自の生命を有するものであります。恰もそのやうに個人が先づ在つて然る後に国家が造られるのではなく、国家が先づ在つて然る後に個人がその中に生れて来るのでありまして、個人の生活は国家の一分肢として営まれてゐるのであります。だが私がこゝに云ふ国家は最初をお断りして置きました通り民族国家である。即ち一国家は同時に一民族であります。さうしてこの民族は分岐して多数の家族となつて居ります、従つて個人は何れかの家族の中に育てられるのでありますが、併しこの家族は孤立してゐるものでなく、血液と文化と伝統とを共通にする多数の家族と共に一民族の中に包容されて居るものであります。乃ち我々個人は必ず民族の一員としてれるのでありまして、我々個人の生活を決定する基本的条件は実に民族的特徴であります。例へば我々日本人を個人別に比較致しますと、容貌も性格もみな多少違つて居ります。又家族を相互に比較しても身分や職業や財産の如何に依りまして、それぞれ生活の態様を異にして居ります。併し之等を日本民族の一員として、西洋人や他の東洋人に比較すると明かに日本人としての共通な特徴を有つて居るのであります。これは即ち民族と云ふ一つの全体社会に於て、家族や個人はその分肢として派生的存在であることを示すものであります。
 だが此事は生理的・物質的方面に於てよりも寧ろ心理的・精神的方面に於て一層深く注意sれなければならないのであります。云ふまでもな我々個人は知識・感情・道徳・信仰を有つて居ります。一口に申せば各自その観念形態を有つて居りまして、それによつて自己の生活を規律し条件づけて居るものであります。然らば観念は何ものによつて我々に附与されるのであるか。それは我々の属する民族によつてであります、或特定の民族がそれぞれの時代に於て有するところの普遍意思即ち民族精神が一箇の全体として我々個人の上に君臨し、我々個人に一定の知識・感情・
道徳・信仰を附与するのであります。勿論それ等を個人的に比較すると、皆多少相違してゐるが、併し或特定の民族に属するものは必ず共通の特徴を備へてをりまして、個人は否応なしに民族の全体的精神の一断片を所持せざるを得ないのであります。
 斯く考へると我々個人の物質生活も精神生活も総べて一全体としての民族の中に於て、その一分肢として営まれて居るものであることが分るのであります。さうしてこの民族がそれ自体の中に独立の政府を樹立し、法秩序を設け、如何なる形式に於てか、立法、行政、司法の性能を行ふに至つた時に、その民族は国家にまで転化するのであります。だが民族が国家に化すると云ふことは、民族がそれ以前に有つて居りました伝統や文化を決して失ふのではありません。その民族に固有な精神的及物質的要素は依然国家の中にも継承・保全されて行くのであります。民族が国家に転化することは、民族が従来有つてゐた諸文化の上に新たに法律と云ふ一つの文化形態が附け加へられたことを意味するのであります。だから国家は民族の有する全体性を一層高度に完成したものでありまして、即ち法律ばかりでなく、思想・道徳・経済・哲学・科学・芸術等が、国家の内部に於て相互密接に依存し聯繋して渾然一体をなしつつ、それぞれの機能を通じて国家全体の生命を維持し培養してゆくのであります。
 以上が全体主義の国家論であります。そして斯様な国家論を基礎として成立するイデオロギーが即ち国家主義であります。国家に於て完成された全体性を認識し、その国家の全体性を顕揚し、強化し、拡大することを以つて国民たる個々人のあらゆる思想及行動の軌範とし、指導原理たらしめようとするものが即ち国家主義であります。国民たる多数個人は国家の一分肢として生れ、国家によつて育成され、国家に依存すると同時に国家を保持して行くのであります。従つて如何なる個人も、団体も、職業も、国家の有機約分肢として国家の生命力を培養し、伸張するに必要なそれぞれの役割を演ずると同時に、さうすることに依つて又自己の生存を確保し且有意義ならしめて居るのであります。だからこれ等の多分肢は国家を無視して私利を図り私慾を貪るが如き行動は絶対に許されない。否、反対に総絶べての分肢は国家に対して従属的な地位に立ち、国家の中に組織化され、整序され、統制されつつ、国家に奉仕し、必要があれば進んで国家の為に犠牲になる覚悟がなくてはならない。さうすることに依つて個人も亦自己を成長せしめ、自己の能力を拡充し、溌剌たる生活力を涵養することが出来るのであります。
 さて右の如き国家主義を指導原理とする限りは、個人主義の経済的具体化とも云ふべき資本主義は、理論上当然否定されなければならないのであります。世上往々にして資本主義の本質を私有財産制度の上に置かうとする人があるが、これは正しい認識とは申されない。私有財産制度は遠き古へから存在してをつたものでありますが、資本主義は近世の産物であります。仮に将来社会主義が実現したと致しましても、私有財産制度の全滅といふが如きことは到底想像されない。左様な極端な社会主義理論は今日最早何処にも存在してゐないのであます。然らば資本主義の特徴は何に見出せるかと云ひますと、それは営利主義と自由放任主義の二つであります。営利主義は各個人が私利私慾によつて経済活動をなすことが理論としても肯定され、制度としても公認されてゐることを謂ふのであります。又自由放任主義とは各個人の演ずる経済活動を国法の規定の範囲外に置きまして、経済的利益の追求を各自の自由行動に放任することを建前とするものであります。
 斯くの如き資本主義は何人の経済的自由の著しく制限されて居りました過去の封建制度に対する反動として生れたものでありまして、第十九世紀にあつては産業の発達に多大の刺戟を与へましたことは、否定すべからざる事実である。併し余りにも自由放慢な個人の営利的活動の為に国民経済の健実なる発達は却つて阻害されましたのみならず累を国家そのものにまでも及ぼすに至つたのであります。資本主義の下では国家が法律によつて明白に禁止してをる以外の行為は総べて個人の自由である。そこで例へば風紀又は衛生上有害な営業を行ふものもあれば、思想上・道徳上に悪影響のある図書雑誌を発行するものもある。これ皆営利欲の致す処でありますが、それが次第に嵩ずると法律の禁止を侵してすら内密に自己の私慾を図るものが輩出します。更に甚しきに至つては国家そのものをも営利の手段として利用せんとするが如き事態を生ずるのであります。例へば軍需品の製造販売によつて暴利を貪り、或は戦争によつて得た新領土の資源を一部資本家の営利手段とするが如きはこれであります。しかのみならず資本主義の下におきましては資本及商品の需要と供給の調節が極め困難であります。資本は常に利子利潤を追つて流れるものでありまして、時としては国家を見捨てて外国にまで逃避するものであります。又国家の為に必要な産業も資本的利益と一致しない限り、容易を[ママ]実現を見ないのであります。人は資源の開発といひ、生産力の拡充といひ、貿易の伸張といひますが、それは常に国家全体としての成長・発展・興隆に寄与し、貢献するが故に必要なのでありまして、若しそれが或一個人、或一会社の営利手段に過ぎないと致しますならば、それは国家にとつては全く無意義と言はざるを得ないのであります。
 尚其の上に資本主義のもとに於ては国家全体として有する富が国民個々に対して甚だ不公平に分配され、それが為に貧富の懸隔を来たし、一方には正直に勤勉に働いても貧困に悩まされてをる者があるかと思へば、他方には何等の勤労にも従事しないで奢侈安逸の生活を営んでゐる者もある。斯くの如き状態が原因となりまして階級闘争を激成し、全国民が真に国家の為に協心戮力することを不可能に陥れる恐れが多分にあるのであります。
 斯様な次第でありますから国家主義の経済原理と致しましては、「国家の公益は個人の私利に優先す」といふ一語に尽きると思ひます。而して其の方法としては、国家権力の発動により一方には個人の自由放慢な経済活動に制限を加へ、他方には金融及産業上の営利主義を抑制致しまして、かりそめにも国家の公益に反する個人の行動は厳重にこれ取締るのであります。それと同時に相互密接な関係を有する各種の産業並びに金融・貿易を聯絡調整する為に、之等を一定の計画に従つて綜合的に組織し、管理すると云ふ事が是非とも必要である。換言すれば資本主義の如く国民経済の運行を自然法則の支配に放任することを止め、これを合目的的、計画的に国家の公益と合致する様に統制しなげればならないのであります。斯る方法によつて国家に必要なる資源の開発、生産力の拡充を図ると共に鋭意社会政策の徹底に努めまして、国富の分配を公正にし、国民個々の福利を増進し、その身体の健全と理智道徳の向上によりまして、国民の国家に対する奉仕力を涵養増大することの出来る様な新しい経済機構を建設することが急務である。唯その具体的方法として重要産業及び金融機関を国有国営に移すのがよいか、或は民有民営の形を維持しながらこれに厳重な法的統制を加へるのがよいか、或は両者の中間形態即ち国有民営若しくは民有国営が適当であるかと云ふことは、実際問題としては甚だ重大でありまして、充分考究を重ねた上でなければ判断は出来ないのであります。それは現実の必要と手段の難易に鑑みましてその都度適当に決定するほかはあるまいと存じます。たゞ私は国家主義的経済の原理と信ずるところを簡単に発表したに止まるのであります。