第七十三回帝国議会に於ける国務大臣の演説より

杉 山 陸 軍 大 臣 演 説



 前議会以後に於きまする支那事変の作戦経過に付て申述べます。昨年七月支那に対しまして膺懲の師が進められましてから、既に六箇月余を経過致しましたのでありまするが、此の間陸軍の作戦は順調に進捗致しまして、到る処支那軍に大打撃を与へまして、北支方面に於きましては、黄河以北は固より、旧臘黄河の渡河を敢行致しまして、済南一帯を占拠し、今や北支五省の省域悉く我が手に帰しまして、一方中支方面に於きましても、上海戦線の突破以来、太湖南北の地区を併進致しまして、十二月十三日に遂に敵の首都南京を攻略致しました。斯くの如く南に北に我が軍が其の威武を顕揚し、著々戦果を獲得して居りますことは、偏に 大元帥陛下の御稜威の然らしめ給ふ所でありまするが、又熱誠なる挙国一致の御後援と、第一線将兵の忠勇、就中護国の為に殪れました英霊の加護に依るものでありまして、茲に全陸軍の名を以ちまして、深甚なる感謝の至情を呈する次第であります。
 以下戦況の概要を申述べたいと存じます。先づ北支方面から申述べます。南部察哈爾、綏遠方面に於きましては、我が軍は有力なる部隊を以て張家口、大同、綏遠、包頭一帯の地区を警備して居りまするが、漸次其の治安を恢復し、局地を除いては概ね事変前と大差なき程度になりつゝあります。併し五原河曲方面、黄河沿岸地方には、今尚相当の敗敵が残存して居ります。山西方面に於きましては、十一月九日其の省城太原を占拠しました後に、該地を中心として強力なる部隊を配置し、残敵の掃蕩、治安の恢復に努めて居りまするが、山西省の西部及南部一帯の山地には、尚有力なる敵兵が残存致しまして、共産軍の活動と相俟つて反撃の気勢を示して居ります。京漢線方面に於きましては、我が軍は石家荘、順徳、彰徳附近の地区に強大なる部隊を配置し、占拠地域内の敗残兵の掃蕩に任じますと共に、近く道口鎮附近にある大敵と対峙して居ります。津浦線方南に於きましては、十二月下旬に黄河の渡河を敢行致しまして、同二十七日山東省の省城済南を占拠して、引続き南方及東方に敗敵を駆逐をして、南方に於ては其の第一線を以て済寗、鄒県、蒙陰の線を占拠し、東方に於ては膠済鉄道に沿ふて前進しまして青島を占拠し、海軍と協同して、同地一帯の粛正中であります。中支方面に於きましては、我が軍は昨年八月二十三日上海附近に上陸以来、堅固に構築せる数線の近代的設堡陣地を占拠せる優勢なる敵に対し、克く寡兵を以て執拗且果敢なる攻撃を反覆し、之に徹底的打撃を与へ、杭州湾に上陸しました部隊と呼応して追撃に次ぐに追撃を加へまして太湖南北の地区にありまする敵陣地を席巻をし、遂に十二月十三日に首都南京を攻略致しました。次いで杭州方南に転戦致しまして、十二月二十四日には同地を陥れましたので、今や蕪湖、杭州を連ねまする以東の地区は我が軍の手に帰しました。又軍の一部は揚子江の左岸地区に進出し、津浦線に沿ふて浦口、滁県一帯の地区を占拠し、爾後の作戦の準備を致して居ります。
 扨(さて)作戦半歳余の間に於きまする南北両戦線を顧みまするに、支那側は其の出動総兵力の約百五十万の概ね半部を消耗致しまして、著しく其の戦力を低下致しまして、特に中支方面に於きましては、支那軍の中堅でありまする中央軍の大半を失ひまして、加ふるに首都南京の陥落に依りまして、一層其の戦意を失ひ、士気は阻喪して居るのであります。然るにも拘らず国民政府は未だ抗戦を策し、南京攻略後一箇月を経過致しましても、依然軍隊の再編成に努めまして、長期抵抗を図り、何等反省の誠意を示す所なく、遂に帝国政府は重大なる決意を致しましたことは御承知の通りであります。此の際陸軍と致しましては、一層戦備を拡充致しまして、益々至誠奉公の誠を竭しまして上 大元帥陛下の御宸襟を安じ奉り、又全国民の御期待に副はむことを期して居る次第であります。

 


米内海軍大臣演説


 支那事変に関しまして、前議会後海軍の執りました処置等に付、其の概要を御説明致します。支那沿岸に対する交通断に関しましては、八月二十五日第三艦隊を以て揚子江以南仙頭に至る支那沿海に対し、支那船舶の交通を遮断する旨宣言を発しましたが、九月五日には監視部隊として第二艦隊の大部が加りまして、交通遮断区域を青島、香港、澳門、広州湾を除いた全支沿岸に拡張致しまして、第二艦隊は梅州以北の北支沿岸、第三艦隊は海州以南の中南支沿岸の交通を遮断する宣言を、それぞれ第二艦隊司令長官及第三艦隊司令長官より発しました。其の後十月二十日第四艦隊が新設せられ、第三艦隊と第四艦隊とを以て、支那方面艦隊が編成せられましたのに伴ひまして、以上の交通遮断は支那方面艦隊を以て之に任ずることを宣言致しました。青島は前に申述べました通り、初めから交通遮断区域より除外してありましたが、十二月十八日青島方面支那軍が、我が権益財産の破壊を始めましたので、青島に対しても亦交通遮断を行ふこととなり、二十六日其の旨宣言致した次第であります。
 此の間監視部隊は各種困難なる天候と闘ひ、昼夜を別たず厳重な見張を行ひ、有らゆる困苦に堪へ、交通遮断の目的達成に邁進して居りまレて、其の結果今や支那汽船は勿論ジャンクの往来も殆ど杜絶するに至つたのであります。交通遮断の実施に当りましては、濫に支那船舶を攻撃するが如きことなく、ジャンクに対しましては軍需品を搭載するもの、武装をなせるもの、或は我を攻撃するもの等の外は、交通遮断の意義を説明したビラを配付致しまして、概ね釈放して居る次第であります。第三国船舶に対しましては、其の平和的通商を尊重する建前から、交通遮断を適用して居ないことは御承知の通でありますが、支那船舶の中には第三国国旗を詐つて使用して居るものもありますので、第三国の船舶に対しても其の疑ある場合には、其の掲揚する国旗が正常であるか否かを確むることと致して居ります。
 次に中支方面の海軍の策戦に関し申上げますれば、上海海軍特別陸戦隊は、江上艦艇及海軍航空部隊の協力の下に、陸軍部隊と呼応しまして、租界東部方面に於ては九月十三日、敵が市政府掩護の拠点とする遠東競馬場を奪取し、又陸戦隊本部北方に於ても漸次進出致しました。此の間敵は屡々租界周囲及浦東方面より江上艦艇、虹口及陸戦隊方面に対しても攻撃し来りましたが、之に対しては江上艦艇、航空部隊及陸戦隊は其の都度之を制圧して居りました。其の後支那軍は閘北方面より新手を加へて屡々猛烈な逆襲を反覆して参りましたが、陸戦隊は之を撃退しつゝ逐次各拠点を占拠し、九月二十九日には、閘北方面に於ては松滬鉄道沿線迄進出し、十月二十六日には、陸軍部隊の大場鎮攻略と相呼応して、閘北方南に狂烈なる攻撃を加へ、二十七日黎明前、折柄の月明を利用して、全線壮烈なる進軍を開始し、同夕刻迄に四行倉庫に追込められた残敵数百名を除くの外、閘北一帯を完全に掃蕩し、北方大場鎮方面から南下した陸軍部隊と租界の西境界線に於て連絡するに至り、故に蘇州河以北の租界の周囲を完全に確保するに至つたのであります。一方杭州湾北岸に陸軍部隊揚陸の為、艦隊の一部は第四艦隊司令長官指揮の下に、極めて隠密裡に陸軍輸送船団を護衛しつゝありましたが、十一月五日未明を期し杭州湾に進入し、陸軍部隊の上陸を海空両面から全力を挙げて掩護し、大成功裡に上陸を完了致しまして、浦東及蘇州河南岸一帯から敵を圧迫し、之を撤退せしむるに至らしめました。併しながら敵の一部は尚南市に拠つて抵抗を続けて居りましたのに対し、十一月十一日黎明、陸戦隊は浦東側に上陸し、陸軍部族と協力して南市対顔竝に南市の掃蕩を開始し、十三日全く南市を掃蕩を終り、茲に上海租界は完全に敵の包囲から解かれることになつたのであります。
 斯くて陸上作戦が首都南京の攻略を目指して、西方に展開せられ追撃戦に移りましたので、陸戦隊の大部は上海附近を警備し、其の治安回復に任ずることとなりましたが、其の一部重砲隊は西進して陸軍部隊の戦闘に参加し、又航空部隊は全力を挙げて陸軍部族に協力すると共に、一方奥地敵航空兵力の撃滅に従事致しました。是と時を同じう致しまして、黄浦江上の艦艇は十一月十二日、機雷の清掃、沈船の除去等に依り黄浦江の敵封鎖線を啓開致しましたが、松江、金山方面に進出せる我が陸軍部隊に弾薬糧食等を急遽補給する為、十三日上海を発せる補給船を嚮導致し、我が海軍最初の黄浦江遡江に成功し、更に陸軍作戦の進捗に伴ひ、二十四日上海蘇州間の水路を啓開し、続いて太湖方面に進出し、十二月末には更に杭州方面にも進出して、陸軍部隊の作戦に協力致したのであります。又揚子江方面に於きましては十一月十三日未明、陸軍部隊を護衛して呉淞上流約五十浬の白茆附近に進入し、海空両面より支那側陣地地及部隊に対し猛烈な砲撃及爆撃を加へ、其の上陸を掩護し、十二月七日には支那側が揚子江防禦の第一線と恃む江陰の要塞を突破し、機雷、閉塞船等各種の障害物を排除しつゝ陸軍部隊に協力し、或は海軍単独に両岸の敵を掃蕩して遡江、十二月十三日午後五時迄に南京の表玄関たる下関礪頭に達しましたが、時恰も城内に突入掃蕩中の我が陸軍部隊の急迫に追はれたる敵兵が、揚子江を渡河し北岸に遁走を企てむとするに会し、是に江上から破滅的打撃を与へたのであります。南京陥落後は、南京下流の水路の清掃及両岸の残敵掃蕩等水路の確保に努め、又揚子江を渡河して作戦する陸軍部隊の渡河を援助し、一部は更に溯江して両岸の敵を掃蕩しつゝ一月中旬には南京上流七十浬荻港附近に達して居ります。
 次に航空部隊はそれぞれ所属部隊に在つて、以上述べました各種の作戦に多大なる協力を致して居ることは其の都度公表致して居る所であります。即ち全支に亙り連日果敢なる空襲を行ひ、敵の空軍基地、其の他作戦上の要地、軍需品工場、軍事輸送機関及艦船部隊等を爆撃し、以て敵空軍に殲滅的打撃を与へて制空権を獲得し、全般の作戦上多大の效果を収むると共に、陸軍部隊の作戦に直接協力し、敵陣地及部隊に莫大なる損害を与へ、其の進出の支援に任じて居ります。之を具体的に申上げますれば、其の使用延機数は、十二月三十一日迄の統計では、南京には約千二百機、広東には約五百機、上海附近の戦場には約六千機、粤漢線、広九線方面には約九百機、隴海線、津浦線には約六百六十機でありまして、其の他要地に対するものを合計致しますと、延機数は約一万二千機、其の投下せる爆弾量は極めて多量に達して居ります。而して今日迄支那飛行機を撃破致しました数は、撃墜及地上爆破合せて約六百六十機に達し、撃沈若くは作戦行動不能程度以上の損害を与へた艦船は、支那海軍最新式巡洋艦たる平海及寗海を初めとし、巡洋艦、砲艦等主なるもの十数隻に及び、外洋航海に堪へ得るものは略々全滅致して居ります。
 次に青島作戦に関しまして簡単に申述べます。青島は従来帝国と最も密接な関係のある所でありまして、在留邦人約二万、権益約三億円を有する地でありますが、戦禍の同地に波及するを避けむが為、多大な犠牲を払つて居留民の引上を断行せられたことは前回申述べました所でありまして、九月五日の全支に亙る交通遮断の宣言に於きましても、殊更に青島を遮断区域より除外する等、山東の和平維持に努めて来たのでありましたが、十二月十八日夜以来、支那軍は我が権益を破壊するの不信的暴挙を敢てするに至りましたので、十二月二十六日青島をも交通遮断区域に加ふる旨宣言し、更に一月十日朝、監視部隊の一部は陸戦隊を揚陸し、青島港域を占拠致しました。同地の作戦に当りましては在青島英米先任指揮官に対し聯絡を執る等、万全の手段を講じ、幸に何等の事件を惹起することなく所期の目的と達成し得た次第であります。
 最後に第三国との間に生起しました事件に関して申上げます。今回の作戦地域は前回にも申上げました通り、列国の権益及其の居留民竝警備の為め派遣せられたる各国艦船軍隊等も多数存在して居りまして、極めて複雑微妙な国際関係を伴つて参りますので、作戦遂行上此の点を十分念頭に置いて居る次第でありますが、今日迄数回の事件を生じましたことは甚だ遺憾とする所であります。中にも重大なる事件としましては、十二月十二日南京上流約二十五浬の地点に於て目標を誤認せる結果、米砲艦パネー号を爆沈し、商船三隻を破損致しました事件であります。之に関しては其の都度公表された所で詳細御承知のことと思ひますが、本事件は全く過誤に基くものでありまして、第三国と致しましても公正明察、克く事件の真相と我が方の誠意とを諒解しまして、昨年末円満に解決するに至りましたことは欣快に堪へざる所であります。以上の各事件に鑑みまして今後とも我が海軍は一層自重自戒、以て此の種事件の根絶に万全を期せむとするものであります。
 今次事変の海軍に関する処置の概要は大体以上の通りであります。今や作戦は予期の效果を収め、北支より中支方面に亙る一帯を制し、又制海、制空の実権を全く確保致した実情でありますが、支那が外国の援助を頼んで長期の抗戦を策する限り、戦局の前途は尚遼遠と云ふべく、国際関係の動向亦一日の偸安を許さざるものがあります。此の秋(とき)に当りまして海軍と致しましては、全軍一体益々操守を堅くして、所期の目的達成に邁進し、以て護国の重責を完うし、大元帥陛下の大御心に副ひ奉らむことを期して居る次第であります。終りに臨み国民各位より事変以来、我が海軍に寄せられました絶大の御後援御同情に対し、海軍を代表致しまして深く感謝致しますると共に、出征将兵をして後顧の憂なく征戦に従事せしめ得るやう、此の上とも各位の御後援を御願ひ致したいと存じます。之を以て私の説明を終ります。

週報第67号(1938.1.26)