杉浦重剛篤























 












 


 


 









  松陰四十年


        (一)

  青田松陰は、余が一新年の▲頃より常に欽慕し居たる人物にして、年相ミ
一長ずるに及rぴては、松陰.の魚人を知′ること愈ミ深きに従ひ、自分も松陰
 の如きことをやつて見たしといふ考を起すに至れり。然も今日となりて
 は、松陰の眞似は愚か、馬齢徒らに加はるのみにして、何の為す所もな
 く、挽に数年来痛疾に苦みて殆んど世外の人となり、頃日に至りて病稀
 ミ治癒に泣きしが如くなるも、往日の元気未だ全く快復せず。此有様に
 ては、何の日か松陰を企囲するを得んと、私かに心細く感ずる次第なり。
然るに本年は松陰穀後五十年に官り、今月今日世田ケ谷なる松陰神社に
 於て其五十年祭を執行せらる1とのことなり。心細き中にも賓に愉悦の
情に堪へず。湊季の世猶ほ此事ありと、嘲か心強く感ずると1もに、松
 陰に就て何か書いて見たしとの考を起したる際、恰も政教敢に於て、松
 陰競臨時増刊の章あり。余にも何か話せとの注文ありしを以て、直に快
 諾し、終に本筋を口述すること〜なれり。
 眈に言へる如く、今年は松陰の五十年祭ありとのことなるが、余が脳
 裡に青田貫次郎矩方といへる名の刻み込まれしは、余が十四歳の時にし
 て、爾来今日に至るまで、松陰と云ふ人物は片時も余が脳裡に滑えしこ
 となきを以て、余は思想の上に於て、四十年間松陰に追随し居たる次第
 なり。初めて青田冥次郎の名を知りしは、亡兄椅陰が余に附興したる殉
 難通草に於てなり。亡兄は夙くより京師に出で、.一代の酒席岩垣月洲先
 生に就て寧を修め居たるが、明治元年京師より辟省したる際、之を讃め
 とて余に輿へたるが、則ち前に挙げたる殉難通草なり。此時余は十四歳
 の少年なりしが、蒸しと受けて、之を閲覧したるに、開巻第一に眼に入
 りしは、青田英次郎矩方の名を寄添へたる左の七言古詩なりき。
 山河襟背自然城。 形勝依然蕾紳京。
 今朝盟嚇拝二鳳閑叫  野人悲泣不レ能レ行。
 上林黄落秋寂実。 杢有二山河→無二襲更叫
 開設今上聖明徳。 敬レ天憐レ民山翠→至誠叫
 鶏鳴乃起親斎戒。 所下掃二妖気一致中太平加
 安得三天詔数二六師巾  坐使三皇威被二八紘¶
  従来英皇不二世出→  悠 々 失レ機今公卿。
  人生・知レ蒋無二台ぺ■奄→  何日重二挿こ天日明→
  此詩を礪して大に感動すると1もに、青田英次郎矩方の名は、深く余
 が脳裏に浸潤して、牢乎抜くぺからざるものと成り了れり。之を余が精
 神上青田松陰を知るの始めとなす。
 然れども僅か十四五歳の少年の頭脳が、如何にして斯くまで青田松陰
 の名に動かされて、四十年問滑滅せざる程に深く之を刻み込む力を有し
 たるか。今日よりして考ふるに、之には相官の理由あり。松陰に封する
 思想の径路を叙するに官りては、逸すぺからざること\思はるゝを以て、
 研か他岐に亙るの嫌なきに非らざれども、一應其由来を叙すること1す
 ぺし。
 慶應元年正月余が十一歳となりし時、亡父蕉革余をして藩儒高橋先生
 に就て拳ばしむ。先生謹は正功坦堂と験す。為人方正謹厚、夙に勤王の
 大義を唱へ、膳所藩正義真の麹楚たり。幾くもなく藩の忌謹に髄れ、同
 年閏五月獄に下され十月他の同志と1もに死を賜ひ、終に大義に殉ぜら
 れたり。此の如き次第なるを以て、余が高橋先生を師とせるは、僅に牛
 歳に充たざる短日月にして、此間孟子第二巻と日本外史第一巻との素讃
 を習ひしに過ぎざるも、後高橋先生が勤王論を唱へ国事を憂ひ、為に刑
 に廃せられしことを青ひ聞かさる1に及び、小供心に高橋先生はえらき
 人なりと思ひ込み、師事せる時日の短少なるにも拘らず、非常に先生を
 敬慕するの念を懐き居たり。かくして亡兄より殉難通草を讃ましめられ、
 其如何なる書物にして、如何なる人物の詩歌を蒐めたるかを説き開かさ
 る1に及び、青田寅次郎も亦た高橋先生と同様の人なり、さすればえら
 き人に相違なしと断定し、大に之を欽慕するに至れり。か1れば余が勤
 王家の事蹟詩歌等に封する愛好の念は、要するに高橋先生の感化力によ
 りて養成せられたるものにして、勤王家に対する思想の種子は、未だ殉
難通草を見ざる時に於て既に播かれたるが、殉難遺革を見るに及び、勃
 然として萌牙を生じたるものならん。
 一たび殉難遺革を見て、青田松陰に封する欽慕の念を生じ1より、幽
 囚錬留魂録等を姶めとして、頻りに松陰の著書を済み、ヌた珍陸の菌弟
 久坂秋湖(義助)の侯宋搾鏡等を讃みて、姦ミ松陰の人となりを欽し、
 終に前述の如く、余が頭脳と松陰とは、四十年閏追随して離れざる次第
 となりしなり。

        (二)

  明治三年藩の貢進生に挙げられて初めて東京に来り、大挙南校(後ち
 開成孝枚と改稗)に入りて、西洋の学問に従事したるも、常に争扶家の
 宰領に心を留むること、従前と少しも漁りなく、其れが為め同窓の友人
 ょり近世史好と呼ばれ、開成学校となりし後に出来たる三幅封には、友
 人河原勝治山岡義五郎二君と1もに近世史好の三幅封に選ばれしことあ
 り。此三幅封は明治三十六年六月袖珍日本叢書の第一編として刊行せら
 れたるが、其書中に、近世史好といふ題の下に、河原山岡二君及び余三
 人の姓名を書したる後、次の如き説明を加へたり。
 『此近世史好といふのは憶慨家と云ふのと伴ふので、維新前後の人物を
 大攣慕つて居つた、従て維新の事蹟などを調べるといふことが大攣好
  きで、其時分に近世史略といふ本があつたが、それを善く讃んで居つ
  た、杉浦の憤慨家で近世史好の澄接は、今に杉浦の塾では、毎年紀元
 節に青田松陰の墓に詰る、又杉浦の部屋には、骨ケ原に其頃まだ改造
  せぬ青田松陰の石碑があつたのを石摺にして、それを自分の部屋に肪
  つてあつた位です。』
 此中石碑の石摺を部屋に貼りつけしことは、しかと記臆せざれども、
 大草南枚在寧中に始めて骨ケ原同向院に趣き松陰の墓を掃ひ、其後時主
 墓参したるを以て、か1ることもありしならんと思はる。又た其頃友人
 宮崎道正君より松陰が米艦に投ぜんとする時の日記の馬本を借りて之を
 讃み、頗る感激したることありき。其後明治九年英国留学を命ぜられし
 とき、留畢生監督故正木退蔵君は長州人なれば、同君にも松陰及び門下
 生の事顔を請ひ間へり。十三年蹄朝の後、始めて松陰は骨ケ原より現今

10a

 の松陰神社所在の地へ改葬せられたるよしを知り、同虞に墓参したるが、
何によりて改葬のことを知りしや、遺憾ながら今記臆に存せず。
 二十三年の紀元節に際し、塾友諸子を拉して世田ケ谷松陰神社に詣し、
 且つ嗣後にある松陰其他動王家諸士の墳を掃ひしが、其以来之を以て家
塾の養気磨の一と定め、年々奉行して敢て怠ることなかりき。従来は余
一人にて墓参を試み、研か自ら欽慕の情を慰するに過ぎざりしを以て、
松陰の感化は余一人のみに止まるが如き感ありしも、一たぴ『詣松陰神
社』を以て塾の養気暦の一と定めたる以上は、松陰の感化は少くとも塾
友の間にも及ぶのみならず、中には塾友に非ざるも進んで一行に加はれ
 る有志の人々も少からざりしを以て、精神上に於る松陰の勢力圏は、余
 の関係する限りの範囲に於て、余一人より更に数百人の間に横張せられ
 たりといふも可なり。尤も義気麿は英名の示す如く、元と養菊の一端と
 して行ふものなれば、『詣松陰神社』の如きも、松陰の詞を拝し墓を展
 するのみを以て足れりとせず、其れ以外事に解れ物に應じて、義気の目
的を達するに努めたりき。例へば、松陰神社の詞後墓域の正面に石の鳥
居あり、之に『大政維新之歳木月大江孝允』の六字を刻したるを見、余
 は木戸松菊が国事多端の際に嘗り、松陰以下国事に奔走したる諸士の墓
前に、娩更大政維新の四字を明記して、暗に諸士の功労を迫頒したる用
 意の周到なるに感じ、余が塾友と行を輿にする毎に、塾友諸子を顧みて、
 通がは木戸松菊なり、大事に任ずる者、常に這般の細心無かるぺからず
と或むるが如き是れなり。又た松掛神社に話したる時は、辟途必ず之に
接近せる豪徳寺なる井伊大老の墳を掃ふを例とす。井伊大老は大の安政
 の大殊を起したる人にして、松陰は此大獄に達り、言はゞ井伊大老の為
 に死刑に虞せられたるに外ならずと錐も、識カと勝気とは両者相似たる
 虞あるのみならず、若し松陰をして海外周遊の志を果さしめば、辟りて
 大に井伊大老の説を費するに至りしやも亦た未だ知るべからず。此の如
 きは史を締く者の留意せざるぺからざる所なり。故に松陰神社に詣した
 る後更に井伊大老の域を挿ふなどは、表面の革質に拘山姥して、軽々しく

 妄断を下すの不可なるを警むる効あるが如き是なり。以上の二例はいさ
 1か飴談に亙るが如しと雄も、何れも松陰に関係せる事柄には相違なき
 を以て、煩を厭はず之を紀すること1せり。

        (三)

 余の家塾に於ては、毎年十二月四日を以て紀念曾を開くを例とす。然
 るに此の紀念含も亦た養菊暦の一に敷へらる1ものなるを以て、毎曾余
 の友人又は先輩二三氏に委嘱し、塾友の為に有益なる談話を聴くを常と
 せり。二十六年の紀念合には、故品川子に請うて、松陰の監督せる松下
 村塾の賓況談を鵜かんとしたるに、品川子は直に快諾、紀念合に臨みて
 約の如く松下村塾の資況談を試み、塾友は固より来合者一同にも砂から
 ざる感興を輿へられたり。若し品川子をして今日に在らせしめば、子の
 松陰談は必ず政教杜諸子に依りて本既に載せられ、謂はゆる錦上筏を添
 ふるの偉観を呈し1ならんも、今や斯人亡く、持た寂実の感に堪へず。
 事にして家塾の毎週雑誌中に、子が紀念曾に於て試みられし松下村塾箕
 況談の筆記を保存し置きたるを以て、其談話中には、或は本競所載のも
 のと重複する事柄もあるぺきが、研か思ふ所ありて、故に之を縛載せん
 とす。
 『余は先日塾主より紀念禽に松下塾の談をせょとの依頼を受けしが、′余
  は喜んで之を諾し、今夕一場の談話を為すこと1なりたり。借松下塾
  の話といへば、今日より敷ふれば三十五年程前の事なる故、或は今日
  の如く開けた寧問をせらる1諸子には、かやうな昔話などは盲る臭い
  とて笑はる1かも知れざれども、又た中には成程尤もだと思はる1こ
  ともあるぺければ、何卒暫くの間余の談話を聴き取られんことを請ふ。
  講の中に或は自慢話もあるぺし、又失策談もあるぺし。
  松陰先生の人となりを語ることは、余の身にとりて誠に忍びざる事
  なれども、一言申さば、賓に想像外の人にてありしなり。誰しも先生
  の事跡より考ふれば、如何にも厳■格にて激烈なる人の■様に思はるれど
  も、決して.然らず。山芋に漁仙順にして、.怒ると云ふ事のなき、饅格の小
 兵なる人にてありし。三百人の書生が、一度も先生より叱られたるこ
 となきを以ても知るべし。併しながら、此書生等は、一人として先生
 を恐れざるものなく、皆先生を見てビクノトして居たり。素より如斯
 先生なれば、些々たることにて怒らる1如きことなきは官然なれども、
 余が一つの失策談をなさんに、嘗て塾舎が狭き故、古家の四畳半と二
 畳とあるものを買ひ、塾生一同の協力により、大工等の手を借らず、
 建増をなしたることありしが、余が壁を塗る時、先生は下より泥を差
 し上げて手樽ひ居られしを、余は此泥を受け損じて、先生の眼にした
 1か落し掛けたり。余はシマツタと思ひ、ギヨツとして先生の顔を見
 しに、先生は一向平気にて、何とも叱られざりし。是等の事にても先
 生の人となりを知るぺし。
  先生は何を主として教育せられたるやと云へば、地理、算術、歴史
 を主とし、塾生に何時も八釜敷言はれたり。彼の米艦が浦賀に来りた
 る時、先生と共に外国へ渡航を企てたる金子重之助が、嘗て先生に寧
 閏の仕方を問ひしに、先生は、地を離れて人なく、人を離れて事なし、
 畢をなさんと欲せば、先づ地誌を讃め、と謂はれたるが如き、又余が
 先生に支那の歴史を学ぶ時にも、唐土沿革誌を某氏より借り、歴史と
 合せて調ぺさせられたるが如き、先生が地理に重きを置かれたるを見
 るぺし。余は萄の地誌に尤も精しかりしが、其頃先生は支那の地誌に
 就て不審のある度に、爾次に聞いて見よ、爾次が知らねば分るまい、
 と謂はれたる事もありしが、余は先生よりいつも地誌でいぢめらる1
 を以て賓に閉口したり。又た支那歴史のみならず、日本の歴史も同様、
 地誌の詮義は、八釜敷かりし。今の伊藤総理が利輔と云ひたる頃にて、
 十八位の年なるべし。確か外史を讃みたる時分、伊藤は二三度も江戸
 へ通ひたる男なれば、像り名高からぬ地名にても、利輔あれば、何虞
 だつたと問はれしを、伊藤は忘れ居りしに、先生は困るなあといはれ
 たり。此地名などは、桶狭間とか関ケ原とか云ふ如き著名なる土地な

 らざるにも拘らず、斯く大切にせらる1なり。算術は此一頃■武蓼の風.一習
 として、一般に士たる者は、如斯ことは心得るに及ばすノとで卑しみた
 るものなりしに、先生は大切なる事とせられ、孝生にも丸々を敦へら
 れたり。余の如きも算術は忘れたるも、此丸々丈は今も猶記臆せり。
 余は最も算術が嫌ひなりし、そは算術に通ずれば、直ちに俗吏に用ひ
 らる1が故にて、俗更となれば、相常に威樺も振ひ得らる1詳なれど
 も、学問の修業が、是が為めに充分出来ざるを以て、一つには算術さ
 へ1畢ばざれば、余が父母も俗吏とはせまじとの心より、強ひて畢ばざ
 りしが、先生は此算術に裁ては、士農工商の別なく、世間のこと算盤
 珠をはづれたるものはなし、と常に成しめられたり。又経済々々と云
 ふことは、先生の口にせられたることなりしが、余は其常時十五六位
 の年故何の事か分らず、唯経済とは金儲けのこと1のみ思はれ、奇妙
 な事を云ふ先生なる哉と思ひ居たり。余が尾島と共に入塾し、畢力を
 つける為めとて、無鮎の書を授かりたるが、或る時産語の「不汲糞水、
 不能善農、不断筋肱、不能良匠、不破眉背、不能良晋、不随死地、不能
 良婿」 の虞に至り、此語の意味を問はれたるに、祉しながら余等之を
 解し得ざりしに、先生は之が分らんとは困つたことなりとて、直ちに
 有合せたる唐筆を以て、此語を余等二人に一葉づ1書き輿へられ、且
 つ詳しく其解をせられたり。是れ賓に安政六年九月十七日の事なりき。
 又先生が殊にあるや、余は常に吏卒の目を窮みて、書物の出し入れを
 なしたり。此時野村和作則ち今の靖及び兄入江は卒族なりし故、揚り
 星と云ふに、囚はれ居たりしが、常に先生より此書を讃め彼の書を讃
 めとて、此兄弟に書物に印しなどを付けて輿へられたり。或時庭済線
 と云ふ書を、先生より野村に讃ませょとて余に托せられしに、日を経
 て、野村は余に此書は面白くなく、讃めば倦怠を生じ、眠気を催す故、
 先生に言つて別の書を借り呉れと云ひし故、先生に其趣を俸へたるに、
 先生にはひどく府療を起されたるが如く、野村が之が分らんでは箕に
 困ると言はれしが、英一言は余の如き小供上りのものまでも、いたく

10b

庇動せしめられたり。余は如何なる書物なるやと息ひし健、先生に乞
 ひて其書を讃みしに、成程野村の言ひたるが如く、如何にも面白くな
 い書なりし、其後年経て野村が神奈川願に知事となり、余が内務省に
書記官たる時、一日野村来りて、君はかの康済録を覚へて居るかと、
 突然言ひ出せしかば、余は資は洋行中にふとかの書のことを思ひ出し、
一度見たしと思ひしが、康の字を忘れて、辟朝後も見ること能はざり
 し旨を野村に話し、其康済録が如何にせしやと問ひしに、野村は資に
 先生の事を思ひ出すなり。余が治下に近頃蟹の書を受けて、畑作物を
 荒され、農夫が困難する故、英治晋策を如何にせんと、色ミ書物など
 集めしが、書記官の妻木が携へ来りたる書中に、其康済線が一部あり
 しなりとて、互に先生の恩を謝せしが、眠気を催すとて讃まざりし書
 が、明治の今日に斯く役立つとは、賓に先生が経済の事に注意せられ
 たる一般及び塾生の教育に心を用ひられたる一般を見るに足るぺし。
 歴史を讃むに地理を用ひられたるは、前に陳ぺしところなるが、又
 歴史を讃むに、自ら歴史中の人物となるぺし、楠氏を讃めば、正成の
 心持をして、此事には如何に威するや、如何になせば宜しかりしやと
 心を練り、又足利氏を讃めば、争氏の心持をして讃むぺし。尤も悪人
 を学ぶは忌むぺきことなれども、其境遇其位置に己が身を置かざれば、
 心を練ること能はず、と戒められたるは常のことなりし。又或は例刻
 ょり少々早く塾へ至りしに、讃書の畢の聞こえければ、誰が衆て居る
 ならんと思ひ内に入りしに、十二三歳の小供が、先生の前に居て、国
 史略を聞き居るなりし。先生は大抵一人にて詔書することなく、何時
 も誰か相手は凍りしが、此時余にも開けとありし故、進で聞き居りし
 に、恰も棉公討死の段にて、先生は涙を垂れて居られしが、此僅か十
 二三歳の小供に敦へらる1にもやはり斯くあるは、先生が常に謂はる
 1如く、自ら其境に在るの心して讃まる1を以てなり。又余が廿一史
 を授かりたる時、岳飛死し、金人酒を酌んで喜ぶ段の時にも、先生涙
 を垂れで山野柁たりし。余が史を止革むに官り、書中帝日くとある虞、突
 紘誰肴なるやの問を超されて其答に察したることありき。寮より書を
 讃むに、此位の事は別に六ケ敷事ではなく、随分永き時代の史中に、
 帝日くの如きこと津山ある時は、得て誤り易きものなり、先生是れを
 以て注意さる1なり。又先生は塾記に在る如く、寧は人の人たる所以
  を寧ぷものなりと云はれたり。
  余は先生が萩の獄中に居らる1時、死と云ふ事は、私に於ては決す
  ること出来ずとの意を先生に申せしに、先生は手紙にて、非常なるこ
 とを繰々書きて、余に示されたり。余も先生の言の余りに余を罵られ
 たる様に考へたる故、一時腹立しく思ひて、乱暴にも其状を寸多〈
 に引き裂きたりしが、先生が猶之れにも足らずと思はれしにや、別に
 但し書一枚を添へ置かれしかば、此但し書のみを保存し置きし。則ち
 其原書は、京都の争撲堂へ納め、馬しを印行したり。今日一枚を持ち
 来りしが、英文中に、道義に於て死したるは、決して死したるに非ず、
  との意を示されしが、つゞまる虞死を度外に置けとの意なり。
  右棟の次第故、諸子が寧問せらる1にも、此地理算術歴史等は、面
 白からざる虞あるも、大事に心掛け、各‡己れが志す所に従て修業せ
 られ、道義と云ふ事を忘れざる様せらる1が肝要と存ず。大勢の方ゝ
  の中には、嘗せ流行の図合議貞を望まる1の士あるぺし。是等の人は
 此心掛けにて立汲なる人となり、彼の蛙の様な鳴き孝を出さず、立汲
 なる饗を出す人となり、農業をせらる1にも、商業をせらるゝに瑞1
 糞水を汲み眉背を破つてやり上るといふことを忘れずに、又た道義と
  いふことを大切に心懸けあらんことを請ふ。話は未だ轟きざれども、
 飴り長くなるを以て、之れにて失祓す。』

        (四)
 三十二年の紀元節の昔日、例の如く養気暦『諸政陰神社』を行ひし時、
 余は塾友をして江州より取寄せ置きたる唐崎の砲の草生を持行かしめ、
 之を松陰神社の傍に種ゑしめたり。此松は通憾ながら数年の後枯死した
 りと蝕も、此尊は払陰神社と家塾との硯係をして一席親密ならしめ、同
 時に魅陰に対する余が欽慕の情は、年を逐ふて益ミ加はることを記する
 もの上いふべきか。
 砲陰神社に関しては、前に挙げたる養菊暦の外、毎年十月十七日を以
 て挙行せらる1同社祭典には、特に塾友敦子をして参拝せしめ、癒し辟
 れる神酒を、一滴づ1なりとも内塾友仝健に頒つを例とせり。

        (五)

 三十五年友人長谷川芳之助君松陰の像を我日本中学校に託し、校内に
 安置せんことを望まれしを以て、喜んで之を承諾せり。此に於てか日本
 中学校なる一個の集囲も、亦た松陰の梢紳的勢力圏の中に入り来れり。
 長谷川君が此像を作製せしめたるに就ては、余も亦た関係者の一人なる
 を以て、自然其願未を誌さゞるぺからざる次第なれども、之には長谷川
 君の青田松陰肯像由来記の在るあり。事ひ同君の承諾を経て本既に載す
 ること1なりしを以て、余は敢て蛇足を加へず。若心其れ詳細を知らん
 と欲する士は、別項に就て参照せられんことを望む。
 以上叙ぺ来りし如く、余が頭脳は十四歳の時より五十四歳の今日に至
 るまで、正に四十年問、曾て松陰と離れしことなきを以て、松陰の人物
 に対しても、余は余一個の説を有せざるに非ず。事の序なれば、最後に
 余の松陰観をも併せて披露すぺきが、固より事ミしく人物論と稗すぺき
 程のものに非ざれば、或は轟さゞる所あらんも料られず、二言断りを致
 し置く。

        (六)

 松陰時代の人にして尊王撲夷の説を唱へし者、濁り松陰のみにあらず∧
 然るに松陰が多くの尊扶家中にl頭地を抜き、偉大なる感化力を後世に
 及ぼすもの、蓋し其故なくんばあらず。余を以て之を観るに、松陰は尋
 常一様の憤慨家にあらずして、二言一行至誠に餞す、是れ松陰の松陰た

 る所以の一なり.松陰は能く首を立り。而も最諭のみを以で満足する人
 にあらず。言ふ所必ず之を行ふ、一謂はゆる質践窮行の人なり。是れ珍陰
 の松陰たる所以の二なり。松陰、畢和漢に通じ、活用を旨とす。然れど
 も松陰の活眼は、徒に和漢の寧に拐蹄するを好まず、汎く眼を海外に放
 てり。是れ松陰の松陰たる所以の三なり。而して常に能く撥先を刺し、
 條慨能く難に赴く。之れ松陰が多数の尋撲家中に、斬然として頭角を現
 す所以ならずんばあらず。今少しく之を詳説すぺし。
  松陰は元来至誠の人に相違なきも、讃書の功によりて、益ミ至誠の伶
 ぷぺきを知り、苛くも至誠を以てせば、天地の間、物として動かざるな
 し、といふ見解を持したるが如し。安政六年五月幕府の嫌疑を受け、将
 に江戸に押迭せられんとするや、漁め生還の期し難きを知り、諸友相謀
 り、松浦無窮をして松陰の像を重かしむ。松陰自賛を作る。其詩に日く、
  三分出レ鹿骨。諸葛己英夫。一身入レ洛今。貫彪安在哉。心師二貫高一合。
  南無二素立名→志仰二魯達一合。遽乏二澤難才叫讃書無レ功今。撲孝三十
  年。滅賊失レ計今。狂気二十一同。人讃二狂頑一合。郷薫衆不レ容。身
                      ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ  ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
  許二家園−曾。死生吾久再。至誠不レ動今。自レ古未二之有→人宜レ立呈仙
  骨。聖賢敢迫陪。
  又た松陰江戸に至るの後、十月二十日縞に幕議を漏関して終に死を免
                                                ヽ ヽ ヽ
 れざるを知り、永訣の書を作りて父叔父兄等に屠りしが、書中『平生の
  ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 拳間浅薄にして至誠天地を感格すること出来不申云々』の語あり。此等
 を以て推すに、松陰自ら至誠の人にして、加ふるに居常至誠の二字を深
 く胸裏に刻したるを知るぺし。至誠一貫、之れ音に松陰の本領にして、
 『至誠不動今、自盲未之有』の語は、最もよく松陰の人となりを示すも
 のと謂ふぺし。余が松陰に封して言ふぺからざる同情を表し、四十年衆
 欽慕して止まざるもの、主として為に存す。惟ふに松陰にして若し至誠
 に軟くる所あらば、後世に及ぼす感化、堂今日の如く偉大なるを得んや。
 是れ余が松陰を以て、至誠の人と為す所以なり。
  賓践窮行も亦た松陰の松陰たる所以にして、之もまた余が松陰に心服

10c

する所の鮎なり。余は常に貰践窮行を重んじ、言敏にして行も亦た敏な
らんことを塾友諸子に語へ、現に塾の約束書にも、『師長の訓戒に従ひ
賓践錮行を重んずぺきこと』といへるを、塾中申合の第一に掲出したる
位なり。されば松陰が箕践娼行の人たりしことは、松陰に封する余が欽
慕の情をして一席深からしめたるに相違なしと維も、若し松陰をして畢
に口舌の人に止まらしめば、濁り余に封してのみならず、一般の人に封
しても、今日の如く偉大なる感化カを有すること能はざりしならん。例
 へば松陰の詩中に現れたる『安得三天詔故二六師ハ坐使三皇威被二八紘一』
といふ語が、尋常詩人の傲語と同じからんには、・松陰の償値安くに在る
や。然るに松陰は、米艦に投じて海外に航し、象山の謂へる如く『周流
究形勢』の後、辟衆我圃の為に根本的の封外策を立てんと試みたり。不
幸にして投艦の意を果さざりしと維も、松陰は此時を以て、筆を棄てロ
を釦み、貴行に移らんとしたるなり。松陰の本領を磯挿せんとしたるな
り。之れ無くんば松陰無し。事敗れたりと錐も、而も余は此事に於て始
めて松陰の松陰たる所以を認むる者なり。松陰の著書頗る多し、其精力
 の旺盛なるは則ち多とすぺきも、著書萬巻、未だ松陰の償値を定むるに
足らず。松陰に算段姫行の精神ありて、松陰の償値始めて定まる。要す
 るに松陰は、筆舌の人に非ずして貰行の人なり。
 第三に余が松陰に服する所は、其活眼に在り。松陰時代に於る時勢に
徹すれば、尊王説は是非を論ずるまでもなく無論可なりとすぺく、扶夷
 の説亦た必ずしも不可なりとせず。然れども眼界狭小にして一因の外に
出でず、列国の強弱をも審にせず、世界の大勢をも窮めずして、徒に扶
夷の説を主張するは、其志は素より美なりと雄も、研か短硯尺歩の嫌な
 しとせず。筍くも国事を論じ〔身を以て家囲に許す志士としては、頗る
 物足らぬ感なきを得ざるなり。然るに松陰は、拳和漢に捗ると錐も、西
 洋の事情は、多少自らも研究したりしならんが、佐久間象山に就て大膿
 を撃び得たる外、未だ深く斯方面に通暁したりしことを聞かざるにも拘
 らず、夙に娘を海外に注ぎ、彼我の情勢を併せ知らんとしたるは、活眼

 の士にあらざれば能はざる所なり。松陰の詩に
 不レ審二夷情一何駁レ夷。 夷情深遠酷難レ知。
 航海誤来天下計。 男児寧作l二 身悲→
 といへる一首は、善く人の記臆する所にして、而して松陰の志を見るぺ
 し。若し松陰に這般の活眼なければ、松陰の尊撲説は、何等の異彩も生
 命も無かるべきなり。而して松陰の活眼は、右に畢げたる七絶の外、米
 艦に投ぜんとしたる時の陳情書に依りても之を知るぺし。恰も米国艦隊
 来航のことある今日なれば、其陳情書を鼓に引用して、一は松陰の志を
 示し、一は歴史上の関係を辿るの資に供せんとす。
 日本江戸府書生瓜中高二市木公太呈二書貴大臣各清官執事〔生等斌真
 薄弱、姫幹短小、固牡/列二士藷ハ未レ能レ精二刀槍撃刺之技→未レ能レ講二
 兵馬闘争之法→汎々悠々、玩]慣日月〔及/讃二支那書ハ相聞]知欧羅巴、
 米利堅風教→乃欲レ周ヨ遊五大洲→然而吾囲海禁甚厳、外国之人入二内
 地∵輿三内地之人到二外国→皆有二不レ貸之典→是以周遊之念、勃々然
 往]来於心胸間→而坤吟躊躇、蓋亦有レ年、幸貴国大軍艦、達レ椅衆泊二
 我港ロハ馬レ日己久、生等熟観稔察、深悉二貴大臣各婿官、仁厚愛レ物
 之意→平生之念、又復鱗蜃、今則断然決レ策、婿下深密請託、慣坐二貴
 艦中→潜出こ海外→以周利遊五大洲い不二復職ア厳二国禁一也、願執事辱
                  ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ  ヽ ヽ ヽ ヽ  ヽ ヽ ヽ ヽ
 察l融衷〔令レ得レ成二此彗生等所二能為ハ百般使役、惟命是聴、夫践
                                              ヽ ヽ ヽ ヽ
 聾者之於二行衷行走者之於二騎準者、其意之歌羨如何耶、況生等終
  ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 1 1 1 1 1 、、、 、 、 、 、 、 、
 身奔走、不レ能レ出二束西三十度南北二十五度之外ハ以レ是現下犬夢l長
 風一凌二頁涛→電走千富里、隣ヨ交五大洲−者か萱特肢覧者之輿二行走彗
 行走者之輿二騎乗孝之可レ誓哉、執事幸垂二明琴許ヨ諾所り請、何志伶
 レ之、但吾海禁未レ除、此事若或俸播、則生等不三徒見二追捕「別斬立至
 無レ疑也、事或至レ此、則傷二貴大臣各賭官仁厚愛レ物之一軍亦大矢、執
 事願許レ所左戟A又宮下多重筆委曲包隈、至手開帆時り以令ウ得レ免二
 別斬之惨「至レ若二他年自蹄「則国人亦不三必迫ヨ窮往事一也、生等富雄こ
  粗暴ハ孟則貸確、執事願零−其情「勿レ馬レ疑勿レ馬レ捉、萬二公太同拝
   呈、
   日本嘉永七年甲第三月十一日
 書中瓜中高二とあるは則ち砲陰にして、市木公太は則ち金子重之助のこ
 となり。砲陰が此襲名を用ひしは、果して何に因みしものなるや詳かな
 らざるも、とにかく枚陰の気概を以てして、常時外夷とか西蕃とか罵り
 居たる米国人に向ひ、如何なる苦役も甘んじて頓使に任ぜんとの意を示
 すに至りては、其決心の尋常に非ざるを知るぺく、殊に『生等終身奔走、
 不能出東西三十度南北二十五度之外』と日ふが如きに至ては、費に松陰
 の活眼を具へしことを澄するものと謂ふぺし。尤も投艦航洋の拳に関し
 ては、師象山の鼓舞興りてカあるは、勿論なれども、抑ミ亦た松陰の天
 性、松陰をして此に至らしめたるにあらずやと思はる。何れにしても松
 陰の活眼は、其至誠と箕行と1もに、松陰の本領として認めざるぺから
 ざる所のものなり。
 以上叙べたる如く、松陰の至誠、松陰の貰行、松陰の活眼は、確に松
 陰の本領に相違なきが、此本領に依りて推す時は、松陰は一人にし優に
 寛政三奇士の特長を余儀したる如き人物なりしやに思はる。之に加ふる
 に、松陰は其寧術と気節とを以て一藩の子弟を教養し、其至誠は能く此
 等の少年を感化し、遂に長州をして維新の主動看たる地位に立たしめた
 るは、争ふべからざる事茸なりとす。而して其身は僅に三十歳にして刑
 場の露と滑えしも、英気塊は永く天地の問に在りて、今に至るまで猶ほ
 後進を鼓舞するの勢力を有することも、亦掩ふぺからざるなり。余曾て
 松陰を詠ずるの帝詩あり。録して以て『松陰四十年』を結ぶ。
 休造航洋誤一身。 幾多子弟纏精神。
 年線三十量其徳。 正気凛然猶動人。
          (明治四十一年十月十入日「日本及日本人」臨時増刊兢)