愛 国 論


人誰か身を愛せざらん凡そ人にして瘋癲白痴の輩にあらざるよりは其身
に幸福を得んと欲するは尋常一様のことにして少しも怪むに足らず而し
て其一時勤労困苦するを見れば或は身を愛せざるが如き外見を呈すれど
も退いて之を考ふる時は是れ大に身を愛するに因らずんばあらず例へば
書生が学校に入りて某の学科を履修し寒暑風雨を厭ず日々に遠方より学
校に出席し耐忍して教師の教へを受け帰宅の後には洋燈を友として夜深
に腿を刺すに至るものあるは皆その学問の結果に依り身を立て社会に信
用を博し以て一身の幸福を得んと欲するによりて然るなり其他実業家に
就て之を見るも或は農或ひは工或は商と種々雑多の職業はあれども其自
家の幸福を得んが為めに汲々労苦に堪へるは皆然らざるなし眉を聳かし
諂ひ笑ふは夏畦よりも病めりと云ふこともあれど是も亦職業と思ヘば軽
し傘の雪雪降りにも雨降りにも少も厭はずして其職業を励み骨惜みをせ
ざるは皆是れ己れの身を愛するより出るにあらずして何ぞや
一国とは一個人の集合より成立つものにして其集合するには之れに貫通
せる結合力ありて一個人の問妙に離るぺからざるの感覚あり即ち歴史を
           止りんぎよ
 同うし地理を同うし言語を同うし其他の風俗慣習等を同うするは最も其
 結合力の強き部分を働くものにして今日に在ても外国に封する時は同胞
                                こころみ
一体の感覚ありて囲結するには最も容易ならしむる原因なり試に吾人が

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海外の諸園に滞在する時に嘗ツては其本国に在ては全く一面識もなき人
                                 そ
と維も何となく懐かしき心持のするものなるを見ても知る可し夫れ斯の
                   あひたがひ
如く一国は一個人の集合して其精神の相互に脆路せるものなれバ猶ほ耳
目口鼻四肢其他身体の諸部が一個の全体をなすが如く己に数百苗乃至数
千苫の人民が相集合して一国を為すに於ては英国を愛するとは即ち其身
を愛すると同様のことにして園を愛すると云ふは何か外に愛するもの1
ある様に考ふる人もあるぺけれど是は大いなる誤解にて愛国も亦遽に自
愛の二字を離れざれバ能く此鮎に注意するは今日外国と封崎するに首ツ
                     やゝ
ては最も必用なる一事なり然るに世間には動もすれバ頗る此意味を誤解
                                 やから
して園を愛する杯と云ふときは飴計な心配を為すが如く思考するの族も
                                 しツかい
少からず嘗時の如く護国専門の一種族即ち士族が一国の緩急は悉皆之を
引き受ると云ふ様なことは最早滑滅し士農工商四民平等に権利も義務も
あるの世の中となりたるを知らずして自分一身のことをも更に頓着せざ
る如きは甚だ以ツて不覚悟千萬なる次第ならずや己に前に述べたる如く
 なんびと
何人にても英一身を愛せざるものなきは誰も承知のことなるに斯の如く
            ふ しんせつ         おもんは
圃を愛する点に於ては頗る不信切なるは深く一身の事を慮からざるより
起るの弊なるべけれバ吾輩は其早晩必ず狼狽するの時期に立到るぺしと
                     こと書
信ずるを以て坐現するに忍びず放らに之を掲出し以て直接或は間接に我
                                かくのごとし
同胞の諸士に園を愛するは即ち身を愛するに均しきを告ぐること如斯
                   は明治二十年二月十日「讃費新聞」)