東北に於ける板垣伯
嘗て板垣伯の東北行を観て、自由薫に策士なくして、而して伯の多螢に

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して功少なからんことを歎じき。今や諷然として伯の遊挽を趣ひ、身も
亦東北の偏陣、山深く谷幽なるの地に墜落し衆る。伯が涼しき北地とは
云ひながら、兎に角炎天を侵して、千里の途を行き、政治せ界に木鐸と
して、個人主義とやらん申す妙法を談説しっ〜飛び去られし蹟を観察す
るに、伯の為に璃に泣て而して笑せざるを得さる者あるなり。
思ふには伯自らは、董し泣て笑するに至らざらん、それ或は寧ろ喜て而
して碍々たる者あらん。伯の喜で而して得々たるが為の故に、吾等は益
々泣て而して競笑せざるを得ず、是れ何等の惇炭の事ぞ。欧陽子昔て歎
じて日く、以て狂人と為さゞれば則ち以て病痕子となすと、人の為に憂
を槍ぐ、之を憂ふること焚溺よりも急なり、而も焚かる1者、瀦るゝ者
は則ち冷然として、憂る者の憂ふるを笑ふ、世事毎々此の如し。今の時
に官つて憂ふぺき者、板垣伯の行路より急なるなからんや、然れども親
もぐさ
の病の為めに三年の文を天下に求め、而して眼前の乞食が死に瀕するを
見れば、忍びずして嚢を傾けて之に給するも、亦た常情にあらずといふ
ぺからず。鳴呼板垣伯の鳥に泣て而して鱗笑し、而して伯の冷笑を報酬
せらる、吾れ板壇伯の忠臣にあらすして、甘んじて此を為す、吾れ眞に
自ら狂人ならざるかを疑はざるを碍ず。
従車敷石乗、七州に停食して、蝦夷の囲に及ぶ、伯の饗望宜に隆ならず
とせんや。到る虞多少の信者が個人主義の説法に傾癖し、得造成彿の方
便、是を措て復たあるぺからずと熱中する者あらば、伯の喜で而して
得々たる、宝に無理なりと云はんや。抑も是れ吾輩が伯の為に泣て而し
て笑する所以なるを奈何せんや。伯も亦試みに自ら問へ、伯が七州に遊
説する所以の者、壷く其の衷情に出で1、些かも植略方便の其の問に魔
はる者なきか。伯の個人圭義や、必すしもその信する所にあらずと云は
ざるなり。然れども侶の之を説くや、其の信ずる所に一牽を加へず、又
一竜を減ぜず、而して伯が以て之に反すと為す所の園家壬義を許するや、
亦其の侶ずる所に一葛を加へず、又一宅を滅ぜざりしか。伯が眞正なる
囲家圭義に仇敵たらざりしや、書等質に之が言貿を有す、雨も伯は現政
府を攻撃せんが為に、圃家圭義が現政府に誤られたるを紳ぜんとはせず
して、反て得意粁を快うし、囲家主嵐を攻撃して之を譲ふることをせざ
りしか。伯の随員の言ふ所は、伯の輿り知る所にあらずと云はゞ、吾等
之を知らず、伯にして萄くも古へ士人の行を忘れずば、伯が随員の言ふ
所、之を巧粁を弄して地方撲愚士民の心紳を魔酔し、以て入りを一時に
取らんことを求めたる者にあらずといふぺからず、伯之をしも輿り知ら
ざるか。固より此の如きは、官せの常態なり、何れの某、何れの汲、而
して何れの人か之を為さゞらんや、然れども板垣伯たる者之を為すは、
則ち泣て而して競笑すべきにあらずや。
かくの如き板壇伯、其の饗授を得る所の者知るぺきのみ。犬の耗する者
を見るか、之を頼し之を液すれば、批糠前に在り、軽き者は先づ飛で而
して散じ去り、而して重き者は糀く飛ばざるなり。夫の簡ふ者を見るか、
之を簡ひ之を飾へば、粉未下に在り、細なる者は先づ漏れて而して墜下
し、而して大なる者は遽に漏れざるなり。地方士民、亦た宣に以て例硯
すぺからざらんや。板垣伯なる者あり、大風の吹き徹るが如く、大地を
一掃して去る、其の最も動措を受けたる者は、蓋し細枝末葉の属、而し
て其の根幹にあらざるなからんか。所謂根幹、宣にかの今世の庚命する
恒産ある、懐中の膨れたる紳士を云はんや、而して所謂細枝未葉、又宣
に今世の賎蔑する無産貧乏の徒を云はんや。今世の崇伶する阿堵物の力
は、人世究責のカにあらざるなり、人世究責のカは恐らくは板垣の知ら
ざる所、而して其のカある者の多教も自ら知らざる所ならん。然れども
之れあるは到底疑を容れず、而して世局の大攣は之れある者の支配する
所、之れなき者の支配は永久なる能はざるなり。吾れ箕に板垣伯の遊舵
を迫尋して之を見たり、個人主義の崇拝者として、板垣如衆を槍ぎ廻り
し地方士民は、吾が所謂究責の力に鉄乏すること最も甚しき者なりしと。
板垣伯は且つ此等の徒を得て、而して七州の大勢、大に定まれりとなす
か。吾等が泣て而して競突すぺき所以、賓に此に在る也。
又此に由て感ずることあり、濁り板垣伯のみならす、几て雑新の元勅、
英の功勢や多からずとせず、以て過去を誇るに足れり、抑も以て賭来を
馬すに足るか。物を積むが如し、後れて至る者上に奄り、是れ以て今日
の老輩を暁すぺからざるか。
(明治二十四年九月十四日「亜細亜」第一二既)