創才と学殖


才、亦各筒ばるべき時期の樽換あり。春秋戦圃より漢初に至るまで、創
才の伶はれし世たり、而して東漢以て六朝に及ぶ、孝殖の償大に珍とせ
られたり、唐其の梶横を縛じて、宋は創才の楓盛たり、明清に至りては、
又寧殖の縛々崇伶せらるゝを見る。此の邦と錐も、登に然る者なからん
ゃ、三百年衆儒拳を以て之を言ふ、官初寧者虜る博拾を務め、水戸氏の
修史、林家の寧柄を絶べ、自石の博覚、益軒の親切、皆畢殖を以て成れ
り、仁奔租裸起りて、寧者皆新説異義を貴び、改頭換尾、以て創見を誇
りしが、異拳の禁ありしより、宋畢統一の功は却て全からずして、明清
考讃の寧風、盛んに輿るの気象ありしに、革奨の世蓮に牽かれて、識見
の償又大に高まり、而して新時代に入れり。前の寧殖と、後の寧殖と異
なるあり、前の創才と後の創才と同じからずと錐も、一往一衆は常敷免
かれざるが若くなれば、官世に得られんとする者、石代に契らんとする
者、各々其の好む所を揮ぶ、何ぞ各めんや。
(明治二十六年二月一日「亜細亜」第二巻第一戟)