39

  李鴻章死臭

                                
 囲主久しく阪邑に逃がれて外兵猶ほ京故に在り、北浦の和平僅に成りた
                                
 りと雄ゼも而かも東浦の快復未だ遂げざるなり、支那今日の園歩亦た難
         
 難を棲むと謂ふぺし。此の時に於て元老李鴻章死す、支那対外の事局其
 れ誰れか之を収むぺき。李鴻章字少茎道光二年(文政五年)を以て安徹
 省の合肥に生る、常時欧洲の大勢を見るに、希世の英雄ナポレオン第一

 世己に絶島センテレーヌに於て死し、列国皆な隣境の安を得て以て遠征
                                         
 を企つ、而して東洋漸く多事なるに至らんとす、露人の我が蝦夷を侵し
                              
 たる、英船の我が浦賀に来りたる、支那の北彊に伊黎問題の起らんとす
                              
 る、其の南遽に阿片事件の始まらんとする、皆な李鴻睾の生れたる時に
 叡h
 昔時北京廷の君臣外逼を防くの念猶ほ旺俄、伊黎婿軍某蕗兵を茂れて進
 まざりしかば、乃ち赦して之れに死を賜ふが如きあり。自尊自大華も西
 洋の事情に通ぜずして、妄りに之を夷秋現したるの迂愚、則ち之ありと
                                       
 いふと雖ども、国是己に此に在り廷臣皆な相ひ奮ふ。林則徐の阿片を焼
                              
 棄したるより、以て曾紀澤の伊黎を快復したる迄、常時消延外侮を禦く
            
 の意気甚た壮なりしを見る。李此の閏に出で1左宗柴及び曾園藩の諸表
 と相ひ餅馳し、廣東の敗に香港を英に失ひ、天津の敗に満洲北部を露に
 輿へ、而して其の後ち又た虞門の敗に安南を備に奪はるゝを見漸く西洋
 列国の侮り難きを悟りけん。常時李鴻章の秦議は新蛮の事に付き、
 『新蛮各域ハ乾隆年間ヨリ始メテ版国二辟ス開聞ノ難ハ論ズル無キ
                                   
  モ印チ無事ノ時スラ歳二兵費ヲ需ル伶ホ二百飴萬両徒二数千里ノ
                           
 境地ヲ収メテ而シテ千百年ノ漏厄ヲ増ス己二億セズト窺ス…・:西域
                                   
 師老ヒ財匿シ尤モ慮ルべキハ別二他欒ヲ生センコトヲ曾園藩前キニ
 幹”酔舛”敷戸血ャデ緋和”瀞””いパ卦e殆卜老成謀園ノ見ナ
  リ…=・況ンヤ新蛮ハ肢鰭ノ元気二於テ傷ナキヲヤ』
 との言あり、亦た以て李鴻章の所謂る老成謀国の見を推すに足るものあ
 らん。是より先き、夫の阿片事件に尋いて髪賊の乱あり、江左財斌の重
 地は賊の占嬢する所と為ること殆ど十年、李鴻章は左曾二人と協力して
 繰に平定の功を奏したるも、飴弊の園財に及ぶもの蓋し最も甚しかりけ
                                
 ん。李が内治全局の統整を急として関外境地の保持を必とせざるの主義
                              
 は其の由来や久し、馬関條約に遼東の割譲を拒まざりしも、膠州湾を濁
                               
 に貸し及び旗順大連を露に貸すことを審まざりしも、皆な其の従来の主
                     
 義に出づ、何ぞ濁り満州全土の譲輿を嫌はんや。

28

李鴻挙が東洋唯一の政事家と構せらるゝ所以は五十年の活歴史中に在り
て能く自国の窮鮎と欧米諸邦の実勢を知り、平和と退譲を以て欧洲諸邦
 に交り徐ろに国の統整を滴らんとせしに在り。不幸にも彼れは東亜の隣
            
邦に射し誤りて遠交近攻の策を講じ甲午の失敗を取りたるは、其の東洋
                             
唯一の政事家たるの発音を晩年に失ひし所以なり。李鴻睾は此の晩年の
勅貯卵陣敏郎舶い酔いで率い如パ鮮卵御、帥少尉野桝併称いや肘掛が新
郎酔いい緋呼椚田斬新静桝卸卵秒砕いや弊桝力酔御節酌む僻か舶いヤが
桝轡新和軒肘緻撃砕率伊野新郎い師かhカシエー條約の如きは其の
第一着手にして、放順大達の永貸は之に次ぎ、遽に今春の密約及び今岡
 の悌商を以つて其の策を終了せんと欲す。今や不幸にして中途に死す、
世上亦此の老政治家の為めに一滴の涙を落す者あらん。
                                    
支那の前途を案するに、李鴻章が久しく抱懐する所の国是『暫棄関外尋
   
清閑内』てふ方針は、以て長計と為すぺき乎、賭た組宗態群の地たる満
洲を保持して以て南方割譲の啓端を防くぺき乎、是れ固より重大の問題
なり。夫れ長江は清廷財威の重地なり、李鴻章亦た毎に之を言へり、関
外数千里の境地は暫く之を論外に置かんも、滴洲の割譲は自ら江左の割
譲をも促がさん、清濁の前途其れ何の逮に向ひて財購の地を求めんとか
                               
すぺき。劉坤一張之洞の二老は現に南方の重鎮たり、今や李老の死去に
                       
際して播遽中の朝廷は何人の献替を聴かんとするや。李の生死は清廷対
外の向背之に繋がるとせば、李たる者亦た以て瞑するに足る。
                                
李葛の一世は東洋多事の初期と共に始まりて東洋多事の極度と共に終は
                              
り、其の国内理乳の跡に之を見るときは、髪賊乳の前より始まりて而し
           
 て拳匪乳の後に終はれり。
褒に北京に於て其の面貌を見る、老饅衰憑坐作亦た自由ならず、両かも
躯幹長大眼光爛然、言笑の間檜気人に迫まる。年己に七十八、猶ほ身を
挺して敢て難難の局に首るを辞せず、亦た東亜の一偉材たるを失はず。
 今や己に瞞世の人と為る、悲未。
                   ハ明治三十四年十一月九日「日本」)