第二期の政論


第一 民権論派


道理を證明して人心を教化する所の学者は既に政論壇上を退きたり、政
論の事終に慷慨志士の社会に移りたるは是れを第二期政論派の特色なり
と云ふへきなり。当時世に有志の徒なるものありて、実に維新前慷慨志
士(即ち昔時の当路者)の気風を続く、此の徒或は洋学の初歩に通じた
るあり或は単に和漢の教育を受けたるあり、固より一家の学者たるもの
なしと雖も、亦悉く無謀の人のみにはあらす。彼等は慷慨憂国の士を
以て自ら任し国事に付て相当の意見を抱きなるは勿論、往々其の意見を
政府に建白して志士たるの責を尽さんと試みたる一にして足らず、然れ
ども言論出版を以て意見を公にするを得たるは実に昔時印刷事業進歩の
賜なり、彼等は屡々国是確定紀綱緊張の説を主張し又たは朝鮮征討国権
拡充を唱道したり、然れども権義上の新説を以て政府に反対するは実に
当時民選議院論建白の出てたるに始まる。
吾輩は此の期の政論派を汎称して民権論派と云ふ、何となれば其の論旨
の異同如何に拘らす皆な民権自由の説を以て時の政府を攻撃するものな
れはなり、然れども此の論派に在りて昔時既に二種の分子を孕み、未た
相ひ軋轢するに至らさるも、隠然其の傾向を異にしたるは争ふへからざ
るが如し。民権論派は元と民撰議院論に促されて起りたるの姿あれども、
是れ唯た共の民権説に促されたるのみ、所謂る寡人政府の専横と云ふに
同意したるのみ、民撰議院設立を急務とするの点に至りては此の論派敢
て熱心に之を唱道せざるが如し。当時の論旨を察するに、此論派は民権
拡張を主張すと者ふよりは、寧ろ現政府を攻撃すと云ふに在り、此の過
激なる論派を代表せし人々は今日之を詳悉すること甚た難し、唯吾輩の
記臆する所を挙くれは一方には小松原英太郎、関新吾、加藤九郎などの
諸氏あり、他方には末廣重恭、杉田定一、栗原亮一等の諸氏ありて、政
論の為に禍を速きたること一二回に止まらす。是より先き政府は民間政
論の漸く喧しきを見、明治八年半ごろ厳重なる法律を制定し、以て志士
の横議を抑制したり、然れども此法律は反りて益々政論派を激昂せしめ、
天下の人をして愈々政府の圧制を感知せしめたるの状なきにあらず、是
より其の後、民権論なるものは青年志士の唱へて栄とする所と為るに至
れり。
昔時日刊新聞紙の業漸く進歩し、所謂る新聞記者なるものは彼の激論的
雑誌記者と共に政論を唱道したり、横濱毎日新聞、東京日々新聞、郵便
報知新聞、朝野新聞、讀賣新聞の類は最も著しきものなりき、然れども
新聞紙は未だ政論の機関と為るに至らずして、重もに事実の報道に止ま
り、従て其の政論も亦た梢々穏和婉曲にてありき、民権論派の主義の大
体を考るに今日の民権説と少しく其の趣を異にし、其の立言は絶て駁撃
よりは寧ろ弾劾的に近く道理を講述すと云ふよりは寧ろ事実を指摘す
るに在り、然れども其の天下の人心を動したるに於ては吾輩暫く之を一
の論派として算へん。彼れ等の言論に以為らく、「政府なる者は人民を
保護するに在り、若し保護せすして反りて之を虐遇するは是れを圧制政
府と云ふ、圧制政府は何時に於ても何処に於ても人民の転覆する所と為
らざるへからす、欧米各国に於て共和政治の起りたるは皆な圧制政府を
嫌ふか為めなり、即ち圧制政府の倒るゝは自然の数と云ふぺし」、而し
て彼等は又大呼して「民権は血を以て之を買ふへし」と曰へり。
是に因りて之を見れば、彼等は政治の理論を説くにあらすして政変の事
実を説くものなりき、事実の上よりして其説を立て以て時の政治を排斥
したるに過きす、則ち彼等は殆んど理論上の根拠を付せざるに似たり。
千五百年代英国に於て民権説の勃興するや、時の学者等は重もに宗教の
上より其の論拠を取り来り、暴虐の君主は神の意に背く、故に神に代り
て之を願覆せざるへからすと云へり、学理の未た進歩せざる当時に在り
ても、稍々其の根拠を確めたるものゝ如し。昔時我か国の民権論派は殆
んど共和政治を主張する迄に至りたれども、唯た事実の上に起点を置き
未た一定の原則を明にしたることあらす、日本の近世史上には其の跡を
止むるの価値あるも、政治の理論としては甚た微弱なるものと云はざる
へからす。然るに之に続きて稍々充備したる民権論派の萌芽は生したり、
此の論派は最新洋学者の代表する所にして慶應義塾等に於て英米の政治
書を読みたる者は多く此の論派に帰す、是に於て民権論派は隠然三種に
分るゝの姿を現はせり、而して当時有名の新聞記者福地源一郎氏は隠然
政府弁護者と為りて暗に民権論の反対に立ち自ら漸進主義の政論者を以
て居りたるものゝ如し。
功臣分離の時より以て西南戦争の年に至る迄、此の間の政論をば吾輩仮
りに民権論派と名けたり、此の論派中には大凡そ四種の分子ありと雖も、
其の三種は時の政府に反対して民権を主張したるは則ち同一轍なりしと
云ふへし。他の一種と雖も敢て明に政府の弁護者と解せられたるにあら
す、唯た民権説を主張するに於て稍々国情を斟酌したるに過きす、当時
に在りては此の論派中各種の間に於て未た著しき論争を開きたることあ
らす。是の故に吾輩は之を一般に民権論派と称して其の各種の異同を吟
味せん、何をか民権論派の四種と言ふ。
第一種と第二種とは吾輩の前段に於て過激論派と解したるもの、即ち民
選議院建白を聞て直に起りたる所のものなり、此の第一種は幽鬱民権論
とも云ふへきものにして多くは在野征韓論者の変形にして其論素は実に
和漢歴史の智識より生す、故に其の民権を唱へたるの危激なりしに拘ら
す、民権拡張の道理には甚しき熱心を抱かす、目的は唯た政府の二三大
臣のみにて政事を執り、在野の賢良と共にせざることを不満として之れ
を痛く非難するに過きざるが如し、去れば西南戦争の鎮定と共に彼れ等
は其の旗幟を撤して、復た前日の如く危言激論を作さるゝに至れり。第
二種は之れに反して快活民権論とも云ふへく、浅薄ながらも西洋の学説
を聞き、日本将来の政体は現時の如く君主又は二三権臣の専制に任すへ
からす、文明国の風に倣ひ人民の権利を重んじ、人民の公議輿論を以て
政を為さゝるへからすと信したるものゝ如し、是れ実に日本に於ける
由主義
の萌芽にして政論史上記臆すへき価あり。第三種の民権論者は此
の期に在りて最新の政論者なり、吾輩は之れを飜訳民権論と名くへし、
彼等は皆な昨日まて窓下に読書せし壮年若くは新に西洋より帰りたる人
々なり、第二種の論者よりは幾分か多くの洋籍を繙き、英米学者の代議
政体論、議院政治論、憲法論、立法論なとは彼等よりも一層精しく講究
せり。吾輩は此の論派の代表者を挙くる能はざれども、二三年の後改進
なるものを組織したる人は大抵此の派に属せしが如し、彼等は戦争よ
りも貿易の重んすへきを論し、何れの国も欧米文明の風潮に抗すへから
ざるを論し、国政は君民共治の至当なるを論じ、立法司法行政の三権を
鼎立せしむぺきを論じ、要するに専ら英国の政体を直に日本に模造する
の説を抱きたるが如し。此の飜訳的論派は夫の過激的民権論よりも一層
穏当なるが如く見へ、隠然多くの賛成者を朝野の間に博したり、何とな
れば其の全体は尊王主義と民権主義との抱合たる姿を有すればなり。当
時廟堂在位の諸公は如何なる意見を政論上に抱きたるや、思ふに亦た民
権説を蔑視し厭忌し危懼したるにはあらざるぺし、然れども過激なる民
権論を以て国を崩するものと見做したるや明白なり、吾輩は当時の東京
日々新聞主筆たる福地氏を以て此の代表者とす、之を第四種即ち折衷民
権論
と為す、同氏の草したる民権論に曰く、
 民権は人民の為にも全国の為にも最上無比の結構なる権理なれども其
 の権理の中には幾分か叛逆の精神を含みたる者なるに付き若し其の実
 践を誤れば名状し能はざる所の争乱を醸すや恰も阿片モルヒネに利用
 害用あるが如し
と、而して当時民権を唱ふる人々の内心を分析して其の私党心あるを説
き、又た此の人々の身分を評論して無産の士族なることを説き、遂に民
権論の国乱を醸すに至るへきを揚言せり。然れども此の第四種の論派は
敢て民権の道理に反対したるにあらず、唯た日本の国状を顧慮して民権
を漸次に拡充すぺき所を論じ、地方官会議の設置を以て民権拡充の一端
となし、頻に漸進の可なるを主張せり、吾輩は此の論者を以て当時政府
の弁護者と為すに躊躇せざるなり、然れども当時の政府自身が民権の反
対者にあらずして、寧ろ其の味方たる実なきにあらす、唯た其の急漸の
差あるに過ぎさるのみ之か代表たる折衷民権論派は其の前より他の論派
と共に民権論を唱へたることは頗る多く、従て世人をして民権なるもの
ゝ本性を知らしめたることは曾て他の論派に譲らざりき、是れ吾輩の爰
に民権論派の一種として算へ来れる所以なりとす。
氷にあらずして尚ほ冷かなるものあり、火にあらずして尚ほ熱なるもの
あり、今ま火ならざるを以て熱にあらず氷にあらざるを以て冷にあらず
と云ふ、是れ粗浅の見たるを免れず吾輩は最初に於て此の事を一言せし
は之か為めなり。血を以て民権を買ふへしとの論派と民権の中に幾分か
叛逆の精神あり
との論派と、其の間の距離幾許そや、然れども立憲政体
を立てゝ民権を拡充すとの点に於ては何れも同一なり、民権を唱道する
に於ては同一なれとも、夫の普通撰挙一局議院を主張したる論派と英国
風の制限撰挙二局議院を主張したる論派とは甚た径庭あり。吾輩が当時
の論派を一括して民権論派と為し、寧ろ此の時代を称して民権論の時代
と為すは此か為めのみ、而して此の時代は西南戦争に因りて頓に一変し
たるを見る。