学制頒布七十年にあたりて  文部大臣 橋田邦彦

 本年は明治五年八月学制が頒布されましてから七十年に当るのであ
りますが、この七十年を回想しますとき誠に感慨深いものがありま
す。明治天皇英明の資を以て大統を紹かせられまするや畏くも五箇
条のことを神明に誓はせられて国是を定め給ひ、庶政の百般に亙つて
曠古の改新を行はせられたのでありましたが、特に教育のことに御軫
念遊ばされて、早くも明治五年学制を定められ、我が国教育の基礎を
固めさせられましたことは洵に畏き極みであります。
 学制の頒布以前既に大学初め各種の学校に関する制度が定められて
をつたのでありましたが、この学制は更に諸外国の長とするところを
参酌して条章を規定したものであります。
 この学制には更に明治六年に追加が発布されて完き体系が備はつた
のでありますが、その内容とするところは広く教育の全般に亙るもの
でありまして、或は学区を設け督学局をおき、或は小学、中学、大学よ
り師範及び専門の諸学校の制を定め、更に教員資格、生徒育英竝に海
外留学のことを規定してゐる整然たる教育制度の体系でありまして、
「知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」との御聖旨を奉戴し、開
国進取の国策に即応してその瑞確の雄大にして規定の周到なることは
亡こに恋代畢制として稀に見るところのものであゎまして、昂にわが
同のみならず世界の教育史⊥に時節さろべきものであると考へるので
   文部蛮 横 田  邦 彦

あります。
 この弊制頒布に・慧几ち挙制の梅本主旨が示されてをりまする「卒中
弊取扱仰出専しが太政官から布告されてを巾ます。これは「被仰出者」
であbまナから、梨旨のあろところを述べたものであります。その中
に「自今以後一般人民邑に不参の戸なく家に不皐の人なからしめん」
と仰出されてありまLて、一般人艮とは「華士族烏工商婦女子」と証
されてあります。郎ち牽制はこの 大郷心を奉職して四民一般に向つ
ての教育制庚を確立したものであわま†。従前教育といへば多くは土
人以上就中共子む封象としたものでありましたが、この畢朝ほ「一般
人艮」即ち土人も庶人も弟も女も直別なく舛しく革に乾くべきもので
あることを板木主旨としてゐるのであわます。また「鞭仰出や」には
「父兄たるもの宜しくこの意を埠鶴しその愛育の情を厚くしその子弟
をして必ず単に樅耕せしめぎる可から†」と仰出されその怯の証には
「高上の畢にいたつてはその人の材能に任すといヘビも幼世の子弟は
界女の別なく小串に従事せしめぎるものはその父兄の適度たるべき
事」と雄べられてゐるのであbます。即ち管領教育義務制の主管が明
錘に示されてゐるのであbま†。小事を熊鹿の基礎教育と†る立額の
専制いはゆる統一畢枚制は歓券に放てほ重か後になづて†現を見たこ
とであります.これ上りも数十年以前にわが園に放て銑】革校制が柵
くl)

立されたことは鍼に持筆すべきところでありまして、常時の民政者の
卑見に敏腕せぎるを凋ないのであります。
 他面この畢制ほ昔時庶務匿犠の後を受けて甥施されました開場皆兵
の制に射し国民皆単の制として、共に常軌強兵の貸を琴ぐるに極めて
緊要であつたととはいふまでもありま止んが、同時に何れ竜一君流民
君民一蹟のわが酵鰭の精華を死場せんが鳥に定められたものでありま
して、との意味に放てもこの弊制ほわが囲柏�gのものであるといふこ
とが出衆るのであゎます。しかし革制の内容を扱討いたしま†と、如
何にも欧米文化を締取せんと†るに偏り過ぎてゐろかの聯がいたすの
でありま†。常時の我が飼捕を具さに考察いたしますれば、我が国ほ
欺米文化を急速に絹坂することを必要としたのであることは容易に椚
得できることでありザLて、常時の拳制としては己むを得なかつたと
申ナべきであゎませう。
 以上の如くとの学制は扱き国家的意義と裁多の束黎なる帖色とを有
†るものでありまして、しかもその蛙制は柑常よく鞋備されてをつた
のでありま†けれども、その構想泣にその規定は常時の団偶にエく適
合してをつたといひ難き瓢が捗からず、その甥行は甚だ閑斑であつた
のであります。それが馬に明治十二年に「教育令」が公布されました
がこの教育令ほ飽りにも條黎が簡堪に過ぎ′教育の蟹際に増せぎるの
鮮があつたのでありまして、十三年十二月にはこわを基礎として條章
の桂つたいはゆる「改正教育令」が公布されたのであります。これ上
わ先 明治天皇は東山、北陸、東海の緒地方を巡革あらせられまLて
 敢背の環際を印章娃ばされましたが、御浸宰∽後、「敷革大旨」を御下
 し脱づて款蓼の本官を昭示し紛ひましたこと�Y誠に懇願のいトTリであ
 りま†。かやうな衣節で†≡年の改正敢背令またその後公布されまL
た「小拳枚数則綱領」「小額校教員心得」の如きは、公布の前に触一円官
を奉じて制定されたしし侍へられて竣bま丁。誠に寧−亡いたりでありま
す。この改正教育令に於ては殊に小準校教育が我が国教育にふさはL
く壌定されてをりまして、後に 明治天皇が鋤嘉椚あらせられたもの
であbます。次で明治十九年には一席整備した「孝校合Lが公布され
ました。即ちr小拳校合」、「中畢校合」、「帝国大挙令」、「師払革校合」
でありまして、これに上つて我が団教育の方鮨が一艦鮭備されその燈
制ほ今なほ侍へられてをるのであります。
 かくして欧米文化の縮攻に上つて我が国文迩は目覚しき象喪をいた
Lたのであるが、その反両欧米文化柄頓に急なヶしため、また急を卒
した同情からその飴興が臓され殊に明治十凹五年以来は自由民租の政
治思想が痔萌せると前後して我が思想舛は甚しき混乱に陥り、国民は
蹄組に迷ふ如き琳将に☆ちいたつたのでありました。然るととろ明治
l一十ご∵年十月ニ∵十H 畏くも教育に附する 勅語を漁襲あらせられて
我が閑散育の大本を昭かに示し拾ひ国民の縛ふべきところ空亦し拾は
りまLたことは正に曙貰ひhけて天日を仰いだのでありまして、魯時
を追想Lま†と誠に恐櫻腋緻の極みであります。これに上り耗周不動
萬世不易の我が岡沢背の根本義が定まり皇醒民錬成の通が確立したの
であります0このことたる概に我が国に於てならでは見る⊂とを得な
いところのものであつて止め敷き拭撒敬喜を琴乙るのであります。
 術衆革校合はその足らぎるところが補はれ或ほ「甥粟教育合し、「高
等女嬰棲令」、「専門嬰校合」等の埠解を見、我が同数育ほ均自の畢義
を逸け氷りまLた。我が国鮎の隆昌今日ある、この七十年の教育がそ
の棋基に堵ふこと優めて大であることは雷を保たないところであbま
す。我々ほ「甑宗ノ拘ヲ輌スルヤ軟性ヲ先卜馬ス」との 軸取替を窄
(2)
_Lて態上敷革の振興を糊さなければなりません。
 明治大正昭和≡代に亙り教育に向つて垂れさせ飴へる舅忠は誠に鹿
央無浅でありまして殊に蜃1鐘涼なる 勅語、御沙汰を下し鴨ほりま
して材民の棉ふべきところ、教育に携はるものの馳ふべき道む御示し
払はゎまLたととは油に恐僧感激清く能はぎるところであります0
 それと同時にこの七十年の間に於て教育の馬に竜挿された先人に封
し教育に携はるものは勿論全留民は快く感謝するところがなければな
bませんか殊に教育に携はるものは自ら省章果して先人の近業蒜
ぎ得てゐるや否やに思をいたLて、抜く自ら戒めて覚悟と決意とむ新
にして教育の意に邁任しなければならないと考へるのであります0
 さてこの数年来世界の形努は日に月に傑刻となり妖箋天を荏つてを
りましたが、この妖賀を梯ひのけて世界に光明を輿へるものほ質に我
が歯を措いて他にほないといふ大自兜の下に、我が園は桝然立つて大
発破戦争を敢行し既に妖零を破つて挿しい光を東亜の天地に被らしめ
てゐるのでありまサ。大館就職牢勃空似求御稜威の下忠誠むる皇欝の
孝許力戦は上く#々たる大戦果を収め観威蔽土中外に揚む、大東窮拉
軍の大業も済々その歩な進めてゐろことは絢に戚撤のいたりであわま
す。併し散は正に⊂れからであります0古来未曾有のこの非常時局に
封虚し、必野付念の下Jく時報を克眼して紺取の目的を達成せんが籍
には、園児摘紳の晶揚に、崗防の充曙に、生産の増強に、将又諸般の
国務の更媚に、現に粛の総力を挙げて一歪池しなければならないのであ
巾ま†。率制昭布五十周年に際し下し賜は山ました 勅語にr堆フ占
教育ハ心身ヲ寮ネ養ヒ智延並エ湛ムヲ倫7、田楽ノ光坪敵甘ノ品位−
政治経済、国防産業等ノ狸遠山トシテ其ノ敬二持タサルナヱと御示
L脇つたのであります。践に国民掃紳を作興し閑力を充苛せんには、
秋季の刷新振興をその根本蓼諦とするのであわます。非常時馬下人を
好する二と今日の如くなるはなく刷民の錬成、資質向上の発酵なるこ
と今日の如く急なるはないのであゎます。教育に携ほるものは♯に
「軍由多事ノ際卜推モ教育/コトハ忽ニスヘカラス」と訓七給へ沌
璧旨を奉赦して征取の目的達成のため、我が均教学の本義に則る嶺拷
民錬成を完徹せしわるため、Åに大なる梵悟と決意とを似て沌身心を
君図に搾げ教育報国の漸を輪さなければならないのであります○
 しかして今や時崗の進展は教育穀全面的に刷新して上く長期取必勝
に倫ふる籍の飽制な整備することを切環に野求してゐるのであbま
†。政府ほ頻に閏民蟹校制を和いて我か国教育の根本方針斗明かにし
たのモありますが、今やこの方針に則つて畢偶の改善刷新を企萱L故
意その賓現に努めつつあるのであわます。との⊂とたる朝野各方面の
他力を佼つて初めて期すべきであります。
 時局下条閑氏諸君は政府の意のあるところか諒得せ「つれて十分臨力
支援せられんことを切望Lて己入ません。 ハ十月二十九日放送)